進撃の巨人の世界に15m級の無垢(?)の巨人として転生してしまった……(リメイク版) 作:感謝君
843年に入って、一週間が過ぎた頃。
森の空気は研ぎ澄まされたように冷たく、木々の根本にはうっすらと雪が積もり、白銀の静寂が世界を包み込んでいた。
その時は、あまりにも唐突に訪れた。
昼下がり、淡い冬の陽射しが差し込む拠点の広場で、俺たちはいつものように穏やかな時間を共有していた。
リーシェは膝の上に立体機動装置を置き、革のベルトやガスの噴射口を入念に布で磨き上げている。
俺はその傍らで巨大な胡座をかき、彼女から預かったブレードを目の高さまで持ち上げていた。
過酷な訓練で刃の表面に入った、肉眼では見えないほどのほんの僅かな亀裂や刃こぼれ。
俺は指先から微小な硬質化クリスタルを分泌し、その傷一つ一つを精密に埋め、新品以上の切れ味へと修復していく。
カチャッ、カチャッという金属音と、リーシェの静かな寝息のような呼吸音だけが心地よく響いていた。
だが、その時だった。
人間を遥かに超える、巨人の異常なまでに優れた俺の聴覚が、森の奥深くから伝わってくる『異音』を拾い上げた。
地を這うような微かな振動。それが次第に、規則正しい打音へと変わっていく。
巨人の足音ではない。
もっと軽快で、統率の取れた、硬い蹄が凍てついた冬の土を蹴る音。
複数騎による、馬の足音だ。
(あぁ……来てしまったか……)
俺はブレードを修復する指を止め、ゆっくりとそちらの方向へと視線を向けた。
この壁外の領域、しかも巨大樹の森の深部まで馬で乗り込んでくる集団など、一つしかない。
調査兵団の壁外調査部隊だ。
あの日、俺が抱え続けていた重く苦しい迷い。
彼女を人間の世界へ帰すべきか否かという葛藤に、運命が強制的に答えを突きつけてきたのだ。
俺はゆっくりと息を吐き出し、何も知らずに鼻歌交じりで立体機動装置を点検している彼女を見下ろした。
心の中で渦巻く寂しさを分厚い理性で押さえ込み、俺は、精一杯の慈しむような柔らかな微笑みを巨大な顔に浮かべて、静かに口を開いた。
「……リーシェ。君の迎えが来たようだ」
凍てつく空気に溶けたその穏やかな声は、だが、彼女の時間を完全に停止させた。
キュッ、と。
装置を磨いていたリーシェの手が止まる。
「……っ……! ……何のこと?」
ビクッと華奢な肩を震わせ、彼女はゆっくりと俺を見上げた。
その瞬間、彼女の顔からサァッと血の気が引いていくのが分かった。
病的なまでに青白く変わっていく肌。
先程まで楽しげに輝いていた夜空のような青い瞳から、急速に光が失われ、深い絶望と拒絶の色が広がっていく。
これから訪れる現実を、心と身体が全力で否定しようとしている、あまりにも痛々しい様相だった。
俺は胸を締め付けられるような痛みに耐えながら、あえて淡々と、決定的な事実を告げる。
「……あと数分で、調査兵団であろう一団がここに到達する。リーシェ、君は壁内へ帰るんだ」
その宣告が森に響いた直後。
「……嫌っ……」
絞り出すような、か細い拒絶の声が彼女の唇から漏れた。
彼女は立体機動装置を放り出し、よろめくように立ち上がると、俺の巨大な足の甲にすがりついた。
「……リーシェ」
俺の胸が、物理的に抉られるように苦しくなる。
手放したくない。
俺だって、彼女のいない冷たく孤独な日々に逆戻りしたくはない。
このまま彼女を連れて森のさらに奥深くへ隠れてしまえば、誰にも見つかることなく、この温かな生活を続けることができる。俺の力なら、容易くそれができる。
でも、ダメだ。この瞬間を逃す訳にはいかないのだ。
彼女は人間であり、俺はバケモノ(巨人)だ。
彼女の未来を、俺の身勝手な孤独を埋めるための生贄にしてはいけない。
「……なんで! なんでよ!」
リーシェは俺の足に縋り付いたまま、顔をぐしゃぐしゃに歪めて叫んだ。
「このまま、ここで過ごそうよ! アトラスはそれで良いの!? この冷たい森で、また一人ぼっちになるのよ!? ねぇ! 私が一緒にいてあげるから……。一緒にいさせてよ、ねぇ……っ!」
なりふり構わず、俺の孤独を盾にしてまで引き留めようとする彼女の悲痛な叫びが、木霊となって森に響き渡る。
俺は何も答えることができず、ただ痛みに耐えるように彼女の名を呼ぶことしかできなかった。
「……リーシェ」
俺の揺るぎない覚悟と、絶対に自分を連れて逃げてはくれないという残酷な優しさを悟ったのだろう。
彼女の叫びは、やがて弱々しい嗚咽へと変わっていった。
「嫌っ。私……もっと、アトラスの世界の話、聞きたい……」
俺の足の甲に顔を埋め、彼女は子供のようにしゃくり上げた。
「まだ……話し切れてない出来事、たくさんあるじゃない……。もっと、私の話だって……聞いて欲しいのに……っ」
彼女の瞳から溢れ出した大粒の涙が、ポロポロと冬の地面へとこぼれ落ちる。
ひどく冷たいはずの森の地面で、彼女の熱い涙が落ちた場所だけが、まばらに積もった白雪を優しく、そしてどうしようもなく悲しい温度で溶かしていた。
俺の巨大な足の甲にすがりつき、子供のように泣きじゃくるリーシェの温もりと涙の冷たさが、分厚い皮膚越しに痛いほど伝わってくる。
その感触を味わいながら、俺は自分の中に巣食い始めていた、決して抱いてはいけない致命的な感情を明確に自覚していた。
独占欲。執着。そして、おそらくは……。
前世でろくな青春を経験しなかった男が、こんな残酷な世界で初めて心を通わせたうら若き女性に対して、そんな感情を抱くのは必然だったのかもしれない。
このまま彼女を俺だけのものとして、世界の全てから隠してしまいたい。
彼女の涙を見るくらいなら、森の奥深くへ連れ去ってしまいたい。
だが……それでも、ダメだ。
そんなのは、ただのバケモノの身勝手なエゴでしかない。
彼女は人間なのだ。
日の当たる場所で、仲間と笑い合い、家族の温もりに包まれて生きるべき存在なのだ。
俺の個人的な孤独を埋めるための生贄として、こんな血と蒸気に塗れた森の奥底で、ずるずると一生を狂わせてはいけない。
俺は、奥歯を強く噛み締め、鋼の意思で脳裏にこびりつく邪な考えを完全に払い除けた。
そして、この残酷な別離の痛みを少しでも和らげ、彼女に生きる希望を与えるために。
俺自身にも成し遂げられるか全く分からない、一世一代の無謀な約束を口にする決意を固めた。
「リーシェ、聞いて欲しい」
俺が低く、しかし確かな熱を帯びた声で呼びかけると、俺の足に縋り付いていた彼女の華奢な肩が、ピクリと小さく震えた。
彼女はまだ顔を上げない。俯いたままのその表情は見えないが、地面に落ちる涙の雫が、彼女の絶望の深さを物語っていた。
俺はゆっくりと息を吸い込み、途方もない夢物語を、まるで決定事項であるかのように重々しく紡いだ。
「もしかしたら、私は───」
森の静寂が、一瞬だけ深く沈み込む。
「────人間に戻れるかもしれない」
その言葉が落ちた途端。
ハッとして、リーシェが弾かれたように泣き腫らした顔を上げた。
涙で濡れた夜空のような青い瞳。
その奥底に、さっきまで完全に消え失せていた「確かな期待」の光が、小さな炎のようにパッと宿るのが見えた。
俺自身、全く確信などない。
だが、これまでの自分の特異な性質を思い返せば、一つの狂った仮説が成り立つ。
俺は無垢の巨人と同じ姿をしているにも関わらず、なぜか彼らから捕食対象として襲われる。
そして何より、こうして完全に明確な人間の意志と前世の記憶を保ったまま思考し、硬質化という高度な能力すら使いこなしている。
もしかしたら、俺はただのイレギュラーな無垢の巨人ではなく、まだ人間の肉体をうなじの奥に隠し持った未覚醒の存在──ユミルの民の歴史に存在しないはずの『十番目の知性巨人』として、完全に覚醒できるのではないか。
望みは、はっきり言ってひどく薄い。針の穴にラクダを通すような確率かもしれない。
覚醒のトリガーが何なのか、何年かかるのかも全く分からない。
もしかしたら、俺が人間に戻る方法を見つける頃には、原作の物語が進行し、地鳴らしが起き、この世界の全てが終わっているかもしれない。
────それでも。
彼女のあの希望に満ちた顔を見てしまったからには。
俺は、この身が完全に朽ち果てるまで足掻き、必ず成し遂げてみせると、魂の底から誓った。
「約束しよう。その時には、必ずや君のもとへ戻ると」
俺はゆっくりと片膝を突き、彼女と極力目線を合わせて、深く静かな声で告げた。
「だから、どうか待っていて欲しい。そして……絶対に、死なないでくれ」
俺の悲痛なまでの願いを受け止めたリーシェは、袖口で乱暴に目元の涙を拭い去った。
そして、調査兵団の兵士としての、あの凛とした力強い顔つきを取り戻し、真っ直ぐに俺の巨大な瞳を見据えて言った。
「……私……待ってるから。あなたが人間に戻れるまで、頑張って待つ」
震える声には、確固たる覚悟が満ちていた。
「……でも、あんまりにも遅かったら……私、また一人でここに来るから」
それは、彼女なりの精一杯の脅しだった。
「それが嫌なら……一秒でも早く、私に会いに来て」
健気で、どうしようもなく愛おしいその言葉に、俺は張り詰めていた感情が少しだけ解けるのを感じた。
巨人の喉を震わせて、低く笑い声をこぼす。
「はっはっは。できることなら、君には壁の中で安全に、静かに待っていてもらいたいところだが」
俺は一拍置き、彼女の揺るぎない覚悟に応えるように、力強く頷いた。
「分かった。最善を尽くそう」
ザッ、ザッ、ザッ……!
地を蹴る複数の蹄の音が、いよいよ森の木々の隙間から聞こえる距離にまで迫ってきた。
馬の嘶きと、微かに「生存者か!?」という人間の叫び声が風に乗って届く。
タイムリミットだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼女を見下ろした。
これが、巨人の姿で交わす最後の言葉になる。
「それでは、”また”」
リーシェは、もう泣いていなかった。
両足をしっかりと地面に踏みしめ、俺を見上げて、最高の笑顔を作ってみせた。
「……うん、”また”ね。アトラス」
その言葉を胸の奥深くに刻み込み、俺は未練を断ち切るように彼女に背を向けた。
ここからは、時間との勝負だ。
調査兵団にこの異常な生活の痕跡を見られるわけにはいかない。
俺は全身の神経を研ぎ澄まし、拠点一帯に張り巡らせていた硬質化クリスタルの宿、精巧に作った暖炉、毎日彼女を温めた浴槽、そして彼女のために創り出した調理器具の数々へと思念を飛ばした。
パキィッ……! シャララララ……!
俺の意志に従い、絶対の強度を誇っていたはずの白銀のクリスタルたちが、まるで朝日に溶ける春の雪のように、一斉に光の粒子となって崩れ落ち、虚空へと消え去っていく。
たった数秒で、三ヶ月間続いた俺たちの温かな日常は、魔法が解けたかのように跡形もなく消滅した。
後に残されたのは、ただの冷たい冬の森の広場だけ。
ただ一つだけ、残したものがある。
俺は彼女の腰にある立体機動装置───ブレードとガスボンベに施した硬質化の改造だけは解除しなかった。
しかし、調査兵団の技術者が見ても「異常な改造」が施されているとバレないよう、クリスタルの色と質感を鉄や鋼と完全に同化させ、外見上は使い込まれたただの通常装備に見えるように変質させた。
たとえ遠く離れても、この力だけは彼女を守り続ける。
俺なりの、過保護で執念深い最後の加護だ。
少しでも、俺のいない世界で彼女の生存率を上げるために。
「おい! 誰かいるのか!」
背後で、馬を止めた兵士たちの驚きと安堵の入り混じった声が響く。彼女が仲間たちに発見された瞬間だ。
俺は一度も振り返ることなく、彼らの接近する音とは反対の方向
森のさらに深く、暗い闇の中へと向かって、ズシン、と重い一歩を踏み出した。
(待っていろ、リーシェ。必ず……人間として、お前に会いに行く)
喪失感に胸を焼かれながらも、俺の巨体には、かつてないほどの熱い活力が漲っていた。
人間に戻る。その果てしなく遠い奇跡を現実にするという、新たな、そして絶対の決意を胸に宿しながら。
俺は、白銀の雪を踏み砕き、深い森の奥へと姿を消した。