小惑星が地球にぶつかり、世界が終わってしまうその日。
最後の一日に、海へと向かう二人のお話。
''この世界は夏と共に終わってしまう''
今からちょうど一ヶ月前、テレビでやたらと報道されていたニュースだ。政府のお偉いさんが言うには太陽系の外から飛んできた小惑星が近付いてきていて、日本時間で八月三十一日にこの地球にぶつかってしまうらしい。
おおよそ現実感のない勧告だったが、世の中は荒れに荒れた。NASAのデータベースからその小惑星の写真と軌道予測が流出してしまったのも悪かったのだろう、それを見て「本当に終わりじゃん」と皆が思ってしまった。
もう終わるなら好きに生きよう、とはっちゃけた人々のせいで社会秩序はちり紙のように破り捨てられ、小惑星がぶつかるより先に集団で自殺しよう、なんてカルト集団まで現れる始末。
けれど半月もすると、その騒ぎもすっかり落ち着いてしまった。騒ぐような人々はみな──少なくとも田舎のこの辺りでは──死んでしまったからだ。
だから。
いい機会だから、海を見に行くことにした。
八月三十一日、夏が終わる直前だった。
***
玄関の扉を開けて外に出ると、眩しい太陽の光が目を焼いた。時刻は朝七時前。夏の気が早い太陽は既にそこそこの高さに昇っていて、じんわりと湿りけを伴う熱気が肌にまとわりつく。
「ひゃー……あっつー……」
かんかんとアパートの外階段を降りて駐輪場へ向かい、停めていた自転車に跨る。三年間乗り回している、もはや相棒と言って差し支えない自転車だ。これまでにパンクする事三回、チェーンが外れた事は数知れず。それでも文句ひとつ言わずに可愛いやつである。
「お前に乗るのも今日で最後かあ……」
去年も同じ自転車で海まで行った事がある。休憩を挟んでのんびり向かっても六時間程度だったのだから、今から行けば正午前後には着けるだろう。最後の旅なのだ。辿り着けない、なんて事は避けたいが、必死こいて急いで向かうのも少し違う。
前カゴに荷物を突っ込んで道路に出ると、遠くの空気が陽炎じみてじりじりと揺らめいていた。
そして、それよりも気がかりなものがもうひとつ。
青空にあって、太陽に並んで極めて明るく輝く星。
今からおよそ十二時間後、十九時に衝突してこの地球をぶち壊す小惑星・チェルノボグである。
「うわー、もうあんなにはっきり見えちゃってまあ……」
自転車を走らせながら、いやだなぁ、と独りごちる。そんな事を言ったところでもうどうしようもないが、それでも嫌なものは嫌なのだ。
なんて、空を見上げてそんな事を考えながら自転車を走らせていると。
「うわぁっ!?」
ガッ、と自転車が何かを踏み、がくんと大きく揺れた。
危うく転びそうになったところを、まだ転ぶような歳ではないという意地だけで無理矢理踏みとどまる。
果たして何を踏んだか、何があるのか、と地面を見ると。
「……人?」
少し土で汚れた白いワンピースに、大きな麦わら帽子。長い黒髪は無造作にあっちこっちへ散らばり、抜けるような透明感のある肌を余計に際立たせている。
要は、うつ伏せで人が倒れていた。倒れていたその人の腕に、自転車のタイヤが引っかかったのだ。
「……おーい」
控えめに呼びかけるが、反応が無い。
「……生きてますかー?」
自転車から降りて指で頭を突っつくも返事はない。ただのしかばねのようだ。
「いや、しかばねじゃマズいでしょ……こういうのまだ残ってたの……?」
集団自殺カルトが毒を飲んだのは確か最初の一週間と少し経った頃で、その時の死体はもうとっくに処分されていたはずだ。そうでなくとも道端でフラッと死ぬような死体たちは自衛隊の人たちが片付けていたはずだし、そもそもここ一週間は死体自体をとんと見なくなった。
「ごめんだけど、どうしようもできないや。どうか安らかに眠っておくれ……」
ハンドルを押して、慎重にその脇を通り抜ける。
今度は踏まないようにゆっくりと歩き━━通り過ぎそうになった、その刹那。
がし、と。
真っ白い腕が機敏に動いて、私の足首を掴んだ。
「んひゃあっ!?」
「……」
生きていた?いや生きていたといってもじゃあ何でこんなところで倒れてるんだそもそも動けるんなら急につかむなよ危ないしびっくりさせないでというかやばいヤツなんじゃないか蹴り飛ばすぞ━━
なんて、ぐるぐると混乱した頭で考えていると。
「……ご……」
「ご?」
うめくような、消え入りそうな声で、足元の人物がつぶやいた。やけに可愛らしい声で、どうやらまだ幼い少女のようである。
何を言うのか、と耳を澄ませていると。
「……ごはん、ちょうだい……」
***
「ごちそうさま!いやー、あなたが来てくれて本当に助かったよ!あのままじゃ飢え死にしちゃうところだったからさ!」
「それはまた……どういたしまして」
それから十数分後。私の差し出したカロリーメイトをものすごい勢いで食べ尽くした少女は大きな声で礼を言った。
楚々とした黒髪と雪を連想させる儚い色白の肌とは対照的に、ずいぶんと元気いっぱいな性格である。
「……ところで、君はどうしてこんなとこで行き倒れてたの?」
「ほら、もうすぐ世界が終わるわけじゃん?」
「まあ、そうだね」
「だからさ。どうせなら一番きれいなところで終わりたいな、って思ってさ。どこがいいかなーって色々見て回ってるわけよ」
その途中で食べ物が尽きちゃってさ、と苦笑しながら彼女は言った。無鉄砲というかなんというか、思いのほか勢いで生きているらしい。
「じゃあ次はわたしが聞く番ね!あなたは何をしてたの?何でこんなとこを通ったの?ていうかお名前はなんて言うの?」
「おおう、ちょっと待ってくださいな」
ずずいっ、と擬音のつきそうな勢いで詰め寄られて思わず後ずさる。こちとらここ一、二週間は他人と話していないのだ、そんな急に接近されたらびっくりしてしまう。
「あっ……ごめんね、急に色々聞いちゃって。答えづらいのがあったら別に……」
「ああいや、大丈夫だよ。ちょっとびっくりしただけ……それで、私も君と同じような理由だよ。世界が終わるって言うから、それなら海でも見ながら死んでやるかって思ったんだ」
答えながら、我ながら随分と思いつきで行動しているな、と苦笑した。改めて考えれば、最後だというのに浅い理由である。 ところが、返ってきたのは呆れでも感心でもなく。ポロリとこぼれたような、思わず訊いてしまったような、そんな言葉だった。
「海って、きれいなの?」
「きれいか、って……見た事ないの?」
「写真とかでは見せてもらったことあるよ。ただ、生で見た事は無かったからさ」
内陸の生まれであれば、生で見たことが無いというのはある……のか?
そして、去年見た海を思い出す。
真夏の日差しから逃げるようにとにかく精一杯に自転車を飛ばして、海に着いたのは夕暮れ時だった。
オレンジ色の空の中で、白飛びしたような大きな太陽がのっそりと水平線へ沈んでいくところを、ただただぼんやりと見ていたのを覚えている。
答える言葉は、考えるよりもずっと自然に口をついて出てきた。
「……きれいだよ。本当に、イヤになるくらい、きれいだよ」
そう、確かにきれいだった。
波の音も、湿った砂の感触も、鼻をつく磯の匂いも、夕焼けで際立つ水平線も。
そのひとつひとつを思い出しながら答えたからだろうか、隣の少女はいたく感じ入った様子でふんふんと頷き、そして少しの間考え込むようにしてから、少し遠慮がちに言った。
「じゃあさ、あなたさえ良ければなんだけど……わたしも一緒に行ってもいい?」
言われ、少しだけ考えた。
ママチャリなのだから、後ろの荷台に横座りでもすれば二人乗りは容易い。多少なりともスピードは落ちるだろうが、終末に間に合わないほど遅くなることもないだろう。
「ほら、最後なんだからさ。一人で行くよりも、二人でおしゃべりでもしながら行った方がよくない?」
「まあ、それはそうかもね」
私は少しだけ空を見上げた。
青空に太陽と、太陽よりもずっと不吉な光が浮かんでいる。
どうせ今日の十九時には全部終わるのだ。知らない子を連れていくだの、今さら気にするような事でもない。
「じゃあ、乗ってよ」
「ほんと?」
「うん、ほんと。だけどバランスには気を付けてね。私の運転、そこまで上手くないから」
「大丈夫、落ちる時はちゃあんと一人で落ちるから。あなたには迷惑かけないよ」
「それはそれで困るなあ……」
胸を張って言われたが、そんなことを堂々と言わないで欲しい。
少女はけらけら笑いながら、自転車の後ろの荷台に横座りした。
見た目よりもずっと軽い。たぶん私の半分ぐらいしかないんじゃなかろうか、日ごろちゃんと食べているのかと心配になるくらいだった。
いっぽう本人はそんなこちらの心配など知らない様子で、麦わら帽子のつばを押さえながら足をぶらぶらと揺らしている。
「それじゃあ、出発進行!」
「はいはい。出発しますよっと」
ペダルを踏み込む。
少しだけ重くなった自転車はぎしりと小さく悲鳴をあげ、チェーンが外れやしないかと少しどきりとした。
けれど、それでもちゃんと前に進んでくれる。なんとも健気なやつだ。
「ねえねえ。あなた、去年も海に行ったんでしょ?どのくらいで着いたの?」
「えーっと……あの時は確か、六時間くらいだったかな?」
記憶を辿りながら答える。お昼頃に出て、それでも夕方には着いていたと思う。
「だから、まあ。時間はかなり余裕を持っていけると思うよ」
言うと、彼女は少しだけ安心したように息を吐いた。
「そっか。なら良かった」
自転車は速さが乗り、蒸し暑い空気を心地よく切り裂いて前へ進む。
天高く広がるは晴天、遠くで入道雲がもくもくと背を伸ばし、それよりもっと上では小惑星が地球に迫る。
辺りには人っ子一人いない、夏真っ盛りの蝉時雨。
終末へ向けた、短い旅が始まった。
***
やがて、道の先にコンビニが見えてきた。
国道沿いにぽつんとある小さな店だ。去年通った時はまだ営業していて、そこで飲み物を買った覚えがある。
当たり前だが、今はもう誰もいなかった。
看板の電気はついておらず、入口のガラス戸は割られ、駐車場のアスファルトには何かを引きずったような黒い跡が残っていた。
血ではない、と思いたい。
「……すごいね」
「うん」
少女の声が、少しだけ小さくなる。
「こっちの方は最近来てなかったけど……こんなになってたんだね」
独り言のように漏れた言葉に返事は返ってこなかった。
振り向くと、少女はどこかぼうっとしたような顔をして、割れたガラス戸の方を眺めていた。
「やっぱさ、コンビニもイメチェンとかするんだね。夏の魔物ってヤツ?」
だから、冗談めかして殊更に明るく言うと。
「……ふふふ、なにそれ」
「ほら、夏は人を変えるって言うじゃない。それだよ、それ」
なんて、つとめて適当な事をほざいているようにしていたのだけれど。
「ありがとうね。笑わせようとしてくれたんでしょ?」
バレていた。
「……そんなに分かりやすかった?」
「うん。だいぶ分かりやすかった」
少女はそう言って、気の抜けるような顔で笑った。
その笑い方は妙に大人びていて、さっきまで道端で行き倒れていた子と同一人物だとは少し思えない。
「でも、ありがとう。ほんとに」
「……ん。まあ、どういたしまして」
なんだか照れくさくなって、ふいと顔を背ける。
「とりあえず。何か残ってるものとかないか……見てみない?」
「あ、照れ隠しだ」
「はいそこ、無駄口叩かない。実際お水もこれとあと一本しか持ってきてないんだから」
ちゃぽん、と揺らしたペットボトルには、半分程のミネラルウォーターが残っている。念の為の防災グッズだったものが、今では貴重な生命線だ。
「はーい……」
とはいえ、特に期待はしていなかった。自転車を降りて、前カゴからするりと一本の長物を取り出す。
「なにそれ?」
「金属バットだよ。念の為、ね」
少しへこんだそれは、滅亡宣言の数日後道端に落ちていたものだ。
幸いにもこれを振るうような機会に遭遇した事はないが、まあ、念の為である。
「誰かいますかー、っと……」
割れたガラスに触れないよう気を付けながら、そろりと店内へ踏み込む。
電気のついていない店内は薄暗く、動く度に窓から差し込む光の筋の中でホコリが舞う。
「うわ、蒸し暑いねぇ……」
しん、と静まり返った店内に少女の呑気な声が響く。
「……多分、誰もいないかな?」
「ん。気配もしないし……それに、こんなとこに残ってるメリットってのもそんなにないでしょ」
ほら、と少女が手近な棚を指さす。化粧品やマスクの置いてあったであろうそこは、商品が全て持ち去られすっかり空になっていた。
「……食べ物とかなら分かるけどさ。もうすぐ世界が終わるってのに、なんで化粧品とか持ってくんだろうね?」
「ブランドとかでもないし……あれじゃない?燃料になったりとか?」
「え、あんなので火が点くの?」
「いや、私も詳しくは知らないけどさ……」
ぼんやりとそんなことを話しながら、静まり返ったコンビニを見て回る。やはりと言うべきか、どの棚も空っぽかゴミが陳列されているばかりだ。
やっぱり何もないか、と思っていると。
「あ!ねえほら、見て見て!」
棚の向こう側を見に行っていた少女がだしぬけに明るい声をあげた。
「んー?どうしたの?」
「ほらこれ!まだ中身入ってる飲み物!」
回り込んで見てみれば、少女の手には夏に定番の、青いパッケージのスポーツドリンクのペットボトルが握られていた。
「おー!フタは……まだ開いてない!大発見じゃん!」
「えっへん。どうだすごかろう、もっと褒めなさい」
胸を張って誇らしげな様子の少女。ははぁー、とひれ伏し、改めてペットボトルを眺める。
賞味期限は半年後、世界より長持ちする飲み物だ。なかなか骨のあるやつである。
「よし。じゃあ持っていこう」
「あ、待って」
そのまま手に取ろうとする私の手を遮って、少女はもう一度奥の方へ歩いていった。再び屈みこんで何かを探っているようだ。
そして、立ち上がると私の方を見てニヤリと笑ってみせた。
「実はね。お宝をもうひとつ見つけたのです」
そう言うと、彼女は床から一つの缶を拾い上げた。
銀色の地に黒と赤の文字。すっかりぬるくなっていて、やたらと喉越しが強調されていて、三五〇ミリリットルで、五パーセントで……
「って、これお酒じゃん!」
あのやたらと発音のいいシーエムが特徴的な、スーパーでドライなお酒だ。
私はそこまで飲むタイプではないが、昔、父がやたらとおいしそうに飲んでいたのを覚えている。
「よしよし、それじゃあさっそく……」
「いやいやいや、ちょっとちょっとちょっと!」
少女がプルタブに指をかけたのを見て、思わず止めに入った。どんな贔屓目に見たとしても、まだ高校生にもなっていないだろう。
「君、明らかに飲める年齢じゃないよね!?」
「んー?確かにまあそうだけどさ、どうせ最後なんだよ?」
ならいいじゃん、と言いながら彼女はプルタブを立てた。ぷし、と間抜けな音を立てて缶が開く。
そしてそのまま、思いっきり、ぐいと大きく缶を呷った。
「んく、んく……ぷはぁーっ!なぁーるほどね!こういう味なんだ!」
おじさんもかくや、という見事な飲みっぷりである。これはシーエムのオファーが入ってもおかしくない。
「もう……冷えてないし、べつに美味しくないでしょ。苦いだけだよ?」
「んー?いやぁ、案外イケるけどなー?」
「ええ……」
どうやら少女は思っていたより酒飲みな味覚をしているらしい。ペース配分も何もあったもんじゃない勢いで、ごきゅごきゅと喉を鳴らしながら美味しそうにビールを流し込んでいく。
「ねえねえ、あなたは飲まないの?」
「飲んだら飲酒運転になっちゃうから。それに、あんまりお酒は好きじゃないしね」
「ふうん」
聞いてきたのは向こうのクセにずいぶんと気のない返事が返ってきた。早くも酔いが回ってきているのだろうか。
水分とらせた方がいいかな、なんて思って、さっきのスポーツドリンクのふたを開けようとしたとき。少女がおもむろに口を開いた。
「ねえねえ。あんまり深く考えずに答えてほしいんだけど、いい?」
「んー?いいけど、なに?」
「……あなたは、明日も生きたい?」
ちらと横顔を見れば、ほんのりと頬が赤くなっていた。その視線はこっちを見ないで、ぼんやりと空っぽになった棚だけを眺めている。
「……どうだろうね。そんなのもう、今更考えたってどうしようもないし」
「それでも、だよ。どう?」
言われて、考える。斜めに伸びる光の中で埃がキラキラと舞っていた。
「別に、どっちでもいいかな」
「……それはまた、どうして?」
「そりゃあ、死にたい訳じゃないけどさ。今度公開される映画も見たかったし、マックの期間限定もまだ食べてないし」
やりたいことを挙げるならまだある。まだあるが。
「でも、なんかね。『世界が終わる』って聞いたら、なんか。まあ、それはそれでいいかなって思っちゃったんだ」
「それはそれで、いい……」
少女は私の返事を聞くと、咀嚼するように口の中でそれを繰り返した。そして少しの間考えこんで、ぽつりと言う。
「家族とか友達とかは、いいの?」
「友達はまあ、いないわけじゃないけどさ。最後にわざわざ会いに行くような深い関係、ってなるといないし」
我ながらずいぶんと寂しい人間である。交友関係が薄いというか、浅いというか。
「それに、親はもうどっちとも死んでるしね。わが一族は私が末代なのです」
「ええ……誇って言う事……?」
冗談めかして言うと、少し困った様子で少女が苦笑いする。持った缶を傾けて、左右に振る。どうやら飲み切ったらしい。
「さ!それじゃあそろそろいこっか!」
ちょっと長居しちゃったしね、と言いながら私が腰を上げると、少女は少しだけふらついて立ち上がった。どうもかなりアルコールに弱いほうらしい。
「おっと。大丈夫?自転車の後ろ乗れる?」
「大丈夫……だと思う。思いっきりあなたにしがみつけば平気なはず」
コンビニを出ると、痛いくらいの日差しが容赦無く降り注いだ。時間を確認すると午前九時を過ぎたころ、暑さが本気を出してくる頃合いである。
「よし。それじゃ行くけど……あれ?もう缶捨てたの?」
「うん。思いっきりつかまってるから、もう出していいよ」
少女がしっかりと腰に手をまわしたのを確認すると、私はペダルを踏み込んだ。
ぎし、と自転車が鳴り、滑らかに走り出す。
「ねえ、聞いていい?」
「んー?いいよ?」
「あなた、去年も自転車で海に行ったって言ってたけど、その時は何しに行ったの?」
酔っているせいか、のんびりとした口調で少女が聞いてくる。
私ものんびりと、記憶の糸を辿るようにしながらゆっくり答える。
「んーと……私の両親さ、死んでるって言ったじゃん?」
「……あの、聞いといてなんだけどさ。言いたくなかったら言わないでもいいよ?」
話し始める前の唸り声を悪い方に捉えたのだろうか、後ろから顔を出すようにして少女がそう言ってきた。
「ああいや、別に大丈夫だよ」
もうきちんと受け入れてるし、と付け加える。
「その死んだのが、去年のちょうど今頃でさ」
行く先の空を見上げると、大きな入道雲がもくもくと育っていた。
「今日みたいにあっつい日で、空もよーく晴れててさ」
バカみたいな猛暑日だった。そのまま、溶けて無くなってしまいそうなくらい。
「火葬場にさ、煙突ってあるじゃん?」
周りのどの建物よりも高い、あの世に近い煙突。
お父さんとお母さんの煙が、そこから立ち上っていく。空に向かって伸びるそれはやがて雲に紛れ、霞み、消えて行って──
「その雲が流れて行った方向がさ、海の方だったんだよ」
そこまで言って、私は少し言葉に詰まった。
あの雲は確かに、海の方へ向かっていった。けれど、それがどうして私を海へ向かわせたのか──そこが、今となっても分からなかった。
そうして私が何も言えないでいるのだから、必然、会話は途切れる。
けれど。
「……追いかけたかった……の?」
ぽつりと、少女がそうつぶやいた。
「……そう、なのかなあ。追いかけたかった……のかなあ?」
言われて考えるが、どうにもしっくりこない。
シャワシャワと、ミーンミーンと、ジージーと。
絶え間ない、色とりどりの蝉時雨のなか。私はあの時の感情を考える。
機械的に足が回り、陽の当たる髪の毛が熱くて、風を切る感覚が心地よくて、首筋の汗が冷たくて。
ひたすらに、自転車を漕いでいて──
そこまで考えて、ぽろりと零すように。ひとことだけ、言った。
「──なんでなんだろう、って思ってたんだ」
それを知りたくて、雲の行く先に向かった。
「……そっか」
「うん。そうだよ」
短く答える。
そして、空を──青空に輝く、あの小惑星を見上げて。
「まあ、でも。理由なんてないんだろうね」
辿り着いた海岸で見たのは、のっそりと沈む太陽と入れ替わりに光りだす月と星。
きっと何万年、何億年と繰り返されてきて、これからも続いていくだろう風景。
雲がどこかへ行って、陽の熱が冷めて、私が死んでしまっても、変わらない風景。
「それに、なんだか救われたような気がしたんだ」
そう言うと、今度は少女は何も言わなかった。代わりに、腰に回された腕の力が少しだけ強くなる。
ちょっと苦しいよ、なんて言って笑って。
海までの道は、その四割程度進んだところだった。
***
国道を外れて山道へ入った頃には、時計の針は十一時を少し回っていた。
去年も通った、少し高い山道である。陽射しは草木に遮られて先程よりもよっぽど涼しいが、坂道が容赦なく体力を刈り取りに来る。
「はあ、はあ……」
「ちょっと、大丈夫?」
流石に二人乗りで上り坂を漕ぐのは体力を酷く消耗するもので、途中からは少女にも降りてもらって自転車を押して歩いている。
「……ダメだね、運動不足がすぎるよ。ここのところ、ろくに運動してなかったからね……」
「ここ意外にもっと楽な道とかは無いの?」
「あるにはあるけど……ここまで来ちゃったら迂回するにもとんでもなく時間かかるし、間に合わないかもしれないからね」
だから、多少なり苦労しようともここを通るしかない。それに時間で見れば近道ではあるのだから、山を通り抜けるまで、まあ少しの辛抱だ。
なんて、そんな楽天的な事を考えていたのが悪かったのだろうか。
「ちょっと、嘘でしょ……」
狭い山道の、坂の途中で。目の前の道を、大きな倒木が塞いでいた。
山側から根こそぎに倒れたらしく、まだ土が付いたままの根が天高く伸ばされている。
「うわぁ、これは……どう?通れそう?」
不安そうに言った少女と共に、自転車を止めてあちこちから覗き込んでみるが、どうにも通れそうにない。跨いで通るには大きすぎるし、かといって横をすり抜けようにも片方は崖、片方は山の急斜面に阻まれて通れそうにない。自転車をここで乗り捨ててよじ登れば通れるかもしれないが、それをすると今度は十九時までに海へ着けるか怪しくなる。
「ねえ、迂回して通る道とかはないの?」
「いやまあ、あるにはあるけど……それ使うには結構戻らなきゃだし、だいぶ遠回りだから……それじゃあ多分、間に合わない」
ダメ元で金属バットを思いっきり叩きつけるが、倒木はビクともしない。じんじんと鈍い衝撃が手に返ってくるだけだ。
じわりと、暑さとは違う嫌な汗が背を伝う。
──まさか、これで終わり?ここで、こんなところで?
こんな木の一本で、私達の道が終わってしまう。
「……どうしよう」
グルグルと、頭の中を絶望と諦念の入り混じった感情が渦を巻き、どうしようもできず立ち尽くして──
「……大丈夫。何とかするから」
不意に、少女の声がした。
振り返って見てみれば、少女は酷く落ち着いたような顔をしていた。
それでいて、何かを決心したような、強い意志の感じられる瞳だった。
「だから、ちょっとそこからどいてくれる?」
「何とかって……そんな、どうやって」
「いいから」
問おうとした言葉はしかし、強引なその口調に押し切られた。そのただならぬ雰囲気に少したじろいで、自転車ごと少女の前からどく。
少女は何も言わず、ただじっと倒木を眺めて──
「──え?」
倒木が、消えた。
派手な音も、大げさな光も、何の前触れもなく。
ただ倒木だけが、確かにそこにあったはずのものが、最初から存在しなかったみたいに消えている。
「どう?すごいでしょ?」
私が呆気に取られていると、得意げに笑いながら少女が振り返った。
「……いや、すごいっていうか、いや……ええ?」
「夢じゃないよ、本物だよ」
頬をつねるとしっかり痛い。どうやら彼女の言う通り、これは現実らしい。
「……いっこ、質問していい?」
「いいよ、何?」
なんかもう、いろいろと聞きたいことは山積みだけれど。感情が一周したのか、出てきた疑問はひどく単純なものだった。
「つまり君は、あれなの?超能力者ってやつ?」
「超能力者……まあ、そんなやつかな」
まるで『君は日本人?』と聞かれた時のような軽いノリで、当たり前のように少女は答えた。
「まあ、厳密に言うと方向性はちょっと違──」
そして解説でもしようとしたのか、胸を張って続けた言葉はしかし、途中で打ち切られた。
「どうしたの?」
不自然に言葉を切ってうつむいた少女を不審に思って、近寄ると。
「っ、ごほっ、がっ……」
少女は湿った、粘ついた咳をして。口に手を当てて蹲った。
「ちょ、ちょっと!だいじょう──」
何があったのかわからず、それでも慌てて駆け寄って。
そして、見えたモノに思わず絶句した。
「……こ、これ……」
血が。
げほ、と咳と共に口から血が溢れ、真っ白いワンピースにいくつもの赤い線を引いていく。
「いやちょっ、ええ!?なん……病気⁉何か薬とか……とりあえずお水!飲める!?」
「……心配、しすぎだよ……ごほっ。わたしは大丈夫だから……」
弱弱しい声で、しかしわずかに笑いながら少女が言う。
「いや見るからに大丈夫じゃないから!とりあえずそこ座って!」
半ば無理やりに道の端へ連れて行き、斜面にもたれるようにして座らせる。
かごから水を持ってきて飲ませ、しばらくすると落ち着いたのか口から流れる血も止まり、そこでぽつりぽつりと少女は語りだした。
「わたしはね。生まれつき、さっきみたいに物を消す事ができるんだ。こう、消えろー、って思いながら見つめると、大体なんでも消せちゃうの。まあ、今みたいに無茶しすぎたらちょっと体調崩しちゃうんだけどね」
「体調を崩すって……それどころじゃないと思うんだけど?本当に大丈夫なの?」
「へーきへーき。おかげさまでもう良くなったからさ」
まだ少し顔色は悪いが、良くなったというのもある程度は本当らしい。
先に歩き始めた彼女を追い、横に並んで歩いていく。
そのまましばらく、無言で歩いて。ぽつりと、少女は呟いた。
「私ね、内臓が何個か無いんだ」
「それは……あの超能力のせい、だったりするの?」
妙に軽いのはそれが原因か。聞くと、うん、と小さく頷いて。
「なんでも消せるんだけどね。代わりに、私からも何かを消さなきゃいけないらしいんだ」
淡々と、なんでもないように言う。
「エネルギーだったり、精神力だったり、内臓だったり。消すもののサイズとかで変わるんだけどね」
「……じゃあ、さっきのは……」
「何が消えたのかは私でも分かんない。血が出てすぐに治ったから、多分肉がちょこっと削られたんだと思うけどね」
他人事のように言って笑うその姿が酷く痛々しくて、見ていられなくなって前を向く。
少女の足取りはあくまで軽く、坂道など意に介していないようだ。
その背中に声をかけようとして、やめて。黙ってあとを追いかける。
──じゃあ、『あれ』は消せるの?
どうにか飲み込んだ言葉だけが、頭の中で響いていた。
***
しばらく歩くと山を越え、両脇に田んぼの広がる田舎道に出た。坂道は終わり、おおよそ一時間ぶりの二人乗りである。
一本道の端には写真の剥がれかけた選挙看板が突き立っていて、『日本を明るく』の標語だけが物悲しげに主張していた。
「……この辺の人達はみんな、どこに行っちゃったんだろうね?」
「さあ。家に籠ってるのか、それとも私たちみたいに何かを見に行ってるのかな」
のどかな自然の中、車輪の擦れる音だけがやけに大きく響く。ちらほらと民家は見えるが、そのどれも静まり返り、人の気配はない。
そうして自転車を漕いでいると、不意に少女が声を上げた。
「ねえ、あれ。見える?」
「あれって?」
「あそこの、十字路のところ……誰かいるよ」
言われた場所を見ると、道の先、少し遠くに座り込む二人分の人影が見えた。
「……近付いても大丈夫だと思う?」
「うーん……危なそうな人たちには見えないけど」
むむ、と手で庇を作って少女が言う。根拠があるのか分からないが、まあ、何か感じ取ったのだろうか。
「それにまあ、最悪の場合は、ね」
そう言って、少女は自分の目を指さして笑った。私からしたら全く笑えない。
「……万一の時は、私が頑張って漕ぐからさ。それは使わないでよ」
「そう?」
なんて、そんな事を話しながら自転車を走らせて。私たちが近付くと向こうも気付いたのか、片方がもう片方を隠すようにして立ち上がる。
「……こんにちは。あなた達は、何をしてるんで?」
人影は二十代ほどの男女だった。日に焼けた朴訥な顔つきの青年と、色白で気の強そうな女性。
そのうち立ち上がったのは青年の方で、明らかに警戒した様子で話しかけてきた。片手を背後に回しているのは、そこに何か得物でも握っているのか。
私も半身で少女を隠し、それに答える。
「ちょっと、海に行こうと思いまして」
「……自転車で?」
「ええ、まあ。夕方にまでは着くはずですし」
言うと、青年は少し気の抜けた声で答えたあと、はあ、と緊張の糸が解けたように大きく息を吐いた。
「だからアタシ言ったじゃん。そんな警戒しなくてもいいよって」
「……そんなこと言って。何かあってからじゃ遅いだろ」
そして、その後ろからひょこりと女性が顔を出して言った。言い返す青年の方も気安い口調で、二人が親しい間柄なのだと分かる。
全く心配性なんだから、とむくれたように言うと、女性はこちらに向き直って尋ねてきた。
「ねえねえ、ちょっと聞きたいんだけどさ。あなた達はなんで海に行こうとしてるの?」
「海が見たいから。わたし、生で海を見たことないんだよね」
「海かー!海はいいよ!見てたらなんか、色んな悩みとかぶっとぶからさ!」
ぶっとぶの?そうそうぶっとぶぶっとぶ、だるま落としぐらいぶっとぶ。だるま落としって何?えっ知らないの。うん知らない。勿体ない、人生の半分損してるよ。
そのまま流れるように女性はだるま落としの説明に入る。しかもご丁寧にジェスチャー付きだ……いやホームランは違うだろ。
この二人は多分、誰が相手でもすぐに仲良くなれるタイプの人間だ。人の懐に入り込むのが上手くて、観光地とかで他人に写真を頼むのにも躊躇がないタイプ。
「すごいですね、あの子達」
「ええ、ほんとに」
そして、相方同士で盛り上がっているのだから、こちらの『じゃない方』コンビも言葉を交わす。
「……ところで、おふたりは姉妹で?」
「いや、他人ですよ。なりゆきというか、流れで一緒になりまして」
「わたしがお腹空いて行き倒れてたのを助けてくれたんだよ!」
「行き倒れ!?なにそれどういう状況なの!?」
私が答えると、やかましい二人組が横から突っ込んできた。一気に気温が数度上がった気さえする。
「ちょっとお腹が減っちゃってさー。もう一歩も動けない!ってなって倒れてたんだよね」
ほとんど飢え死にしかけていたと言うのに、けらけらと笑いながら少女が言った。後から思い返せば、というやつだろうか。
「まあ、わたし達はそんな感じなんだけど……あなた達はどうなの?」
「……ふふふ。何に見える?」
少女が無邪気に問うと、女性はいたずらっぽく笑ってそう言った。青年の方をちらと見ると、仕方ないなぁ、とでも言いたげな様子で苦笑していた。
話し方から見るに、二人の距離感は随分と近いように感じる。そしてそれは短時間で出来上がったものなどではなく、長い時間の積み重ねがあるからだろう、ということも。
「えっと……恋人、とかですか?」
「それとも夫婦?」
多分そうだろうな、と辺りを付けて答えると、どうやら少女も同じようなことを考えていたらしい。恋人か夫婦か、そのあたりだろうと思っていたのだが。
「ブブー!二人とも不正解!」
満面の笑みで両腕が交差され、大きなバッテンが突きつけられる。
その様子を見て、青年は穏やかに微笑んでいた。
「でも、君達からそうやって見えてるなら嬉しいです」
「んまあ、それもそうだね」
二人はそう言い合うと、笑って言った。
「アタシ達はただの幼なじみだよ」
「付き合ったりは……まあ、しなかったな」
そうやってくすくすと笑い合う。そして、女性がポツリと言った。
「アタシさ、来週に別のヤツと結婚する予定だったんだよ」
彼女は遠くの方を眺めるような、何かを思い出しているような顔で。
「だけど世界が終わるって聞いて、最初に浮かんだのがコイツの顔だったんだよ」
女性はこつん、と軽く青年の頭を小突いて笑う。まったく、と青年は楽しそうに呟いた。
「……俺も、今を逃したらもう会えないって思ったらいてもたってもいられなくなって。だから、思いっきり攫ってやったんですよ」
言いながら、仕返しのように青年が女性の頭をグシャグシャと乱暴に撫で回す。
やめろよー、と言いながらも幸せそうに笑う二人の姿はいかにも幸せそうで、数時間後には全てが終わってしまうなんて忘れてしまいそうなほどだ。
「……こんな事言ったら不謹慎かもだけどさ」
二人はしばらくそうやってじゃれ合っていたが、やがてそれも一段落した。ぽつりと言って、彼女は空を見上げる。
目線の先には、朝よりも大きくなった白い光が浮かんでいた。
「あの隕石は、あたし達を素直にさせるために落ちてきたんじゃないかって思っちゃうんだよ」
「……それはまた。ロマンチックな考え方ですね」
そして、酷く傲慢な考え方だ。
世界が自分たちの道連れに死ぬのだから、随分と自分勝手なラブロマンスである。
「……ごめんなさい。世界がこんなになってるのに何変なこと言ってるんだ、って言いたいですよね」
言葉を返す前の沈黙を悪いように取られたのか、青年が謝ってきた。
いえ、と言おうとして、否定するのもちょっと違うかと思って黙り込む。ならばどう言えばいいのかと考えていると。
「……あなた達は、明日が来てほしかった?」
不意に少女が問いかけた。突拍子もないようなその質問にしかし、二人は顔を見合わせると同じ答えを返した。
「まあ、そうだね」
「来るのなら、来てほしかったですよ」
あっけらかんと、何を当たり前なことを、とでも言いたげに。
「ま、今更だけどね。もう今となっちゃ、明日がどうとかは考えてないよ」
そして、あくまでも明るく。その言葉を聞くと、少女はありがとう、と短く礼を言って考え込んでしまった。
「……じゃあ、あんまり長居してもあれですし。そろそろ私たちは行きますね」
「ええ、そうですね。無事辿り着けるよう願っていますよ」
「じゃーねー!海、楽しむんだよー!」
二人は最後までここにいるらしい。ぶんぶんと大きく手を振る女性に手を振り返しながら自転車を漕ぎ、そうしてしばらく二人乗りで走る。
「あの二人、明日が来てほしかった、って言ってたよね」
「……うん、そうだね」
すると唐突に、少女が独り言のように言った。どう答えようもなく、生返事のように返す。
「わたしも、そう思えたらよかったな」
それは、と言おうとして、そこから言葉が続かない。
縋り付くように手を回してくるその体の軽さがやけに感じられて、心がざわつく。
逃げるようにして視線を泳がせれば、真っ青な晴天が目に痛い。
「あっついねぇ」
「……そうだね」
何かを考えているのか、いないのか。後ろに乗る軽い体の内にあるものが何なのか、私には到底分からない。
海までの道は、七割ほどを進んだところだった。
***
「……ん、あっち。誰かいるよ?」
走れど走れど景色の変わらない、畑と田んぼに囲まれた田舎道。そんな中、出し抜けに少女が声をあげた。
「え?どこ?」
「ほらあっちだよ、あっち」
少女の指さす方に目を凝らせば、どうやら畑の中に誰かがいるようだ。まだ遠くてよく見えないが、地面に屈んでなにやらやっている。
どのみち通り道だ。先程のこともあり、少し気が緩んでいるのを自覚しながら自転車を進める。
やがて人影がはっきりと見えるまで近付くと、向こうも顔を上げ、しっかりとこちらを見つめ返してきた。
服にも手にも土汚れのついた、まさに畑仕事をしていますと言った風貌の老婆だった。
「おや、どうも。見ない顔だけど……どっかから来たのかい?」
「ええ、まあ」
「おばあちゃんは畑仕事してるの?」
「ああ、そうだよ。もう歳だし、あんまり沢山は育てられないけどね」
いつの間にか自転車から降りた少女は地面にしゃがみこみ、しげしげと畑の様子を興味深そうに眺めている。
「……今日で最後なのに、やってるの?」
「そりゃ今日で終わるからと言って、ここの野菜たちの世話はせにゃならんでしょ」
ともすれば失礼にも感じられそうな少女の問いにしかし、老婆は笑って答えた。
「こいつらは今日、今も生きてるんだから。明日死ぬなら今死んでもいい、とはならないだろう?」
「……うん、そうだったね。変な事言っちゃってごめんなさい、おばあちゃん」
「謝るこたぁないよ。そう思ったって別に不思議じゃないだろうからね」
鷹揚に頷きながら、ところで、と老婆は話を変えた。
「あんたら。野菜は好きかい?ちょうど採れたばかりで余ってるのがあるんだが……いくつか食べてくかい?」
「そんな、悪いで……」
「いいの!?」
悪いと思って断りかけた言葉はしかし、少女の食い付きのいい言葉にかき消された。
期待に満ちた目線を向けられ、老婆は皺だらけの顔でくしゃりと笑う。
「ああ、いいとも。ちょっと待ってな、今取ってくっから」
そうして少し離れた家へ向かう背中を眺めながら、こそりと少女に耳打ちする。
「いや……ああいう場合って悪いですよーでも頂きますありがとうございますー、みたいな反応がいいと思うけど……?」
「?向こうがくれるって言ってるんだから素直に貰わなきゃじゃない?」
きょとん、と首を傾げながら。まあ確かに、結局貰うのならばそうなのかもしれないが。
「いやあ待たせたねえ。ほれ、好きなの取りな」
そんな事を話していたら、カゴいっぱいに野菜を詰めて老婆が帰ってきた。トマトやキュウリなど、まさに夏野菜の定番といったものばかりである。一度洗った直後なのか、表面についた水滴が日差しを弾いて瑞々しく輝いて見えた。
「ありがとう!」
「ありがとうございます、頂きますね」
「はいはい、遠慮せずお食べなさいな」
一瞬迷い、とりあえずいちばんに目に付いたキュウリを手に取って齧る。
「!すごい、おいしいよ!」
「……ホントに。新鮮だし、とれたてってこんなにおいしいんですね」
少女はガツガツと大ぶりなトマトに食らいつき、あっという間にひとつ平らげると次のものに手を伸ばしていた。
「まあまあ、そう焦らんでも野菜は逃げんから。落ち着いて食べな」
穏やかに言う姿は微笑ましいものを見るような慈しみに溢れていて、朴訥とした温かみが感じられた。
「……ごちそうさま!」
そして数分後。カゴはすっかり空になってしまい、少女は満足げな表情でお腹を撫でていた。あのカゴのうち、八割程度は少女が食べてしまったのだ。残りは私と老婆で一割ずつ。実によく食べる子である。
「ところで、あんたら。これからどっかに向かうつもりなのかい?」
「ええ。ちょっと、海に行こうと」
「海か。そりゃあいい、綺麗な景色が見れるといいねえ」
お野菜ありがとうございました、それじゃあ、と別れを言って走り出そうとする直前、少女が老婆に問いかけた。
「……ねえ。もしも、もしもだよ?もしも、誰かがあの隕石を消すことが出来るとしたら、どう?」
もしも、と前置いたその質問に思わず息がつまる。それは私がずっと思っていて、そして、その上で考えないようにしていたのに。
そんな私の内心など知らず、老婆はううんと考え込んでから答えた。
「どうって言われてもねえ。あたしゃこんなおばあだよ?もう十分生きたから、別にこれと言って思うこともないよ」
そう言って、ゆるゆると首を振る。
「ま、そりゃ世界が終わらんで済むんならそれに越した事はないけどね。消せるんなら消してもらえたらありがたいよ」
「……じゃあ、もしも。消した結果、その人が死んじゃうとしたら?」
「……そんなんなら知らないよ。そこはもう、消す当人がどうしたいか、とかの話になってくるからねえ」
はあ、と息を吐いて。ちらと少女を見て、そして私を見て。
「自分が死んで何かなそうなんざ傲慢もいいとこだよ。誰か一人が世界をどうこうしようなんて、そんな気負わなくていいんだよ」
たぶん、彼女はもう何かを察しているのだろう。そして、その上で。
「でも。そういう人はそれでも守りたい、無くしたくない何かがあるからやるんだろうね」
少女は答えず、ただ黙り込む。
分かるような、分からないような。
少女がいつまでも黙り込んでいるものだから、すみません、と代わりに謝り、改めて別れを言って走り出す。
たとえ自分が死んでも守りたい、無くしたくないもの。大抵の人にとってそれはきっと、家族だったり恋人だったりするのだろうか。
後ろに座る少女をちらと横目で見るが、俯いていて表情はよく分からない。
「……あのね、ちょっと、聞いてもらってもいい?」
と思っていたら、少女の方から話しかけてきた。
「いいよ。自転車止める?」
「ううん。このまんまでいい」
ぎゅ、と腰に回った腕の力が強くなる。言葉を探しているのか、しばらくの間沈黙が続いて。
「わたしはね。ちょっと……ううん、だいぶ特別な家系に生まれたんだ」
静かに、話し始めた。
「こういう、わたしみたいなのが時々生まれてくるの。まあ、変な家だよね」
「……まあ……うん」
「昔はこういう家はよくあったらしいよ。千里眼の逸話とか、聞いた事ない?」
「いや、聞いた事はそりゃあるけど……ああいうのって全部ガセネタなんじゃないの?」
「だいたいはね。というか、本当のは秘密にされてそうそう表に出てこないよ」
おおごとになっちゃうからね、といたずらっぽく笑う。
「ま、そういうわけで。ちっちゃい頃から色々やってきたんだよ。お家の偉い人に言われて、色々消してきたの」
「それは……辛かったでしょ?」
「ううん?辛くはなかったよ。家の皆も、嫌なことは何もしなかったし。むしろ無関心というか、不用意に触らないようにしてる、みたいな感じ?」
軟禁状態、という言葉が頭に浮かんだ。生まれてから──少なくともその力が分かってからずっとそうだという人生なんて、私には想像もできなかった。
そう考えてた思考は、次の少女の言葉で凍りついた。
「それで、まあ。色々あって、多分半年くらい前だったかな。お家の人から、『これから後に来る隕石を消せ』って言われたんだよね」
なんと言っていいのか分からない。どうにかこうにか言葉を探して、探そうとして、何も言えない。
「……それは……」
「まあ、でも。多分、それしたらわたし死んじゃうから。家の中でも、色々意見があったらしいんだけどね」
倒木をひとつ消すだけで血を吐いていたほどだ。隕石なんて消せば、どうなってしまうかなんて分かりきっている。
隕石を消せば、代償で死ぬ。消さなければ、地球ごと死ぬ。
どうせ死ぬなら、世界を救って死ね──彼女に突きつけられたのは、要はそんな結論なのだろう。
「だから、ホントは逃げたりしちゃいけなかったんだけどね。わたしはわがままで、欲張りで、自分勝手な悪い子だから、隙を見て逃げ出しちゃったんだ」
だから、世界が滅ぶならわたしのせいだよ。
遊ぶように言ったその言葉が、しばらくの間飲み込めなかった。
そこまで分かっていて、どうして。そう言いたくなって、けれど、それを言ったって誰も救われない。
この一日で、少女の事はなんとなく分かってきたはずだった。確かにちょっとズレていて変なところはあるが、それでも彼女は天真爛漫で、明るくて、ちょっと図太い普通の女の子だと思っていた。
なのに今、私の後ろに座っている彼女のことが、途端に何も分からない。
「別に、世界を救いたくないなんて訳じゃないんだけど」
そう言って、少し言葉を探るような間。
「あの子がいないのに、何をするっていうのさ」
それだけ言うと、彼女は私の背中に顔を埋めるようにして黙り込む。
気まずい雰囲気を乗せたまま、自転車はそれも構わず前へ進む。早く海へ着いてしまえ、と半ばやけくそのように思っていると。
「……あ」
その気持ちに応えたかのように、今。
丘を越えて眼下の街を抜けた先に、空とは違う青色。
「見えた……」
海が、広がっていた。
***
「なんか……変な匂いだね」
「潮の匂いだね」
砂浜へ着いたのは、午後六時を過ぎた頃だった。太陽はまだ水平線の上にあるが、それ以上にあの小惑星がくっきりと大きく見える。
それから目を逸らすように海を見つめ、少女は走り出した。
履いていた靴を脱ぎ捨てると波打ち際まで駆けていき、きゃあきゃあと騒いでいる。
「……うわっ!すごい、冷たい!」
「いや、そりゃ冷たいでしょ」
「そうだけど!初めての感動をもっと大事にさせてよ!」
そういって笑う彼女の顔は、さっきまでの話しぶりとは大きく違ってどこまでも明るくて。
自転車に鍵をかけようとして、やめて。道端に置いたまま、すぐ隣まで歩み寄る。
「それで、どう?念願の海が見れた感想は?」
「すごい!いやもう……すっごい!」
「語彙力がお亡くなりになってるね……」
少女は興奮した様子で、伝えきれないとでもいうように手をぶんぶんと振り回しながら「すごい」を連発している。
「だってあの向こうにずっと行ったら、もう違う国に着いちゃうんでしょ?しかももっともっと進んだらここに帰ってこれる!そんなのがこんなもう……とにかくすごいんだよ!」
そうして鼻息荒く、こうだから海はすごい、なんてことを熱心に話し始める。これでは私の方が海について教わっているような勢いだ。
そして、しばらくすると話し疲れたのか波打ち際から上がり、ぺたんと砂浜に腰を下ろした。
その隣に並んで座り、そろって海を眺める。
「今日はありがとうね」
ぽつりと、少女が言った。
「ほんとうに。ほんっとうに、楽しかったよ」
「それを言うなら私こそ。最後の日をこんなに楽しめたのは君のおかげだよ」
「ふふ。じゃあお互いにどういたしまして、ってなるのかな?」
そうやって笑って、彼女はゆっくりと空を見上げた。
どうやったって隠せないぐらい大きな滅びが、昼から夕暮れ、夜へと変わりゆく空に広がっている。
「……ねえ、あなたは明日も生きたいか、別にどっちでもいいって言ってたよね」
目線はそのまま、少女が言う。
「……うん」
「わたしにはさ。あのおばあちゃんが言ってたみたいな、大切とか無くしたくない誰かっての、もういないんだ」
最後だからもう隠したくないし、言っちゃうね。
そう前置いて、少女は語り始めた。
「わたしの家が変わってて、そこから逃げてきたって話はしたでしょ?」
「……そう、だね」
「その時手助けして、一緒に逃げてくれた子がいたんだ。海の事も、その子から聞いたんだよ」
いた。
過去形なのは、つまり。
「でもね。まあ、家の人も逃してくれるわけがないし。二人であちこち回って、逃げて、逃げて、逃げ続けて……そうやって二人でいるのが、本当に楽しかったんだ」
そう言って、違うな、と小さく呟いて。
「わたしはさ。あの人といる世界が好きだったんだ」
つう、とその目から一筋の涙が流れて。ぐしぐしと目をこすって続ける。
「でも、途中からは一人になっちゃって。それで、もう気力もなくなって倒れてたら、あなたが来たってわけ」
それだけ、とでも言いそうな軽さで、彼女は話をまとめた。
「だから、わたしもあなたと同じ。明日世界が終わろうが、どっちでもいい」
「……その重い過去と同じにされると、ちょっと荷が重いよ」
「そう?」
どうして一人になったのかは聞けなかった。たぶん、彼女もわざわざ言いたくはないだろうから。
もう私は、分かった。分かってしまった。
この子が何を失ったのかも。
この子を救おうとした誰かがいたという事も。
それなのに、隕石を消してくれ、なんて言えない。顔も知らない「世界」なんてものより、目の前で笑う少女が笑えたのなら、それでいいのだと思ってしまった。
なのに。
「でも、やっと分かったんだ」
「……分かったって、何が──」
「この世の皆が、誰かと一緒に明日を迎えたかったんだ、って事を」
でも。だからと言って、君が犠牲になる事はないじゃないか。
そう言おうとした喉はしかし、粘った何かが詰まったようで言葉が出なかった。
だから、私が何も言わないのだから、必然的に少女の語りは止まらない。
「……わたしはバカだから、こんなになるまで気付けなかったんだ」
弱々しい笑顔で、いいや、と言って。
「……ホントは気付いてたんだ。だけど、気付いてないフリをしてた」
「…………でも、」
「私がやらなきゃみんな終わっちゃうんだよ?むしろ今更遅すぎるくらいだよ」
それだけ言うと、彼女は立ち上がって空を──ほとんどそれと同義になってしまっている小惑星を、じっと見つめる。
「……だから、さ。せめてあなたは、覚えていて欲しいんだ」
待って、思い直してよ。
安っぽい言葉が口を突いて出そうになって、それをかろうじて飲み込む。それを言ってしまうのは、彼女の決意を汚すような気がしたから。
「ここにわたしがいた、って事」
「……分かった」
本当は分かっていないけれど。それでも、彼女がそうすると決めたのだから。それを止める権利なんて、もとより私にはない。
ざざあ、ざざあ、と波が寄せては返し、足元の砂がいやに指の隙間へ入り込む。探しても夜空なんて全く見えなくて、もうすべてが小惑星で覆われている。耳を澄ませば、かすかにジェット機のエンジンのような音が聞こえる。
けれども。
「──消えて」
少女がそう言った瞬間、すべての音が消え、空が──世界が、眩く白色に染まった。
まるで電球を眼前に突き付けられているかのような眩しさに目を開けていることもできず、目を閉じ、次第に意識までも白く染まっていき──
***
ざざあ、ざざあ、と規則的な音で目が覚めた。
倒れていた体を起こすと髪や背中からパラパラと砂が落ち、そういえば砂浜にいたな、とぼんやりと思い出してきた。
「っ、そうだ、あの子は……」
そこまで考えて、はっとしてあたりを見回すがしかし、どこを見ても誰もいない。
ただ、少女の立っていた場所に小さな足跡が残っているだけ。
それを見て、そして目線を上に向ければ。さっきまで空のほとんどを占めていたはずの小惑星はどこにも無くて、代わりに満天の星空が輝いていた。
あの子はもう帰ってこないんだなと思って、少し鼻の奥がツンとして。
本当はもう、終わってしまってもよかったけれど。生きても死んでも、どっちでもいいような人生だったけれど。
でも、終わらなかったのだから。世界は、続いていくのだから。
私はあの子に頼まれたのだから、きちんと生きなくちゃいけない。
映画でも見て、期間限定のメニューでも食べて。あの子を覚えているまま、生きて行かなくちゃいけない。
あの子が遺した、この世界で。