ラスボス少女の忠実なる下僕 作:よろしくお願いします
世界の終わりまで、あと十五年。
その前に、この窓から入ってくる風を何とかしたい。
「エリゼ様。そちらの布を取っていただけますか」
「これ?」
「はい。ありがとうございます」
受け取った布を丸め、窓枠と板の隙間に押し込む。
俺は自分の椅子に乗って、朝食後の大工仕事に励んでいた。
板を当てたのは、割れたガラスの部分だけだ。それでも部屋を横切っていた風が止まり、ようやく指先の感覚が戻ってきた。
よし。悪くない。
将来の魔王城に入る前に、城の修繕まで覚えられそうだ。
住み込み採用に有利な資格が増えていく。
「そこも」
下から声がした。
エリゼが、板の端を指さしている。
「まだ、すこし」
「ああ、本当ですね」
布をもうひと切れ詰める。
エリゼは手のひらをかざした。しばらく待ってから、こちらを見上げる。
「とまった」
「助かりました。下から見てもらえると、わかりやすいです」
銀の頭が、少し下がった。
その足元では、靴下の先が余っている。
今朝持ってきた古着だ。かかとの位置が合わず、履き口を二度折り返して、どうにか脱げないようにしてある。
本人は、履いてから一度も脱いでいない。
ときどき足の指を曲げて、布越しに床を踏み直している。
新品なら、もっと暖かいのだろうか。
そこまで考えて、俺は財布の中身を思い出した。
銅貨六枚。
世界の命運を左右する投資家として、あまりに資金力がない。
窓を確かめ、椅子から下りる。
床に足がついたところで、エリゼが俺の袖をつまんだ。
「もう、おわり?」
「窓は、ひとまず。午後は暖炉を掃除しましょう」
灰受けには、いつのものとも知れない灰が残っていた。
火かき棒もない。薪は当然ない。
部屋の隅に積まれた毛布は、一枚を広げれば向こうの景色が楽しめそうな薄さだった。
道具も物資も足りない。
俺は鍋に器を重ねた。
「一度、下へ行ってきますね。食器を返して、必要なものをもらってきます」
袖をつまむ指が、止まった。
「……した」
「はい。物置と厨房です」
返事はなかった。
エリゼは俺の手元を見ていた。
鍋。空になったパンの籠。重ねた器。
来たときに持っていたものが、また俺の腕の中へ戻っていく。
「お昼ご飯も、ここでいただいてよろしいですか」
顔が上がった。
「ここで?」
「俺の椅子もありますし」
俺が背もたれに手を置くと、エリゼの視線もそちらへ動いた。
昨日まで物置にあった、脚の長さが少しずれた椅子。
こんなに頼りにされるとは、椅子も思っていなかっただろう。
「昼の鐘が鳴る前には戻ります」
教会育ちなので、そのあたりの時刻には詳しい。
鐘を聞いてから食堂へ走ったのでは、鍋の底に沈んだ豆しか残っていない。
祈りと違い、昼飯は早い者勝ちなのだ。
「かね」
「お昼に鳴る、大きいやつです。それまでに戻って、一緒に食べましょう」
エリゼは、しばらく何も言わなかった。
俺の袖から指が一本ずつ離れる。
最後に残った指も離れて、彼女はその手を胸元へ引き寄せた。
「……わかった」
ずいぶん重大な許可をいただいた気がする。
まあ、食事を任せた相手が何時間も戻らなければ困るか。
雇い主にとって、使用人の勤怠は切実だ。
「では、行ってきます」
扉を開けたところで、背中に声が届いた。
「ユリウス」
「はい」
エリゼは部屋の真ん中に立っていた。
靴下の余ったつま先が、内側を向いている。
「かえって、きてね」
俺は鍋を抱え直した。
「はい。戻ります」
顔を見て答えてから、階段を下りた。
***
「薪と毛布?」
物資の帳面を預かる神官は、俺の願いを聞いて眉を寄せた。
「塔に持ち込んだものは、すぐ駄目になる。以前にも支給したのだぞ」
「そうでしたか」
「寝具も椅子も黒く変色して、触れただけで崩れた。あれでは、いくら入れても同じだ」
なるほど。
壊すから与えない。
寒くて心細くなれば魔力が漏れ、また壊す。
十五年後の惨状へ向けて、じつに着実な仕事ぶりである。
「今朝は、食器も椅子も無事でした」
俺は返却前の器を一つ、机に置いた。
白い陶器には欠けも染みもない。
ただし、蕪が一切れこびりついていた。
しまった。洗ってから来るべきだった。
「おまえが、ずっと中に?」
「食事の間と、窓を直す間だけですが」
「気分は悪くないか。手足のしびれは」
「ありません」
神官が椅子から立った。
俺の右手を取り、聖印を確かめる。
手の甲には、今朝と同じ白い紋章があった。
「結界を使ったのか」
「はい。まだ、簡単なものですが」
「……さすがは、選ばれた子だ」
まずい。
聞き覚えのある方向へ話が進み始めた。
「あの魔力の中に身を置きながら、人のために働くとは。よい修練になるだろう。大神官様もお喜びになる」
俺は慎重にうなずいた。
身を置いている理由は、十五年後にそちら側へ移住するためなのだが。
「では、当分は私が担当してもよろしいでしょうか」
「もちろんだ。三日ごとに様子を報告しなさい。無理をしてはいけないぞ」
「ありがとうございます。それで、毛布と薪は」
危なかった。
いい話で終わらせて、現物を忘れるところだった。
「毛布は倉庫の古いものを使うといい。薪は少しずつだぞ」
「はい」
「火を扱うときは、必ず門番に確かめてもらいなさい」
「承知しました」
許可を受け取り、頭を下げる。
よし。所持金を一枚も減らさずに済んだ。
この調子なら、冬を越すくらいの装備は集められる。
「ユリウス」
扉へ向かうと、神官に呼び止められた。
「いつか勇者様をお守りする日にも、その心を忘れないように」
「はい」
忘れない。
俺は俺の命を、最後まで守り抜く。
***
薪は重い。
毛布も、畳んで二枚重ねると結構重い。
それに鍋とパンを加えると、八歳児には明らかに重い。
俺は物置の前で荷物を見つめた。
朝と同じ失敗をしている。
前世の記憶を思い出しても、学習能力まで増えるわけではないらしい。
仕方なく、薪と道具、毛布を二度に分けて塔の入り口へ運んだ。
門番に煙突のことを尋ねると、冬の前に外から点検したという。午後、火を入れる前に下からもう一度見てくれることになった。
礼を言い、厨房へ戻る。
昼の仕込みは終わっていた。
俺は空の食器を洗いながら、調理台の端に置かれた煮豆の鍋をうかがった。
「二人分、先によそってもいいですか」
「あんた、朝も二人分持ってったでしょう」
「昼も二人で食べるので」
厨房のおばさんは、濡れた手を前掛けで拭いた。
「……あの子、食べたのかい」
「おかわりもしました」
おばさんは俺が洗った器を見た。
それから大きなひしゃくを取り、豆をよそった。
底から肉が出てきた。
もう一杯よそうと、さらに肉が出てきた。
「冷めないうちに持っていきな」
「ありがとうございます」
人類、厨房方面にはまだ希望がある。
鍋を布で包み、籠を腕に掛ける。
出がけに、食堂へ向かう年上の孤児たちとすれ違った。
一人が俺の籠をのぞき込む。
「ユリウス、こっちで食わないのか」
「今日は向こうで」
「今日も、だろ」
その通りだった。
明日もたぶん、そうなる。
中庭へ出ると、鐘楼の下で鐘つき番が扉を開けていた。
俺は足を速めた。
塔の入り口には、さっきの荷物が置いてある。
毛布を腕に足し、道具の入った袋を引っ掛けてみた。
二歩進んだところで袋がずり落ちた。
駄目だ。
一度で済ませようとするほうが遅くなる。
薪と道具を置き、鍋と毛布を抱えて階段を上る。
最後の踊り場に着いたとき、まだ昼の鐘は鳴っていなかった。
「エリゼ様。戻りました」
扉が開いた。
思ったよりも、ずっと早く。
エリゼは俺を見た。
髪。顔。肩。鍋を抱えた両手。
順番に確かめて、最後にようやく目が合った。
「……かね、まだ」
「間に合いましたね」
俺は部屋へ入り、机に鍋を置いた。
足元の結界に、黒い霧が触れる。
朝、ここを出たときより濃かった。
なるほど。食前は魔力が漏れやすいのだろうか。
俺も腹が減ると機嫌が悪くなる。ラスボスにもそういう事情はあるのかもしれない。
今後も、食事の時間はきちんと守ろう。
寝起きが悪い可能性もあるので、朝も気をつけたい。
「お昼は豆と塩漬け肉です。あと、毛布も――」
振り向いて、言葉を止めた。
エリゼが、靴下の足で何かを隠した。
椅子の脚だった。
俺の椅子の、下のほう。
朝にはなかった、黒い染みができている。
「……さわらなかったの」
エリゼが言った。
「さわらないように、してたのに」
両手は胸の前で固く握られていた。
その指の間から、細く黒いものが落ちる。
俺は椅子のそばにしゃがんだ。
変色しているのは、床に近い部分だけだ。
結界で手を覆い、そっと触れる。
表面が少しざらついているが、木は崩れなかった。
「使えますよ」
引き出して、座ってみせた。
椅子はいつも通り、少しだけ揺れた。
「ほら」
「でも」
「もともと、これくらい揺れる椅子です。あとで脚の下に何か挟みましょう」
エリゼは立ったままだった。
俺の顔よりも、椅子の脚を見ている。
ああ。
壊れたら、持って帰ると思っているのか。
「もし使えなくなっても、別のを探してきます」
「べつの」
「ええ。昼飯のたびに空気椅子をするわけにはいきませんから」
通じなかったらしい。
エリゼは小さく首をかしげた。
説明しようとして、やめる。
俺は膝に手を置いた。
「椅子がなくても、昼には来ましたよ」
赤い目が、こちらを向いた。
「一緒に食べると、お約束しましたので」
そのとき、窓の外で鐘が鳴った。
エリゼの肩が、小さく跳ねた。
彼女は窓を見て、俺を見た。
遠くで二つ目の音が響く。
俺は椅子から立ち、鍋の蓋を開けた。
「今日は肉も多いですよ」
湯気の向こうで、握られていた指がゆっくり開いた。
***
食事のあと、俺はもう一度階段を下りることになった。
下に置いてきた薪と道具を取りにいくためだ。
「すぐ戻ります。今度は下の入り口までですから」
エリゼは、机に並んだ食器を見た。
俺の器には、まだパンが半分残っている。
「それ、たべる?」
「掃除が済んだらいただきます」
うなずいて、彼女は椅子から下りた。
扉までついてくる。
「開けたままでいいですか。両手がふさがるので」
「うん」
今度は袖をつかまれなかった。
廊下へ出て、階段へ向かう。
「ユリウス」
振り向くと、扉の陰から銀色の頭が半分のぞいていた。
「かえってきたら」
「はい」
「……ただいまって、いって」
俺は少し考えた。
なるほど。
帰着報告の文言まで決まったか。
下僕ともなれば、こういう細かな決まりが大事なのだろう。
「かしこまりました」
もっとも、その程度のご要望なら安いものだ。
俺は階段を下り、袋と薪を抱えて戻った。
開いた扉の前で足を止める。
「ただいま戻りました」
エリゼは、さっきと同じ場所にいた。
口を開いて、閉じる。
もう一度開いて、小さく言った。
「……おかえり」
そう言うと、扉をいっぱいまで開けてくれた。
俺は荷物を運び込んだ。
結界への負担は、また軽くなっていた。
こんなに短い間でも効果が出るとは、聖印の修練という話も、あながち間違いではなさそうだ。
将来の雇い主に仕え、勇者側の予算で暮らし、ついでにレベルまで上げる。
我ながら、実にうまく立ち回っている。
***
エリゼは、ユリウスが暖炉の前にしゃがむのを見ていた。
ただいま。
おかえり。
知っている言葉だった。
ずっと前、まだ扉の外で食事係の人たちが話をしていたころに、聞いたことがある。
家に帰ると、そう言うのだと。
ユリウスが出ていったあと、部屋が広くなった気がした。
窓はふさいでもらったのに、寒かった。
椅子を見ていれば大丈夫だと思った。
けれど、見ているうちに、その脚が黒くなった。
触っていないのに。
大事にしたかったのに。
だから、次に声がしたとき、うれしいより先に怖かった。
壊したことがわかったら、もう帰ってこなくなると思った。
でも、ユリウスは座った。
椅子がなくても来たと言った。
「灰をかき出すだけで、結構ありますね。エリゼ様、そこの袋を広げていただけますか」
エリゼは袋を取った。
端を両手で持ち、彼の隣にしゃがむ。
ユリウスが灰を入れる間、袋が黒くならないように、指先を何度も確かめた。
何も起こらなかった。
「ありがとうございます。これなら早く終わりそうです」
ユリウスが笑った。
エリゼは袋を持ち直した。
扉を閉めてしまえばいいと、少しだけ思っていた。
開かなくしてしまえば、もう待たなくて済む。
でも、それでは。
さっきの言葉を、もう聞けなくなる。
「ユリウス」
「はい」
「よそでも、いうの」
「何をですか?」
「ただいま」
ユリウスは首をかしげた。
「いえ。寮へ戻るころには、みんな寝ていますし。特には」
エリゼは、ゆっくりとうなずいた。
よかった。
あの言葉には、まだ、ほかに行くところがない。
袋の口を、少し広げる。
灰をこぼさないように。
彼の仕事が、早く終わるように。
それが終わったら、残してあるパンを一緒に食べる。
夕方になったら、また帰ってきてもらう。
おかえりは、もう言える。
これは、誰にも手伝ってもらわなくていい。