ラスボス少女の忠実なる下僕   作:よろしくお願いします

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第五話

 服を一着受け取るだけで、名前を三度書いた。

 

 物資の帳面。受け取りの欄。それから、包みに結ぶ紙。

 世界が滅びるとき、このあたりの手続きは省略していただきたい。

 避難の途中で署名を求められたら、たぶん間に合わない。

 

「袖は少し余らせてあるからね。長ければ折っておやり」

 

 裁縫部屋の女の人が、包みの口を結んだ。

 昨日、採寸の紐を渡すと、この服なら直せると言ってもらえた。

 今朝には、ちゃんと着られる形になっている。

 

「ありがとうございます」

「きついところがあったら、無理に着せずに持ってきな」

 

 俺はうなずき、包みを抱えた。

 これで、将来の魔女にも袖の足りる服が手に入る。

 

 厨房へ鏡を返すついでに採寸の紐を届けた、昨日の自分を褒めてやりたい。

 ただ、今朝の自分には言っておきたいことがある。

 

 鍋を持つ前に、受け取るべきだった。

 

 

   ***

 

 

 朝食のあと、約束どおり髪を結んだ。

 櫛は、エリゼが白い布をほどいて渡してくれた。

 青い紐も、皺を伸ばして用意してある。

 

 昨日よりは、ずいぶん早く終わった。

 結び目は、まだ少し傾いた。

 

「そこは、明日また頑張ります」

 

 そう言うと、エリゼは見えない結び目へ手を伸ばしかけ、やめた。

 

「ほどけて、ない?」

「はい」

「じゃあ、いい」

 

 寛大な雇い主で助かる。

 俺は櫛を置き、椅子に掛けておいた包みを取った。

 

「今日は、服もありますよ」

 

 机の上で広げる。

 灰色がかった、厚手の服だった。飾りはないが、袖も裾もほつれていない。首元には小さな木のボタンが二つついている。

 

 エリゼは、指先で袖をなぞった。

 縫い直したところで、手が止まる。

 

「これ、きていいの」

「そのために直していただきました。大きさを確かめましょう」

 

 俺は空になった鍋に食器を重ね、廊下へ出た。

 扉を閉め、壁の継ぎ目を数えながら待つ。

 

 少しして、内側から声がした。

 

「ユリウス」

「はい」

「できた」

 

 扉が開いた。

 エリゼは両手を少し広げ、俺を見上げていた。

 

 手首が隠れている。

 足首も、ちゃんと隠れている。

 本人もそれが気になるらしく、片足を出しては裾を見ていた。

 

「歩きにくくはありませんか」

 

 エリゼは二歩進み、戻った。

 首を横に振る。

 

「そでは、ながい」

「少し折りましょう。これから背も伸びますし」

 

 袖口を一度だけ折ると、細い指が全部出た。

 もう片方もそろえる。

 エリゼは手を開き、閉じて、机の上の包みを畳み始めた。

 

 袖が邪魔をしない。

 そのことを確かめるように、角を合わせ直している。

 

 よし。

 これなら、しばらく着られそうだ。

 

 俺は昨日までの服を受け取り、空いた袋に入れた。

 こちらは洗って、繕えるところを見てもらう。着替えは二着あったほうがいい。

 

「ユリウス」

 

 エリゼが、包みに結んであった紙を持っていた。

 細い紐が、指の間から垂れている。

 

「これ、なんて」

「エリゼ、と書いてあります」

 

 紙の真ん中に、俺が書いた名前。

 ほかの包みと混ざらないように、裁縫部屋でつけてきたものだ。

 

「わたし?」

「はい。エリゼ様の服だとわかるように」

 

 彼女は紙を裏返した。

 裏には何もない。

 もう一度戻して、字のあるほうを見つめる。

 

「これが」

 

 小さく言って、指先を最初の字に置いた。

 

「文字をご覧になるのは、初めてですか」

 

 エリゼは首を振った。

 

「とびらの、そとにある」

 

 廊下を指さした。

 扉の脇には、古い札が掛かっている。

 

 許可なく立ち入るべからず。

 

 ……初めての教材としては、あまり選びたくない文言だ。

 

「でも、よめない」

 

 俺は紙へ目を戻した。

 考えてみれば、この部屋には本も、書く道具もない。

 教会の子供たちが文字を習う時間にも、エリゼはここにいる。

 

「これは、お名前です。ここから、こちらへ読みます」

 

 紙の上を指でたどる。

 エリゼの指が、少し遅れてついてきた。

 

「エリゼ」

「そうです」

 

 彼女は、もう一度たどった。

 今度は声に出さず、唇だけが動く。

 

 俺は袋の口を結びかけ、手を止めた。

 

「よろしければ、書いてみますか」

 

 赤い目が上がった。

 

「わたしも?」

「道具を借りてきます。俺たちが文字を習うときに使っているものが、ありますから」

 

 エリゼは紙を見た。

 端をつまむ指に、少し力が入る。

 

「ユリウスが、おしえる?」

「俺でよろしければ」

 

 小さく、けれどすぐに、うなずいた。

 

 また一つ、担当業務が増えた。

 将来の城には、使用人の名簿くらいあるだろう。

 最初に俺の名前を覚えていただくのも、悪くない。

 

 ただし、解雇通知の書き方は後回しにしたい。

 

 

   ***

 

 

 昼食と一緒に持ち込んだ石板は、角が一つ欠けていた。

 

 寮の勉強部屋で、予備になっていたものだ。

 欠けたところに布を巻けば使える。小さな白墨と、字を拭くための古い布も借りられた。

 

 ここまで、出費はない。

 俺の銅貨四枚は、今日も無事である。

 

 食事を片づけると、エリゼが紙を持ってきた。

 朝の、名前を書いた紙だ。

 折れないよう、両手で平らに持っている。

 

「こちらへどうぞ」

 

 俺は椅子を引いた。

 自分の椅子も、いつもの向かい側から隣へ移す。

 反対から教えようとすると、俺のほうが字を間違えそうだった。

 

 エリゼは、近づいた二つの椅子を見ていた。

 俺が腰を下ろすと、少し遅れて座る。

 

「これは石板です。白墨で書いて、布で拭くと消えます」

 

 端に短い線を引き、拭いてみせた。

 白い跡が、薄くなって消える。

 

 エリゼが身を乗り出した。

 

「なくなった」

「何度でも使えます。紙だと、もったいないですから」

 

 紙も、墨も、ただではない。

 教会で字を覚える際には、まず石板の上で失敗するよう教わる。

 祈りの文句より先に身につく、極めて実用的な教えだった。

 

「では、最初はお名前から」

 

 白墨を持つと、袖をつままれた。

 

「ユリウスの」

「はい?」

「ユリウスのなまえ、かいて」

 

 俺は、彼女の手元の紙を見た。

 なるほど。自分の分は、すでにあるからか。

 

「わかりました」

 

 石板の上のほうに、少し間を空けて書いた。

 普段よりゆっくり、一字ずつ。

 

 ユリウス。

 

 エリゼの顔が近づく。

 目で追うだけでは足りないようで、指も伸びてきた。

 

「触ると、少しかすれますよ」

 

 指が止まった。

 そのまま字のすぐ上を通り、最後まで行って戻る。

 

「これ、ぜんぶ?」

「はい。全部で、俺の名前です」

 

 彼女は端から、もう一度見た。

 朝、自分の名前を読んだときより、ずいぶん念入りだった。

 

「こっちを、かきたい」

 

 白い字の下を、指で示す。

 

「エリゼ様のお名前は、あとでよろしいですか」

「うん」

 

 迷いのない返事だった。

 

 予想より早く、名簿への登録準備が始まった。

 俺としては歓迎するところである。

 

「では、白墨を持ってみてください」

 

 

   ***

 

 

 名前を教えるのは、思ったより難しかった。

 

 見本を書けば、そのまま写せるものだと思っていた。

 だが、初めて白墨を持つ人には、どのくらい押せばいいかもわからない。

 

 エリゼは短い白墨を握り、石板へ置いた。

 動かす。

 ほとんど跡がつかなかった。

 

「もう少し、強くて大丈夫ですよ」

 

 今度は、白い線が出た。

 ただ、見本とは違うほうへ曲がっていく。

 途中で止まり、赤い目が俺を見た。

 

「ちがう」

「最初は、線だけでも。こうして」

 

 石板の下のほうへ、短い線を三本引く。

 その隣でやってもらうと、一つ目は細く、二つ目は太く、三つ目は少し斜めになった。

 

「ええ。そのくらいで書けます」

 

 エリゼは三本を見比べた。

 俺の指にある白い粉を見て、自分の手も見る。

 

「ユリウスも、これでおぼえた?」

「はい。何度も書きました」

 

 この世界の文字を覚えたのは、前世を思い出すより前だ。

 字が読めても、孤児院の献立に肉が増えるわけではなかった。

 ただ、配膳当番の表を見て、先に厨房へ行くことはできた。

 

 当時から、役に立つ勉強は好きだったらしい。

 

「すぐ、できた?」

「いいえ。自分の名前も、初めは端に収まりませんでした」

 

 最初の字を、大きく書きすぎたのだ。

 後ろへいくほど小さくなって、最後は曲がった。

 

 エリゼは石板の右端を見た。

 それから見本の下へ指を置き、端までどのくらい空いているか確かめた。

 

 俺は見本を示した。

 

「ここから始めましょう。次は、こちらへ」

 

 彼女の白墨が、ゆっくり動いた。

 線が足りないところで止まり、見本を見上げる。

 小さく付け足す。

 

 今度は、最初の一字になった。

 

「書けましたね」

 

 エリゼは返事をしなかった。

 自分の字と、俺の字を何度か見比べる。

 それから白墨を持ち直し、次へ進んだ。

 

 途中で、何度か手が止まった。

 そのたびに、俺も待った。

 

 教えている側のほうが先に手を出すと、何をどこまで書いたかわからなくなるらしい。

 一度、続きを書いてしまってから、それに気づいた。

 

 下僕に必要な資格が、思わぬところまで広がっている。

 人類滅亡後も勤務するつもりなのだ。研修期間が十五年あるのは、むしろありがたいのかもしれない。

 

「……できた」

 

 最後の字を書き終えて、エリゼが白墨を離した。

 

 見本の下に、不揃いな名前があった。

 字の大きさも、傾きも違う。

 最後の一字だけ、少し下がっている。

 

「これ、ユリウス?」

 

 俺は石板をのぞき込んだ。

 

「はい。読めますよ」

 

 エリゼの肩が、ふっと下がった。

 白墨を置き、粉のついた指を膝の上へ引っ込める。

 目だけは、石板を向いたままだった。

 

 俺は手元の布を取った。

 

「では、もう一度。同じ字を繰り返すと、だんだん――」

 

 石板が、すっと遠ざかった。

 

 エリゼが両端を持っていた。

 胸の前まで引き寄せ、俺の手の布を見ている。

 

「けすの?」

 

 俺は布を置いた。

 

「練習なら、そのつもりでしたが。残しておきますか」

 

 銀の頭が、縦に動いた。

 

 まあ、初めて書けたものだ。

 俺も初めて結界が出たときは、消すのが惜しくて粘った。

 その結果、夕飯の前に寝込んだので、何事もほどほどがいい。

 

「裏も使えますから。今日は、そちらで続けましょう」

 

 エリゼは石板の裏を確かめた。

 確かに何もないとわかると、ようやく机へ戻してくれた。

 

 ただし、表を上にして。

 

 もう少し眺める時間が必要らしい。

 

 

   ***

 

 

 暖炉に薪を一本足し、俺は手を払った。

 椅子へ戻ると、エリゼはまだ石板を見ていた。

 指先についた白い粉は、もう拭いてある。

 

「今日は、このくらいにしましょうか」

 

 首が横に振られた。

 熱心だ。

 少なくとも、俺が祝詞を覚えていたときよりは。

 

「ここも、つかっていい?」

 

 彼女が指さしたのは、俺の書いた見本の右側だった。

 名前の終わりから石板の縁まで、少し空いている。

 

「もちろん。ただ、全部を書くには、少し狭いですよ」

 

 エリゼは朝の紙を、そこへ持ってきた。

 石板と並べ、大きさを見比べる。

 

「こっちなら」

 

 紙に書かれているのは、彼女の名前だった。

 

「ああ。それなら、少し小さく書けば入りそうですね」

 

 彼女は白墨を取り直した。

 だが、石板へ置く直前で止まる。

 

「ユリウス」

「はい」

「ここ、いて」

 

 空いているほうの手で、隣の椅子を押さえた。

 

「ええ。見ていますよ」

 

 俺は腰を下ろした。

 エリゼはうなずき、紙をじっと見つめてから、最初の線を書き始める。

 

 なるほど。書き順がわからなくなったときのために、先生が必要なのか。

 先ほど、俺が途中で薪を取りに立ったので、念を押されたらしい。

 

 窓の隙間なら、一度ふさげば仕事は終わる。

 だが、文字は一日では覚えきれない。

 明日も明後日も、俺に用事がある。

 

 これは、なかなか有望な仕事を見つけた。

 

 俺は膝に手を置き、小さな白墨が動くのを待った。

 

 

   ***

 

 

 エリゼは、石板の上を見ていた。

 

 ユリウスの書いた、ユリウス。

 自分で書いた、ユリウス。

 

 そのどちらも、拭けば消える。

 新しい字を書けるように、そうするのだと教わった。

 

 でも、今は、消さなくてよかった。

 残しておきたいと言ったら、ユリウスは布を置いてくれた。

 

 自分の書いた字は、ところどころ太かった。

 見本を見ても、手が同じように動かなかった。

 何度も止まって、そのたびに隣を見た。

 

 ユリウスは待っていた。

 最後まで書くと、読めると言った。

 

 だから、もう一つ。

 

 エリゼは紙を見た。

 朝には、何と書いてあるのかわからなかったもの。

 自分の服に、ついてきた名前。

 

 石板の空いているところに、一字ずつ移していく。

 前の字より、小さく。

 隣の白い字に、ぶつからないように。

 

 最初は離れすぎたので、そこだけ指でこすった。

 薄く残った跡を、ユリウスが布の角できれいにしてくれた。

 

「こちらからですか?」

 

 エリゼはうなずいた。

 今度は、もう少し近いところから書いた。

 

 白墨が止まる。

 紙を見る。

 少しずつ、先へ進む。

 

 最後の字まで書けたとき、石板の縁には、まだ指一本ほどの隙間があった。

 

「ちゃんと収まりましたね」

 

 隣で、ユリウスが言った。

 エリゼは白墨を置いた。

 

 同じところに、二人分の名前がある。

 

 指で触ると、かすれてしまう。

 だから、端だけ持って、少し傾けた。

 

 さっき、ユリウスは言った。

 空いているところは、使っていいと。

 

 エリゼは机に石板を戻した。

 隣の椅子には、まだ彼が座っている。

 

「あしたも、これで?」

「はい。続きをやりましょう」

 

 エリゼはうなずいた。

 練習には、裏を使えばいい。

 

 こちらにはもう、ほかの名前を入れたくなかった。

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