深く池の底に沈んでいた意識が、浮上していく。
パチリと、目を開けた。
知らない天井。
見覚えのない部屋。
そして、父の顔。
「……お父様。お久しぶりです」
「ベ、ベルベットォォォォォ!」
父はベッドの前に備え付けられた椅子から勢いよく立ち上がって絶叫した。
父の両腕は今にも俺を抱きしめようと動いていたが、寸前でビタッと止まる。
「か、体は? どこか痛くはないか?」
「至る所が痛いですね」
特に左肩の痛みが激しい。
熊の怪獣に吹き飛ばされた時、骨でも折れたのだろう。
最悪な目覚めだが、意識はとてもクリアだった。
気を失う寸前、自分が何をしていたのかもすぐに思い出せた。
「やはり、体が痛むか……。可哀想に……お父さんが魔法を掛けて上げよう」
「そんなのあるんですか?」
マジかよ。
この世界って貴術だけじゃなくて魔法もあるの?
一瞬そんな期待をした俺を、
父は無慈悲に裏切ってくれた。
「痛いの痛いの飛んでけ〜!」
アンタにはガッカリだよ。
真面目な顔で叫ぶ父の顔に張り手を打ってやろうと思ったが、生憎と体を起こすことができなかった。
満足そうにしながら俺の頭を撫でる手が鬱陶しい。
「お父様、俺はそこまでガキじゃないです。子供扱いはやめてください」
「何言ってるんだ。パパにとっては、ベルベットちゃんはいつまでだって可愛い天使ちゃんだよ」
普通にしてればハンサムなオジ様なんだけどな。
本当にどこまでも残念な人だ。
でも、それは口にすまい。
努めて明るく振る舞ってくれているが、父は本当に俺を心配してくれていたのだろう。
涙の浮かぶ目元と、
震える声からして、
その心中は察することができた。
「二週間前、アイラルの山中で、倒れているお前を発見した時は心臓が止まるかと思ったよ」
「二週間前……。俺、結構寝てたんですね」
「ああ。見つけた時には左肩の骨折と全身打撲、顔には深い切り傷があってな……。王宮から連れていた救護班の手で応急処置ができたおかげで、どうにか息を繋げられた」
「そうでしたか……」
あの場所で見つけてもらえたことに驚きはない。
あの怪獣との戦いが始まる直前、
吹き飛ばされてきた被害者の姿。
ひしゃげた鎧に王国騎士団の紋章が描かれているのをかろうじて見てとれた。
あの哀れな騎士が、俺を探す捜索隊の一員である可能性は頭の隅にあったのだ。
「シルヴィアは? アイツはどうなりました? 俺の近くに居たでしょ?」
できるだけ平静を装って聞いたが、心臓はバクバクだ。
俺の言葉を受けて、父の顔がみるみる険しくなった。
それだけで何か良くないことがあったと理解させられる。
「……シルヴィアに、何かあったんですか?」
「あの子は、今は教会預かりの身になっている」
「……? どういうことです?」
教会預かり。
その言葉の意味がイマイチわからない。
「落ち着いて聞いてくれ」
俺は、息を呑んで頷くことしかできなかった。
「シルヴィアの傷は、お前より深刻でな。背中に抉られたような傷があり、さらに背骨が折れていた。もし目覚めても、しばらくは立って歩くことすらできないらしい。今もまだ眠り続けていて、絶対安静状態だ。お前のようにこの公爵家の別邸で療養させるだけではなく、まだまだ教会の人間につきっきりで看護してもらう必要がある」
「そう……ですか」
背骨の骨折。
深い傷だろうとは覚悟していた。
でも、背骨はマズい。
そうなったら、一生車椅子生活だ。
生きてはいても、今後意識が戻らない可能性だって——。
嫌な想像ばかりが掻き立てられる。
「シルヴィア……」
気づくと、父が俺の目元にハンカチを優しく添えていた。
「すまないベルベット。私が……もっと早くお前たちを救い出せていれば…………」
「いえ、お父様のせいでは……。むしろ、よくあんな場所にまで辿り着けましたね」
「王都の冒険者ギルドで、おかしな噂があったんだ——」
父の話を聞いて、俺はあの傷顔の男の動向を知った。
あのクソ野郎が。
な〜にが滅私奉公の旅だ!
冒険者ギルドまで頼って俺の討伐依頼を出そうとしていたとはよぉ!
結局、奴の企みは失敗したようだが。
しかも、結果的には奴が情報を落としたお陰様で俺たちの捜索が進み命拾いしてしまった。
次に顔を合わせることがあったら、しっかりとお礼をさせてもらうとしよう。
もちろん、拳で。
いや……待てよ。
「お父様。その傷顔の男というのは、俺とシルヴィアをカルメルの宿場町から攫った張本人です」
せっかくだから利用させてもらっちゃうよ〜ん。
シルヴィアが目を覚ましても、このままではあの子に俺を誘拐した罪状が残ってしまう。
貴族子女の誘拐、
金品の盗難。
事実として処理されれば、
俺が
俺があのサバイバル生活の中で、頭を悩ませていた問題のひとつだ。
だが、他に犯人をでっち上げてしまえば、どうということもないではないか。
「あの宿屋に居合わせた野盗の一団が、俺とシルヴィアを攫って公爵家へ身代金を要求する計画を企てていたのです。俺は激闘の末、命からがら奴らから逃げ出すことができましたが、あの山中で遭難。偶然見つけた小屋を拠点に、お父様たちがいつか見つけてくれることを信じて、下手に動き回らず捜索の手を待つことにしたのです!」
ということにしておこう。
ついでにシルヴィアのイメージアップのため、彼女が命を貼って飛来した大木から俺の身を守り傷ついたことも説明しておく。
嘘をつくときは少しの事実を混ぜると真実味が増すのだ。
涙ながらに、シルヴィアの活躍を盛りに盛って父に語り聞かせた。
「そうか……そうか。あの子は立派にお前を守り抜いたのだな……」
父はシルヴィアの奮闘に涙を浮かべて肩を震わせる。
そして——。
「しかし、それにしても………………ふふ。ふはっ……ふははは……。傷顔の男とやら、必ず見つけ出して血祭りにあげてやらねば」
父の体からドス黒い何かが立ち昇って見える。
濃密な殺意が俺の目に錯覚を見せているのだろう。
それは、あの怪獣よりも余程恐ろしいものだった。
すまん、傷顔のオジサン。
お前と会うことはもうなさそうだ……。
その後も父から色々と失踪期間の話を聞かれたが、全ての罪をあのオッサンに押し付けた。
◆ ライン
どうしよう。
異世界転生して、原作改変だ!
そんな風に意気込んでいた私だったけれど、早速よくわからないことになっている。
『ライン。近く予定していたベルベット・カースナーとの見合いの席だが、訳あって一度延期となった。彼女の父親であるカースナー公爵から直々に、ベルベットが王都へ向かう旅の道中で行方不明になったとの報告があったのだ』
痛ましげな表情で語る父上の言葉に、私は唖然とするしかなかった。
だって、原作ではそんな話、聞いたことないよ!
そもそも物語の始まりは今から三年後、ヴァルトハイム貴族学園の入学時期だ。
それより前の現在は、まだ原作知識も何もあったものではない。
それにしたって、失踪事件なんて。
ベルベットがそんな大事件を経験していたなんて知らなかった。
物語の中では語られていない出来事だ。
もしかすると、彼女が残虐な性格になった原因ってこれなんじゃ……?
何かの犯罪に巻き込まれて、凄惨な経験をしてしまった結果、彼女の心が歪んでしまった——とか。
私は勝手に妄想を膨らませて、ベルベットというキャラクターに対して同情的な気持ちになっていた。
私の元にベルベット救出の報告が来たのは、それからしばらく後のことだ。
なんでも山中で凶悪な森の支配者——
謁見の間に報告へやってきた騎士は、十歳の少女が成し遂げた偉業を興奮した様子で讃えていた。
遠目にその戦いの様子を見ていたんだとか。
『貴様は、十歳の少女にその凶悪な怪獣の処理を任せて立ちぼうけしていたわけか……?』
『お、お言葉ですが陛下。暴熊というのは本来人間が太刀打ちするようなものではありません。アイラル近郊の山々を縄張りとする
さっさと戦いへ加勢に入らなかったことを父上に叱責されていたが、捜索に出ていた騎士さんは負けじと事情を説明していた。
私にはよくわからない話だ。
私にわかったのは、ベルベットが物凄く強いらしいということだけ。
さすが最凶最悪の悪役令嬢。
きっと、あの凶悪な魔眼の力を使ったのだろう。
私ももっと頑張って、学園に入学するまでに力を付けないと。
あまり怠けていると、もしも彼女と戦うことになった時、力不足で太刀打ちできなくなっちゃうかもしれない。
ま、まあ私だって、物語のヒーローとしてチート級の能力があるし、大丈夫……だよね?
そんな私の心配をよそに、父上と騎士の人は先ほどまでとは少し変わった話題で首を捻ってた。
そもそもベルベットは、一体何がどうして山中に足を踏み入れていたのだろうか?
てっきり誘拐にあったのだろうと思っていたが、バケモノを討伐してしまうベルベットを誘拐できる実力を持つ野盗なんてそうそう居るのだろうか?
居たとして、その犯人は攫ったはずのベルベットたちを置いてどこに姿をくらませたんだ?
結論は出ず、父上たちは、詳細は目を覚ました本人に聞く他ないと言うことで話をまとめていた。
ベルベットが目を覚ましたという報告があったのは、それから数日後のことである。
◆ ベルベット
目を覚ましてから一週間。
打撲の痕はまだ少し残っているが、大まかな傷は治った。
子供の生命力って凄い。
もしくは、この肉体だからこそのものだろうか。
流石にまだ肩の骨は完治していないが、一人で歩くくらいはどうにかなる。
動けるようになった俺が一番に向かった先は、当然シルヴィアの病室だった。
ただでさえ色素の薄い銀髪を携えている彼女は、青白い顔で眠っていると、人形みたいに見えてしまう。
「シルヴィア。今日は天気がいいぞ。日向ぼっこをしたら絶対に気持ちいいはずだ」
椅子に座って彼女に話しかける。
返事はない。
まだシルヴィアは眠ったままだ。
それでも俺は喋り続ける。
「王都ってのは人が多いな。ちょっと移動するだけで疲れるよ。お前、意外と都会っ子だったんだな」
ただただ話しかけて、たまに濡れた布で顔を拭いてやったり、喋り疲れたら髪を撫でる。
それだけしか、してやるれることがない。
シルヴィア。
早く目を覚ませ。
それで、話の続きをしよう。
毎日毎日、俺は彼女の病室を訪れ。
その目覚めを待ち続けた——。