ラスボス少女の忠実なる下僕   作:よろしくお願いします

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第三話

 世界を滅ぼす予定の少女と、暖炉の前でパンを焼いている。

 攻略サイトには載っていなかった展開だ。

 

「もう、いい?」

「もう少しですね。端が焦げる前に取ります」

 

 火かき棒の先で、平たい薪を少しずらす。

 暖炉の縁に置いた皿の上で、昼食の残りのパンが温まっていた。

 

 灰をかき出し、炉の中を掃除して、門番に下から煙突を確かめてもらった。

 ようやく入った火は、まだ小さい。

 それでも、何も入っていなかった暖炉とは大違いだった。石の床に橙色の光が揺れ、近づけた膝がじんわりと温かい。

 

 エリゼは、俺の隣にしゃがんでいた。

 火がぱちりと鳴るたびに肩を動かすが、離れようとはしない。

 

「あまり近いと、髪が焦げますよ」

 

 銀色の髪が膝から滑り落ちかけていた。

 彼女は慌てて、両手でまとめて胸に抱えた。

 

 櫛も必要だな。

 それから、髪を結ぶ紐。

 手鏡もあれば便利だろう。

 

 買い物の予定だけが増えていく。

 所持金は銅貨六枚のままである。

 世界の終わりを待つにも、まず今月の予算と向き合わなければならないらしい。

 

「そのくらい離れれば大丈夫です」

「ユリウスは」

「俺ですか?」

「ちかい」

 

 俺は自分の膝を見た。

 確かに、少し熱くなっている。

 

「……おっしゃる通りで」

 

 二人で少し後ろへずれた。

 雇い主に労働環境を改善していただいてしまった。

 

 頃合いを見て、布を重ねた手で皿を引き寄せる。

 パンの端は薄く色づき、さっきまで冷えていた中身にも温かさが戻っていた。

 

「半分、いかがですか」

 

 エリゼはパンを見て、俺を見た。

 

「ユリウスの」

「昼に肉を多くいただいたので。全部食べると、夕飯の入りが悪くなります」

 

 実際は、半分になったところで困る量でもない。

 ただ、隣でこんなにじっと見られながら、一人で食べるのも落ち着かなかった。

 

 俺はパンを二つに割った。

 白い断面から、かすかに湯気が上がる。

 

 エリゼが手を伸ばした。

 その指が、途中で止まった。

 

「……ユリウス」

「はい」

「かお」

 

 赤い目が、俺の頬を見ていた。

 

「くろい」

 

 

   ***

 

 

 俺は頬に触れた。

 指先が黒くなった。

 

 ああ。煤か。

 暖炉の奥をのぞいたときにでも、こすったのだろう。

 

「掃除で汚れましたね。あとで洗えば――」

 

 隣で、布の擦れる音がした。

 

 エリゼが両手を胸元に引き寄せていた。

 さっきまで届いていたはずの肩が、遠くなっている。

 

「わたし」

「はい?」

「ちかくに、いたから」

 

 足元に、細い黒い霧が伸びた。

 床を這い、結界の表面で小さく散る。

 

 エリゼの視線が、俺の頬から動かない。

 

 そういう黒ではない。

 ないのだが、確かに、本人には見分けがつかないか。

 

「暖炉の汚れですよ」

 

 指についた煤を見せた。

 

「さっきの灰の袋と同じです。水で落ちます」

 

 エリゼは、部屋の隅に置いた袋を見た。

 口を縛った布の端が、同じ色に汚れている。

 

「いたく、ない?」

「ええ。少しかゆいくらいです」

 

 もう一度こすろうとして、やめた。

 よく見れば、俺の手も十分に黒かった。

 これ以上触ると、顔全体に塗り広げることになる。

 

 将来、闇の陣営に入る予定ではある。

 だが、いま顔色から寄せていく必要はない。

 

 パンを皿に戻し、机へ運ぶ。

 掃除用にもらってきた水差しには、まだ少し水が残っていた。浅い鉢に注ぎ、手を洗ってから、きれいな布の端を濡らす。

 

 頬を拭く。

 布が黒くなった。

 

「ほら。取れました」

 

 振り向くと、エリゼは暖炉の前に立っていた。

 俺の顔をじっと見ている。

 

「まだ、ある」

「この辺ですか」

「はんたい」

 

 反対の頬を拭いた。

 

「どうでしょう」

「もう、すこしうえ」

 

 上。

 

「……そっちじゃ、ない」

 

 難しい。

 鏡の購入順位が一つ上がった。

 

 俺は布を持ったまま、椅子に座った。

 

「エリゼ様。お願いしてもよろしいですか」

 

 銀の頭が、わずかに傾いた。

 

「俺からは見えないので。残っているところだけ」

 

 布を差し出す。

 エリゼは近づいてこなかった。

 

 胸元の手を一度見て、それから、俺の右手を見た。

 白い聖印が、淡く光っていた。

 

「さわっても」

「はい」

「いいの」

 

 俺は自分を覆う結界を確かめた。

 朝よりも、維持はずいぶん楽になっている。

 さっき霧が触れたときにも、破れそうな気配はなかった。

 

「これがありますから。ゆっくりお願いします」

 

 頬のあたりに魔力を回す。

 念のため、少し厚めに。

 

 将来の魔女に顔を預けるのだ。

 点数は稼ぎたいが、安全管理は怠れない。

 

 エリゼは、一歩だけ近づいた。

 また止まる。

 俺が布を差し出したまま待っていると、ようやく、両手で受け取った。

 

 何度か折り直す。

 汚れていないところを探しているらしい。

 小さな指が布の端をつまみ、俺の顔へ近づいてきた。

 

 あと少しのところで、また止まった。

 

「ユリウス」

「はい」

「いたかったら、いって」

 

 俺はうなずいた。

 

「わかりました」

 

 濡れた布が、頬に触れた。

 ひんやりとした。

 

 エリゼは息を止めていた。

 そのまま、ほんの少し布を動かす。

 すぐに離して、俺の顔を見た。

 

「だいじょうぶ?」

「ええ」

 

 もう一度、布が触れる。

 今度は少し長かった。

 

 俺はおとなしくしていた。

 ゲームの彼女が手を伸ばすと、大抵は誰かが死んだ。

 いまのところ、俺の頬から煤だけが消えている。

 

 できれば十五年後も、これくらいの力加減でお願いしたい。

 

「とれた」

 

 エリゼが言った。

 声が、さっきより近かった。

 

「ありがとうございます」

 

 彼女は布を見下ろした。

 端についた黒い汚れを、じっと見つめる。

 

「きれいに、なった」

「助かりました。俺一人だと、いつまでも違う場所を拭いていそうでした」

 

 エリゼの口元が、少し動いた。

 それから、また俺の顔を見た。

 

 俺もつられて、自分の頬に触れる。

 

「まだ残っていますか?」

 

 銀の頭が横に振られた。

 布を持った手は、もう胸元へ引き戻されなかった。

 

 

   ***

 

 

 パンは、また少し冷めていた。

 忙しい食べ物である。

 

 俺が皿を寄せようとすると、エリゼに袖をつままれた。

 

「ここも」

 

 左の手首だった。

 洗ったつもりで、袖口のすぐ下を忘れていたらしい。

 

「まだありましたか」

 

 袖をまくって、手を差し出す。

 エリゼは布を濡らし直した。

 

 空いた手が、俺の手首の下へ伸びてくる。

 触れる寸前で、赤い目がこちらを見た。

 うなずくと、細い指がそっと添えられた。

 

 布で拭くほうに集中すると、支える手が離れる。

 手を支え直すと、今度は布が止まる。

 俺はなるべく腕を動かさないようにした。

 

 ずいぶん丁寧な仕事だった。

 雇用主のほうが勤勉である。

 これでは、そのうち俺に任せる仕事がなくなってしまう。

 

 いや、階段で薪を運ぶ係は、できれば代わってほしい。

 腰を悪くした下僕では、終末まで勤め上げられない。

 

「こっちは?」

 

 左手が終わると、右手を示された。

 ありがたく差し出す。

 

 エリゼは甲のあたりまで拭いて、ふと手を止めた。

 布を少しずらす。

 下から、盾と双翼の紋章がのぞいた。

 

「これ」

「聖印です」

「さっき、ひかってた」

「結界を使うと光るんです。俺や、食器を守るときに」

 

 赤い目が、机の上の皿へ動いた。

 次に、椅子。

 最後に、まだ握っている俺の手へ戻る。

 

「いまも?」

「はい」

 

 指の力が、少し抜けた。

 

「ないと、だめ?」

 

 俺は自分の手を見た。

 彼女の指は細く、爪の先まできれいだった。

 その向こうで、薄い結界が小さく揺れている。

 

「今は、あったほうが安心ですね」

 

 大丈夫だろうと外して、取り返しがつかなくなるのは困る。

 俺も、彼女も。

 

 エリゼはうつむいた。

 だが、手は離さなかった。

 

「じゃあ」

 

 布を持ち直す。

 白い紋章の周りを、そっと拭いた。

 

「これも、だいじにして」

 

 俺は少し驚いた。

 

「……ええ。そのつもりです」

 

 エリゼはうなずいた。

 それから、紋章をもう一度見た。

 

「ずっと、つかってると」

「はい」

「つかれる?」

 

 疲れる。

 かなり。

 昨日は寮の寝台に横になった瞬間、朝になっていた。

 

 ただし、半分くらいは階段のせいだと思う。

 

「長く使えば。でも、今はまだ大丈夫ですよ」

 

 エリゼが唇を結んだ。

 俺の手を支えている指に、少しだけ力がこもる。

 

「つかれたら、いって」

 

 さっきと、同じ言い方だった。

 

 俺は返事をしかけて、一度止まった。

 手首の汚れは、もう落ちていた。

 けれど、エリゼはまだ布を持ったまま、こちらを見ていた。

 

「では、今日は少し休憩してもよろしいですか。掃除も済みましたし」

 

 赤い目が大きくなった。

 

「やすむ?」

「はい。座って、パンを食べます」

 

 エリゼは皿を見た。

 急いで布を鉢の縁へ掛け、両手で皿を押してくれた。

 

「たべて」

 

 俺の前に、パンが来た。

 

「エリゼ様の分もありますよ」

 

 エリゼは寝台から毛布を一枚引っ張ってきた。

 俺の膝にかぶせてから、向かいの椅子によじ登る。

 二つのパンを見比べ、小さいほうを取る。

 

 俺は残ったほうを持った。

 口に入れると、端が少しだけぱりりと鳴った。

 

「うまいですね」

 

 エリゼもうなずいた。

 両手で持って、小さくかじる。

 暖炉で薪が鳴ったが、今度は肩が跳ねなかった。

 

 俺は椅子の背に体を預けた。

 窓から風は入ってこない。

 暖炉には火があり、膝には、エリゼがかけてくれた毛布が載っている。

 

 悪くない。

 食事と休憩が保証され、雇い主は部下の健康に気を配る。

 人類が滅びるという一点を除けば、かなり有望な職場ではなかろうか。

 

「ユリウス」

「はい」

「また、くろくなったら」

 

 エリゼは鉢の縁の布を見た。

 

「わたしが、する」

 

 俺は、自分の手の甲を見た。

 大神官様はこの手で、いつか勇者を守れとおっしゃった。

 その大事な手を、将来のラスボスに拭いていただいている。

 

 報告書に書くと、ややこしいことになりそうだ。

 

「では、またお願いします」

 

 エリゼがうなずいた。

 今日はこれで、いいことにしよう。

 

 

   ***

 

 

 エリゼは、布を洗っていた。

 

 水の中で、白かったところまで薄い灰色になった。

 端をこすり合わせる。

 さっきユリウスが手を洗ったのと、同じように。

 

 頬が黒いのを見たときは、指先が冷たくなった。

 椅子の脚と同じになると思った。

 ユリウスが、触ると崩れるものになってしまうと思った。

 

 でも、違った。

 布で拭いたら、いつもの顔に戻った。

 

 自分が触っても。

 あんなに近くにいても。

 

 エリゼは、水から手を出した。

 指を開いて、閉じる。

 ユリウスの手を、下から支えた指だった。

 

 温かかった。

 布を動かしやすいように、じっとしていてくれた。

 

 彼の手には、白いしるしがある。

 あれがあれば、そばにいられる。

 けれど、ずっと使うと疲れるらしい。

 

 知らなかった。

 ユリウスはいつも、大丈夫だと言うから。

 

 エリゼは、机の向こうを見た。

 彼は毛布を膝に掛けたまま、最後のパンくずを指で集めていた。

 

「それ、俺がやりましょうか」

 

 視線に気づくと、布へ手を伸ばしてきた。

 エリゼは首を振った。

 

「やすんでて」

 

 ユリウスの手が止まる。

 それから、少し笑った。

 

「では、お言葉に甘えて」

 

 手が、毛布の上へ戻っていく。

 エリゼはそれを見届けてから、布を絞った。

 

 暖炉のそばで乾かそう。

 遠すぎると乾かない。

 近すぎると、焦げてしまう。

 

 彼に教えてもらったことを思い出して、ちょうどいい場所を探す。

 次に顔が汚れたら、すぐに使えるように。

 

 ユリウスは、たくさんのことができる。

 スープを運んできて、窓を直して、火もつけられる。

 ここにはないものを、外から持ってきてくれる。

 

 でも、自分の顔の汚れは見えない。

 

 エリゼは布のしわを伸ばした。

 小さな角まで、きちんと広げる。

 

 困ったときは、自分を呼べばいい。

 見えないところは、見ていてあげる。

 疲れたら、ここで休めばいい。

 

 ほかの誰かに、頼みにいかなくても済むように。

 

 よく乾く場所に布を掛けて、エリゼは彼のところへ戻った。

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