ラスボス少女の忠実なる下僕 作:よろしくお願いします
世界を滅ぼす予定の少女と、暖炉の前でパンを焼いている。
攻略サイトには載っていなかった展開だ。
「もう、いい?」
「もう少しですね。端が焦げる前に取ります」
火かき棒の先で、平たい薪を少しずらす。
暖炉の縁に置いた皿の上で、昼食の残りのパンが温まっていた。
灰をかき出し、炉の中を掃除して、門番に下から煙突を確かめてもらった。
ようやく入った火は、まだ小さい。
それでも、何も入っていなかった暖炉とは大違いだった。石の床に橙色の光が揺れ、近づけた膝がじんわりと温かい。
エリゼは、俺の隣にしゃがんでいた。
火がぱちりと鳴るたびに肩を動かすが、離れようとはしない。
「あまり近いと、髪が焦げますよ」
銀色の髪が膝から滑り落ちかけていた。
彼女は慌てて、両手でまとめて胸に抱えた。
櫛も必要だな。
それから、髪を結ぶ紐。
手鏡もあれば便利だろう。
買い物の予定だけが増えていく。
所持金は銅貨六枚のままである。
世界の終わりを待つにも、まず今月の予算と向き合わなければならないらしい。
「そのくらい離れれば大丈夫です」
「ユリウスは」
「俺ですか?」
「ちかい」
俺は自分の膝を見た。
確かに、少し熱くなっている。
「……おっしゃる通りで」
二人で少し後ろへずれた。
雇い主に労働環境を改善していただいてしまった。
頃合いを見て、布を重ねた手で皿を引き寄せる。
パンの端は薄く色づき、さっきまで冷えていた中身にも温かさが戻っていた。
「半分、いかがですか」
エリゼはパンを見て、俺を見た。
「ユリウスの」
「昼に肉を多くいただいたので。全部食べると、夕飯の入りが悪くなります」
実際は、半分になったところで困る量でもない。
ただ、隣でこんなにじっと見られながら、一人で食べるのも落ち着かなかった。
俺はパンを二つに割った。
白い断面から、かすかに湯気が上がる。
エリゼが手を伸ばした。
その指が、途中で止まった。
「……ユリウス」
「はい」
「かお」
赤い目が、俺の頬を見ていた。
「くろい」
***
俺は頬に触れた。
指先が黒くなった。
ああ。煤か。
暖炉の奥をのぞいたときにでも、こすったのだろう。
「掃除で汚れましたね。あとで洗えば――」
隣で、布の擦れる音がした。
エリゼが両手を胸元に引き寄せていた。
さっきまで届いていたはずの肩が、遠くなっている。
「わたし」
「はい?」
「ちかくに、いたから」
足元に、細い黒い霧が伸びた。
床を這い、結界の表面で小さく散る。
エリゼの視線が、俺の頬から動かない。
そういう黒ではない。
ないのだが、確かに、本人には見分けがつかないか。
「暖炉の汚れですよ」
指についた煤を見せた。
「さっきの灰の袋と同じです。水で落ちます」
エリゼは、部屋の隅に置いた袋を見た。
口を縛った布の端が、同じ色に汚れている。
「いたく、ない?」
「ええ。少しかゆいくらいです」
もう一度こすろうとして、やめた。
よく見れば、俺の手も十分に黒かった。
これ以上触ると、顔全体に塗り広げることになる。
将来、闇の陣営に入る予定ではある。
だが、いま顔色から寄せていく必要はない。
パンを皿に戻し、机へ運ぶ。
掃除用にもらってきた水差しには、まだ少し水が残っていた。浅い鉢に注ぎ、手を洗ってから、きれいな布の端を濡らす。
頬を拭く。
布が黒くなった。
「ほら。取れました」
振り向くと、エリゼは暖炉の前に立っていた。
俺の顔をじっと見ている。
「まだ、ある」
「この辺ですか」
「はんたい」
反対の頬を拭いた。
「どうでしょう」
「もう、すこしうえ」
上。
「……そっちじゃ、ない」
難しい。
鏡の購入順位が一つ上がった。
俺は布を持ったまま、椅子に座った。
「エリゼ様。お願いしてもよろしいですか」
銀の頭が、わずかに傾いた。
「俺からは見えないので。残っているところだけ」
布を差し出す。
エリゼは近づいてこなかった。
胸元の手を一度見て、それから、俺の右手を見た。
白い聖印が、淡く光っていた。
「さわっても」
「はい」
「いいの」
俺は自分を覆う結界を確かめた。
朝よりも、維持はずいぶん楽になっている。
さっき霧が触れたときにも、破れそうな気配はなかった。
「これがありますから。ゆっくりお願いします」
頬のあたりに魔力を回す。
念のため、少し厚めに。
将来の魔女に顔を預けるのだ。
点数は稼ぎたいが、安全管理は怠れない。
エリゼは、一歩だけ近づいた。
また止まる。
俺が布を差し出したまま待っていると、ようやく、両手で受け取った。
何度か折り直す。
汚れていないところを探しているらしい。
小さな指が布の端をつまみ、俺の顔へ近づいてきた。
あと少しのところで、また止まった。
「ユリウス」
「はい」
「いたかったら、いって」
俺はうなずいた。
「わかりました」
濡れた布が、頬に触れた。
ひんやりとした。
エリゼは息を止めていた。
そのまま、ほんの少し布を動かす。
すぐに離して、俺の顔を見た。
「だいじょうぶ?」
「ええ」
もう一度、布が触れる。
今度は少し長かった。
俺はおとなしくしていた。
ゲームの彼女が手を伸ばすと、大抵は誰かが死んだ。
いまのところ、俺の頬から煤だけが消えている。
できれば十五年後も、これくらいの力加減でお願いしたい。
「とれた」
エリゼが言った。
声が、さっきより近かった。
「ありがとうございます」
彼女は布を見下ろした。
端についた黒い汚れを、じっと見つめる。
「きれいに、なった」
「助かりました。俺一人だと、いつまでも違う場所を拭いていそうでした」
エリゼの口元が、少し動いた。
それから、また俺の顔を見た。
俺もつられて、自分の頬に触れる。
「まだ残っていますか?」
銀の頭が横に振られた。
布を持った手は、もう胸元へ引き戻されなかった。
***
パンは、また少し冷めていた。
忙しい食べ物である。
俺が皿を寄せようとすると、エリゼに袖をつままれた。
「ここも」
左の手首だった。
洗ったつもりで、袖口のすぐ下を忘れていたらしい。
「まだありましたか」
袖をまくって、手を差し出す。
エリゼは布を濡らし直した。
空いた手が、俺の手首の下へ伸びてくる。
触れる寸前で、赤い目がこちらを見た。
うなずくと、細い指がそっと添えられた。
布で拭くほうに集中すると、支える手が離れる。
手を支え直すと、今度は布が止まる。
俺はなるべく腕を動かさないようにした。
ずいぶん丁寧な仕事だった。
雇用主のほうが勤勉である。
これでは、そのうち俺に任せる仕事がなくなってしまう。
いや、階段で薪を運ぶ係は、できれば代わってほしい。
腰を悪くした下僕では、終末まで勤め上げられない。
「こっちは?」
左手が終わると、右手を示された。
ありがたく差し出す。
エリゼは甲のあたりまで拭いて、ふと手を止めた。
布を少しずらす。
下から、盾と双翼の紋章がのぞいた。
「これ」
「聖印です」
「さっき、ひかってた」
「結界を使うと光るんです。俺や、食器を守るときに」
赤い目が、机の上の皿へ動いた。
次に、椅子。
最後に、まだ握っている俺の手へ戻る。
「いまも?」
「はい」
指の力が、少し抜けた。
「ないと、だめ?」
俺は自分の手を見た。
彼女の指は細く、爪の先まできれいだった。
その向こうで、薄い結界が小さく揺れている。
「今は、あったほうが安心ですね」
大丈夫だろうと外して、取り返しがつかなくなるのは困る。
俺も、彼女も。
エリゼはうつむいた。
だが、手は離さなかった。
「じゃあ」
布を持ち直す。
白い紋章の周りを、そっと拭いた。
「これも、だいじにして」
俺は少し驚いた。
「……ええ。そのつもりです」
エリゼはうなずいた。
それから、紋章をもう一度見た。
「ずっと、つかってると」
「はい」
「つかれる?」
疲れる。
かなり。
昨日は寮の寝台に横になった瞬間、朝になっていた。
ただし、半分くらいは階段のせいだと思う。
「長く使えば。でも、今はまだ大丈夫ですよ」
エリゼが唇を結んだ。
俺の手を支えている指に、少しだけ力がこもる。
「つかれたら、いって」
さっきと、同じ言い方だった。
俺は返事をしかけて、一度止まった。
手首の汚れは、もう落ちていた。
けれど、エリゼはまだ布を持ったまま、こちらを見ていた。
「では、今日は少し休憩してもよろしいですか。掃除も済みましたし」
赤い目が大きくなった。
「やすむ?」
「はい。座って、パンを食べます」
エリゼは皿を見た。
急いで布を鉢の縁へ掛け、両手で皿を押してくれた。
「たべて」
俺の前に、パンが来た。
「エリゼ様の分もありますよ」
エリゼは寝台から毛布を一枚引っ張ってきた。
俺の膝にかぶせてから、向かいの椅子によじ登る。
二つのパンを見比べ、小さいほうを取る。
俺は残ったほうを持った。
口に入れると、端が少しだけぱりりと鳴った。
「うまいですね」
エリゼもうなずいた。
両手で持って、小さくかじる。
暖炉で薪が鳴ったが、今度は肩が跳ねなかった。
俺は椅子の背に体を預けた。
窓から風は入ってこない。
暖炉には火があり、膝には、エリゼがかけてくれた毛布が載っている。
悪くない。
食事と休憩が保証され、雇い主は部下の健康に気を配る。
人類が滅びるという一点を除けば、かなり有望な職場ではなかろうか。
「ユリウス」
「はい」
「また、くろくなったら」
エリゼは鉢の縁の布を見た。
「わたしが、する」
俺は、自分の手の甲を見た。
大神官様はこの手で、いつか勇者を守れとおっしゃった。
その大事な手を、将来のラスボスに拭いていただいている。
報告書に書くと、ややこしいことになりそうだ。
「では、またお願いします」
エリゼがうなずいた。
今日はこれで、いいことにしよう。
***
エリゼは、布を洗っていた。
水の中で、白かったところまで薄い灰色になった。
端をこすり合わせる。
さっきユリウスが手を洗ったのと、同じように。
頬が黒いのを見たときは、指先が冷たくなった。
椅子の脚と同じになると思った。
ユリウスが、触ると崩れるものになってしまうと思った。
でも、違った。
布で拭いたら、いつもの顔に戻った。
自分が触っても。
あんなに近くにいても。
エリゼは、水から手を出した。
指を開いて、閉じる。
ユリウスの手を、下から支えた指だった。
温かかった。
布を動かしやすいように、じっとしていてくれた。
彼の手には、白いしるしがある。
あれがあれば、そばにいられる。
けれど、ずっと使うと疲れるらしい。
知らなかった。
ユリウスはいつも、大丈夫だと言うから。
エリゼは、机の向こうを見た。
彼は毛布を膝に掛けたまま、最後のパンくずを指で集めていた。
「それ、俺がやりましょうか」
視線に気づくと、布へ手を伸ばしてきた。
エリゼは首を振った。
「やすんでて」
ユリウスの手が止まる。
それから、少し笑った。
「では、お言葉に甘えて」
手が、毛布の上へ戻っていく。
エリゼはそれを見届けてから、布を絞った。
暖炉のそばで乾かそう。
遠すぎると乾かない。
近すぎると、焦げてしまう。
彼に教えてもらったことを思い出して、ちょうどいい場所を探す。
次に顔が汚れたら、すぐに使えるように。
ユリウスは、たくさんのことができる。
スープを運んできて、窓を直して、火もつけられる。
ここにはないものを、外から持ってきてくれる。
でも、自分の顔の汚れは見えない。
エリゼは布のしわを伸ばした。
小さな角まで、きちんと広げる。
困ったときは、自分を呼べばいい。
見えないところは、見ていてあげる。
疲れたら、ここで休めばいい。
ほかの誰かに、頼みにいかなくても済むように。
よく乾く場所に布を掛けて、エリゼは彼のところへ戻った。