雲に覆われた鈍色の空。雨が降っているわけでもなく、ただただ心に重く圧し掛かるような曇天に見下ろされている。
正直に言えば、そんな空を見ているだけでも憂鬱にさせられるのだが、それでも俺は平常運転を装っている。
「ベルベット様、冷たくないですか?」
「冷たくないわけねぇだろ。こんな山奥の川水だぞ」
「ふふっ、そうですね」
一体何が面白いのか、シルヴィアが楽しそうに笑う。
「そ~れ!」
シルヴィアは可愛らしい掛け声とは裏腹に、両手でザバァーン! と物凄い勢いの水を俺にぶっかけた。
「うおぉぉぉ!?」
頭から被って見事にずぶ濡れだ。
「ズルいぞ! お前は俺より体がデカいんだから、もうちょっと手加減をだなぁ!?」
「私は体が大きい分、水が掛かる面積が大きいです! だからこのくらいでトントンなんですよ!」
「どんな理論だよ」
「私には、ハンデがあって然るべきです!」
「……そうか。…………そうかぁ?」
水着なんてないから二人して下着姿だ。
当然、替えの下着はない。
今日は一日、びちょびちょの下着で生活することになるだろう。
後先のことなんて何にも考えていないバカの所業だ。
シルヴィアのやつ、今日は調子が良さそうだな。
やっぱり睡眠時間こそ正義か。
これだったら、昼には真面目な話もできそうかねぇ。
いつまでも二人きりのサバイバル生活というわけにはいかない。
これから先のことを考える時が来たのだ。
俺が取れる選択肢は二つ。
ひとつ、シルヴィアと雲隠れして旅に出る。
ふたつ、シルヴィアを連れて公爵家に戻る。
難易度で言えば、前者の方が圧倒的に高い。
間違いなく、俺たちの捜索隊が出ているはずだ。
俺とシルヴィアはどちらも髪色からして目立つ。
一度情報が出れば、あっという間に見つかるだろう。
もしかすると、既に俺たちの居場所に近づいているかもしれない。
でも、見つかって強制的に連れ戻される展開が一番嫌だ。
俺の人生の進路は、自分自身で決めたい。
なんて、そんな偉そうなことを言っておいて、俺はまだ今後の方針を決めあぐねているのだが。
「さぁベルベット様! 行きますよ! それぇ~!」
「あばばばッ!?」
せっかく真面目な事を考えていたのに、頭から冷や水をぶっかけられた。
慣用句的な意味ではなく、
言葉通りの意味で。
「テメェ!? だから手加減しろって言ってんだろうが!」
俺の怒号を聞いて、シルヴィアは楽しそうに笑っていた。
ひとしきり遊んで、服を着て。
食事の準備はどうしようかと話して、いつも通りのドクダミスープを作った。
本日は肉ナシ。
質素すぎる野草スープだ。
「せめて、肉があれば……」
「仕方ないですね。そもそも獲物が見つからないのでは……」
ここに来てからの食事は、ドクダミスープと傷顔のオッサンが備蓄していた干し肉が中心だった。
しかし干し肉を食べつくした俺たちには、肉を食べるために自力で狩りをする必要が出て来たわけだ。
昨日は運よく捕えた鹿を捌いていただいたが、やはり、そう簡単に野生動物を捕まえることはできないらしい。
一度成功したからまた今日も!
そんな期待は儚くも散った。
ちなみに昨日の鹿肉は食べきれずまだ余っているが、冷蔵庫がないこの場所では一日も野ざらしにすれば虫に食われ放題、腐り放題。
間違っても人間が口にしちゃいけない状態になっている。
この食糧問題こそ、俺が本腰を入れてサバイバル生活の
「シルヴィア」
真面目な声で対面に座る彼女を呼ぶ。
「どうしました、ベルベット様?」
シルヴィアは努めて明るい声で返事をしていたが、何かを察したのか表情がこわばっていた。
「そろそろ、ここでの生活を終わらせようと思う。ここに居ても、まともな飯を食えるかわからない。これまではどうにか誤魔化して生活できていたが、これ以上は健康面で問題が出てくる。それはお前にもわかるだろ?」
「そう……ですね」
「俺は、このまま雲隠れするか、公爵家に戻るか。これからのことをお前と決めたい」
「私と……?」
「ああ」
彼女の目を見て頷いた。
けれど、すぐにシルヴィアの目が泳ぐ。
「私は、ベルベット様の決めたことに従います」
「それは、本心から出た言葉か?」
「…………もちろんです」
目が、合わない。
「じゃあ俺が公爵家に戻って、王都の王子様と結婚しに行くって言ったら、お前はどうするんだよ」
「…………」
今度は顔を
「どうした? 答えられないのか?」
「私は…………私は、使用人と言っても、実態はただの奴隷です。ベルベット様が王子様とご結婚することになれば、同伴して王宮に行くことはできないでしょう」
「だろうな」
やっぱりシルヴィアは賢い。
自分の立場を正確に理解している。
俺が口添えすればどうにかなる可能性がないでもない。
でも、それは約束された未来ではないだろう。
王子様とやらの
「今の私はベルベット様の側付き見習いとして働かせていただいておりますが、その必要がなくなれば、その後のことはベルベット様の御意向次第かと」
淡々と述べるシルヴィアは無表情だった。
やっぱりわかってる。
ちゃんとわかってるんだ、コイツは。
でも——俺が聞きたい答えは、そんなんじゃない。
「俺は、お前がどうしたいのかを聞いたんだ」
「ですから、それは私ではなくベルベット様が——」
「違うっつってんだろ! 俺がお前をどうするかじゃねぇ! お前はどうなりたいんだよっ!!」
そもそも、お前は俺が王都に行く未来が嫌で、こんな場所まで俺を攫ってきたはずだろうが!
本当の気持ちを言えよ!
そんな俺の憤りに呼応するように、
風に煽られた焚火台の炎が轟々と唸る。
スープが鍋から噴きこぼれていた。
グツグツという音だけが俺とシルヴィアの間に流れる。
「……私は——」
「グゥゥォオオオオオオオオオオ!!」
どこかから、地の底から轟くような低い咆哮が聞こえてくる。
あまりの音量に耳が痛み、
俺も、シルヴィアも、
本能的に耳を両手で塞いでいた。
それでもビリビリと腹の底まで響き渡るその声は、前世の映画で見た怪獣を思わせた。
「なんだっ!?」
木々に留まっていた鳥たちが一斉に飛び立ち、風に乗って逃げていく。
その羽ばたきの音が異様に緊迫した空気を生んだ。
「い、いったい、どこから?」
二人してキョロキョロと周囲を見渡す。
そして、何かが爆発したのではないかと思うほどの激しい破砕音と共に、西の空に一本の木が舞った。
小さな枝ではない。
立派な枝葉を携えた木の幹だ。
「はぁっ!?」
あまりの光景に先ほどまでの話が頭から吹っ飛ぶ。
と、同時に、また一本の木が空を舞った。
それは恐ろしい勢いで
「ベルベット様!」
咄嗟に回避しようと考えたとき、それよりも早く俺の体が押し倒された。
誰に?
その答えはすぐにわかる。
押し倒された俺の上に、シルヴィアがいた。
すぐ傍には、幹の途中でへし折られた木が転がっている。
「バカお前! 危ねぇ、だ、ろ……?」
シルヴィアの背中に添えた手に、
ドロリとした生温かい感触。
恐る恐る、掌を見た。
紅い。
「よかっ……た」
シルヴィアが心底安堵した顔で呟いた。
そのまま、俺の腕の中で彼女は力なく項垂れる。
「ちょ……え? あれ?」
何がどうなって?
なんで?
シルヴィアが?
どうしたら?
取り留めのない言葉が頭の中でぐちゃぐちゃになって流れていく。
だが、突然訪れた厄災は、俺に考える余裕を与えてはくれない。
また、何かが飛んでくる。
「ゲッ……ごっ……」
俺の近くに落ちてきた黒い影から、湿り気のある果肉が潰れるような音と――それから、断末魔。
そこには、ヒトだったモノが転がっていた。
いよいよ俺の思考がホワイトアウトする。
そんな混沌とした世界に、
ドタン、ドタンと、
強烈な殺気を伴う足音が近づいてくる。
「ガァァァ」
それは、熊のようなナニカだった。
この世界に来て初めて、
そして久しぶりに、
俺は死の気配を全身で感じていた。
「クソ異世界がよ……」
わけもわからず、俺と怪獣の死闘が幕を開けた。