褪せ人 Ramo と Saki の物語 作:Skinny Slaver
プロットの辻褄が合わなくなって何度も書き直し。主人公の新技とその名前を考え出すのが一番しんどい作業でした。
未だ昼の手前だというのに、広間は薄暗かった。差し込む光は弱々しく、窓際を通る者たちの影さえ結ばない。先を進む男が、湿った絨毯を踏んで奥の卓に近付く。燭台に火が入れられると、ようやく辺りの様子が目に入るようになった。左右に並べられた長卓と椅子、化粧の剥げた石壁、中高になった木製の天井。
「それで、先ほどの話の続きだが──」
連れの二人を振り返って男が言う。一方は、Uriela という灰色のローブを着た長身の女。赤髪に瘦せた頬。美貌の主であることは間違いないが、その瞳の奥には対する者を射竦めるような闇が宿っている。もう一方のフィアはそれとは対照的に、至極柔らかな印象の女だった。黄金色の髪に映える、明るい空色の瞳。修道女を思わせる黒衣を纏っているが、その薄布は肉体が放つ豊穣の匂いを些かも薄めていなかった。
「生まれ変わりとは、俄には──。いや、疑っているわけではない。大恩ある貴公らの申し出なのだから。」
当惑気味にそう述べる男はこの城の主であり、名をマレー・マレーという。一族の他の男の例に漏れず宿痾と共に生まれた彼の顔は、未だ四十を数えぬにもかかわらず、既に病み疲れた老人の相を呈していた。物珍し気に広間を見回していた Uriela が、彼に視線を戻し、口を開く。
「無理もない。人とは、生まれついた器に縛られるものだ。常に共に在る肉体が自らの本質であると思い込むのは、自然な成り行きと言えよう。しかし──」
天井を支える梁を見上げ、ゆっくりと弧を描くように歩きながら続ける。
「器に不都合があるならば、その中身──魂を別の器に移せばよい。容易いこととは言わぬが、さりとて夢物語にも非ず。現にこの私は──」
そう言って、Uriela はフィアを背後から抱きしめた。その右手は臍の下に添えられている。
「十日ほど前に、この女の胎から生れ出たのだからな。」
「なんと──。」
マレーは絶句し、フィアの顔に視線を漂わせた。Uriela 殿は正気を保っておられるのか? フィアは頷き、彼の困惑を甘い声音で包み込む。
「Uriela 様の仰ることは紛れもなき真実。清き魂には、清き器を。この身は、それを捧げるためにあります。」
頭の中で何を思い描いたものか、マレーの瞳に歓喜の光が宿った。
「その通りだ。清き魂には、清き器こそ相応しい。蝕まれた肉体を捨て、新たな肉体へ生まれ変わる! なんと明快な!」
腕を広げ快哉を叫ぶ彼に、フィアが囁くように問いかける。
「ただし、再誕が成るには相応の手筈を要します。城主殿にもお力添え頂くことになりましょう。」
「ああ、ああ。なんなりと言ってくれ。如何なる犠牲をも払う価値が、この企てにはある!」
密かな視線を交わす女二人。──この男は「生まれ変わり」という希望に憑りつかれた。すべてをかなぐり捨て向かう先に待つのは破綻かもしれない。だが、それは我らには関わりのないことだ。
古遺跡断崖を抜けアルター高原へ入った Ramo は、ひとまず祝福『黄金樹を望む丘』を目指した。通常の経路である『デクタスの大昇降機』を経由しなかったのは、特段の理由あってのことではない。ただ、誰かに話し掛けられることなく考えを巡らせることのできる時間が欲しかったためだ。未だ見えぬ剣の頂、ミケラの追跡を続ける可きか否か、黄金樹への侵入を阻む拒絶の棘、知己たる褪せ人の Saki が求める『死の根』を焼く方と、それを妨げんとする者たちの存在──等々。懸案は尽きぬが、その静かな思索も終わりに近づきつつあった。ここから街道を目指して西へ進めば、ローデイル軍の検問にぶつかる。ローデイル王であるモーゴットの「盟友」として知られる Ramo が足留めされることはないが、それでも何やかやと尋ねられるのが常なのだ。
祝福を過ぎた辺りで、Ramo は『ルクスの廃墟』に面する道に立つ人物に気が付いた。黒に近い茶の服を着た女性。その手に鞄の類はなく、また武器を携帯している様子もない。つまり、まったくの手ぶらであるように見える。ローデイルに平和が戻りつつあり、また兵の常駐する検問が近いとはいえ、余りにも無防備だ。けれども、如何にも人待ちといった風情ではある。余計な世話を焼かぬ方が良いかもしれない。そんなことを考えつつ通り過ぎようとした Ramo だったが、女は彼の行く手を遮るように道の中央へ進み出てきた。
「腕の立つ方とお見受けします。どうか、力をお貸しください。」
「如何なされた?」
助けを求められては無下にもできない。促して道の傍へ移動しつつ、目を走らせる。銀の短髪に、精悍な顔つき。正確な年齢は測りようもないが、少なくとも自分よりは若いだろう。その瞳に微かに揺らめく黄金の光は、彼女が褪せ人でないことを示している。
「慈悲深き御方に出会えました。私はこの先にある日陰城に仕える者で、侍女の Arianell と申します。」
「Ramo という。見ての通り褪せ人なれど、差し支えなければ仔細をお聞かせ願いたい。」
平民の服とはどこか違うと思ったが、お仕着せと知って得心がいった。手首足首を紐で締める形の、動きやすさを重視した装いだ。普段はこれに前掛けが付くのだろう。Arianell は思案顔で話を切り出した。
「日陰城の主が、処刑人の一族として知られるマレー家であることはご存じでしょうか。」
「申し訳ない。狭間の地においては未だ日浅き故。」
葦の地から流れ着いて以来、Ramo は半年ほどこの地を歩き回っているため地理はそれなりに頭に入っている。他方、歴史となるとまったくの無知と言えた。
「これは失礼致しました。」
「いや、如何なる非礼も受けては居らず。構わず続けて頂いて結構。」
恐縮する Arianell に先を促す。褪せ人相手にそこまで気を遣わずともよかろうと思うのだが、使用人の習いなのだろう。
「近年相次ぐ、行商の殺害についてはお聞き及びのことと思います。『鈴玉狩り』と通称されたその犯人は旅人たちより大いに恐れられておりましたが、先頃遂にローデイル軍により捕縛されました。王都での調べも終わり、彼は処刑のため日陰城へと移送されて参りました。」
その凶行については各地の放浪商人たちから聞いていたが、既に捕らえられていたとは。これまで野放しであったところに手が回されたのは、ローデイルの統率が復旧したためだろう。
「刑は手筈通り執行されました。男は城の中庭で斬首されたのです。しかし──」
Arianell は両手で己の肩を抱き、声を震わせる。
「下男たちが埋葬のため拘束を解いたところで、落ちたはずの頭が再び胴に戻り、男が立ち上がったのです。」
それを聞き、Ramo も顔色を変えた。首が落ちてなお蘇るなどということがあり得るのか。
彼女の語るところによれば、男は処刑人から武器を奪い、近くにいた者らを鏖殺したという。
「男は城の中を練り歩き、手当たり次第に人を襲いました。当主のマレー様を含め、城にいた人間のおよそ半数はなんとか外へと逃れることができました。ですが、対処に当たった兵たちと多くの使用人──執事、侍女、下男らが城から出てくることはなく。」
それほどの惨事となれば、自分一人の手に負えるものではない。Arianell の様子が落ち着くのを待って言い聞かせる。
「ローデイル領の城が斯くの如き災禍に見舞われたとあれば、まずは王都に報せるべきであろう。幸い、すぐそこに軍の検問がある。必要であれば同行致すが。」
しかし彼女は Ramo の言葉に首を振る。
「既にあちらの方々には事情をお話ししました。王都へ確認の上でご対応くださるそうです。ですが、軍が動くまでに二日はかかるでしょう。まだ城内には生きて助けを待つ者がいるかもしれないのに。」
顔を上げてこちらを見つめる侍女。その頬を、一滴の雫が音もなく伝い落ちた。
予想を遥かに上回る大事である。単身乗り込んでいったところで、どれほどの助けとなれるものか。とは言え、事情を聞いてしまった以上、知らぬ振りは通らない。何より、途方に暮れる女性を置いて立ち去ることなど出来ようはずもなかった。
「ならば、一刻の猶予もなし。」
Ramo は『霊馬の指笛』を吹き鳴らした。突如目の前に現れたトレントに戸惑う Arianell を抱え上げ、鞍の前部に座らせる。
「案内を願う。城への道を。」
「──は、はい!」
坂を下り、検問の手前を左に折れて北へ。霊馬は地を蹴り、黄金の草木茂る野を駆ける。
濁った水と、弾ける泡が放つ鼻を刺す異臭。日陰城は毒沼の中に建っていた。何故このような土地に城を構えたのか、甚だ解せぬところである。岸から少し離れた地点で二人は馬を降りた。
「して、城外へ逃れたという城主殿は何処に。」
それが──と言いながら Arianell は城の傍らの開けた場所を指す。
「脱け出てきた者たちは、マレー様を含めあの石切り場に集まっておりました。私は家令の指示で助けを呼ぶため街道へと向かったわけですが、それも既に昨日のこと。皆、どこかより安全な場所へ移ったのかもしれません。」
或いは件の罪人の討伐に成功し、城へ戻ったか。そうも考えて気配を探ってみるが、壁の内側は静まり返っている。その静寂の奥に感ずるは、伏して潜む人ならざる者たちの気配。状況は最悪だった。生き残りの捜索は急を要する。
「門はすべて閉ざされているようです。ですが、あの岩を登れば城内へと入ることができるでしょう。」
彼女の指す方には、城壁に寄り掛かっている巨大な石柱が見えた。確かに、あそこから侵入できそうだ。
「承知した。Arianell 殿はここでお待ちを。──いや、近くに安全な場所があればそちらへ。」
「少し先に狩りをする者たちが使う小屋があります。」
城を見上げる Ramo の背に、Arianell が声を掛ける。
「これほどに危険なことを頼んでおきながら言えたことではないのですが──どうかお気を付けて。そして、何卒宜しくお願い致します。」
深く頭を垂れる侍女に片手を挙げて応じつつ、Ramo は不気味に泡立つ沼へと足を踏み入れた。
Ramo の姿が城壁の向こうへ消えたのを見届けた Arianell は、右腕をまっすぐ上へ伸ばしぐるぐると回す。すると、北に少し離れた木立ちの陰から一人の男が現れた。辺りの様子を伺いながらこちらへ近付いてくる。
「ご苦労。なかなかの役者ぶりだった。」
年の頃は、Ramo よりもやや上だろうか。がっしりとした体格だが、顔つきは柔和でどこか親しみを感じさせるところのある人物だった。
「こんな面倒なことをしなくても、あんたが直接引っ張ってくればよかったんじゃないか?」
Arianell の声音は、先刻までのものから二段は下がったものになっていた。口調もどこか不服げだ。
「直接揉めたわけではないが、奴との間にはちょっとした軋轢があってな。それに──」
男は言葉を切って口の端を上げ、侍女に視線を投げた
「憧れの相手と話す機会を作ってやったんだ。相乗りとは思わぬ展開だったが──楽しめただろ?」
揶揄いの色が滲むその問いに、Arianell は銀の髪を掻き上げそっぽを向く。
「あんた本当に厭な奴だな。」
「なんだ、今頃気付いたのか?」
大仰に両手を広げてみたせた後、男はくるりと向きを変えて歩き始めた。
「準備をしておいてくれ。俺があいつと合流して刑場に着くのは、そうだな──半刻後か。」
「あの二人が残っていれば、もう少し楽ができたんだがな。」
向かう先は城の裏手。ふと立ち止まり、彼は思い出したように Arianell を振り返る。
「ところで、あいつに何と名乗ったか教えてくれ。馬鹿正直に Argenta と言ったわけではあるまい?」
地階は周囲の毒沼から流れ込む水に浸されていた。凡そ人の住まう環境ではない。件の賊に襲われた際にどこかの堰が切られたのだろう。外壁を超えて場内へと至り、そのまま奥へと進む。石造りの階段を下り水に足を踏み入れた途端、周囲で腐った亡者たちが次々と立ち上がってきた。こいつらを相手取るのは時間の無駄でしかない。掴みかかってくる手を巧みに避けつつ、主塔への道を求めて走る。
「皆隠れ果せていればよいが。」
生き残りたちの身を案じて急いていたところ、背後で鈴の音が立った。姿勢を低くして反転。同時に頭上を黄金色の魔力弾が飛び過ぎていく。その来し方に目を向けた Ramo は、亡者どもの間に呪霊呼び──二対の腕を持ち、這い回る死人──の姿を見留めた。無視して先を急ぎたいところではあるが、捨ておけば段差や梯子などで速度が落ちたところを狙い撃ちにされるだろう。始末するしかない。鈴の音と共に襲い来る魔力弾を躱して距離を詰める。残り五歩、四歩。小さく跳ねて着地。そこから間を置かずに『貫通突き』を──。真横から攻撃の予兆。すかさず身を翻して回避。もう一体いたのか。前方の呪霊呼びが後退していく。どちらかを斬り伏せにかかれば、もう一方から横槍が入る、という構図だ。とはいえ、二体だけなら多少の被弾を覚悟すれば倒すことができるだろう。『緋雫の聖杯瓶』一回の消費と引き換えなら、悪くない取引と言える。だが、他に伏兵がいないという保証はない。──埒が明かぬ。意を固めて駆け出す。鈴を振る間は与えない。二歩の後、地を蹴った。真っ直ぐに打ち込まれた刃が、死人の顔面を穿ち喉を刺し貫く。切っ先は胸の央にまで達していた。腕を振り、刹那に事切れた骸を刀身から払い落とす。すぐさま横合いからの魔力弾に備えて反転。──しかし、振り返った Ramo の目に飛び込んできたものは、腕と首を切断されてのたうつ死人と、その傍らに立ち不敵な面持ちでこちらを見返す男の姿。溜息ひとつ吐いてから、改めて血振りした打ち刀を鞘に納めた。
「説明を願おうか。──Aurun 殿?」
鋭く睨みつけられた男は武器を腰に戻し、空の両手を示しながらこちらへ近付いて来た。
「芝居を打ってこの城へ引き込んだことは謝ろう。しかし、時間的に他の選択肢はなかった。」
「言い訳はそれだけか。」
Aurun と呼ばれた男は、Ramo の厳しい反応を気にかける素振りもなく先を続ける。
「一昨日、この城でエレメールという罪人が処刑されたんだが──って、この話は Arianell から聞いたか?」
「昨日と聞いたが。」
欺瞞の綻びを指摘されて慌てるかと思いきや、彼は悪びれることなく平然とこれを認めた。
「二日前だ。切迫した状況を強調するため昨日と言うよう指示した。」
この種の化かし合いでは勝ち目がないようだ。気を取り直し、話を戻す。
「落ちた首が戻ったとか。未だ半疑ではあるが。」
そちらの頼みを聞くと決めたわけではない──と言外に含めたつもりだが、通じただろうか。
「なら、話は早い。そのエレメールを捉えたのは他でもない我々でな。」
「黄金樹への反逆を志向していた男が、今度は王都の手先となって罪人狩りか。」
Ramo の皮肉を込めた返しに、Aurun は肩を竦めてみせた。
「誰かさんがあの忌み鬼にローデイル王としての自覚を促してくれたおかげで、アルター高原の状況はすっかり落ち着いちまった。黄金樹の庇護下にあることは変わりないだろうが、これまでのところ復興は順調に進んでいるようじゃないか。」
確かに、モーゴットは未だ黄金樹への忠誠と共に在る。然しながら、半神たる彼がその意識を王座を狙う褪せ人たちの排除から律の制御に振り向けたことで、ローデイル市民たちが正気を取り戻したこともまた事実だった。同様に新たな王の元で安定を得たリムグレイブとの連携を通じ、両地域は急速な復旧を遂げつつある。
「事態が好転しているときに暴れるのは莫迦のやることだ。我々とて──少なくとも俺は、血を見るために褪せ人を刈っていたわけじゃない。」
そんなわけで、Aurun とその手下たちは当面の扶持を得る手段として傭兵稼業を始めたのだという。無論、かつて火山館に属していた彼らはローデイルと正規の契約を結ぶことはできないので、末端部隊の遣い走り程度しか仕事がない。『鈴玉狩り』として恐れられたエレメールの捕縛作戦では捨て駒として使われながらも標的を無力化するという殊勲を上げたが、それに対する報酬は雀の涙ほど。
「これではやっていけぬということで方針を変え、ここ日陰城の警護を請け負うことにしたんだ。罪人の処刑を役目とするマレー家は、悪党どもから恨みを買うこと甚だしいからな。仲間を取り返そうと武装して乗り込んでくる連中も多い。」
理に適った選択ではある。地方の領主と直に契約を結べば、ローデイルからの干渉は避けられる。軍に現地雇用されるより実入りも良いだろう。
「そしてほどなく、王都での裁きを終え処刑のために護送されてきたエレメールと顔を合わせることになったわけだ。これほど皮肉な巡り合わせがあるもんかね。──で、その後の経緯は Arianell が話した通りだ。」
ここまでのところ、話の辻褄は合っているように思えた。Aurun への不信は一先ず棚上げとして、目下の問題について尋ねることにする。
「エレメールは確かに斬首されたのか?」
「ああ。断頭台の下に置かれた桶に転がり落ちる様を、この目で見た。」
となれば、エレメールの「復活」は動転した者たちによる流言ではない。さても厄介な仕儀と相成った、と Ramo は胸の内で嘆息する。首が落ちても死なぬものを、如何にして討てばよいのか。
以前に見込んだ通り、Aurun の腕は確かだった。彼が振るう曲剣『シミター』はその性質において Ramo の持つ『打刀』に似るが、その扱いは些か様相が異なる。Ramo が一撃一撃を精確に打ち込んでいくのに対して、Aurun の剣は一見無駄な筋が多い。しかし、よく観察すれば牽制と陽動の両面に利いていることが分かるだろう。戦闘において彼は常に動き回っており、すべての攻撃は擦れ違い様に為されている。秘訣は、相手の動きを制限する絶妙な位置へ繰り出される斬撃だ。これを躱せば、Aurun を己の間合いに納めることはできず、さりとて無理に振り込めば身を刻まれる。焦れた相手が飛び込んでくるのを待つ、誘いの剣と言えた。尤も、知性に乏しい亡者たちは躊躇いなく前進してくるために、そうした駆け引きをするまでもなく次々と斬り倒されていくわけだが。時折現れる呪霊呼びも、連携する手練れたちの前には何ほどの障害ともならない。
「動きが鈍くて相手にもならんが、こうも数が多いと面倒だな。」
やがて二人は、壁に掛かる梯子の前に到着した。
「ここから内側の城壁の上に出られる。」
そう言って Aurun は親指を立てて登れと示す。しかし、Ramo は動かない。
「ここは貴公に先行して貰うとしよう。」
「信用ねえなあ。」
苦笑しながらも、Aurun は促されるまま梯子に手を掛けた。
壁上の歩廊からは内郭が一望できた。奥に見える広場を指して Auran が言う。
「あれが刑場だ。」
辺りに敵の気配がないことを確かめた Ramo は、先刻からの疑問を事情を知るであろう男へ投げかけた。
「一度は外へ逃れたという城主はどうしたのだ? 他に逃れた者たちも。」
Aurun はよくぞ聞いてくれましたとばかりに左腕を広げて見せる。
「問題はそこだ。蘇ったエレメールは滅法強かった。──いや、腕前そのものは捕縛した時と変わっていなかったのだが、とにかく幾ら攻撃を受けても怯まなくてな。手下の一人が背後から刺剣で奴の胸を貫いた。それもド真ん中を。致命傷のはずなんだが、奴はまったく意に介すことなく彼女を蹴り飛ばし、その後も変わらずに動き続けた。」
心の臓は動いておらず、痛覚もないということか。やはり、通常の意味で「生き返った」のではないようだ。Aurun は額に指を当て、先を続ける。
「奴を止めることはできない。俺はそう判断し、城主であるマレーに総員で城から出ることを進言した。そうして待避が始まったわけだが、この広い城のことだ。指示が行き届くまででも相当の時間がかかる。俺たちは城主から、エレメールを刑場に留め置く任務を与えられた。まったく、生きた心地がしなかったな。」
それでもなんとか、可能な限りの人員を城の外へ出すことはできたという。彼と手下たちも限界まで粘ってから逃走。幸いなことに、エレメールが壁の外まで追ってくることはなかった。尤も、逃げ損ねた者たちの殺戮で忙しかっただけかもしれないが。
「城の名が示す通り、この辺りは日没が早い。今の時期は猶更に。辺りは既に暗く、大勢で移動できる状況ではなかった。」
こうして一同は付近の石切り場で夜を明かすことになったのだという。緩やかにカーブする城壁の上を進むうち、行く手に主塔が近付いてきた。
「俺たちは兵と共に夜通しで周囲の警戒をしていたが、幸いにして何事もなく朝を迎えた。これであの恐ろしい怪物のいる城から離れられる──と皆が安堵したのも束の間。気が付けば城主の姿はどこにもない。近くにいたはずの側仕えたちも、彼がいつ居なくなったか分からないそうだ。」
当然ながら、この状況で城に戻ろうとする者はいなかった。彼らは辺りが明るくなるのを待ち、全員でローデイルへ向かったという。Ramo が Arianell と共にここへ来たのは、それから更に一日の後ということになる。
「そんな状況で、貴公は何故留まった?」
「城主殿に死なれたら、俺たちはまた扶持なしだ。ここで恩を売っておくのも悪くない、と思ってな。」
胸壁の崩れた個所から、内側へ飛び降りる。既に広場は近い。そちらからは、肌を刺すような強烈な殺意が放たれているのが感じられた。我らの接近は間違いなく気取られている。見れば、隣を歩く Aurun の足取りにも先ほどまでの余裕はない。Ramo は小さく息を吸い込み、音を立てず鯉口を切った。
いずこの地にあっても、刑場とは禍々しいものだ。無数の罪人──咎ある者も、そうでない者も──の血と恨みを吸った土を幾度入れ替えたとて、染みついた腥き匂いが消えることはない。永劫の呪いとはまさに、神ならぬ人が生み出すものだ。Ramo は斬首台の前へと進み出る。そして打刀を抜き、刑場を見下ろす渡り廊下へとその切っ先を向けた。
「姿を見せよ。既に其方の位置は知れている。」
だが、その呼びかけに応じる者はない。静寂の中、Ramo は己が示した一点を睨み続ける。
「これはまた、なんとも武張った男が出てきたものだ。」
不意に響いた声と共に一人の女が虚空から滲み出るように現れた。凍てつくような眼でこちらを見下ろしている。
「貴公がこの騒乱の首謀者か。」
「そう考えて構わぬ。望む真実を抱えて死んでいくがいい。」
まともに問答に応ずる気はないらしい。ここからどう運んだものか。
「そもそも、あんた誰なんだ?」
Ramo の背後からそう訊ねる Aurun に、女は怪訝な視線を返す。そんなことを知ってどうするのか、と言わんばかりに。
「ならば聞かせよう。消えゆく魂に慰めとして刻むがいい。狼の女王 Uriela の名を。」
その名には聞き覚えがあった。Saki がストームヴィルの地下で遭遇したという死霊術師だ。それも、並外れて強力な。
「これは大層気前の良い女王サマだ。ついでに教えてもらいたいんだが、城主殿を何処へやった?」
「それは言えぬ。──が、働きぶりが良ければ考えてやらぬでもない。」
嘲るような笑みを浮かべた Uriela が、掲げた右手の指を鳴らす。
「エレメエェ──ルッ!」
果たして、その名を呼ばれた凶賊は二人の目の前──斬首台の向こうに姿を現した。棘付きの鉄線が巻き付いた鎧。右手には刑吏から奪ったと思しき大剣が握られている。
「この地でようやく得た災禍級の従徒だ。存分に楽しませてくれよ?」
「ローデイルの連中は莫迦なのか。なんであいつの鎧まで一緒に持ってきているんだ。」
舌打ちする Aurun と共に身構える。斬っても突いても動じぬ相手が更に鎧を着込むなど、悪い冗談でしかない。脚を断って動きを封じようにも、足甲の上からでは難しいだろう。急ぎ算段を立て直す Ramo だったが、そこへ更なる難題が降りかかる。
「そう急くな。戦いは公平であってこそ、だろう?」
Uriela が再び指を弾くと、背後に新たな敵の気配が現れた。前方のエレメールから視線を外すことはできないが、それが上げる金切り声から自ずと正体は知れる。幽鬼──四対の肢で這い回る巨大な屍。呪霊呼びを見た時から存在を予見してはいたが、今出てこられるのは大変に具合が悪い。
「この蜘蛛野郎は俺が仕留める! そっちはエレメールをなんとかしてくれ!」
Aurun が幽鬼を斬りつけ、そのまま刑場の入口の方へ駆け抜けていった。敵同士を引き離しにかかったようだ。金属板が擦れ合う音を響かせながらこちらへと迫るエレメール。Ramo は腰を落とし、構えた打刀を後方へ引く。──死なぬ者を殺せとは、無茶を言う。なれど挑もうではないか。身命を賭した、この不死斬りに。
攻撃の予兆を感じて、Ramo は左へ半歩身を躱した。次の瞬間、エレメールの斬り上げが鼻先を掠めていく。幸いにして、彼が先頃得た「殺気を視る」感覚は、この敵に対しても有効に機能するらしい。そうでなければ、この初撃を避けられなかったかも知れない。なんとなれば、Ramo とエレメールの間には未だ十歩余りの距離があるのだから。
「剣が飛ぶ──だと!?」
それは文字通りの意味だった。エレメールが腕を振るうとき、獲物である『マレー家の執行剣』は彼の手を離れる。握力が足りずにすっぽ抜けたようにも見えるが、然に非ず。大剣は遣い手の動きに合わせ、縦横に宙を走る。明らかに届かぬ間合いと油断した者は、その身を切り刻まれることになるだろう。頭上から Uriela が煽り立てる。
「どうしたサムライ殿? 未だ刀を振るえておらぬぞ。」
宙を舞う剣を躱しつつ、Ramo は反撃の機会を覗っていた。左袈裟懸け、右逆袈裟、右薙ぎ。刃が通り過ぎたところへ体を捻じ込み、『貫通突き』を放つ。間合い、踏み込み共に申し分なし。狙いは剣の重さで伸びきった右腕──鎧板で覆うことのできぬ肘の内側。切っ先は鎖帷子を抜け、骨を叩いて更に奥まで食い込んだ。力を込めて柄を捻り、そこから振り払うように引き抜く。確実に腱の一、二本は断ったはず。だが、エレメールは今しがた突き刺された右腕で軽々と大剣を振り翳してきた。
「駄目か──。」
跳び後いて頭上からの叩きつけを躱す。更に退がって追撃の斬り上げを回避。その振りの鋭さには些かの衰えも見られなかった。奴の動力は身の内でなく、外にあるらしい。脳裏に浮かぶは、幼き日に見た懸糸傀儡。頭が胴と分かれても平気な相手のことだ。腕を切り離しても剣を振るい続けるかもしれない。
ならば次の手を。Ramo は相手の剣の間合いから僅かに外れる位置まで後退した。これより遠くなると、奴は剣を飛ばしてくる。踏み込みを誘うにはこの距離しかない。予期通り、奴の左足が前に出る。そこへ滑り込み、体重を支える右脚を思い切り蹴りつけた。衝撃と反動。軸足を払われたエレメールは為す術なく前方へ転倒する。
「おお──?」
Uriela が驚嘆の声を上げた。予想だにせぬ形勢の変化に興を掻き立てられたものらしい。しかし当の Ramo にそれを聞く暇はない。起き上がろうとする敵の左肩を蹴り上げて仰向けに転がし、右の手首を踏みつけて反撃を封じる。そして迷いなく、緑色の光を放つ死人の眼に打刀を突き立てた。左──次いで右。破れた量の眼球が、不快な音と共に白く濁った体液を噴き出す。どれほど頑丈であっても、視覚を失ってはこれまで通りに剣を振るうことはできぬはず。
「これは見事、と褒めておこうか。しかしな──」
己が使役する人形の著しい損傷を目の当たりにした死霊術師はしかし、些かの動揺も見せなかった。彼女は薄い笑みを浮かべたまま胸の前で両手を打ち合わせる。その音が刑場に響くや否や、Ramo の足の下でエレメールの身体が唐突に跳ね上がった。浮遊、そして反転。一瞬遅れて、己が空中で倒立していることに気付く。咄嗟に身を捩って着地。転倒こそ免れたものの、既にエレメールも立ち上がり──眼球を失い空洞となった双眸をぴたりとこちらへ据えていた。
「こやつらは眼でものを見ているわけではないのだよ。」
片手で口元を覆う仕草と共に、女王は更なる興を求める。
「さあ、もっと足掻いてみせてくれ。万策尽き心折れるまで、な。」
迫りくる不死の怪物を前に、Ramo は尋常の手段すべてに見切りを付けた。未だ修練の途上なれど、所望とあらばお目に掛けよう。しかしそれには三秒──いや、五秒の猶予が必要だ。
前の右、そして中の左。二本の腕を切り落とされてなお、幽鬼はその動きを鈍らせなかった。絶えることなく金切り声を上げ、猛烈な勢いで突進してくる。
「当然か。──まだ六本残っているものなあ。」
荒い息の合間で Aurun は独りごちた。何が腹立たしいかといって、攻撃を搔い潜って一撃を入れようとした瞬間に相手が地に「潜って」姿を消し、そしてすぐさま離れた場所に現れることだ。この仕切り直しのせいで、決死の切り込みを幾度となく繰り返しているにも関らず未だ二度しか成功を見ていない。その間にも鋭い鉤爪による手傷は重なり、既に聖杯瓶も尽きかけている。幽鬼が上体を起こし、口の奥から泡を噴き出した。
「クソッ垂れが。またゲロ吐きかよ。」
奴が吐き出す胃液は、城の内外を浸す毒沼の水よりも遥かに毒性が強い。直撃すれば肉を溶かし、避けてもそこらに溜まりを作ってこちらの機動を阻害するという厄介な代物だ。跳ねる飛沫を避けつつ接近し、喉元目掛けて一閃。しかし敵は手足を蠢かせて素早く後退っていく。畜生、また逃げられた。一刻も早くこいつを始末し、侍殿の加勢に駆け付けねばならぬのだが──。焦れる彼の耳に、刑場の奥から声が飛び込んでくる。
「Aurun、走れ! 間合いを取るんだ!」
そちらを見遣れば、駆けてくる Ramo とそれを追うエレメールが目に入った。嘘だろ。こっちに逃げてくんのかよ。いや待て、間合いを取れ──だと? 何を狙っているのか知らんが、指示には従っておいた方が良さそうだ。
とは言え、この幽鬼を引き離すのは簡単ではない。突進がやたらと速い上、不得手らしい旋回の隙を突いて逃げようとしても瞬間移動でこちらの行く手に回り込んでくる。一度補足されたら、殺るか殺られるかの二択。それが幽鬼という存在だった。しかし、Ramo の要求は「逃げろ」ではなく「間合いを取れ」──つまりは、突進を誘発しろということだ。
「これまた無理難題を吹っ掛けてくれる。」
目の前の幽鬼を警戒しつつ、Ramo の位置と速度を確認する。まだ早い。──3、──2、──1、ドン! 駆け抜ける Ramo の背後を、およそ45度の角度で掠めるように交差。追ってきた幽鬼が地を蹴って跳ぶ。その前方に突如出現するエレメール。二体の屍は激しく衝突し、土の上を縺れて転がっていった。
「計算通りだ。ザマァ見ろ。」
エレメールの鎧に巻かれた鉄線に刺され、幽鬼が藻掻く。その爪がエレメールに食い込む。エレメールは幽鬼を引き剝がそうと、鉄線の巻かれた手甲でこれを殴りつける。唐突に始まったこの同士討ちは千載一遇の好機だった。
「で、ここからどうするんだ?」
そう問いかけつつ Aurun は Ramo を見遣る。彼は打刀の切っ先を地に向たまま瞑目していた。
「おい、何してる? 早くこいつらを──」
慌てて呼びかけた Aurun が、不意に言葉を切って周囲を見回す。
「何だ? 虫か?」
低い唸り。どちらから聞こえるのか、近いのか遠いのかさえよく分からない。徐々に高く鋭くなっていくその音は、ついには見えざる刃となって空を劈いた。
「──っ!?」
思わず耳を押さえ顔を伏せるが、気付けばもう何も聞こえない。渡り廊下を見上げれば Uriela も同様に耳に手を当てている。あの凄まじい音はいったい何だったのか。
一方、エレメールと幽鬼は今しがたの出来事をまったく意に介さず争い続けていた。そこへ Ramo が一歩を踏み込み、横合いからエレメールを逆袈裟に斬り上げた。無音。──外したのか? あの距離で? 困惑する Aurun の視界の中、エレメールの上体だけが横へ滑るように動き、胴の端へ達したところで地面に落ちる。幽鬼の頭部もついでとばかりに胴を離れ、腥い土の上へぼとりと落ちた。
刀あるいは槍を扱う者たちはしばしば、仕掛けるに際して声を張り上げる。それは己の動作を相手に予告することに他ならず、また思考の妨げともなるため、Ramo は黙して剣を振る。然しながら、真似てみればその利点は容易に理解できた。無駄な力が散らされ、躰の動きが滑らかになる。腹で生じた振動は喉だけでなく骨を通って全身の隅々にまで「気」を伝え、一撃に重みを加える。これを取り入れる方法はないものか。案じて錯誤を重ねた末、Ramo はいつしか、声を発さずとも身の内に気を巡らせる法を体得していた。言葉に還元できぬこの能力が「技術」と呼ばれるもの足り得るかは、甚だ心許ないところである。とは言え、その先へ進むことを躊躇う理由はない。長年を共に過ごしてきた『打刀』は、既に躰の一部と言える存在になっている。では、それにも気を通すことができるのではないか。そんな荒唐無稽な着想から始まった試みは、しかし予想外の結果を示した。気を流し込まれた刀身は「震える」のだ。それは目では捉えることのできない、柄を握る腕だけが感じる極微の振動。更に、送り込む気の波を少しずつ変化させていくことで振動の周期を縮めていくことができた。
振動を乗せた刃は音を放ち、同時にその切れ味を増す。虫の羽音程度では然程の変化はないが、耳に感ぜぬ程度にまで高めれば、立ち木を両断することも可能だった。無論、刃渡りを超える厚さ太さの物体を切断することはできない。実際の限界は刃渡りの半分程度、すなわち40センチメートル弱の辺りにあるようだった。さらに振動を加速すれば、鉄をも飴の如く切断することができる。これだけを聞くならば、まさに無敵の必殺技といった趣であろう。しかし、大きな課題が二つあった。ひとつは振動を維持するためには気を送り続けなければならず、集中力の消費著しいこと。現状では十を数えぬうちに精魂尽きてしまう。いまひとつは、振動の維持が大変微妙な制御を要すること。僅かの刺激でも送る気の波は乱れ、振動は停止してしまう。振動を加速する際は目を閉じて視覚を遮断することが欠かせない。そして、鉄を斬れる域まで加速するのに要する時間はおよそ五秒。これらの要因から、休息ないし『青雫の聖杯瓶』による補充を挟まずにこの技を使用できるのは一度切りとなっている。
そして今、Ramo はこの仕損じの許されぬ場面でその技──『震』を放とうとしていた。標的を目視できるのは、発動前の一瞬のみ。音と気配は伝わってくるものの、振動の制御に全霊を傾けている彼は、そちらに意識を向けることができない。刀身が放つ「声」が徐々に高まっていく。周囲の壁から跳ね返る波と重なり、遂には磁器を鋸引くが如き「悲鳴」となった。しかし、加速はそこで止まらない。もはや人の耳には聞こえぬほど甲高くなった響きに大気が歪む。──解き放て! その直感と共に Ramo は瞼を払い、瞳に映る屍の兵に向けて打刀を振り上げた。鎧板は水面の如く平らかな切り口を示し、内に隠した死者の骨肉と共に両断される。疾る刃は更にその余力のみを以て、断ち切られた胴にしがみ付く怪物の頸を鮮やかに通り抜けた。
上下に断ち割られてなお、エレメールは動いていた。両の切り口からは無数の黒い茨──『死の根』が這い出して絡み合っている。分かたれた部分を引き寄せ、繋ごうとしているのだろう。これが、落ちた首を胴に戻し、筋を断たれた腕に剣を振るわせた仕組みか──と Ramo は得心した。とはいえ、此度はさすがに断面が大きすぎる。既に脈のない骸である故に血溜まり作ることこそないが、体腔から押し出された諸々の組織が土の上にばらまかれていた。
「立つのだエレメール!」
刑場に Uriela の怒号が響く。それに応えてか、エレメールは腕と脚をそれぞれに地に立てて起き上がろうとするが、到底叶う試みではない。未だ意識が残っているならば、「生き地獄」としか形容できぬ状態だ。Aurun が、高みから檄を飛ばす死霊術師に呼びかける。
「女王サマよ、これはもう使いものにならんだろ。このあたりで解放してやったらどうだ。」
これには心底から同意した。如何な大罪人とはいえ、この有様は惨きに過ぎる。当の Uriela はといえば、さすがに先刻までの笑みこそ顔から消えてはいたが、さりとて憤りや悔しさを見せてもいない。ただ、興が覚めたといった風情の表情でこちらを見下ろしている。
「おまえらも用済みだ。」
そう言い放ち、彼女は今一度指を鳴らした。それを合図に辺りの地面から一斉に影が這い出てくる。その数、およそ十。人頭大の偽眼を各々二つ備えた生き物の姿を認めた瞬間、Ramo は息を呑んだ。──死蜥蜴!
「おい、逃げるぞ。」
刑場の出口に向かって駆け出す Aurun だったが、すぐにその足が止まる。行く手には既に黒い霧が立ち込め、二人が越えてきた城壁すら見えなくなっていた。そちらへ進むは、自ら死を求めるに等しい。
「こっちは駄目だ。」
慌てて踵を返すが、この場も安全ではなかった。蛙のように膨らませた喉から死の霧を吐き出す蜥蜴たち。Aurun が手近の一匹を切り捨てたが、破れた腹からも煤が舞い上がる。刑場の奥──すなわち城の北側は断崖に面しており、そちらへ逃れることも不可能だった。こちらの退路を断ったことを確信した Uriela の顔に笑みが戻る。
「華々しき死を見せてくれ。芽吹いた根に内側から食い破られ悶える様を。」
「生憎だが、これ以上性悪女の戯れに付き合うつもりはない。」
そう返した Aurun の左手で突然石壁が崩れ、その向こうに侍女──Arianell が姿を現した。手に背丈ほどもある木材を携えている。
「遅えぞ。」
「悪い。梃子を探すのに手間取った。」
彼女はこちらへもちらと視線を投げたが、木材を放り投げると裾を翻して通路の奥へと引き換えしていった。Aurun が Ramo の肩を叩く。
「急げ。煙に巻かれるぞ。」
刑場を出る前に振り返ってみたが、Uriela の影はとうに消え失せていた。
死の檻を脱出した三人は、なおも走り続けた。城の付近に留まるのは余りにも危険だからだ。小さな峠を抜けてさらに南──『旧アルター坑道』の入り口付近まできたところで、彼らはようやく足を止めた。
「生き残りは──いなかったんだな?」
Aurun の問いに、Arianell は顳顬を押さえ、沈んだ声で応じる。
「ああ。殆どは奴にやられたようだ。他に、亡者に噛み殺された者、毒で力尽きたものが数人。」
告げられた無常なる事実。結局、誰一人救うことはできなかったわけだ。此度の件で、自分は何を為したかを振り返る。編み出した技を実戦で振るい、エレメールを倒した。他には? ──無い。救いを求めながら斃れていった者たちにとっては何の慰めにもならぬだろう。
「肝心のマレーの行方は?」
「それも不明。主塔は最上階の広間まで見て回ったが、城主の姿はなかった。」
多くを奪われ、何ひとつ取り返すことができなかった。惨敗という他はない。だが Aurun は意外にも落ち込みを見せず、不敵な笑みを Ramo へと向ける。
「城を奪還できれば報酬をはずめたのだが、この通りの素寒貧だ。ツケにしておいてくれ。」
「元より期待しておらぬ。こちらの問いに答えてくれれば、それでチャラとしよう。」
意外な申し出に、Aurun は片眉を上げた。
「聞かせてもらおうか。」
「そちらの Arianell 殿についてだ。ルクスの廃墟前で会ったとき、その瞳には確かに祝福の光が宿っていた。しかし、今は褪せている。如何なる手妻によるものか。」
Aurun は苦笑し、手下に視線を投げる。お前が答えろ、の意らしい。Arianell は不興気に息を漏らした。
「存外につまらん男だ。」
彼女は帯に通した小さな袋から『鳥脚の黄金漬け』を取り出し、これを噛みちぎった。目を閉じて数秒。そして開く。その瞳には、Ramo が出会ったときに見た微かな黄金色の光が戻ってきていた。こんな単純な偽装に引っかかったのか。くつくつと笑い出した Ramo を見て、Arianell が鳥脚の入った袋を差し出す。
「まだ四、五本残っている。気に入ったなら、持っていけ。」
彼は目を見開いて偽の侍女を凝視した後、Aurun に視線を移す。数秒間無言で見つめ合った後、二人の男は声を上げて笑った。
日陰城の主マレーは、『典礼街オルディナ』の家屋のひとつに身を寄せている。風雪から身を守るべく衣を重ねてはいたが、聖別雪原の凍てつく空気は虚弱な肺腑を苛むこと著しい。咳き込む彼の傍らに不意に光が生じ、室内を照らした。
「火が入りました。どうぞこちらへ。」
フィアに促されるまま、マレーは暖炉の側へ移動する。
「しばらくここで休んでいきましょう。」
背を撫でる女の手は温かく、冷え切ったマレーの身の内に小さな灯りを点した。
「かたじけない。しかし、いつまでも足を止めていることはできない。我はもう待てぬのだ。宿痾より解き放たれた健やかなる肉体──。」
震える声で呟く男の衣の乱れを手際よく整えてから、フィアは北側の窓へ身を寄せる。既に目的地は近い。このように吹雪いてさえいなければ、ここからでも見えるはずだ。崖を隔てて聳える『ミケラの聖樹』が。そこへ至るまで、この男の肉体は──いや、精神は保つだろうか。
「その御霊の清きを知るこの私めが、必ずや献じましょう。汚れなき、新しき器を。」
マレーは暖炉の前に座し、掌に押し頂いたタリスマン『有翼剣の徽章』に語り掛けている。
「今暫くお待ちください。我は今、御許へ参るべく懸命に雪を漕いでおります。嗚呼──マレニア様。」
その瞳に宿るは狂信の光。己を顧みぬは尊きの最たるもの──か。熱に浮かされたが如く呟く男を眺めつつ、フィアは静かにその口許を綻ばせた。
第26話『褪せ人 Saki と黒い森』投稿予定: 2026-10-14 朝