ラスボス少女の忠実なる下僕 作:よろしくお願いします
服を一着受け取るだけで、名前を三度書いた。
物資の帳面。受け取りの欄。それから、包みに結ぶ紙。
世界が滅びるとき、このあたりの手続きは省略していただきたい。
避難の途中で署名を求められたら、たぶん間に合わない。
「袖は少し余らせてあるからね。長ければ折っておやり」
裁縫部屋の女の人が、包みの口を結んだ。
昨日、採寸の紐を渡すと、この服なら直せると言ってもらえた。
今朝には、ちゃんと着られる形になっている。
「ありがとうございます」
「きついところがあったら、無理に着せずに持ってきな」
俺はうなずき、包みを抱えた。
これで、将来の魔女にも袖の足りる服が手に入る。
厨房へ鏡を返すついでに採寸の紐を届けた、昨日の自分を褒めてやりたい。
ただ、今朝の自分には言っておきたいことがある。
鍋を持つ前に、受け取るべきだった。
***
朝食のあと、約束どおり髪を結んだ。
櫛は、エリゼが白い布をほどいて渡してくれた。
青い紐も、皺を伸ばして用意してある。
昨日よりは、ずいぶん早く終わった。
結び目は、まだ少し傾いた。
「そこは、明日また頑張ります」
そう言うと、エリゼは見えない結び目へ手を伸ばしかけ、やめた。
「ほどけて、ない?」
「はい」
「じゃあ、いい」
寛大な雇い主で助かる。
俺は櫛を置き、椅子に掛けておいた包みを取った。
「今日は、服もありますよ」
机の上で広げる。
灰色がかった、厚手の服だった。飾りはないが、袖も裾もほつれていない。首元には小さな木のボタンが二つついている。
エリゼは、指先で袖をなぞった。
縫い直したところで、手が止まる。
「これ、きていいの」
「そのために直していただきました。大きさを確かめましょう」
俺は空になった鍋に食器を重ね、廊下へ出た。
扉を閉め、壁の継ぎ目を数えながら待つ。
少しして、内側から声がした。
「ユリウス」
「はい」
「できた」
扉が開いた。
エリゼは両手を少し広げ、俺を見上げていた。
手首が隠れている。
足首も、ちゃんと隠れている。
本人もそれが気になるらしく、片足を出しては裾を見ていた。
「歩きにくくはありませんか」
エリゼは二歩進み、戻った。
首を横に振る。
「そでは、ながい」
「少し折りましょう。これから背も伸びますし」
袖口を一度だけ折ると、細い指が全部出た。
もう片方もそろえる。
エリゼは手を開き、閉じて、机の上の包みを畳み始めた。
袖が邪魔をしない。
そのことを確かめるように、角を合わせ直している。
よし。
これなら、しばらく着られそうだ。
俺は昨日までの服を受け取り、空いた袋に入れた。
こちらは洗って、繕えるところを見てもらう。着替えは二着あったほうがいい。
「ユリウス」
エリゼが、包みに結んであった紙を持っていた。
細い紐が、指の間から垂れている。
「これ、なんて」
「エリゼ、と書いてあります」
紙の真ん中に、俺が書いた名前。
ほかの包みと混ざらないように、裁縫部屋でつけてきたものだ。
「わたし?」
「はい。エリゼ様の服だとわかるように」
彼女は紙を裏返した。
裏には何もない。
もう一度戻して、字のあるほうを見つめる。
「これが」
小さく言って、指先を最初の字に置いた。
「文字をご覧になるのは、初めてですか」
エリゼは首を振った。
「とびらの、そとにある」
廊下を指さした。
扉の脇には、古い札が掛かっている。
許可なく立ち入るべからず。
……初めての教材としては、あまり選びたくない文言だ。
「でも、よめない」
俺は紙へ目を戻した。
考えてみれば、この部屋には本も、書く道具もない。
教会の子供たちが文字を習う時間にも、エリゼはここにいる。
「これは、お名前です。ここから、こちらへ読みます」
紙の上を指でたどる。
エリゼの指が、少し遅れてついてきた。
「エリゼ」
「そうです」
彼女は、もう一度たどった。
今度は声に出さず、唇だけが動く。
俺は袋の口を結びかけ、手を止めた。
「よろしければ、書いてみますか」
赤い目が上がった。
「わたしも?」
「道具を借りてきます。俺たちが文字を習うときに使っているものが、ありますから」
エリゼは紙を見た。
端をつまむ指に、少し力が入る。
「ユリウスが、おしえる?」
「俺でよろしければ」
小さく、けれどすぐに、うなずいた。
また一つ、担当業務が増えた。
将来の城には、使用人の名簿くらいあるだろう。
最初に俺の名前を覚えていただくのも、悪くない。
ただし、解雇通知の書き方は後回しにしたい。
***
昼食と一緒に持ち込んだ石板は、角が一つ欠けていた。
寮の勉強部屋で、予備になっていたものだ。
欠けたところに布を巻けば使える。小さな白墨と、字を拭くための古い布も借りられた。
ここまで、出費はない。
俺の銅貨四枚は、今日も無事である。
食事を片づけると、エリゼが紙を持ってきた。
朝の、名前を書いた紙だ。
折れないよう、両手で平らに持っている。
「こちらへどうぞ」
俺は椅子を引いた。
自分の椅子も、いつもの向かい側から隣へ移す。
反対から教えようとすると、俺のほうが字を間違えそうだった。
エリゼは、近づいた二つの椅子を見ていた。
俺が腰を下ろすと、少し遅れて座る。
「これは石板です。白墨で書いて、布で拭くと消えます」
端に短い線を引き、拭いてみせた。
白い跡が、薄くなって消える。
エリゼが身を乗り出した。
「なくなった」
「何度でも使えます。紙だと、もったいないですから」
紙も、墨も、ただではない。
教会で字を覚える際には、まず石板の上で失敗するよう教わる。
祈りの文句より先に身につく、極めて実用的な教えだった。
「では、最初はお名前から」
白墨を持つと、袖をつままれた。
「ユリウスの」
「はい?」
「ユリウスのなまえ、かいて」
俺は、彼女の手元の紙を見た。
なるほど。自分の分は、すでにあるからか。
「わかりました」
石板の上のほうに、少し間を空けて書いた。
普段よりゆっくり、一字ずつ。
ユリウス。
エリゼの顔が近づく。
目で追うだけでは足りないようで、指も伸びてきた。
「触ると、少しかすれますよ」
指が止まった。
そのまま字のすぐ上を通り、最後まで行って戻る。
「これ、ぜんぶ?」
「はい。全部で、俺の名前です」
彼女は端から、もう一度見た。
朝、自分の名前を読んだときより、ずいぶん念入りだった。
「こっちを、かきたい」
白い字の下を、指で示す。
「エリゼ様のお名前は、あとでよろしいですか」
「うん」
迷いのない返事だった。
予想より早く、名簿への登録準備が始まった。
俺としては歓迎するところである。
「では、白墨を持ってみてください」
***
名前を教えるのは、思ったより難しかった。
見本を書けば、そのまま写せるものだと思っていた。
だが、初めて白墨を持つ人には、どのくらい押せばいいかもわからない。
エリゼは短い白墨を握り、石板へ置いた。
動かす。
ほとんど跡がつかなかった。
「もう少し、強くて大丈夫ですよ」
今度は、白い線が出た。
ただ、見本とは違うほうへ曲がっていく。
途中で止まり、赤い目が俺を見た。
「ちがう」
「最初は、線だけでも。こうして」
石板の下のほうへ、短い線を三本引く。
その隣でやってもらうと、一つ目は細く、二つ目は太く、三つ目は少し斜めになった。
「ええ。そのくらいで書けます」
エリゼは三本を見比べた。
俺の指にある白い粉を見て、自分の手も見る。
「ユリウスも、これでおぼえた?」
「はい。何度も書きました」
この世界の文字を覚えたのは、前世を思い出すより前だ。
字が読めても、孤児院の献立に肉が増えるわけではなかった。
ただ、配膳当番の表を見て、先に厨房へ行くことはできた。
当時から、役に立つ勉強は好きだったらしい。
「すぐ、できた?」
「いいえ。自分の名前も、初めは端に収まりませんでした」
最初の字を、大きく書きすぎたのだ。
後ろへいくほど小さくなって、最後は曲がった。
エリゼは石板の右端を見た。
それから見本の下へ指を置き、端までどのくらい空いているか確かめた。
俺は見本を示した。
「ここから始めましょう。次は、こちらへ」
彼女の白墨が、ゆっくり動いた。
線が足りないところで止まり、見本を見上げる。
小さく付け足す。
今度は、最初の一字になった。
「書けましたね」
エリゼは返事をしなかった。
自分の字と、俺の字を何度か見比べる。
それから白墨を持ち直し、次へ進んだ。
途中で、何度か手が止まった。
そのたびに、俺も待った。
教えている側のほうが先に手を出すと、何をどこまで書いたかわからなくなるらしい。
一度、続きを書いてしまってから、それに気づいた。
下僕に必要な資格が、思わぬところまで広がっている。
人類滅亡後も勤務するつもりなのだ。研修期間が十五年あるのは、むしろありがたいのかもしれない。
「……できた」
最後の字を書き終えて、エリゼが白墨を離した。
見本の下に、不揃いな名前があった。
字の大きさも、傾きも違う。
最後の一字だけ、少し下がっている。
「これ、ユリウス?」
俺は石板をのぞき込んだ。
「はい。読めますよ」
エリゼの肩が、ふっと下がった。
白墨を置き、粉のついた指を膝の上へ引っ込める。
目だけは、石板を向いたままだった。
俺は手元の布を取った。
「では、もう一度。同じ字を繰り返すと、だんだん――」
石板が、すっと遠ざかった。
エリゼが両端を持っていた。
胸の前まで引き寄せ、俺の手の布を見ている。
「けすの?」
俺は布を置いた。
「練習なら、そのつもりでしたが。残しておきますか」
銀の頭が、縦に動いた。
まあ、初めて書けたものだ。
俺も初めて結界が出たときは、消すのが惜しくて粘った。
その結果、夕飯の前に寝込んだので、何事もほどほどがいい。
「裏も使えますから。今日は、そちらで続けましょう」
エリゼは石板の裏を確かめた。
確かに何もないとわかると、ようやく机へ戻してくれた。
ただし、表を上にして。
もう少し眺める時間が必要らしい。
***
暖炉に薪を一本足し、俺は手を払った。
椅子へ戻ると、エリゼはまだ石板を見ていた。
指先についた白い粉は、もう拭いてある。
「今日は、このくらいにしましょうか」
首が横に振られた。
熱心だ。
少なくとも、俺が祝詞を覚えていたときよりは。
「ここも、つかっていい?」
彼女が指さしたのは、俺の書いた見本の右側だった。
名前の終わりから石板の縁まで、少し空いている。
「もちろん。ただ、全部を書くには、少し狭いですよ」
エリゼは朝の紙を、そこへ持ってきた。
石板と並べ、大きさを見比べる。
「こっちなら」
紙に書かれているのは、彼女の名前だった。
「ああ。それなら、少し小さく書けば入りそうですね」
彼女は白墨を取り直した。
だが、石板へ置く直前で止まる。
「ユリウス」
「はい」
「ここ、いて」
空いているほうの手で、隣の椅子を押さえた。
「ええ。見ていますよ」
俺は腰を下ろした。
エリゼはうなずき、紙をじっと見つめてから、最初の線を書き始める。
なるほど。書き順がわからなくなったときのために、先生が必要なのか。
先ほど、俺が途中で薪を取りに立ったので、念を押されたらしい。
窓の隙間なら、一度ふさげば仕事は終わる。
だが、文字は一日では覚えきれない。
明日も明後日も、俺に用事がある。
これは、なかなか有望な仕事を見つけた。
俺は膝に手を置き、小さな白墨が動くのを待った。
***
エリゼは、石板の上を見ていた。
ユリウスの書いた、ユリウス。
自分で書いた、ユリウス。
そのどちらも、拭けば消える。
新しい字を書けるように、そうするのだと教わった。
でも、今は、消さなくてよかった。
残しておきたいと言ったら、ユリウスは布を置いてくれた。
自分の書いた字は、ところどころ太かった。
見本を見ても、手が同じように動かなかった。
何度も止まって、そのたびに隣を見た。
ユリウスは待っていた。
最後まで書くと、読めると言った。
だから、もう一つ。
エリゼは紙を見た。
朝には、何と書いてあるのかわからなかったもの。
自分の服に、ついてきた名前。
石板の空いているところに、一字ずつ移していく。
前の字より、小さく。
隣の白い字に、ぶつからないように。
最初は離れすぎたので、そこだけ指でこすった。
薄く残った跡を、ユリウスが布の角できれいにしてくれた。
「こちらからですか?」
エリゼはうなずいた。
今度は、もう少し近いところから書いた。
白墨が止まる。
紙を見る。
少しずつ、先へ進む。
最後の字まで書けたとき、石板の縁には、まだ指一本ほどの隙間があった。
「ちゃんと収まりましたね」
隣で、ユリウスが言った。
エリゼは白墨を置いた。
同じところに、二人分の名前がある。
指で触ると、かすれてしまう。
だから、端だけ持って、少し傾けた。
さっき、ユリウスは言った。
空いているところは、使っていいと。
エリゼは机に石板を戻した。
隣の椅子には、まだ彼が座っている。
「あしたも、これで?」
「はい。続きをやりましょう」
エリゼはうなずいた。
練習には、裏を使えばいい。
こちらにはもう、ほかの名前を入れたくなかった。