誰かをブチ殺してやりたいと本気で思ったことはあるだろか?
俺は、ある。
死んでしまえ——なんて、ただ生易しい
心の底から「自らの手で
それだけの屈辱を味わった。
それは、数ヶ月前のこと——
「一個前の財布君、マジでバカでさぁ。私がちょっと泣いたふりしたら、借金の保証人になってくれたんだよね」
「まじで? 都合のいい男すぎんだろ」
「でしょ? んで、私その日の内に連絡先ブロックして逃げてやったんだ〜」
そう言って上機嫌に大口を開けて笑う女は、忽然と俺の前から姿を消した元カノと瓜二つだった。
韓国風メイクのきつね顔。
その豊満な胸にブランドロゴが押し上げられた高級Tシャツは、記憶違いでなければ俺が元カノに強請られて買ってあげたものに似ていた。
「顔が微妙だったけど財布としては優秀だったな〜。そのうち、また泣きついてみようかしら。アイツならバカだからもう一回くらい騙せそう。今の財布君も、もうすぐ貯金なくなるっぽいし」
声も、似ている。
うん。
似ているというか、どう見ても本人であった。
でも、信じられるか?
学生時代から数年付き合い続けていた元カノの台詞だぞ?
「うっわ、お前酷すぎんだろ!」
通勤時間の電車の中。
周囲を気にせずギャハハと大笑いする男。
そして、それを聞いて満足げにする元カノ。
「おかげで私はアンタと好きなだけ海外旅行ができるわけだし。感謝しなきゃね〜」
「財布君あざーすっ!」
冗談めかしてお礼を言う男は、まさか背後に当の本人が居るとは思いもよらなかったであろう。
そして俺は、悔しさに歯が砕けるほど食いしばったものだ。
すべてを投げ打ってでも守ろうとした女は、俺を「財布君」と呼んでバカにしていた。
そして、別の男と海外旅行に行くらしい。
俺に借金を押し付けて作った、その金で。
その事実を知ったあの時の俺は、ただ茫然自失としてしまった。
そして現在——俺は病室の薄暗い天井を見つめながら、ただ薄れゆく意識の中であの二人の嘲笑を思い出している。
俺は元カノに押し付けられた借金の返済に追われ、過労とストレスで倒れた。
挙句に入院先で質の悪いウイルスをもらい、弱った身体を
点滴の落ちる音だけが、俺の人生のカウントダウンのように響いていた。
『人に優しくすれば、必ずいつか自分に返ってくる』
幼い頃に両親から教えられたその言葉を俺は愚直に信じて生きてきた。
困っている人がいれば手を差し伸べ、頼まれごとは断らず、自分の損など顧みずに尽くした。
その結果が、これだ。
騙され、
裏切られ、
膨大な借金を押し付けられ、
孤独に死んでいく。
なるほど、俺がやってきた善行なんて、全部無駄だったわけだ。
人の善意というのは報われない。
理不尽に踏み躙られ、都合の良い奴だと利用される。
冷たくなっていく手で、俺は強くシーツを握りしめた。
他人のために生きるなんて馬鹿げている。
優しさなど、悪意の前ではただの弱さでしかない。
俺をバカにする元カノたちの会話を思い出す度に思う。
あの瞬間、あのクソったれな女と、ついでにあのクソ男をありったけの力でぶん殴ってやればよかった。
倫理観なんてゴミみたいなものを大切にして、あの時怒りを飲み込んでしまったことを俺は死ぬほど後悔している。
一生元の顔を思い出せないくらいに、あのイラつく顔をタコ殴りにしてやればよかったんだ。
でも、俺にはもうそんなチャンスはやってこない。
それでも——もし、もしも次があるのなら。
次は絶対に、自分のためだけに生きてやる。
誰にも媚びず、誰にも依存せず、自分勝手な人間として——たとえ悪党と呼ばれようとも!
そんな誓いを立てると同時、心電計の警告音が甲高く鳴り響き、俺の意識は永遠の闇に沈んだ。
◆ ◆ ◆
ひとりの男が薄暗い病室で死んだのと時を同じくして、ある飛行機の中で起こった事件である。
「ちょ、ちょっと!? なんなの!?」
黒雲に入った飛行機が激しく揺れる。
乗客が大きな揺れに驚く中、一際大きな声で騒ぐ女がいた。
「ちょっと、どうなってんのよ! せっかくファーストクラスで席を取ったのに、こんなに揺れるんじゃ快適な空の旅なんて楽しめないじゃない!」
女がヒステリックに喚くと、同乗していた男が立ちあがって言う。
「CA呼んで文句言ってやろうぜ!」
「そうね! こっちは高い金払ってやってんだから!」
通常、飛行機が雲に入る際には乗務員の案内でシートベルトの着用を要求するアナウンスが流れる。
だが、この馬鹿なカップルはアナウンスを聞いていなかった挙句に、あろうことか激しく揺れる飛行機の中で立ち上がった。
そして、当たり前のようにすっ転ぶ。
——ゴンッ!
バカ二人が頭を打つ鈍い音だ。
数日後、飛行機内でとある二人の日本人客が死去したというニュースが流れることになった。
あるいはそれは、とある男の死後の念が招いた事故だったのかもしれない。
◆
熱い。
苦しい。
「っ……」
苦悶のあまり、声にならない音が漏れ出た。
「ベルベットお嬢様? どうなさいました、そのような汗をかかれて……!」
その声で深い闇に沈んでいた意識が呼び起こされ、ハッと息を呑んで跳ね起きる。
そこは見たこともない豪華な天蓋付きのベッドの上だった。
心配そうに
そして、目の前にある自分の手は——白く透き通るような、幼い子供の手だった。
「……え?」
緩慢な動きで額に浮かぶ大粒の汗をぬぐい、それから正面に立てかけられている姿見を何気なく目にする。
そこに映る自分の姿に絶句した。
そこに映っていたのは、燃えるような真紅の髪と宝石のように冷たい金色の瞳を持った幼女。
そうだ、今世のわたくしの——いや、
ヴァルトハイム王国の大貴族、カースナー公爵家の長女。
そして、かつては日本という国で愚かしく死んだ男であった。
俺は、なんの前触れもなく突然脳内に流れ込んできた前世の記憶の波を、自分でも驚くほどあっさりと瞬時に受け入れることができた。
男から女への転生。
だが、そんなことは些細な話だ。
それ以上に俺の胸を支配したのは、前世の最期に抱いた強烈な執念だった。
「……ふっ、あはははっ!」
思わず俺はその場で笑い声を上げた。
すかさずメイドが「お嬢様!?」と心配する声を掛けて来たが、気にしない。
おお、なんと……なんと、素晴らしきことか!
公爵令嬢という圧倒的な権力と有り余る富。
生まれた瞬間から約束された勝ち組人生じゃないか……。
善人ぶってただ他人の顔色を
「今度こそ、俺は、俺のためだけに生きる! 誰にも縛られず、気に食わない輩は好きなだけ弄ぶ! 今世は最高に利己的な人生を謳歌してやる……! ふふふ、ふぁぁっはっはっは!!」
七歳の幼女が放ったにしてはあまりに凄惨な高笑いに、メイドはガタガタと震えていた。
「お、お嬢様が、おかしくなってしまわれたわ……。は、早くお医者様を呼ばないと!」
好きに言え。
知ったことではない。
そして、俺は心に誓った。
今世は、最凶最悪の悪党になってやると。
◆ ◆ ◆
ここは、とあるライトノベルの世界。
そして、この国の公爵令嬢ベルベット・カースナーは、本来ならば十八歳の春、断頭台に立つ運命にある。
嫉妬に狂い、ヒロインを虐げ、王太子の婚約者という地位を振りかざす。
そして、さまざまな罪を犯した末に断罪される。
そんな、最凶最悪の悪役令嬢。
それが彼女に与えられた役割だ。
ただし、今の彼女の中には、本来そこにいるはずのない魂が宿っていた。
楽しめそうと思ったら、お気に入りよろしくお願いします