褪せ人 Ramo と Saki の物語   作:Skinny Slaver

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モーグウィン王朝への侵入を果たした Ramo は迎え撃つ血の指そして白面たちを退け、遂に君主モーグと対峙する。

強すぎる能力には、相応の制限が必要なのだ。



褪せ人 Ramo と盟約の王 (後編)

西へ大きく張り出した崖の突端は、この遺跡にあって腥なまぐさい匂いを嗅がずに済む数少ない場所のひとつだった。彼方に広がるシーフラ河を見下ろし、翁は吹き上がってくる清浄な風に鼻を鳴らす。明けぬ夜に沈む都は、永き時を経てなお変わらぬ佇まいを見せていた。その眺めを楽しんでいた彼の背後で、草を踏む音が立つ。見上げた先には、黒鉄の鎧に身を包んだ女の姿。

「エレオノーラ、お主もやられたか。」

その呼びかけに彼女は頭を振りながら、回り込んで翁の前に腰を下ろす。

「いったい何なんだ、あれは。」

苛立ちが滲む声。その胸中は容易に察することができた。何故なら、自分もつい先ほど彼女と同じ目に遭ったからだ。

「どうだった? 一太刀くらいは入れられたか?」

その問いに、エレオノーラは翁を睨み返す。

「──あんたは?」

余程に悔しいのだろう。答えるのを避けたつもりが雄弁に語ってしまっていることに気付いていない。

「まったく掠りもしなかった。振るまでは──いや、振りきった後ですら奴を捉えたことを確信しているのに、気付けば空を切っている。」

「こっちも同じだ。とても現実とは思えない。」

エレオノーラが空の右手を目の高さに掲げて見せる。青紫色に変色した人差し指と中指、そして手の甲。ひどく腫れ上がり、およそ物を掴むことなどできそうにない。先ほどから得物である双薙刀を左手だけで掴んでいた理由はそれか。

「存外に助平な奴よ。女には甘いようだ。」

岩肌に両の脚を投げ出して座っていた翁が、右の膝を持ち上げて見せる。吊られて脛が持ち上がるが、中ほどから力なく垂れ下がっていた。

「あっけなく折られてしまった。峰の一撃でぴしり、とな。」

彼はさらに懐から常に着けていた面を取り出す。笑みを浮かべた「翁」の顔は、正中線に沿って真二つに割られていた。

 

「何故、当たらないんだ?」

「さてなあ。それが判っていれば、もう少し粘れていただろう。だが、今こうして冷えた頭で思い返してみるに──」

言葉にしながら、再度思い返す。己の太刀筋、相手の動きを。

「あやつはこちらよりも先に動いていた。打ち込む筋から紙一重逸れた所へ、すいと体たいを滑り込ませるのだ。」

「考えを読まれていたというのか? ──いや、ありえない。」

そう、ありえない。仮に、それでこちらの攻撃がすべて躱されたのだとすれば、彼我の間に師範と初めて木刀を握った童ほどの実力差があることになる。半月ほど前に相対した際にはそのような差はなかったはず。相手の必死の一撃に敗れはしたものの、均せばこちらが優位でさえあった。この僅かの間に、奴はいったい何を掴んだというのか。

「今頃は、白面たちが大慌てで出迎えに行っているだろうな。」

それを聞いてエレオノーラは苦笑する。

「我らがこうして形もなく退けられたのだ。雑兵どもが出て行ったところでどうなるものでもあるまい。」

「同感だ。」

短い沈黙の後、彼女は背後の崖を仰ぎ見つつ翁に尋ねた。

「モーグはあれに勝てると思うか?」

エレオノーラの問いに、翁は側頭に指を当て目を細める。

「聖槍と血炎祈祷だけでは難しいだろうな。──だが、君主殿には『数え上げる呪い』がある。」

地の底で見えた存在──本人は「真実の母」と疑わぬ──よりその血に授けられた忌まわしき力。それは触れずともすべてを縛り、裂き、爛れさせる。そしてそれこそが、剣の腕では優に勝るこの二人が血盟に参じ、形ばかりのこととはいえモーグを仰ぎ見る立場に甘んじている理由だった。

「そうだな。如何に素早く身をこなしたとて、あれからは逃れられん。」

「とは言え、あれも一度限りの奥の手。もし凌ぎ切られれば、次はない。」

結論をどちらにも着けぬ翁の物言いに、エレオノーラは咎めるような眼を向ける。

「先ほどから、だが、しかし、けれどもと、落ち着かんな。結局どっちが勝つと思うんだ?」

「わからん。さっぱりわからん。」

気付けば渦巻いていた無念は凪ぎ、胸中は静穏。瞬かぬ紛いの星が鏤ちりばめられた夜空を見上げ、彼は呟いた。

「敗者たる我々に、優る者の勝負を語るは能わぬのだ。」

 

 

鳩尾に柄頭を叩き込まれた男は膝、顔の順に地面に崩れ落ちた。襲い掛かってきた白面はこれで三人。今はいずれも遺跡の入口からこの場所へ至る道の途に転がり、苦悶の呻きを上げている。先に対峙することになった翁、そしてエレオノーラに比べれば何ほどの敵でもなかった。Ramo は『打刀』を鞘に納め、再び石段を上っていく。平時と変わらぬ歩調を刻みながら、彼は自身の感覚に生じた変化について思いを巡らせていた。──始まりはラダーン祭。翁と剣を交えたときから予兆はあった。相手が仕掛けてくる直前、視界が僅かに霞む。まずは自身の不調を疑った。ことによれば、深刻な疾病の症状かもしれない、と。視界に生じる異常はその後も消えることなく、徐々に具体的な像を結ぶようになった。はっきりと認識したのは、古遺跡断崖でのエレオノーラとの戦いの終局。相手の刃がこれから走るであろうその軌道が、白く輝く筋となって見える。無論、最初は自らの読みに対する過剰な確信が生み出す幻覚だと思った。しかし、幾度繰り返しても、刃は光の流れに吸い寄せられてでもいるかのように寸分違わず同じ軌道を描く。その後も敵と対峙するたびに確かめてみたが、やはり同じように相手の仕掛ける攻撃の先が「視える」。実際は背後からの攻撃も検知できるので、視覚への投影は副次的な作用にすぎないのかもしれないが。この感覚は陽動フェイントを嗅ぎ分けることもできた。実際に振る決意を伴わない見せかけの動作は光を放たないのだ。視える筋を躱して踏み込んでいけば、自分より格上と思われる相手を圧倒することも難しくない。それは、あの二人との戦いでも証明されている。

 

足を止め、さらに半歩下がる。次の瞬間、目の前を紅の残像が通り過ぎた。成功を確信していたであろう奇襲を躱された敵は、着けた白面の上からでもそれとわかる動揺を示した。これで四人目だが──この男には見覚えがある。

「ヴァレー殿がお出でになるとは。」

「やはり容易な相手ではない。しかし、それでもここを通すわけには参りません。」

Ramo が狭間の地で最初に言葉を交わした相手が、この『白面のヴァレー』だった。曰く、おまえは巫女なしだ。曰く、丘の上の城を目指せ。その助言が右も左も判らぬ当時の自分に有用なものであったことは認めざるを得ない。しかし同時にそれは、褪せ人たちを相討たせんとする謀略の端緒でもあった。

「あなたが如何にしてここへ足を踏み入れたかは存じませんが──」

目の前に輝く球体が現れる。これは右手に持つ打撃武器『ヴァレーの花束』の軌道ではない。避けて回り込んだ直後、相手が伸ばした左手の先で炎が炸裂した。今度は光の筋が下から掬い上げるように。間合いから踏み込みを読み、その位置に抜き打つ。花弁を模した刃と擦れ違う剣閃が浅く、しかし正確に敵の右腕の内側の腱を断った。握力を失った手から離れたメイスが地面に転がる。

「退かれよ。既に勝負は決した。」

そう言いながらも、Ramo はヴァレーが諦めるとは考えていなかった。モーグへの忠心故に、その選択肢は採りえない。その立場にあれば、自分も同じことをするだろう。たとえ、千に一つの勝機もなくとも。

「まったく、因果なものですねえ。」

「ああ、互いに。」

左手の聖印を『慈悲の短剣』に持ち替えるのが見えた。白面の奥の目には迷いも恐れもない。短く息を吐くと、Ramo は己の喉元目掛けて直線で走り来る気配を躱し、その内側へと鋭く踏み込んだ。

 

 

天が近い。シーフラ河からも目立って見えた頂の構造物──白亜の神殿を見上げ、Ramo はそんなことを思った。目指す仇敵『血の君主モーグ』は既に自分の接近を察していることだろう。ここまでの道中で相対してきた者たちも決して弱卒ではなかったが、半神デミゴッドとなればまた格が違う。果たして、この「能力」は通用するだろうか。攻撃の先が読めるとはいえ、それは万能ではない。まず、仕掛け罠の類の発動は一切関知できない。また、捨て鉢になった敵が盲滅法に振り回す武器が放つ光はぼやけて精確な軌道が掴めないことが多かった。それらの事実から、Ramo は自分が見ているものは相手の「殺気」ではないかという仮定を置いていた。先日対峙したルーンベアが繰り出す爪の軌道が僅かにぶれて視えたのも、獣の意識が人のそれほどに明瞭な輪郭を持たぬからだろう。考えながら歩くうち、切り立った崖の手前に設置された昇降機へと至った。これに乗れば、神殿は目の前だ。たとえモーグの殺気が視えなかったとしても構いはしない。偶然に与えられた能力に頼って戦う心算など端からないからだ。──いや、急くな。その前に質すべきことがあるだろう。決意の後になお残る僅かな躊躇いを抱えたまま、起動装置を踏む。岩塊が低い唸りと共に迫り上がり、闖入者たる彼を王の御前へと運んでいった。

 


 

──トレース

遺憾ながら、対話は成らなかった。神殿の最奥に安置された巨大な繭。そこから突き出た、彼がミケラと呼ぶ者の萎びた腕に向って何事かを申し伝えると、モーグはこちらへ向けて槍を構える。幸いなことに Ramo の感覚はモーグが放つ殺気を明瞭に捉えていた。突き出される穂先を避けて右へ。モーグが払った左腕が宙に残した爪痕に血炎が爆ぜる。

 

──ドゥオ

研ぎ澄まされた意思によって放たれる攻撃はいずれも鋭く、それ故に軌道は正確に知れた。

「矛を収め、話し合う気はないか?」

合間を縫って軽い打ち込みを加えつつ問いかけるが、返答はない。やはり、痛打を与えて戦闘能力を奪うところから始めなければならないか。全くの優勢で運びつつも、結局は武力以外に解決を術を持たぬ己に小さく失望する。

 

──ウーヌス

『数え上げる呪い』については、モーグの兄にしてローデイルの現王『忌み王、モーゴット』から聞き及んでいた。閉じ込められた地の底で自らの血の内に宿した、神の力の片鱗。敵の切り札でもあるそれを打ち破れば、あるいは戦意を奪えるかもしれない。見込みは大きいとは言えないが、賭ける価値はあるだろう。そして、その時は来た。

 

──ニーヒル!

──ニーヒル!

──ニーヒル!

モーグが呪言を紡ぐたび数を増やした Ramo を取り巻く緋色の輪が弾け、彼の血を体内から押し出そうとする。口中に広がる血の味と、全身を走る刺すような痛み。だが、呪いはそれ以上の効き目を現さない。神殿に踏み入れる前に飲んだ、『浄血の結晶雫』を配合した霊薬の作用が彼を呪いの支配から遠ざけていた。

「馬鹿な!?」

これまであらゆる敵対者を斃してきた呪いの不発に、モーグが動揺を見せる。ここでさらに一押し。Ramo は打刀を構え、巨大な聖槍を構える相手の腕、その肘の内側に『貫通突き』を打ち込んだ。モーグの巨体が石床の上に伏せる。今ならば、或いは。

「この期に及んで、状況を過つ愚者ではあるまい。半神たるに相応しき果断を願う。」

荒く息を吐きながら、血の君主は遂に Ramo の呼び掛けに応じた。

「褪せ人が、この我に何を話すというのか?」

打刀の切っ先を地に向け、一歩進み出る。ここで対応を間違えるわけにはいかない。

「識りたきことは二つ。順に問うていこう。破砕戦の折、貴公は何故にミケラを拐したか。」

「──ミケラ?」

呟くモーグの双眸が Ramo に据えられる。問いの意味を計りかねている、といった様子にも見えた。彼はゆっくりと頭を巡らせ、背後の繭に目を向ける。あの枯れた腕がミケラだというのは本当なのだろうか。そもそも、生きているのかも疑わしい。

「私は、ミケラを──いや、ミケラに──。」

モーグの声が揺らいだ。まるで意識が混濁している者の話し方だ。それほどの痛手は与えていない筈なのだが。

「ミケラは、そこにいる。お待ちください。私が──。ミケラは──」

頭を落とす一方、その声音だけが徐々に高く、速くなっていく。

「ミケラは私のものだあああっ!」

絶叫と共に、その背から翼が飛び出した。損傷しているはずの右腕で再び聖槍を構えて立ち上がるモーグ。その眼は黄金の光に溢れ、怪しいまでに爛々と輝いてた。

 

槍の形をした殺気を躱した Ramo は異常に気が付いた。攻撃の実体が来ない。だが、考える間もなく次の殺気が飛び込んでくる。仕方なく切り返してこれを避けたところへ穂先が打ち込まれてきた。血飛沫。慌てて距離を採る。傷を受けたのは左肩の後方。深手ではない。それよりも問題なのは──感覚の裏切り。今のように放たれる殺気と実際の攻撃がズレている。時間的にも空間的にも殆ど一致していない。

「あ、与えようぞ。渇くことのないしゅ、修羅の──」

再起してこちら、モーグは盛んに言葉を発しているのだが、そのいずれもがまったく要領を得ぬ呟きである。黄金に輝く瞳は焦点を結ばず、こちらに向けられてすらいない。いや、時折鋭い視線が Ramo を捉えるのだが、数秒と経たぬうちに虚空を彷徨い始める。

「おお、ミケラ! ついに私を導いて──くださって! そして、今ああ!」

いずれにせよ、これ以上「殺気を捉える」感覚に頼るのは危険だ。視えてしまっているものを無視することは難しかったが、他に方法はない。元来の技巧を失い、ひたすらに槍と爪を振り回すだけの怪物と化したモーグの動きを封じるべく、手足の先に狙いを定めて刃を打ち込んでいく。情報を得るためにも生かしておきたいが、暴れ狂う半神にそれが可能かは確証が持てない。Ramo の身体にも、手傷が重なってきている。長引けば不利となるのは明らかだった。

「──やはり脚、か。」

翁の戦意を挫いた手段。機動力を皆無に近いところまで削げば、どれほど血気に逸る者とて勝ち目のないことを悟らざるをえないだろう。だが、老剣客のそれより三倍は太いモーグの脛を Ramo の『打刀』で折るのは不可能に近い。だからといって、刃を立てて切断すれば命までをも奪いかねない。頭上から突き立てられた槍を躱し、相手の軸足に切っ先を向ける。狙うは足首の腱。放たれた『貫通突き』は過たずこれを捉えた。刃を天に向けて突き刺さった刀身を振り上げる。大きな抵抗と共に伝わり来る破壊の感触。咆哮と共にモーグは再び倒れ伏した。石畳に爪を立てながら呻くその様を見下ろす。動きを封ずることはできたが、事ここへ至って対話などできるものだろうか。

 

不意に濁った音を聞く。反射的に見遣ると、モーグの周囲に血溜まりが生じていた。彼の身体から流れ出たものかと思ったが、どうもそうではないようだ。その赤い液体は石畳から染み出し、その上に伏すモーグを浸していく。そして──彼の身体がその内へと沈み始めた。逃走用の魔術か──? 慌てて襟首を掴むが、引き込む力は存外に強く、下手をすればこちらまで引き込まれかねない。咄嗟に手を放して数秒後──モーグの姿は完全に沈み、血溜まりも床の継ぎ目に吸い込まれるように消失した。辺りを見回し、Ramo は舌打ちする。

「やられた。」

最奥に安置された繭。その裂け目から突き出していたミケラの腕も忽然と消えていた。破砕戦争、エオニアの惨劇、王朝の建設、血の指たちの暗躍──。それらの事柄が、一本の糸の上に然るべき位置を得て並ぶ。モーグも駒でしかなかったというのか。打刀を握る手は震えていた。

「──巫山戯ふざけるなッ!!」

空となった繭を睨み、Ramo は叫ぶ。ケイリッドの大地、将軍ラダーン、血の指に狩られた褪せ人たち。もはや贖うことなど望むべくもない膨大な犠牲を生んでおきながら、なおもこの地の行く末を賭けた博打を続けようというのか。裂帛の気合を込め、繭へ袈裟懸けに刃を叩きつける。繭は音もなく解け、舞い上がる細い糸の束は偽りの夜空に溶けるように消えていった。

「民の──我らの命運を弄ぶことに、未だ飽き足らぬと言うのか。」

波立つ心を静めるため、納刀の動作を普段よりもゆっくりと行う。しばし無言で佇んでいた Ramo は、一礼の後にその場を後にした。無人となった白亜の神殿は再び長い静寂へと沈む。ここしばらくの騒乱など、見上げる夜空の永遠に比すれば瞬きひとつの間のことでしかない。

 


 

「終わったな。──あれは、目的を達したことを向こう岸の仲間に伝える合図だ。」

頭上で弾けた青白い光を見上げ、翁は呟いた。

「薄気味悪い "王朝" もこれにて解散、か。まあ、頃合いではあった。」

「なんだ、嬢は "お役目" を厭うておったのか。」

その問いに、エレオノーラは口の端を歪める。

「何処其処へ行き、誰其を斬ってこい。そんな任務の何が面白いものか。──それはそうと、その呼び方はやめてくれと言ったはずだが。」

「おお、済まぬな。」

そう謝しながらも、翁に悪びれる様子はない。この屈託のなさこそ、彼が剣呑滅法のエレオノーラとこうして話を続けられる数少ない人物の一人である理由だった。

「手柄に飢えた同僚から向けられる敵愾心も鬱陶しい。何が序列だ。道を外れた者たちが、群れの中で地位を争っても見苦しいだけだろう。自分の方が優れていると思うなら、武器を手に挑んでくればよい。」

身も蓋もない言い様に、翁は苦笑する。カラス山と、それに──ネリウスだったか。王都での任務にしくじり戻らぬと聞いた。討たれたか捕縛されたかまでは知らぬが。

「確かに、手放しで良い所帯とは言えぬものだったな。」

「まあ、その中であんたは──マシな方だったよ。」

そう言うと、エレオノーラはその端正な顔を僅かに綻ばせた。

 

竜を狩る生活に戻る。そう言って去ったエレオノーラは、しかしすぐに引き返してきた。

「もうこの爺が恋しくなったか?」

「馬鹿を言え。──今あちらへ向かうと、戻って来るあいつと鉢合わせになる可能性が高い。」

言われてみれば、確かに。こちらから手を出さぬ限り、向こうから仕掛けてくることはなかろうが、きまりが悪いことは確かだ。

「もう少し、ここで時間を潰していく。」

エレオノーラが袂から小さな紙の包みを取り出した。開く前から匂いで中身は知れる。

「煙草だな。葦の地から持ってきたのか。」

「これで最後だ。火を起こしてくれたら半分吸わせてやる。」

投げ捨てられた包み紙は、風に乗り夜空の彼方へと吸い込まれていった。少しの間を置いて、闇の中に小さな明かりが浮かぶ。辺りに漂う紫煙の匂い。しかしエレオノーラは二、三口だけ味わった後、すぐに煙管を翁へと手渡した。

「吸い切ってしまってくれ。残さなくていい。」

「そうか。では、有り難く。」

懐かしい香りが胸中を満たし、遠い過去を呼び起こす。所領に攻め入ってきた強国との戦に明け暮れた日々。あの時肩を並べた友たちは今どうしているだろうか。我ながら詮なきことを思い返すものだと思いながら、翁は細く息を吐く。立ち昇る煙は儚い記憶と共に闇の中へ溶け、後には何も残さなかった。

 

 

血の池を抜けて「着陸地点」へと向かっていた Ramo は、向こうから件の少女が走って来るのを見留めた。その衣服は先刻よりも一層に着崩され、布の半分ほどは地面を引きずられている。子供の見てくれでなければ、目のやり場に困る──いや、目も当てられぬ様となっていたことだろう。

「その格好でうろついていたのか。」

「そこらには鴉と犬しかおらんし、問題なかろう。どうせすぐに脱ぐんだ。」

そこからは連れ立って崖際への道を歩いた。無言の Ramo を見上げて少女が問う。

「いつも黙っているな。今は何を考えているんだ?」

「ん? ──色々だ。モーゴットに事の次第を如何に説明したものか、など、そんなあれこれを。」

少女は小さく「ほう」と呟いた。どの程度理解しているのかはわからぬが、稚い外見との大人びた仕草の取り合わせに、危うく笑みを漏らしそうになる。

「その色々、後で詳しく聞かせてほしいものだ。」

「時間があれば、な。」

 

ほどなく二人は崖際へと至った。少女はかろうじて身体に掛かっていた布を乱雑に巻き取ると、その塊を Ramo に手渡す。戻ったら再度服の着方を教え込まなくては、と考えつつ受け取った。

「帰りは、ちょっと面白い戻り方をしてみようと思ってな。」

そう言って破顔すると、少女は数歩退がってから崖に向かって駆け出す。際の手前で踏み切ってその身を虚空へと躍らせ──そのまま落ちていった。しかし Ramo は慌てることなく、ゆっくりと歩いていく。

「呆れた落ち着きのなさだが、周囲を欺くには都合が良いかもしれぬ。」

崖下で低い音が響き、次いで風が吹き上がってきた。視界を下から上へ通り抜けていく影。その飛ぶ先を目で追いつつ語り掛ける。

「あまり待たせないでくれ。早く地上へ戻りたいのだ。」

太陽と黄金樹の光に満ちた本物の空を頂く世界が、今の Ramo にはひたすらに待ち遠しかった。




第22話『褪せ人 Saki と爛るる屍』投稿予定: 2026-10-10 朝
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