褪せ人 Ramo と Saki の物語 作:Skinny Slaver
ルーンベアに有効な物理攻撃は刺突ではなく斬撃です。作劇上の演出ということでひとつ。
ストームヴィル大橋の再建工事の拠点は南詰──王城に近い側の袂に置かれていた。職工たちが慌ただしく行き交う中、床几に腰を下ろして指示をとばす初老の男。彼はかつて王都でその名を知られた建築家で、その名を Guillaume という。現在は乞われてここリムグレイブへと趣き、この現場の監督を務めているのだった。Ramo は、その前に進み出て声を掛ける。
「工事の進み、捗々しいようで何より。」
視線の先には、およそ500メートルの崖を超えて架かるアーチ。実際、ここまで出来ているとは予想していなかった。Guillaume は彼を見上げ、得意げに笑ってみせる。
「つい一昨日、要石が入ったところだ。ここから上部構造を組んで化粧もせにゃならんから、落成式は当分先になる。──が、下部構造は完成しているから、技術的にはもう殆ど難しいところはない。」
石造りの弧の上には木製の支柱が組まれ、その上に木版が渡されて簡易な通路となっていた。その下では、男たちが既に石を積み始めている。
「これだけ進み具合がいいのは、ケネス殿が人員と資材を気前よく提供してくれるおかげだ。王都で請け負った工事も、これだけ活気のある現場はそうはなかった。北の岸には、職工たちを相手に商売をしようって連中が集まってきて、ちょっとした『町』ができている。時間に余裕があれば見ていくといい。」
そう言うと、彼は傍らに立てかけてあった杖をついて立ち上がった。
「もう歩けるのですか。」
それは、橋の進捗以上に驚くべき出来事だった。Guillaume の脚は、かつて事故で両脛を折った際に適切な治療を受けられず、骨が不適切に癒合したために「曲がった」状態となっていた。隠棲先のゲルミア火山を訪れた Ramo が彼を背負ってここまで連れて来てから、未だ二月と経ってはいない。仕事への着手に先立って、その脚を治すための手術を受けたことは知っているが、それにしても信じられぬ回復速度だった。
「ああ、Vienna 先生のおかげでな。あれほど腕利きの医者は、王都にもそうはいない。──って、彼女も最近王都から来たんだっけな。」
橋へと向かう二人。Guillaume は袂で Ramo を見送るために歩いてくれているようだ。その気遣いに心の内で頭を下げる。
「俺ら現場の者の除けば、この橋を最初に渡ったのはあんたということになる。表向きは落成式当日のネフェリ王が最初の通行者ってことになっているんだが。貸しの利息分だと思ってくれ。」
「この身に余る誉れ、有難く。」
王権をも超える、しかしささやかなその栄誉を胸に、Ramo は板敷の道を踏み出した。
向かう先は王都ローデイル。数日前に届いた要請に応じて、忌み王モーゴットを訪ねるための旅程である。これについて、ストームヴィルの政務を担っているケネス・ハイトに相談したところ、医師 Vienna が一時的にローデイルへ帰郷する予定なのでその護衛を兼ねてもらえぬかと打診された。無論、断る道理などない。彼女が王都から出てリムグレイブへ移り住むきっかけを作ったのは、外ならぬ Ramo 自身だったからだ。渡った橋の先、北側の袂で Vienna は待っていた。働く男たちの邪魔にならぬ位置に立ってこちらを見つめている。このあたりでは止むことのない強風にその黒髪を吹き流されるに任せて気にする素振りもない。
「Vienna 殿、久しく。」
そう言って頭を下げた Ramo に、彼女は首を傾けてみせた。
「来てくれてありがとう。忙しいでしょうに。」
Vienna は周囲から不愛想と評されるほどに表情を変えない人物である。故に、このときの彼女を見ている者があったとしても、その切れ長の目が常より僅かに──それこそ、意識して観察していなければ分からぬほど控えめに──開いていることに気付く者は稀だろう。当然のことながら、Ramo も見落とした。
「当方もローデイルに用事がある故、何程の負担でもなし。どうか気に病まれぬよう。」
その言葉に小さく頷いてみせてから、Vienna はくるりと向きを変えて歩き始めた。その背を追いながら、Ramo は考える。常と変わらぬ調香師の装束。髪型にも変化はない。にも拘わらず、今日の彼女は記憶の中の姿とどこか違うように感じられるのだ。しかしすぐに、それを追求することの無意味さに思い当たり、彼は係る疑問を頭から追い払った。
Guillaume が言った通り、北詰の先では街道に面して種々の店が構えられていた。朝餉時なので、店先に並べられた机で食事を取っている職工たちが多い。傍らの大きな鍋からは、良い匂いが漂ってきている。衣類や薬などを並べる露店も見えた。立ち話をする女たち、路傍で遊ぶ子供たちの姿もある。狭間の地に来てからこちら、これほど多くの人が集まっている場所を見た記憶はない。
「町場が形成されつつあるな。」
感嘆の声を漏らす Ramo に、Vienna が道から外れたところに並ぶ建物を指した。
「あそこには宿舎が作られている。家族を呼び寄せるものも多いと聞く。人の数は増える一方。」
そう言いながら、彼女は橋の方を振り返る。
「職工だけでなく、その家族や商人たちも診療所を訪れるようになった。とても手が足りない。」
なるほど、確かにこれだけの「人口」があれば、医者が彼女一人だけ、という状況には無理があるだろう。そんな折に、ここを離れるのは障りがあるのではないだろうか。その懸念を見越したように、Vienna は続ける。
「けれど、ケネスさんの計画にはそのことも折り込まれていた。医術の心得のある者が新たに二人やってきて、既にあそこで働いている。だから、私がストームヴィルを数日離れても問題はない。」
横目で Ramo を見遣り、僅かに口の端を上げる。これはおそらくは「安心した?」の意味だろう。二人が立ち去ってすぐ、宿場町を噂が駆け巡った。「Vienna 先生が男連れで歩いていた」である。ストームヴィルで働く職工たちの中には彼女に想いを寄せる者も少ならからずおり、彼らは悲嘆に暮れた。女衆の間で交わされる話には、より詳細な描写が加わっている。
「しかも、紅を差してたって。」
「あの先生がそんなことしてるの、私見たことないよ。」
街道沿いの行程は順調そのものだった。Ramo は周囲への警戒を怠らなかったが、それに掛かる危険はない。たまに人や荷を乗せた馬車とすれ違うくらいのもの。ひたすらに静かな時間が流れる。互いに無口な質である故に、二人は殆どの時間を黙して歩いたが、数少ない会話の中に、Guillaume の治療に関するものがあった。
「杖つきとはいえ、二月足らずで歩行が可能になるとは、ただただ感嘆するばかり。いかなる手法を用いられたのか。」
「特別なことは何もしていない。回復が速かったのは、Saki さんの働きによるもの。」
「Saki 殿が──?」
Saki of Astora は Ramo の友人であり、彼女もまた褪せ人である。Guillaume の捜索および搬送のためにゲルミア火山に向かった折にも同行し、Ramo を助けてくれたのも Saki だった。
「あの術式は、開いて閉じてを繰り返す。各手技の間で傷が塞がるのを待たなければならず、普通はこれに時間がかかる。化膿したり、予期せぬ癒合が生じたりすれば、その対処のためにさらに時間を取られる。けれど、今回は彼女が『回復』でその過程を短縮してくれたので、私は手技だけに専念できた。」
祈祷を主体として戦う Saki が使用する『回復』の効果は、一般的な聖職者のそれを大きく上回る。戦士としてだけでなく、医療者としても有能であることだろう。否、その才はむしろ、そうした道でこそ活かすべきものではないのか。ふとそんなことを考える Ramo に、Vienna は続ける。彼女がこれだけ話すのは珍しいことだ。
「手技の実施に合わせて来てもらっていたのだけど、彼女は Guillaume さんの治療だけでなく、他の患者への対応も手伝ってくれた。これには随分助けられた──と言いたいところなのだけど。」
Vienna はそこで言葉を切ってこちらに顔を向けた。表情の変化はごく僅かだが、笑いを抑えているらしいことが読み取れる。
「彼女が来る日は、診療所を訪れる者も多くなった。だいたい三割増しといったところ。却って忙しくなってしまう。」
男ばかりの仕事場に若い娘が入ってくれば、どれほど目を引くかは想像に難くない。一方、それを差し引いても Saki には周囲を惹きつけるものがあると感じているのも確かだった。だが、そのことを率直に表明するだけの度胸はない。
「さもありなん。」
こちらを伺う Vienna の視線から目を背け、小声でそう呟くのが Ramo には精いっぱいだった。
リエーニエ東岸を北上するこの街道は途中で大きく左手つまり西へ曲がり、『レアルカリア魔術学院』を経由して『ベイルム街道』に出て、『デクタスの大昇降機』へ至る。しかし、それはかつての話。現在リムグレイブとローデイルが共同で整備を進めている「新道」は、そのまま北上して「東部台地」と呼ばれる場所を通過し、ベイルム街道に接続するものとして計画された。リエーニエを実質的に支配している学院は街道の建設を承認していない。カーリア家の働きかけにより抑制されてはいるものの、これに属すると思しき勢力からの妨害が散発しているという。東岸沿いのルートが選択された理由は、延長の切り詰めよりもむしろ、彼らの勢力圏から距離を取るためだった。現状ではその先の『ウルドの王朝遺跡』に住む『祖霊の民』と呼ばれる者たちとの折り合いも付かぬため、小黄金樹の東側へ大きく迂回することを余儀なくされている。
──といった説明をしていた Ramo は、しかし Vienna から一切の反応がないことに気付いてこれを止めた。関心のない事柄を延々と聞かされる煩わしさは、彼も身に沁みて知っているからだ。そこからしばらく無言が続いたが、やがて Vienna が足を止め、Ramo に向けて困ったような表情を見せた。
「ごめんなさい。せめて、相槌くらいは打つべきだった。街道の話、続けてもらえないかしら。」
Vienna 曰く、リムグレイブで働き始めて以降、人との接し方を改めるべく努力しているのだという。笑顔を見せること、共感を示すこと、他愛ない雑談に応じること。いずれも、それまでの彼女が無駄と断じて排してきたものだった。だが、Vienna が患者から聞き取り損ねた細々とした──治療の重要な手掛かりとなりうる──愁訴を集めて報告してくる Saki を見て、他者を安心させることの重要性を認識させられたそうだ。
「診療中は気を張っているから、それなりに上手くやれていると思っているのだけど、今日は──油断してしまったみたい。」
そう言って Vienna は照れたようにはにかんでみせる。そんな彼女を前に継ぐべき言葉の端緒を探っていた Ramo だったが、その耳に獣の咆哮が飛び込んできた。続いて、男たちの怒号。
「ルーンベアだ!」
「散開! 取り囲め!」
どうやらこの先で、街道を警備する兵たちが害獣に遭遇したらしい。それがルーンベアほどの大物となれば、例え仕留めることができたとしても、少なくない犠牲が出るだろう。二人は短く視線を交わし、前方の喧噪へ向かって駆け出した。
周囲の立木が次々と薙ぎ倒されていく。舞い散る木の葉の中で悲鳴が上がり、次の瞬間ローデイル兵が Ramo の頭上を越えて後方へと飛んで行った。土の上に投げ出された男は、まるで放り出された人形のような不自然な姿勢のまま動かない。死んでいるのか、それとも気を失っているだけか。Ramo は前方でルーンベアを取り囲む一団の指揮官と思しき者へ近づき、声を掛けた。
「こいつは某が相手をする。貴公らは負傷者を連れて退かれよ。」
彼らは総勢五名の小隊であったらしい。だが、現状で立っているのは三人のみ。一人は Ramo たちが通ってきた途上で、そして今一人は前方の猛獣の傍らに倒れている。
「馬鹿を言うな。この区域の警備は我ら──」
そう怒鳴りながら振り返った隊長は、Ramo の顔を見た瞬間に一層の緊張を見せた。
「あんたは、モーゴット殿の──。」
ローデイル軍において、Ramo は存在は語り草となっていた。彼らの主君たる半神『忌み王、モーゴット』を打ち倒し、さらには盟約を結んだ褪せ人として、畏怖の念を込めて語られている。
「あと一人倒れたら、部下を見捨てることになろう。あるいは、全員で討ち死にする心算か。」
隊長はその言葉の意味を即座に理解した。彼を含め、三人が動ける今の状況ならば、二人の負傷者を抱えて撤退することができる。だが、さらに一人が動けなくなれば──。必死に頭を巡らす隊長の傍ら、Ramo は手にした『打刀』に『火脂』を塗り付けた。これは攻撃力の増強を狙ってのものではない。ルーンベアの注意を引き付けるべく、燃え上がる刀身を派手に振り回す。獣の目が、その光源に据えれらた。この機会を逸すれば、次はない。
「退却! Paul と Erwin を取り残すな!」
部下たちはその指示に従い、倒れた同僚を担いで後退を始める。動きに躊躇と無駄がない。よく訓練された兵であることが伺えた。Vienna に目配せし、彼らと共に行くよう指示する。
「彼女は医師だ。安全圏まで離脱できたら、負傷者の手当てを。」
言い終わらぬうちに駆け出す。このルーンベアを彼らから少しでも遠くに。去り際に隊長が発した「武運を!」という声は、空を震わす巨獣の咆哮にかき消された。
毛皮の防御力は侮れない。外側へ突き出した硬い刺し毛は刃をも防ぎ、その奥に密生した下毛は打ち込まれた衝撃の大半を分散・吸収してしまう。有効といえる物理攻撃は刺突くらいのものだろう。しかしこれには、破壊できる範囲が狭いという問題があった。対象となる生体組織を、斬撃は長く線に沿って切り裂き、打撃は浸透する衝撃で広く害する。それに対し、刺突は深さにこそ優れるものの、外部から見た時の損傷は「点」でしかなく、余程正確に狙わなければ急所を捉えることはできない。これが、遠距離から弓や弩でルーンベアを仕留めることが難しい理由だった。毒矢の類を使えば比較的容易に仕留めることができるが、標的の体臭までもが感じられるこの距離で飛び道具を持ち出すのは自殺行為にも等しい。ルーンベアの左腕が振り出される。その下を潜るようにして回避。間髪を入れずに右腕が飛び来るが、迷わず前方へ跳び体を入れ替える。敵は勢い余って前方へつんのめった。その背を眺め、Ramo は考える。やはり躱すことは造作ない。しかし──。その後も、何かを確かめるように、彼はルーンベアの攻撃を右へ左へと回避し続けた。もし傍でこれを見る者があれば、Ramo が超人的な反射神経を以て猛獣の餌食となるを免れていると思うことだろう。しかし、それが熟達の域に達した戦士であれば、彼の動きの始まりがルーンベアのそれに対して僅かに──知覚することも容易でないほどの短い時間だけ──先行していることに気付いたかもしれない。
尋常ならざる体力を誇るルーンベアも、渾身の連撃が悉く空振りとなれば息切れもする。これまで、あらゆる獲物を一撃のもとに葬ってきたであろう巨獣は、初めて遭遇したこの「脅威」を前に判断を誤った。標的を逃さぬよう前肢を大きく広げ、後肢だけで前進する。そのまま、獲物を抱きすくめ、全身の骨を砕く。──しかしその目論見は、予備動作で無防備に開かれた胸の中央に過たず打ち込まれた『貫通突き』によって砕かれた。旺盛な動力を供給していた血液は穿たれた心臓から漏れ出し、もはや本来の機能を果たすことはない。打刀の樋を伝って流れ落ちた血液が、湿った土の上に朱色の溜まりを作る。事切れたルーンベアがその上に倒れ込み、己が血の飛沫を跳ね上げた。
幸いにして、負傷した兵の命に別状はなく、Ramo が彼らと合流したときには意識を取り戻していた。そのうちの一人、初めに跳ね飛ばされた方の Erwin は危ういところだったらしいが、Vienna の処置で失血を免れたらしい。歩み寄ってきた隊長が、右手を差し出す。
「私はこの小隊の長、Niels という。貴公には大きな借りができてしまったようだ。」
それを握り返しつつ、Ramo はただ小さく頷いた。何を言っても恩着せがましくなってしまうように思われたからだ。こんなとき、適切な返答をさらりと出せる機知を身につけたいものだ、と思う。
「しかしルーンベアを一人で仕留めるとは、『剣鬼』の名に違わぬ強さ。醜態を晒したことは慙愧に堪えぬが、伝承の男に助けられたとなれば、却って箔がつくというもの。」
それは誤解と誇張によって作られた御伽噺の類だ──と説明しようとしたが、これまた何をどう言っても新たな誤解を招きそうで、黙って微笑むことしかできなかった。我が事ながら、この消極性は情けない。彼らと別れ再び街道を歩き出したところで、Vienna が珍しく Ramo をまっすぐに見つめて問いかけた。
「──剣鬼?」
彼女なりに、相手から話を引き出す方法を模索しているようだ。その努力には報いなければなるまい。
「それは誤解に基づく呼称にて。話すと長いこと乍ら、以前某が鉤指として召喚された折──」
自らの話術の拙さを自覚しながらも、Ramo は懸命に説明を試みる。これは忍ぶべき恥。避けること能わぬ。
デクタスの大昇降機を経て、二人はアルター高原へと入った。あの兵たちと別れて以降の道行は順調そのもの。見通の良い街道はローデイル兵の監視が行き届き、不安を覚える要素はない。壮麗な大階段を上って城壁を抜けると、そこには三月前に Vienna が通ったときとはまったく異なる情景が広がっていた。第一次、第二次と続いたローデイル防衛戦により荒廃した王都外郭。攻め手守り手の双方の投射によって抉られた地面に打ち捨てられたままとなっていた、君主連合が築いた拠点の残骸や兵たちの骸。そうした災禍の痕跡に対する処理が始まったようだ。至る所で工事が行われ、兵士や職工たちが慌ただしく行き交っている。ストームヴィル橋の工事現場も活気があったが、これと比較すればいかにも小規模なものに思われてしまう。そして Vienna にとっては、エルデンリングが砕けて以来意思疎通のできなくなってしまった人々が正気を取り戻していることが何より嬉しかった。見知った顔の近くを通り過ぎる際には、軽く手を振り、微笑んでみせる。自然にそんな動作が出てしまうことに多少の気恥ずかしさも覚えるが、敢えてそれを抑制しようとは思わなかった。これはたぶん、成長だから。
長らく閉めきられていた大手門も開放されており、そこから直接市街地へと入ることができた。正気を失した兵たちが巡回するのみだった大通りには大勢の市民の姿。建ち並ぶ建物の中には、商売を再開した店舗も散見された。かつてのローデイルを知る Vienna にはこれでもまだ閑散としていると感じられるのだが、一方の Ramo にとってはそうではなかったようだ。
「葦の地ではついぞ都を見ることはなかったが、あるいはこのような光景であっただろうか。」
その呟きに、Vienna は書物のうちに知る彼の故郷──葦の地に思いを馳せる。四方を海に囲まれ、外からの侵略を受けることのなかったその歴史は、しかし平和とは程遠い。割拠する群雄による千年にも及ぶ内乱は決着を見ず、今なお続いている。そんな状況にありながら、「帝」と呼ばれる者とその一族が統治者として認められているというのは、理解に苦しむ状況だった。血塗れの戦を繰り返す領主たちは、この帝から葦の地の支配権を委任されることを目指しているのだという。何故、帝を排し自らを新たな王としないのか。この疑問は学者たちの論争の的にもなっていたが、いずれにせよ政治体制としては奇態という外ない。Ramo のかつての身分である「侍」とは、これら領主に伝える戦闘集団の構成員であり、他の国でいう「騎士」に相当する。そして、都──すなわち帝が居を構える都市──を見たことがないという言からは、彼が仕えていた君主が辺境の小勢力であることが伺われた。詳しい事情は知り得ないが、その生活は決して安楽なものではなかったはずだ。自らの心の内を他に見せぬ彼の性格は、あるいはそうした環境の厳しさによって培われたものだろうか。
「Vienna さん、こんにちは!」
不意の呼びかけに振り返ると、そこには、一人の女が立っていた。革の軽鎧に純白のクローク。頭冠付きのフードで顔の上半分が覆い隠され、見えるのは口元だけ。しかし、その声には覚えがある。
「──Saki さん?」
見慣れぬ衣装に戸惑いながら返事をすると、相手は「ああ、そうだった」と言いながら、猫の耳を思わせる形状の頭冠を脱いで小脇に抱えた。零れ落ちる白金の髪。瑠璃の瞳は知己との思いがけぬ遭遇に輝いている。Vienna がここ王都へ戻ってきた経緯を手短に説明すると、Saki の瞳はさらにその輝きを増した。
「Ramo さんも一緒なんですか? 全然気づきませんでしたけど。」
そう言われて周囲を見渡すと、先ほどまで隣にいた Ramo の姿が消えている。何処へ──? 自分と一緒にいるところを彼女に見られたくなくて離れたのだろうか──そんな憶測が頭をよぎったが、彼の性分からいって、護衛対象の傍らを断りもなく離れるとは考えにくい。となれば、何らかの危険を察知してのことか。考えを巡らせていたところへ Ramo が戻ってきた。Saki が身体を弾ませながら元気よく挨拶をしたが、返ってきたのは小さな頷きのみ。明らかに様子がおかしい。訝しむ二人に、彼は視線を前方に向けたまま、小声で囁いた。
「気付かぬふりをされよ。Vienna 殿から見て左後方およそ30メートルの距離に一人、不審な輩がいる。自分の背後にも尾行者を確認した。」
振り向きそうになるところを危うく堪える。隣の Saki は落ち着いたもので、挨拶の続きを装って彼の肩を叩いきながら、潜めた声で敵の狙いについて話し合っていた。
「Vienna 殿から離れてみせたとき、躊躇なくこちらを追ってきた。狙いは某であろう。ただ、前にいる方は Saki 殿の客人のようだ。」
「二人はお仲間かな?」
「おそらくは。」
「この人混みの中にいるのはマズいね。」
Ramo の背後で人行きが途切れる。その僅かな隙を通すように飛び来る血刃。その一閃が白昼の王都における騒乱の始まりとなった。
血刃の軌道は読めていた。Ramo は身体を反転させ、納めたままの打刀を構えてこれを受ける。円卓の鍛冶師ヒューグの勧めに従って補強した鞘は、衝撃に耐え揺らぎもしない。今の一撃は Saki を狙ったもの。彼女もそれを察し、隣に立つ Vienna の身体を押しやって共にその軌道を脱していた。それでもなお、Ramo がこれを受け止めたのは、背後を行き交う市民に被害を出さぬためだった。防ぎ切れなかった飛沫を受けた腕には血が滲んでいる。
「Saki 殿、大事ないか!?」
声を張って仲間の安否を問う。これは襲撃者に聴かせるための演技だ。群衆を気遣っていることを気取られてはならない。知れれば、奴らはそれを利用するだろう。路上で突如振るわれた狂刃に驚いた人々が逃げ惑い、大通りは混乱に陥った。
「二人はあちらへ!」
Vienna の隠れ家がある路地を指して叫ぶ。そちらへ向かえば、地の利が得られることを見込んでの指示だった。自身は通りを挟んで反対側の露台の方へ駆け出す。とにかく、人気のない場所へ。Saki を狙った刺客が慌ただしく走っていったのと対照的に、こちらを追ってくる者の歩調には乱れがない。腕の立つ方の引き受けとなったようだ。その推測に Ramo は僅かに頬を緩めると、追跡者を迎え撃つのに適した場所を求めて周囲に目を走らせた。
共に走る Vienna の息が上がっているのを見て、Saki は足を止めた。
「このあたりで仕留めます。近くに見通しの悪い曲がり角はありませんか?」
乱れた呼吸を整えながら、Vienna は西へ延びる路地を指す。
「この先で──道が大きく──下っているところが──」
「わかりました。じゃあ、そっちへ。」
Saki は彼女の手を引いて石畳を走る。下り坂の先にはなるほど、塀で視線の通らない辻があった。
「いいですね。絶好の襲撃ポイント。」
Vienna の背を押して曲がった先の植え込みに身を隠させると、Saki は辻を振り返り、『神狩りの聖印』を握り締めた。
『血の指、ネリウス』は獲物を追って路地を駆け抜ける。久々の狩りだ、存分に楽しもうじゃないか。事前の調査により、彼女── Saki of Astora の戦闘スタイルは既に把握している。『雷の槍』と『黒炎』を主体とした攻撃祈祷と、『貫通突き』を付与した『君主軍の直剣』。距離を取られると厄介な相手だが、間合いを詰めさえすれば問題はない。短剣『レドゥビア』の連撃で詠唱の暇を与えずに仕留める。相手が初手で直剣を選ぶとも思えないが、その場合でもこちらが先手を取れるだろう。下り坂を駆け下りた先には辻。どっちへ行った? 左へ折れれば再び表通りに出てしまう。そちらの可能性は低い。となれば──レドゥビアを構え、角を回り込むようにして右へ。その瞬間、塀の先に光に光が生じるのが見えた。雷光の輝きではない──『黒炎』だ。そう判断した彼は、姿勢を低くして飛び出す。放物線を描いて飛ぶ火球では、足元は狙いにくい。だが、ネリウスをめがけて飛んできたのは火球ではなく、Saki 本人だった。
「なッ──!?」
予想外の展開に虚を突かれ、フック気味に振り出され拳で左の頬を打たれた。その衝撃に思わず跳び退きはしたものの、ダメージはないに等しい。
「聖印パンチとは確かに予想外の攻撃だが、それでここからどうするつもりだ?」
この距離なら、彼女が何をしようとこちらの攻撃の方が先に届く。強張った表情で一歩退がった Saki に合わせ、ネリウスも前に出る。間合いを取らせはしない。さらに退がる相手に歩調を合わせて追う。その白金の三つ編みを切り取って持ち帰ろうか。実体での襲撃は面倒だが、仕留めた後に「お楽しみ」があるのがいい。そんな下卑た欲望を乗せた視線の先、Saki が震える手で彼の足元を指す。つられて視線を落としたその瞬間、ネリウスは後頭部に強烈な衝撃を受けて昏倒した。先に投げ上げられた『黒炎』の火球が、真上から彼を直撃したのだ。路上に倒れた襲撃者の背を踏みつけて押さえると、Saki は後方に身を潜めている Vienna に声を掛けた。
「大通りへ出て、衛兵さんを呼んできてください。」
翁とエレオノーラを退けた男だ。軽々に仕掛けてはならぬ。事前に受けた忠告の通り、目の前の褪せ人の身のこなしには隙がない。露台の先、古竜ランサクスの遺骸とともに遺棄された区画でこちらを待ち受ける Ramo を前に、『血の指、カラス山の凶手』は緊張する。──なるほど、これは相当な手練れだ。しかしながら、血の指に叙されし者たちの例に漏れず、彼もまた己の技量を頼みとするところ大であった。確かに、攻め手の苛烈さでは序列上位の連中には及ばない。だが、俺には必殺の「返し」がある。
「行くぜ、達人さんよ。」
両の手に嵌めた『猛禽の鉤爪』を構え、低い姿勢で突進する。相手が構える打刀の間合いに入る直前、地を蹴って左へ。この高速の陽動に対応できる者は多くない。実際、彼はこの戦法で多くの褪せ人を狩ってきのたが、この獲物には通用しないようだ。こちらが跳ぶ先に視線が先回りしている。さすがは「剣鬼」とも称される遣い手──では、これでどうだ? 着地の前に空中で身をひるがえし、逆方向へ切り返す。慣性を振り切るこの機動からの振り上げに常人の反応速度で追いつくことはできまい。
「──っ!?」
標的の無防備な側面へ回り込んだはずの彼が見たものは、こちらに向けて振り降ろされる打刀だった。動きを読まれた!?──だが、必殺の一手はここからだ。カラス山の凶手の姿は舞い散る羽根の幻影を残して瞬間に消え去った。走る刀身が空を切る。戦技『霧の猛禽』──次の瞬間、彼は Ramo を頭上から見下ろしていた。奴はこちらの姿を見失ったはず。こいつを仕留めれば、血の指の筆頭は俺だ。身を翻し、眼下の獲物に襲い掛かる捕食者の爪は、しかしその標的に届くことはなかった。鳩尾の下方、横隔膜の位置に叩き込まれた Ramo の拳。その一打は標的の呼吸を止め、同時に全身の自由を奪った。突き上げられた左腕に支えられるように一瞬静止した後、彼の身体は石床の上に落下する。白目を向いて痙攣する襲撃者を担ぎ上げ、Ramo は大通りへと引き返した。
「この王都で斯様な狼藉を許してしまうとは、詫びのしようもなし。」
宮殿を訪れた Ramo に対し、モーゴットは深々と頭を下げた。事の次第については、既に衛兵隊を通じて報告が上がっていたようだ。如何に警備の落ち度があったとはいえ、ローデイルの王が一介の褪せ人に深謝する様を前に、Saki と Vienna は思わず顔を見合わせた。
「いや、元を辿ればこちらの因果によるもの。故に、そのように畏まることのないよう願いたい。」
卓の上には茶と菓子。飛び入りとなった Saki の分も、些かの間に合わせを感じさせることもなく供された。傍らには侍女が控え、茶のお代わりを注ぐタイミングを伺っている。先の襲撃によって予想外の始まりとなった会合も、やがて本来の議題へと戻った。
「この後すぐにでも黄金樹の調査に入れるよう、手筈は整えてある。各種器具や助手を務める者も用意した。不足があれば言ってもらいたい。」
「お心遣いに感謝します。」
モーゴットの申し出に、Vienna が頭を下げる。そう、彼女がローデイルへ戻ってきたのは黄金樹を調べるためだ。黄金樹は現在、その内側から「拒絶の棘」によって封印されており、何人も内部へと踏み入ることができなくなっている。導きに従って玉座にたどりついた褪せ人はおろか、これを「護って」いたモーゴットでさえも、女王マリカに見えることができない状況が続いていた。畢竟、新たな「エルデの王」の即位も成し得ない。これは明らかに『大いなる意志』ないしマリカが褪せ人たちに授けた使命と矛盾する。円卓に座する『二本指』も混乱し、大いなる意志からの指示を待機するために停止してしまった。この手詰まりを打破するため、モーゴットは学識ある者に黄金樹を調査をさせることを決心する。その担当者として指名されたのが、Vienna だった。
「ただし、黄金樹は王都の──いや、狭間の地の民の心の拠り所でもある。この事実に留意し、十分な配慮を以て調査を進めてもらいたい。」
「承知いたしました。私も元はローデイルの住人。信心厚いとは申せませんが、人々が黄金樹に向ける敬意は理解しているつもりです。信仰に抵触する恐れのある事案が生じた場合は、事前の報告と相談を約束致します。」
彼女の言葉に、モーゴットは満足そうに頷く。続いて二つ三つ言葉を交わした後、Vienna は「では早速」と玉座の間へ向かった。Saki はどうしようかと迷ったが、モーゴットが Ramo と内密の話をしたがっていることを察し、Vienna について行くことにした。去り際、振り返って Ramo を見遣る。
「この服の感想、聞きたかったんだけどなあ。」
届かぬ呟きをその場に残し、Saki は執事に先導される Vienna の背を追いかけた。
二人が去ると、モーゴットは給仕を務める侍女も退出させた。茶を勧める仕草に応じて、形だけ口を付ける。これほどに話し難き用向きとは何であろうか。
「──血の王朝へ攻勢をかけると聞き及んだ。」
この切り出しに、Ramo は少々驚いた。それは彼に近しい限られた者しか知り得ない──と思っていた──事柄だったからだ。こうして呼びつけたということは、何らかの方法で裏付けも得ているのだろう。否定するのは得策ではない。
「左様。しかし、如何にしてそれを?」
この反問に、モーゴットはゆっくりと首を振る。
「情報収集のため各所に密偵を放っている。ゲルミア、リエーニエ、ケイリッド、そしてリムグレイブにも。それは誓ってストームヴィルへの敵対を意図してのことではない。ケネス殿──ひいてはネフェリ王も気付いてはいるだろうが黙認してくれている。もっとも、こちらもストームヴィルの諜報に干渉せぬようしているので、お互い様といったところだが。」
王都を統べる者としては当然の手配と言えるだろう。こちらにまったく気取らせなかったことから、隠形に優れる者を抱えていることも知れた。さすがは王都、といったところか。
「先にも伝えた通り、『血の王朝』──別名『モーグウィン王朝』を率いているのは、我が双子の弟モーグだ。幼き時分より、この王都の暗部『忌み捨ての地下』で助け合って生きていた。地上へ出てからは顔を合わせてもいないが、それでも同胞としての絆がある。この件に関して、我はローデイルの統率者としても、また個人としても、貴公に対して一切助力しかねる。だがその一方で、これを妨げる意志もない。まずはそのことを伝えておきたかった。」
確かに、血の王朝への対応は彼にとって非常に複雑なものであるだろう。ローデイル王という立場は、モーゴット個人としての感傷を許さない。
「承知した。その心労、察するに余りある。」
Ramo の返答に、モーゴットは僅かに表情を和らげた。しかし、それもまたすぐに曇る。
「だが、此度の襲撃で事情が変わった。市民の殺傷も辞さぬ行動に出た以上、こちらとしても看過できぬ。そこで、ローデイルの意思として貴公にこれを託したい。」
その言葉と共に差し出されたのは、徽章の入った小さな袋。
「黄金樹の恩寵だ。呪いに抗し、貴公を護るだろう。」
「拝領致す。王都臣民のため微力を尽くすことを。」
Ramo がこれ受け取り懐に収めたことを確かめると、モーゴットはこちらに背を向け続け、声を落として続ける。
「それから、いまひとつ。これは、我個人としての要請──いや、請願となるのだが。」
逡巡を感じさせる間を置いて、彼は言葉を継いだ。
「モーグが重ねた所業を考えれば、貴公がこれを討つは正当。ローデイル王としても、それを制する理由はない。だが──もし叶うならば、奴が何故にこのような暴挙に出たか──破砕戦争に乗じたミケラの略取に端を発する一連の行動の理由を探り、それを持ち帰って貰いたい。それが、兄としての最後の願いだ。」
王としての責任と、兄としての情。強大な力を持つ半神とて、その狭間で揺れる心情は人と変わるところはないようだ。
「承った。我らの友誼に誓い、必ずや。」
差し出された Ramo の手を、忌み王はそっと握り返した。
玉座の間を訪れた Ramo の姿を見留め、Saki が駆け寄ってきた。
「男同士の内緒話は済んだんですか。」
含み笑いをしながらそう問う彼女に頷きを返す。
「ああ。モーゴット殿は、後程 Saki 殿とも話したいと言っていた。──ところで、Vienna 殿はどちらに?」
「あの階段の先に。助手の人たちと調査の計画を立ててるみたいです。」
示された方を見遣ると、Vienna が如何にも研究者といった風情の男女二名と、何やら熱心に語り合っていた。どうやら、邪魔をしない方がよさそうだ。Saki へと向き直り、彼女への言伝を託す。
「某はこれにて失礼仕る。帰路の護衛はモーゴット殿が手配するとのこと。この旨、お伝え願いたい。」
「もう帰っちゃんですか? ──ええっと、Vienna さんへの伝言は、確かにお預かりしました。」
一礼の後に踵を返した Ramo だったが、その行く手は小走りで回り込んできた Saki によって遮られた。予想外の行動に、戸惑いながら訪ねる。
「──まだ、何か?」
その問いに、彼女は不満げに頬を膨らませてたが、すぐに笑顔に戻り、その場でくるりと回って見せた。その動きに合わせて、ふわりと舞う純白のクローク。その優雅な様に、初めて彼女に会ったときに覚えた「天女」の印象が甦る。
「どうです、この服? ノクローンで手に入れたのを、仕立て直してもらったんですよ。」
以前彼女が着ていた『ラズリのローブ』のゆったりとした外観と対照的に、この『ノクス剣士の鎧』は動きの妨げとならぬよう身体にぴたりと沿う造りになっていた。そのため、胸から腰にかけてのラインが露わとなり、見ようによっては大変に艶めかしい代物なのだが、絹の上掛けがそれを適度に覆い隠すことで品位のある佇まいが保たれている。その加減の妙に大いに感心する一方、これを適切に表現する言葉が出てこない。
「新しき装いも、よく似合っているかと。」
あれこれと考えを巡らせた末、そう述べるのがやっとだった。胸の前で両の拳を握り締めた Saki が、彼をまっすぐに見据え訴える。
「うーん、もう一声!」
これはいったい、どういう状況なのか。まったく以て不可解ではあるが、彼女を満足させる評を出さぬことにはこの場から立ち去れぬことだけは理解できた。
「実に──愛らしく。」
二人の立ち位置と、気後れから小声になってしまったことが重なり、意図せずして耳元で囁く格好になってしまった。赤面して立ち尽くす Saki を残し、Ramo は足早に王宮を後にした。
数日後──リムグレイブの遥か地底。Ramo はシーフラ河の岸辺から、対岸の遥か上方に見える神殿──『モーグウィン王朝』を見つめていた。落ちた星が穿った穴を通して至った永遠の都ノクローンを経由しても、あの場所へたどり着くことはできなかった。この長大な崖を渡る術はなし。──地に縛られし人の身なれば。
「準備はできたか?」
隣に立つ少女が、こちらを見上げて尋ねる。年の頃は十を少し過ぎたほど。緑がかった白色の髪。静脈が透け、ひび割れたように見える灰色の肌。左目の周囲に大きな傷跡があり、眼窩には明らかに義眼と知れる球状の輝石が嵌め込まれていた。服を着ているというより、長い布を雑に身体に巻き付けているという方が近いだろう。無数に散らばる木の枝や小石をものともせず、裸足で地面を踏みしめている。
「ああ、頼む。」
そう言って頷いてみせると、少女は肩口の留め具を外した。布が音もなく肌の上を滑り落ちる。一糸まとわぬ姿となった彼女は、崖に向かって大きく伸びをした。
「久しぶりに羽を伸ばせるな。」
Ramo は湿った土の上に落ちた布を拾い上げ、近くの木に巻き付けて結ぶ。
「衣はここへ。回収を忘れぬよう。」
「おう。」
直後に響いた地鳴りと咆哮。そして、続けざまの突風が辺りに吹き荒れる。そして──。驚いて逃げ散った獣たちが恐る恐る戻ってきたとき、既に岸辺に二人の姿はなかった。そこに残るは、巨大な爪痕のみ。見上げれば偽りの夜空を裂いて飛ぶ影が見えただろうが、それに気付く者はなかった。
第20話『褪せ人 Saki と魔女の糸』投稿予定: 2026-10-08 朝