其の一「偽りの月」
季節は巡り、秋。
幻想郷を覆っていた夏の暑さはすっかり鳴りを潜め、山々の木々は少しずつ色づき始めていた。
田畑には黄金色の稲穂が実り、涼やかな風が吹くたびに、その穂先が波のように揺れている。
そして、今宵は十五夜。
一年のうちでも、特に月が美しく見えるとされる夜である。
博麗神社では、そんな秋の夜を楽しむため、二人の男女が月見の準備を進めていた。
「ねえ、そっちは終わった?」
「ああ。あとは団子を並べるだけだよ」
男はそう答えながら、縁側に小さな台を置いた。
その傍らには薄が飾られ、台の上には白い団子が十五個、綺麗に積み重ねられている。
「よし。こんなものかな」
男は満足そうに頷いた。
「まったく、月を見るだけなのに大袈裟なんだから」
霊夢は呆れたように言いながら、縁側に腰を下ろした。
「ははっ。年に一度のことだからね。こういう行事は大切にしたいんだ」
「ふうん」
霊夢は興味なさそうに返事をした。
しかし、その視線は先ほどから団子に釘付けである。
「……ねえ」
「ん?」
「これ、もう食べてもいい?」
「まだお供えしたばかりだろう?」
「一個くらいいいじゃない」
「せめて月がもう少し高く昇るまで待とうか」
「……けち」
霊夢は頬を膨らませた。
男は苦笑しながら、彼女の隣に腰を下ろす。
空には、見事な満月が浮かんでいた。
雲一つない夜空。
冴え渡る月光が境内を照らし、木々の影を地面に落としている。
耳を澄ませば、虫の音があちらこちらから聞こえてきた。
「……綺麗ね」
霊夢がぽつりと呟いた。
「ああ」
男も月を見上げた。
こうして静かに夜空を眺めるのも、随分と久しぶりのような気がする。
思えば、今年も色々なことがあった。
春を奪われたこともあれば、鬼が現れて大騒ぎになったこともある。
その度に、二人は幻想郷を駆け回ってきた。
だからこそ、今夜くらいは何事もなく過ごしたかった。
「……平和だね」
男が呟く。
「そうね」
霊夢は頷いた。
「毎日こうならいいのに」
「ははっ。違いない」
穏やかな風が、二人の間を吹き抜けた。
しかし。
「あらあら」
不意に、背後から声がした。
「随分と呑気なものね」
「……?」
二人が振り返る。
そこには、いつの間にか一人の女性が立っていた。
長い金髪に、紫色の衣装。
手には扇子を持ち、その口元には胡散臭い笑みを浮かべている。
八雲紫。
幻想郷の境界を操る、大妖怪である。
「……紫?」
霊夢は眉をひそめた。
「何よ、いきなり」
「あら。ご挨拶ね」
紫は扇子で口元を隠した。
「せっかくの十五夜ですもの。お月見にお邪魔してはいけないかしら?」
「別にいいけど、団子はあげないわよ」
「まあ、薄情な巫女さん」
紫は楽しそうに笑った。
男は立ち上がり、軽く会釈する。
「こんばんは、紫さん」
「ええ、こんばんは」
紫は男に微笑みかけた。
「それにしても、随分と立派なお供えね」
「ありがとうございます。せっかくの十五夜ですから」
「ふふっ。風流で結構なことだわ」
紫は団子へ視線を落とした。
そして、何でもないことのように言った。
「もっとも、肝心のお月様が偽物では、台無しだけれど」
「…………」
男の動きが止まった。
霊夢も、団子へ伸ばしかけていた手を止める。
「……何ですって?」
紫は扇子を閉じた。
「聞こえなかった?」
そして、夜空を指差す。
「今夜の月は、偽物よ」
男と霊夢は、揃って空を見上げた。
そこには、先ほどと変わらぬ満月が浮かんでいる。
丸く、明るく、美しい月。
見慣れた月との違いなど、少しも分からなかった。
「……どこが?」
霊夢が尋ねる。
「見た目は同じでしょうね」
紫は答えた。
「何者かが本物の月を隠し、偽物の月にすり替えてしまったのよ」
「……月を、すり替えた?」
男は思わず聞き返した。
「ええ」
「……そんなことが可能なんですか?」
「現に起きているのだから、可能なのでしょうね」
紫は平然と答えた。
男は再び夜空を見上げた。
何度見ても、月は月である。
その光も、形も、普段と何ら変わらないように思えた。
「……まったく分からないな」
「でしょうね」
紫は頷いた。
「巧妙に隠されているもの。普通に眺めているだけでは、まず気づかないわ」
「……ふうん」
霊夢は腕を組んだ。
「で、それがどうしたの?」
「……霊夢?」
男が思わず彼女を見た。
しかし、霊夢は気にした様子もなく続ける。
「別に月が偽物でも、綺麗ならいいじゃない」
「…………」
紫は呆れたように目を細めた。
「あなたねえ……」
「何よ」
「博麗の巫女でしょう?」
「そうだけど?」
「幻想郷の異変を解決するのが、あなたの役目ではなくて?」
「……ああ」
霊夢は、ようやく納得したように頷いた。
「つまり、異変ってことね」
「最初からそう言っているでしょう」
紫は深いため息をついた。
男は苦笑する。
「……それにしても、月をすり替えるとは」
「ええ。随分と大掛かりな術よ」
紫は夜空を見上げた。
「何者が、何のためにこんなことをしているのか。今のところ、詳しいことは分からないわ」
「……なるほど」
男は腕を組んだ。
「では、まずは異変の主を探すところからですね」
「そういうこと」
紫は満足そうに頷いた。
しかし、霊夢は不満そうだった。
「……ちょっと待ってよ」
「何かしら?」
「それ、明日じゃ駄目なの?」
霊夢は空を指差した。
「今日は十五夜なのよ。せっかく準備したんだから、月見くらいさせなさいよ」
「……残念だけれど、それはできないわ」
紫の声が、僅かに低くなった。
男は、その変化に気づいた。
「……何か理由が?」
「ええ」
紫は扇子を開いた。
「実は、もう一つ問題があるの」
「……もう一つ?」
「今夜は、普通の夜ではないのよ」
霊夢は眉をひそめた。
「どういうこと?」
紫は静かに告げた。
「今夜と朝の境界を弄って、夜が明けないようにしてあるの」
「…………」
男は目を瞬かせた。
「……夜が明けない?」
「ええ」
紫は何でもないことのように頷いた。
「朝が訪れるのを、私の能力で引き延ばしているのよ」
「……ちょっと待って」
霊夢が口を挟んだ。
「それ、あんたがやったの?」
「そうよ」
「……何で?」
「決まっているでしょう」
紫は夜空を見上げた。
「本物の月を取り戻すためよ」
男は顎に手を当てた。
「……なるほど。夜が明けるまでに異変を解決する必要があるから、その時間を引き延ばしているわけですね」
「ええ。理解が早くて助かるわ」
紫は微笑んだ。
「本来なら、夜が明ければ月は沈む。そうなれば、異変の調査も難しくなるでしょう?」
「……確かに」
男は頷いた。
しかし、霊夢は納得していないようだった。
「でも、そんなことして大丈夫なの?」
「大丈夫とは?」
「夜が明けないなんて、それこそ異変じゃない」
「ふふっ」
紫は含みのある笑みを作る。
だが、その笑みが僅かに薄れる。
「もっとも、これにも限界はあるけれど」
男が顔を上げた。
「……限界?」
「ええ」
紫は頷いた。
「いくら境界を操れるといっても、いつまでも夜を引き延ばせるわけではないわ」
「……つまり、いずれ朝は訪れると」
「そのとおり」
紫は扇子を閉じた。
そして、二人を見つめる。
「だから、あなたたちには夜明けまでに異変の主を見つけてもらうわ」
「……はあ?」
霊夢が声を上げた。
「ちょっと、勝手に決めないでよ!」
「あら。何か問題でも?」
「大ありよ!」
霊夢は縁側の団子を指差した。
「こっちはこれから月見をするところだったのよ!」
「それは残念ね」
紫は微笑んだ。
「異変を解決してから、ゆっくり楽しめばいいじゃない」
「……あんたねえ」
霊夢はこめかみを押さえた。
男は、そんな二人のやり取りを眺めながら苦笑する。
「……まあ、仕方ないね」
「ちょっと!」
霊夢が振り返った。
「あなたまで!」
「本物の月が隠されているなら、放っておくわけにもいかないだろう?」
「……それは、そうだけど」
男は夜空を見上げた。
月は、変わらず美しく輝いている。
だが、その光が偽物だというのなら。
この穏やかな夜も、何者かによって作り出されたものなのだろう。
「……それに」
男は小さく笑った。
「本物の月を取り戻してから、改めて月見をするのも悪くないと思うよ」
「…………」
霊夢はしばらく男を見つめていた。
やがて、大きくため息をつく。
「……はあ。分かったわよ」
そして、立ち上がった。
「行けばいいんでしょ、行けば!」
「ふふっ。物分かりが良くて助かるわ」
紫は楽しそうに笑った。
「……で」
霊夢は紫を睨んだ。
「あんたはどうするの?」
「もちろん、私も行くわよ」
「……は?」
「……今回の異変、ちょっと思うところがあるのよ」
紫は視線を月に移す。
「まあ、紫さんが一緒なら心強いね」
「ふふっ。嬉しいことを言ってくれるわ」
紫は上機嫌に微笑んだ。
霊夢は、そんな二人を見て呆れたように肩を竦めた。
「……まったく」
そして、縁側へ視線を戻す。
そこには、綺麗に積み重ねられた月見団子。
霊夢は、しばらくそれを見つめていた。
「……ねえ」
「ん?」
「せめて、団子だけでも食べてから行かない?」
「駄目よ」
紫が即座に答えた。
「時間が惜しいもの」
「…………」
霊夢の手が止まった。
「……けち!」
夜の博麗神社に、巫女の怒声が響き渡った。
◇◇◇
それから間もなく。
三つの人影が、博麗神社を飛び立った。
先頭を行くのは、紅白の巫女。
その傍らには、白い上衣と赤い袴を纏った男。
そして、少し離れた場所を、紫色の衣装を纏った大妖怪が悠然と飛んでいる。
眼下には、夜の幻想郷が広がっていた。
山々は深い闇に沈み、人里の灯りが小さく瞬いている。
秋の虫たちが奏でる音色が、夜風に乗って聞こえてきた。
「……それにしても」
霊夢が口を開いた。
「月をすり替えるなんて、随分と変わったことをする奴もいたものね」
「ええ」
紫が答えた。
「しかも、これほど巧妙に隠している。相当な使い手でしょうね」
男は夜空を見上げた。
満月は、変わらずそこにあった。
美しく、静かに輝いている。
「……偽物、か」
男は小さく呟いた。
見た目には、何の違いもない。
だが、その向こうには何者かの意図が隠されている。
「……ところで、紫さん」
「何かしら?」
「異変の主について、何か手掛かりはあるんですか?」
「確実な証拠はまだ何も」
紫は肩を竦めた。
「なんにせよ月に干渉できるほどの相手よ。油断は禁物ね」
「……分かりました」
男は静かに頷いた。
霊夢は、面倒くさそうにため息をついた。
「……もう。さっさと終わらせるわよ」
「ふふっ。頼もしいこと」
紫は楽しそうに笑った。
男も小さく微笑む。
「……ああ。行こうか」
三人は、夜の幻想郷を駆けていく。
空には、見事な満月。
その光は、地上を優しく照らしていた。
しかし、それは偽物だった。
そして今宵。
幻想郷から、夜明けが失われた。