偽りの月が、幻想郷を照らしていた。
夜の帳が下りた大地を、三つの人影が駆けていく。
博麗霊夢。
そして、彼女と同じく博麗神社に住まう男。
その後方には、境界を操る大妖怪、八雲紫の姿があった。
「……それで、どこに向かっているの?」
霊夢が、面倒くさそうに尋ねた。
「特に決めていないわ」
紫は涼しい顔で答えた。
「まずは幻想郷を見て回りましょう。これほど大掛かりな術なら、どこかに手掛かりがあるはずよ」
「……随分と行き当たりばったりね」
「あら。何か問題でも?」
「大ありよ。夜明けまでに解決しろって言ったのは、あんたでしょうが」
「遠回りこそ最大の近道って言葉、知らないのかしら?」
「……まったく」
男は二人のやり取りを聞きながら、眼下へ視線を落とした。
山々を抜け、田畑が広がり始めている。
この先には、人里があるはずだった。
「……ん?」
男が眉をひそめた。
「どうかしたの?」
霊夢が尋ねる。
「いや……おかしいな」
「何が?」
「そろそろ人里が見えてくる頃だと思うんだけど……」
霊夢も眼下を見下ろした。
そして、動きを止めた。
「…………あれ?」
そこには、何もなかった。
普段なら、家々の屋根が連なり、夜更けでも幾つかの灯りが見えるはずの場所。
しかし、今はただ、広大な草原が広がっているだけだった。
家屋も。
道も。
人の気配すらない。
「……どういうこと?」
霊夢が呟いた。
男はゆっくりと高度を下げた。
「……降りてみよう」
三人は、地上へと降り立った。
◇◇◇
「……間違いない」
男は周囲を見渡しながら言った。
「確かに、この辺りに人里があったはずだ」
「そうよね……」
霊夢も眉をひそめていた。
何度も訪れた場所である。
道の位置も、周囲の山並みも、見覚えがあった。
しかし。
肝心の人里だけが、綺麗さっぱり消え失せていた。
「……何なのよ、これ」
霊夢は地面を見下ろした。
「建物を壊したってわけでもなさそうね」
「ああ」
男は頷いた。
瓦礫も、焼け跡もない。
それどころか、家が建っていた痕跡すら見当たらなかった。
まるで。
「……最初から、ここには何もなかったみたいだ」
男が呟いた。
紫は、そんな二人の様子を静かに眺めていた。
「……ふうん」
「紫さん?」
「なかなか面白いことをする者がいるわね」
紫は扇子を開いた。
「ただ隠しているだけではないようね」
「……どういうことですか?」
「存在そのものを、別の形で覆い隠しているのよ」
紫は足元へ視線を落とした。
「少なくとも、普通の幻術ではないわ」
男は再び周囲を見渡した。
人里が消えた。
それも、痕跡一つ残さずに。
月をすり替える異変だけでも十分に異常だというのに、今度は人里まで消えてしまった。
「……どうやら、今回の異変はいつもとは少し勝手が違うみたいだね」
「……そうね」
霊夢も頷いた。
その表情からは、先ほどまでの気怠さが消えていた。
「月をすり替える奴がいると思ったら、今度は人里まで消えるなんて」
霊夢は御幣を握り直した。
「……随分と好き勝手してくれるじゃない」
その時だった。
「……待て」
不意に、背後から声が響いた。
三人が振り返る。
そこには、一人の女性が立っていた。
長い銀色の髪。
頭には、赤い紐で飾られた特徴的な帽子を被っている。
青と白を基調とした服を身に纏い、胸元には赤い飾りが結ばれていた。
その姿は一見すると人間の女性のようにも見えたが、纏う雰囲気には、どこか人ならざるものを感じさせる。
女性は三人を警戒するように見つめていた。
「……何者だ?」
男が尋ねる。
女性は一歩前へ出た。
「私は上白沢慧音。この近くの人里で暮らしている者だ」
「……人里?」
霊夢が眉を上げた。
「ちょうどいいわ。あんた、この辺りにあった人里がどこに行ったか知らない?」
慧音は、すぐには答えなかった。
まず霊夢を見つめ、次に男へと視線を移す。
そして、何かに気づいたように目を細めた。
「……その服装」
「?」
「お前たち、博麗の者か?」
「ああ。そうだけど」
男が答える。
慧音は、僅かに表情を和らげた。
「……そうか。ならば、話は早い」
「どういうこと?」
霊夢が尋ねる。
慧音は、ゆっくりと口を開いた。
「人里を隠したのは、私だ」
「…………」
「…………」
男と霊夢は、思わず顔を見合わせた。
「……君が?」
「ああ」
慧音は頷いた。
「私には、歴史を食べる程度の能力がある」
「……歴史を?」
男が聞き返す。
「そうだ」
慧音は周囲を見渡した。
「人里が存在するという歴史を、一時的に隠した。だから今、お前たちには人里が見えていない」
男は目を見開いた。
「……なるほど」
霊夢は腕を組んだ。
「つまり、人里が消えたわけじゃないのね?」
「ああ。住人たちは無事だ」
慧音は答えた。
「ただし、外からは人里が存在しないように見える。そういう状態にしてある」
「……随分と器用なことをするのね」
霊夢が呟いた。
慧音は真剣な表情で続けた。
「今夜の月が偽物であることには、気づいているか?」
「ああ」
男が頷く。
「それを調べているところだよ」
「……そうか」
慧音は安堵したように息を吐いた。
彼女は夜空を見上げた。
「今夜の異変は、ただ事ではない。何者かが月をすり替えた。その目的も、手段も分からない」
「……それで、人里を隠したのか」
男が尋ねる。
「ああ」
慧音は頷いた。
「何が起こるか分からない以上、里の人間を危険に晒すわけにはいかない」
その言葉には、確かな決意が込められていた。
男は、静かに頷いた。
「……そういうことなら、安心したよ」
「?」
「人里の皆が無事なら、それでいい」
慧音は、僅かに目を見開いた。
男は微笑んだ。
「人里のこと、よろしく頼む」
「……ああ」
慧音は力強く頷いた。
「任せてくれ」
霊夢も御幣を肩に担いだ。
「じゃあ、こっちは異変を解決してくるわ」
「頼んだぞ、博麗の巫女」
慧音は頭を下げた。
男も軽く会釈する。
「それじゃあ、また」
三人は、再び夜空へと舞い上がった。
慧音はその背中を、静かに見送っていた。
「……頼んだぞ」
彼女は小さく呟いた。
そして、何もない草原へと姿を消した。
◇◇◇
人里を後にした三人は、再び異変の調査を始めた。
「……それにしても」
男が口を開く。
「歴史を隠す能力、か」
霊夢が答えた。
「人里が最初からなかったことになってるなんて、普通じゃないわよ」
「ええ」
紫も頷いた。
「幻想郷には、まだまだ面白い者がいるものね」
「……あんたが言うと、何だか嫌な予感がするわ」
霊夢は呆れたように言った。
紫は楽しそうに笑った。
「ふふっ。褒め言葉として受け取っておくわ」
男は苦笑しながら、前方へ視線を向けた。
その時だった。
「……ん?」
遠くの空に、小さな人影が見えた。
黒い衣装。
大きな帽子。
そして、箒に跨がる姿。
「……あれは」
男が呟く。
霊夢も、その人影に気づいた。
「あら、魔理沙じゃない」
「本当だ」
男は微笑んだ。
「こんなところで会うとはね」
霊夢は軽く手を上げた。
「おーい! 魔理沙!」
しかし。
返事はなかった。
魔理沙は、箒に跨がったまま、じっとこちらを見つめていた。
その表情は、いつもとは違っていた。
普段のような、悪戯っぽい笑みはない。
ただ、真剣な眼差しで三人を見据えている。
「……?」
霊夢が眉をひそめた。
「何よ、あいつ」
男も、僅かな違和感を覚えた。
「……魔理沙?」
声をかける。
すると、魔理沙はゆっくりと口を開いた。
「……なあ」
その声は、いつになく低かった。
「一つ、聞きたいことがあるんだ」
「……何?」
霊夢が答える。
魔理沙は、三人を順番に見つめた。
そして。
「夜が明けない異変を起こしているのは、お前たちか?」
「…………」
霊夢は、言葉を失った。
男も、すぐには答えられなかった。
確かに、夜を止めているのは紫である。
だが、それは本物の月を取り戻すための措置だ。
事情を説明するには、少々ややこしい。
「……それは」
男が口を開きかけた、その時。
「ええ。そうよ」
紫が、あっさりと答えた。
「……ちょっと!?」
霊夢が振り返る。
「あら。事実でしょう?」
紫は平然と答えた。
「夜が明けないのは、私が境界を弄っているからよ」
「……紫さん」
男は苦笑した。
「もう少し、説明の仕方というものが……」
しかし。
「……そうか」
魔理沙が呟いた。
その声には、不思議なほど感情がなかった。
「やっぱり、お前たちだったんだな」
「……魔理沙?」
霊夢が声をかける。
だが、魔理沙は答えなかった。
代わりに、懐から八卦炉を取り出した。
「……ッ!」
男が目を細めた。
「魔理沙、何を……」
その言葉が終わるより早く。
魔理沙の周囲に、無数の光弾が生まれた。
「……!」
霊夢が咄嗟に身を翻す。
次の瞬間。
光弾が、三人へ向けて放たれた。
「ちょっと、魔理沙!?」
霊夢が叫ぶ。
だが、魔理沙は答えない。
次々と放たれる光弾。
男は身体を捻り、その軌道から逃れた。
紫は、悠然と扇子を振るう。
目の前に開いた隙間が、光弾を呑み込んだ。
「……あらあら」
紫は、楽しそうに笑った。
「随分と血の気が多いのね」
「……魔理沙!」
霊夢が声を張り上げた。
「いきなり何するのよ!」
魔理沙は、静かに八卦炉を構え直した。
「決まってるだろ」
その瞳には、確かな闘志が宿っていた。
「異変を起こしてる奴を、退治するんだぜ」
「……はあ!?」
霊夢は目を見開いた。
「ちょっと待ちなさいよ! 話を聞きなさい!」
「……悪いな、霊夢」
魔理沙は、僅かに笑った。
「今日は、そういう気分じゃないんだ」
「…………」
霊夢の表情が変わった。
いつもの魔理沙ではない。
少なくとも、冗談で攻撃しているわけではなかった。
男も、それを感じ取っていた。
魔理沙の眼差し。
八卦炉を握る手。
そして、全身から滲み出るような闘志。
「……魔理沙」
男が静かに呼びかける。
「本気なんだね?」
魔理沙は、男を見た。
「ああ」
短い返事だった。
だが、それだけで十分だった。
男は、しばらく魔理沙を見つめていた。
そして、静かに頷く。
「……分かった」
「……?」
「私は、手を出さないよ」
霊夢が振り返った。
「ちょっと!?」
男は、彼女へ視線を向けた。
「霊夢」
「何よ!」
「……魔理沙は、本気だ」
「……ええ」
「なら、君も本気で応えてあげてほしい」
「…………」
霊夢は、しばらく男を見つめていた。
やがて、深いため息をつく。
「……はあ」
そして、魔理沙へ向き直った。
「……分かったわよ」
御幣を握り直す。
「そんなにやりたいなら、相手してあげる」
魔理沙は、にやりと笑った。
「……そうこなくっちゃな」
その笑みは、いつもの彼女に少しだけ似ていた。
しかし、その胸中は決して穏やかではなかった。
「……さて」
紫が、静かに口を開いた。
「悪いけれど、私はそんな茶番に付き合うつもりはないわ」
霊夢と魔理沙の間に、冷たい風が吹いた。
「……紫?」
霊夢が振り返る。
紫は扇子を閉じた。
「夜明けまでに異変を解決しなければならないの。こんなところで時間を浪費するわけにはいかないわ」
その視線が、魔理沙へ向けられる。
「邪魔をするなら、少し眠っていてもらいましょうか」
次の瞬間。
魔理沙の背後に、黒い裂け目が開いた。
無数の目が覗く、異様な空間。
境界の隙間。
その奥から、鋭い光が放たれようとした。
しかし。
「……ッ!」
突如、無数の人形が飛び込んできた。
人形たちは魔理沙の周囲へ展開し、光の糸を張り巡らせる。
直後、紫の攻撃が糸の網へと衝突した。
眩い火花が散る。
「……あら?」
紫が目を細めた。
涼やかな声が響いた。
「そちらこそ。ニ対一なんて、少し大人気ないんじゃない?」
声の主は、金色の髪を持つ少女だった。
青い衣装に身を包み、傍らには数体の人形が浮かんでいる。
アリス・マーガトロイド。
人形を操る魔法使いである。
「……アリス?」
霊夢が驚いたように声を上げた。
アリスは小さく肩を竦めた。
「悪いけど、付き合ってもらうわよ」
「……ふうん」
紫は扇子で口元を隠した。
「面白いことを言うのね」
その時だった。
「……私もいるわよ」
別の声が響いた。
紫の頭上に、複雑な魔法陣が浮かび上がる。
次の瞬間。
炎と風の奔流が、同時に降り注いだ。
紫は身を翻し、境界の隙間へと姿を消した。
直後、少し離れた空間に再び現れる。
「……あらあら」
紫は、魔法陣の向こうに立つ少女を見つめた。
紫色の長い髪。
薄紫の衣装。
手には分厚い魔導書を抱えている。
パチュリー・ノーレッジ。
紅魔館の大図書館に住まう魔女である。
「……パチュリーまで?」
男が呟いた。
パチュリーは、静かに紫を見据えていた。
「少し魔理沙に付き合ってもらうわよ」
パチュリーは本を開いた。
「あなたの相手は私たちがするわ」
アリスが人形を展開する。
パチュリーの周囲には、幾つもの魔法陣が浮かび上がった。
紫は、しばらく二人を眺めていた。
そして、くすりと笑った。
「……なるほど」
扇子を開く。
「随分と準備がいいのね」
「そちらこそ」
アリスが答える。
「異変を解決するためとはいえ、少し強引すぎるんじゃない?」
「ふふっ。妖怪とは、そういうものよ」
紫は微笑んだ。
しかし、その瞳は笑っていなかった。
「……後悔しても知らないわよ?」
「それはこちらの台詞よ」
アリスが人形を構えた。
パチュリーも魔導書を開く。
「……行くわよ、アリス」
「ええ」
次の瞬間。
無数の人形と魔法陣が、一斉に動き出した。
紫の周囲に、幾つもの境界の隙間が開く。
光と魔力が衝突し、夜空を激しく照らした。
◇◇◇
その光景を、男は少し離れた場所から眺めていた。
霊夢と魔理沙。
紫と、アリスとパチュリー。
それぞれが、互いに向かい合っている。
男は小さくため息をついた。
その視線が、魔理沙へ向けられる。
いつもの彼女とは、明らかに違う。
冗談を言う余裕も、ふざけた様子もない。
ただ、霊夢だけを見つめている。
男は、以前の自分を思い出していた。
強敵を前にした時の、あの感覚。
相手がどれほど強かろうと、決して退くことのできない瞬間。
それが、今の魔理沙にも訪れているのだろう。
「……魔理沙」
男は静かに呟いた。
そして、霊夢へと視線を移す。
「……霊夢」
彼女もまた、魔理沙を真剣に見据えていた。
男は、ゆっくりと腕を組んだ。
「……二人とも、無茶はしないでくれよ」
しかし、その声は二人には届かなかった。
偽りの月が、夜空に浮かんでいる。
その光の下。
二人の少女が、相対していた。
「……行くぜ、霊夢」
魔理沙が、八卦炉を構える。
霊夢は御幣を握り直した。
「……ええ」
その瞳に、迷いはなかった。
「相手してあげるわ」
魔理沙は、僅かに笑った。
「……上等だぜ」
そして。
無数の光弾が、夜空へと放たれた。