褪せ人 Ramo と Saki の物語 作:Skinny Slaver
今回のゲストは北の国のあの方。壁巡り・墓巡りシリーズは何周もしてます。
「ケネス殿より依頼の儀あり。近くハイト砦を訪れられたし。」
いつの間にか円卓を出入りする面々の連絡係を務めるようになったローデリカがおずおずと差し出した紙片を Ramo が受け取ったのは昨日の夕刻のこと。それはギデオン・オーフニールからの言伝で、その時点で既に四日前となる日付が記されていた。こちらの与り知らぬこととはいえ、あまり待たせても悪かろう。そう思った彼はさっそくリムグレイブ本島の西端に位置するここ、ハイト砦に赴いていた。門の設えはないが、主塔への上り坂には馬防柵が置かれ、要所には歩哨たちの目が行き届いている。世辞にも壮麗とは言い難いが、質実な構えだ──。内心でそう評しつつ守衛に用向きを告げると、ほどなく小姓が彼を迎えにきた。
この砦の中では人間に混じって亜人たちも働いている。言葉こそ通じないものの、身振り手振りである程度の意思疎通はできるらしく、彼らはときに向かい合って何やら "相談" しつつ、支障なく作業を執り行っていた。これら二種族が敵対関係にあることが当たり前である外部の人間には、この光景は信じがたいものに違いない。狭間の地の辺境であるリムグレイブの、そのまた一地方に過ぎぬが、こと領民の統治においてはここ以上に成功している場所はないだろう。場内の様子を眺めながら歩くうちに、主塔の最上階にあたる海を臨む露台へとたどり着いた。
「いや、よく来てくれた。望外の喜びだ。」
Ramo は砦の主であるケネス・ハイトに迎えられた。
「だいぶ待たせてしまったようで、申し訳ない。」
「気に病まれるな。さして急ぐことでもない。」
小姓はいつの間にか姿を消しており、彼らは向かい合って卓に着く。ケネスはいかにも貴族然とした風貌で、よく言えば柔和、悪く言えば頼りない──そんな印象を与える人物だった。だが、相手の心を見通しその機微を捉える才覚には余人の及ばないものがある。そんな男が一介の褪せ人に何を望むのか。
「して、ご依頼の件とは。」
内に湧き上がる好奇心を自覚しつつ、挨拶もそこそこに本題に切り込んだ。
「この砦には、我に仕える一人の学者がいる。名を SecretFire という。」
話はその始まりから Ramo が予想だにしない方向へ流れだした。その困惑を見て取ったケネスはその流れ転じた。
「こんな辺境の小領地といえど、対処を要する事案は日々発生している。その中には武力では解決できないものも多い。例えば、魔術や祈祷を用いて働かれる悪事がそうだ。そうした事案への取り組みに関する助言を乞う相手として、彼をこの砦に招いたというわけだ。」
なるほど、ある種の軍師というわけか。だが、それが彼自身とどう繋がるのかは、まだ見えてこない。
「先ほど、『我に仕える学者』と言ったが、実のところ私と彼の関係は君主と臣下といったものではない。私は彼から知識あるいは調査能力を買い入れ、その見返りとして住居と研究に必要な援助を提供している、というわけだ。」
彼はそこで言葉を切り、聞き手の表情を伺う。疑問は多くあるが、こうした場面で無闇に質問を投げかけても得るものが少ないことを Ramo は知っていた。相手が巧みな語り手である場合は特に。
「続けて頂いて結構。」
それを受けてケネスは再び口を開く。
「仔細は省くが、つい先日まさにその類の事件が発生した。真相を明らかにすべく、逃亡した犯人たちが残した物品──魔力を使用した悪しき道具──についての分析を彼に依頼したのだが、費やせる時間がなかったこともあり、かなり無理をさせてしまった。そのため、相応の見返りを都合せねばならなくなった、というわけだ。」
そう言って笑うと、ケネスはおもむろに立ち上がった。
「この先は本人から聞くのがいいだろう。彼は、もとは牢獄であった塔を改修して作った部屋に自らの研究室兼住居を構えている。今から案内しよう。」
未だ釈然としない思いを抱えながらも、Ramo はケネスに続いて歩きだした。
二人が訪れたとき、部屋の主は乳鉢で何かを粉砕する作業に没頭していた。
「SecretFire、例の件で力になってくれる人物を連れてきたぞ。」
男はケネスの声が聞こえなかったかのように手を動かし続けていたが、乳鉢の中に目立つ塊がなくなったことを確かめるとゆっくり顔を上げた。濃紺のローブをまとった瘦身の男。年頃は Ramo と同じくらいだろうか。
「この男ですか。領主殿が直々にお連れになったということは、期待してもよいものかな?」
訝しげな視線を無遠慮に注ぎながら半ば嘲るような調子で問う。主に相対しているというのに、目深に被ったフードを脱ぐつもりもないようだ。随分と礼節を弁えぬ男だが、概して学者とはこういうものか。ケネスは気分を害した様子も見せず、朗らかに応じた。
「その通りだ。彼に君が抱えている問題についてすっかり話してやってくれ。」
SecretFire の語るところによれば、彼の本来の研究対象は「竜」であるという。遠く離れた故国では、それはもはや伝承の中にのみ生きる存在であり、現代に残されているのは伝承・遺構・墳墓といったものばかり。彼自身、その骨すら見たことがないそうだ。しかし、この狭間の地ではありふれた存在とまでは言えないまでも、竜が確かに──それも複数の個体が──息づいており、人間に危害を加える事さえある。それを知った SecretFire はまさに天からの贈り物であると狂喜したがそれも束の間。身を寄せたここハイト砦で、彼は日々の雑事に忙殺され一向に竜の研究に着手することができずにいた。そんな折──
「過日領主殿より命じられた骨の折れる仕事への取り組みの対価として、ついに調査旅行に赴くための便宜が得られたというわけだ。」
経緯の説明が一段落したところで、ケネスが Ramo に向き直る。
「だが、戦わないまでも竜に近づくということはそれだけで大変な危険を伴う。ついては Ramo 殿に、この SecretFire への護衛としての随行を願いたいのだ。」
なるほど、ようやく事の次第が把握できた。
「もちろん、この任にかかる貴公への報酬も存分に支払う用意はある。このケネス・ハイトの唯一にして最大の美点は吝嗇でないことなのでな。」
それは随分と謙遜した自己評価だ、とRamo は苦笑する。護衛対象であるこの学者殿はともかく、依頼主であるケネスへの好感から、彼はこの依頼を受けることをとうに決めていた。見れば、SecretFire も既に出立の準備を始めている。およそ半刻後、二人の背を見送るケネスは、彼方に聳える黄金樹に祈っていた。
「聡明なる学者と勇敢なる戦士。その道行きに多くの実りのあらんことを。」
砦を発った二人は、右手に海を臨む断崖に沿って北上していた。目的地であるアギール湖へ至るには「霧の森」を突っ切るように北西に進むのが近いのだが、森の中を徘徊する巨獣「ルーンベア」との遭遇はなんとしても避けたい。一人であれば気配を断って通り抜けることもできようが、この場所に不案内な学者殿を連れていてはそれも困難。さらには街道をも外れて歩く以上、次第を説明する必要があろう。そう思った Ramo は進路とそれを選んだ理由を SecretFire に伝えたが、彼は特に興味もないといった様子だった。
「任せるよ。そういう単純な作業は、明らかにおまえの方が向いているだろうからな。」
そんなわけで、その後は言葉を交わすこともなく黙して歩いていた彼らだったが、不意に SecretFire が口を開いた。
「私としてはあちらの方角にある "グレイオールの竜塚" なる場所に行きたかったのだが──」
彼が指した先、入り江を挟んだ向こう側には朱く染まった大地、ケイリッドが見えた。
「領主殿に止められた。さすがに危険がすぎる、とな。」
ケイリッドはその全域が朱い腐敗に冒された土地だ。地面は至るところ黴によって覆われ、空気は宙を舞う胞子で汚れている。
「その通りです。立ち入れば身体に障りがある上、そこらを徘徊している獣どもも狂暴この上ない。」
「わかっている。だからこそ、勧められたアギール湖へと目的地を変更したのだ。先人の助言を容れぬ輩は早死にする──どこの国でもそれは変わらないようだからな。」
面白くもなさそうに呟いた SecretFire だったが、ふと何かに気付いたように Ramo に向き直る。
「現地の様子を知っているということは、そこへ行ったことがあるということだな?」
「幾度かは。」
学者の目が興奮の色を帯びていくのが分かった。
「ではその向こうの竜塚にも?」
「はい。訪れたのは一度きりですが。」
Ramo がグレイオールの竜塚の外れに位置するファロス砦を訪れたのは、デクタスの大昇降機を動かすのに必要な割符を手に入れるためだった。砦までの道には多数の竜どもが徘徊しており、まともに戦っていたら命がいくつあっても足りない。奴らの目を盗むため藪を漕ぎ岩陰を伝い、命を縮める思いで砦から割符を回収し、そして戻ってきたのだった。それを聞いた SecretFire の興奮はいよいよ高まり、早口にまくしたてる。
「彼らはどんな様子だった? 大きさは? 翼が生えていたか?」
叫ぶようなその声が呼び寄せたものか、彼の背後の藪から一頭の猪が飛び出してきた。Ramo は SecretFire の腕を掴んで跳び、間一髪のところでこれを躱した。奇襲を空振りにされた獣は十歩ほどを空走したが、すぐさま反転し再びの突進を開始する。──斬り伏せるしかない。そう判断し抜刀した Ramo だったが、不意に眼前を走った閃光に動きを止めた。SecretFire の掌から矢の如く放たれた火球が猪の鼻先に炸裂する。その一撃は命を奪うには至らなかったが、相手の戦意を挫き逃走に至らせるには十分なものだった。
「面目ない。」
護衛でありながら危険を事前に察することができなかったのだ。任を解かれても致し方あるまい。そう覚悟して謝した Ramo に対する SecretFire の反応は意外なものだった。
「いや、今のは私が悪い。猪だの熊だのが棲む場所で不用意に叫んでしまったのだからな。」
彼らの進路は崖沿いを離れ、街道へと入っていた。
「むしろ、よく私をあの攻撃から逃がしてくれた。猪の牙は人間の大腿の高さを通る。そこを突かれて失血死した狩人の話は幾度か聞いたことがあってな。おまえがいなければ、命を落としていたかもしれん。まあ、そういうわけで──」
そこで足を止めて振り返る。
「これからの護衛もよろしくお願いしたい。」
「かたじけなし。寛大な措置に痛み入る。」
深く頭を垂れる Ramo に、SecretFire は被っていたフードを外して見せる。
「それから、別に隠す理由もないので言っておくが、私もお前と同じく褪せ人だ。」
意外な告白であったが、見れば確かに彼の瞳には黄金樹の祝福たる光が宿っていなかった。
「ならば堅苦しい言葉を使う必要もなかろう。俺、おまえ──それでいいのではないかな?」
そう言うと、学者は初めて笑顔を見せた。
「ときに貴公が先ほど放った火球──」
湖畔への道を歩きながら Ramo が尋ねる。
「祈祷『火投げ』に似るも、少々様子が異なるように見えたが。」
そう問われた SecretFire は掌の上に小さな炎を灯してみせた。
「これは魔術だ。信仰薄き故に、祈祷とは縁がない。」
魔術──? だが触媒たる杖はどこだ。そして何より──。
「そう、輝石から引き出した魔力、すなわち星の光に由来するエネルギーをそのまま放つのが、この地の魔術師たちの流儀らしいな。」
疑問を察したらしい SecretFire がこれに先回る。
「しかし私の故国では、魔術とは魔力を炎や雷といった現象に変えて利用するのが一般的だ。ちなみに──」
軽く手を払って炎をかき消すと、その指に嵌められた指輪を見せた。
「これが触媒の役割を果たしている。」
なるほど、触媒は必ずしも杖の形である必要はないわけだ。
「所変われば魔術も変わる、というわけだな。」
感心しきりといった Ramo の反応は、SecretFire にとって意外だったらしい。
「剣や斧を取って戦う者は、魔法など軽んじているものと思っていたが。魔術の習得をお望みかな。」
そんな遣り取りをしながら坂道を登っていた彼らの眼前に、リムグレイブの曇り空を映す巨大な鏡が現れた。
「これがアギール湖だ。」
さして長い旅でもなかったが、やはり目的地への到達は心を軽くする。だが SecretFire はそうではないようだった。
「それで? 竜はどこにいるのだ?」
物見に来たわけではないと言わんばかりの口ぶりで Ramo に問いかける。
「そう慌てるな。おそらくその辺りに──ほら、あれだ。」
指された方向に目を凝らすと、湖の北東部にある小島に、襤褸を纏った男たちが集い、松明を掲げているのが見えた。何かを待つように空を見上げて佇ずんでいる。
「あれは──何かの儀式か?」
「そのようだ。連中は竜の炎に焼かれて死ぬことを望んでいる。」
それを聞いた SecretFire の目に歓喜の光が差した。
「つまり、竜がここへやってくるのだな? そうなのだろう?」
対する Ramo はそれと釣り合いを取るように落ち着きをにじませた声で応じる。
「いかにも。だが、それまではまだしばしの時間がある。竜が現れたときに慌てなくて済むよう、準備を整えておくといい。」
湖畔で待つ二人の、正確には SecretFire の忍耐が限界に達しようとしていた頃に西の空の一角に現れた黒い点。それは瞬く間に視界を覆いつくす巨大な影となり件の小島に衝突した。衝撃が周囲のあらゆるものを薙ぎ倒し、吹き飛ばす。
「おいでなすった!」
竜と対峙した経験を持つ Ramo でさえ、その威容を前に身の震えは抑えられない。命を奉げるべく集っていた男たちも、想像を絶する竜の恐ろしさにてんでに逃走を始める。だが、残忍なる飛竜アギールは、彼らの生への執着を尾の一振りで消し去った。
「奴が "生贄" どもを喰らっている間に、背後へ──」
そう言って振り返った先には、あるはずの仲間の姿がなかった。
「──は?」
あまりに唐突な事態に、思考が空転する。どこに──? 素早く周囲を探る彼の目が捉えたのは、アギールに向かって全力疾走する SecretFire の背中だった。
「竜だああああ!」
莫迦な──死ぬ気か!? 追って自らも駆け出す他、Ramo にできることはなかった。
これが──竜か! 幼き日より焦がれ求め続け、それでも気配すら感じることの叶わなかった存在が、今そこにいる。力の限り駆けならがも、彼は既に観察を始めていた。体高、図骨の形状、翼の付け根の位置、鱗の向き、推測される腿骨の長さ、指の数──あらゆる箇所に走らせた目が捉えたものを、これまでに見聞きした文献、伝承、学説と照らし合わせる。見ろ、この羽ばたきの力強さを。あの動作を支えているのは翼を肩と鎖骨に繋ぐ強靭な筋肉と腱だ。岩のようでありながら、表面に揺らめく虹色の輝きを宿す鱗。あの微妙な反射の仕組みは何だ。次々に湧き上がってくる疑問に衝き動かされ、SecretFire は一切の逡巡なく竜の鼻先へと駆けていく。
飛竜アギールは、自身の行く手に回り込むように駆け込んできた人間を、当然のことながら新たな獲物として認識した。ゆっくりとした動作で持ち上げた左足を、それ目掛けて叩きつける。湖底が揺れ、水柱が上がった。直撃すれば人間などひとたまりもないだろうが、幸いにしてこの一踏みは際どいところで目標を外れた。飛沫でずぶ濡れになった SecretFire はさすがに後退の動きを見せる。しかし、その頭は己が身の安全とはかけ離れたことに支配されていた。なんとかして鱗を剥ぎ取れないものか。アギールの全身を鎧う鱗は、彼の魔術などものともしないだろう。だが、あの顎の下──頭から尾に向かい整然と並ぶ鱗の波の中、その流れに逆らって生えている一枚──に打ち込んでやればあるいは。そう見るや否や、彼は両の手から二発の火球を放つ。一発は目標を外れ後方へと飛び去り、もう一発が狙い通り竜の顎を打った。しかし、件の鱗が動じた様子は微塵もない。──駄目か。消沈する SecretFire は、自らの行いが更なる危機を招いたことに気付いていなかった。火球はアギールに些かの痛痒も与えはしなかったが、文字通りその逆鱗に触れたのだ。アギールは首をもたげ、空に向かって怒りの咆哮を放った。大気が震え、湖面が波立つ。その激しい揺れが SecretFire を転倒させ、身動きを封じる。そして──再びこちらに視線を据えた竜の口の中に、揺らめく炎が見えた。
SecretFire を制止すべく走る Ramo だったが、二人の距離は徐々に離れていく。竜に抱きつかんばかりの勢いで駆ける男を、これを警戒しながら追う彼が捕らえられる道理はない。さらに、SecretFire がアギールへの攻撃を開始したことで事態は緊迫の度を増した。何を考えているんだ──!? 轟き渡る竜の咆哮にもはや一刻の猶予もないことを察した Ramo は、左手に嵌めた『霊馬の指輪』を吹き鳴らし、忽然と姿を現した霊馬トレントの背に飛び乗った。──速度は落とせない。落馬ぎりぎりまで傾けた状態から伸ばした左腕で、尻餅をついている SecretFire の胴を掬い上げ、そのまま駆け抜ける。蹄が跳ね上げた飛沫は、吹きつける炎により湖面に落ちる前に蒸発した。──明らかな過荷重をその背に負ったトレントは残る脚力と惰性で前方の岩場に達し、そのまま倒れ込む。投げ出された二人を目掛け二度目の炎が吹き付けるが、目論見通り岩塊に遮られ直撃はしない。それでも、熱された空気が刺すような痛みで肌を苛んだ。
「いったいどういうつもりか!?」
然しもの Ramo の声にも怒気が滲む。一方の SecretFire は、馬上に搔っ攫われたときと、そこから投げ出されたときの二度の衝撃で放心していたが、その言葉で我に返ったようだ。
「またやってしまった。間近で見たさのあまりつい──。」
ここでこれ以上の追及をしても仕方がない。というよりも、そんなことをしている時間がない。
「事ここに至っては、もはや逃げられん。──倒すしかない。」
Ramo は戦う覚悟を決める。
「倒す? そんなことができるのか?」
岩陰からアギールの様子を伺いながら、SecretFire が訝し気に尋ねる。
「できぬなら、我らが死するだけのこと。貴公にも共に戦ってもらうぞ。」
この事態を招いた責任は取ってもらわねばなるまい。
「わかった。奴を倒すことができれば、鱗も牙も爪も採ることができるな。」
あまりにも状況と乖離した台詞に、Ramo の内で張りつめていた気が弛緩する。まったく、学者様というのは──。溜息をひとつ吐き、SecretFire に含みのある視線を投げる。
「莫迦な友人が喰われている間に逃げるという選択肢もあるのだがな。」
言われた莫迦がローブの裾を払いつつ応じる。
「先に喰われるのが護衛の役目だろう?」
迫り来るアギールに対し、二人は左右に開いて迎え撃つ態勢を取った。
容易に予想されたことではあるが、戦いは苛烈を極めた。まず、敵のスケールが違う。巨体を誇る敵と対峙する際は、相手の懐──というか足下に潜り込むのが定石である。膂力においてこちらを遥かに勝る相手に接近するのは危険極まりないように思われるが、そうすることで彼我の攻撃距離 (リーチ) の差が埋まる。ここまで近づけば、翼や尾による薙ぎ払い、あるいは噛みつきの脅威は格段に小さくなるため、却って安全でさえあった。足元が攻撃しづらいという事情は、竜も人間も変わりはない。Ramo はその定石に従い、アギールの巨躯の下へ駆け込み、その脚部に『打刀』を叩き込む。この状況で注意すべきは踏みつけによる攻撃くらいだが、これは相手の重心の移動を読み、軸足側に回り込むことで容易に回避できた。──だが、アギールには翼がある。奴が地を蹴り翼を打てば、ただ一度の跳躍でこちらの手の届かない距離まで離脱されてしまう。この「仕切り直し」ごとに足元への全力疾走を余儀なくされる Ramo の持久力は確実に削られている。
奴がこちらと間合いを取った直後に吐きかけてくる火炎も厄介だった。速度・範囲ともに優れるこの攻撃を完全に回避することは不可能に近い。受けた火傷は聖杯瓶で癒すことができるが、それも遠からず底を突くだろう。こちらに有利な点があるとすれば、あらゆる攻撃に対して並外れた防御効果を持つ竜の鱗が、 Ramo の『貫通突き』に対しては僅かに弱いらしいことだった。これを見て取った SecretFire は先ほどから使用する魔術を氷柱を撃ち出すものに切り替え、アギールの体力を削ることに僅かながら貢献している。だが二人の、特にアギールの矛先を SecretFire に向けさせないよう近接戦を挑んでいる Ramo の状態を考えると、このまま持久戦に持ち込んでも勝てる見込みはない。──どうする? 乱れた息を整えつつ活路を求めて辺りを探る。自らに向けられた視線が切れた刹那を、アギールは見逃さなかった。渾身の力を込めて振りぬかれた竜の尾が、Ramo の身体を弾き飛ばした。
意識を失っていたのはわずか数秒だった。Ramo は目覚めると同時に跳ね起き、アギールに向かって構え直す。しかし──その手には『打刀』が握られていなかった。
「しまった──。」
慌てて周囲を見渡すが、得物は見当たらない。アギールは彼が既に死んだものと思ったらしく、SecretFire へとその狙いを移していた。断続的に撃ち出される氷柱が鱗を貫いて竜の身体に刺さってはいるが、どれも浅い。たいしたダメージになっていないのがここからでも見て取れた。このままでは彼の命がない。そう判断した Ramo は『ロングボウ』を構え矢を放つ。戦技『強射』──渾身の力で放たれた矢は竜の背に突き刺さった。魔法の氷柱よりは幾分痛かったと見え、アギールは怒りに満ちた目で Ramo に向き直り、突進を開始する。次の矢が首筋に命中したが、アギールの勢いには些かの衰えも見られなかった。相手との距離は既に近く、次の矢を番えてる時間はない。完全に手詰まりではあったが、彼の身体は半ば無意識のうちに駆け出していた。──再び足下に潜り込んで──それからどうする?
その時、竜の後頭部で火柱が上がった。Ramo がアギールの注意を引き付けることで稼いだ僅かな時間。それが SecretFire が魔力の集中を要する『エクスプロージョン』を放つことを可能にしたのだ。爆発の衝撃は鱗と頭骨を突き抜けて脳を揺さぶり、アギールを昏倒させた。──目の前に倒れ伏した竜の頭部がある。奴はすぐにでも起き上がるだろう。これを逃せば次の機会はない。駆け出すと同時に、懐から『紐付き雷脂』を取り出した。それは通常、武器に塗布して雷属性の攻撃力を上乗せするためのものだが、武器を持たぬ彼はそれを自らの腕に塗り付ける。半開きになったアギールの目に狙いを定めると、Ramo は『貫通突き』の要領で抜き手を放った。右腕がアギールの眼球に肘の付近まで食い込むと同時に雷脂のエネルギーが弾け、内部の水分を沸騰させる。激痛に意識を取り戻したアギールは激しく首を振って目に突き刺さった Ramo を払い落とすとそのまま飛び去り──戻って来なかった。
「我らも引き上げよう。」
アギールが飛び去った方向を見つめて動かない SecretFire に Ramo が声をかける。『打刀』は先ほど見つけて回収することができた。これ以上ここに留まる意味はない。
「奴は当分戻っては来るまい。いや、戻られても困るのだが。」
ようやく諦めがついたのか、SecretFire が肩を落として振り返り、こちらへ歩いて来る。
「──鱗。せめて鱗の一枚でも手に入れたかった。」
あの状況で生命が助かっただけでも奇跡的なことだというのに。そう思って呆れる Ramo だったが、彼のあまりの消沈ぶりが気の毒に思えてきた。
「代わりになるものかは知らぬが、これを差し上げよう。」
道具入れから取り出した『氷殻の斧』を彼の前に置く。北の地に棲むといわれる「凍てつく霧」の異名をもつ竜の鱗から作られたとされる武器で、その刃は大気中の水分が氷結してできる霜によって覆われていた。
「これは──なんと──素晴らしい!」
SecretFire はすっかり元気を取り戻し、しばらくは矯めつ眇めつ斧を眺めていたが、ややあって、それを差し出した Ramo の腕の異常に目を留めた。至るところ焼け焦げて火膨れを生じ、三本の指は鬱血して濃紺に変色している。
「それは──あの最後の一撃を入れたときのものか?」
「ああ、雷のエネルギーの幾許かはこちらの腕の方にも流れた。それと突き指だな。折れているかも知れんが。」
涼し気な顔で応じる Ramo だったが、相当な痛みを堪えているはずだ。
「ちょ、ちょっと待っていろ。」
SecretFire が両の手をかざして詠唱を行うと、柔らかな光が Ramo の腕を包み込んだ。内側から新たな組織が急速に成長し、傷が塞がっていくのが感じられる。
「なんだって? ──おい、こいつはすごい!」
魔力を炎や氷に転化するのにも驚いたが、さらに回復まで行えるとは。SecretFire の魔力も残り少なかったため全快とはいかなかったが、武器を握れる程度にはなった。
「さあ、帰ろうか。」
辺りはすっかり暗くなっており、二人は月明かりの下を歩いた。
「おまえが同行してくれて本当に良かった。鱗も爪も手には入らなかったが、自分の目で実物を見れたことは何よりも重要な成果だ。」
「鱗は手に入っただろう?」
「おお、そうだったな。」
月の光にかざされた『氷殻の斧』は神秘的な光をたたえていた。
「この世界にはまだまだ知るべきことがたくさんある。この先の研究の進展が楽しみだ。」
興奮気味にそう話す SecretFire に、Ramo は口をへの字にして答える。
「できれば竜の恐ろしさについても、もっとよく学んでもらいたいものだが。」
「そう言うな。反省はしているさ。」
疲労で重くなった身体に反して軽やかな足取りで歩く彼らの行く手に、ハイト砦の灯が見えてきた。
「貴公を護衛に付けた私の目に狂いはなかったということだな。」
ケネス・ハイトの高らかな笑い声が露台に響く。昨日砦に戻ってきた Ramo は、聖職者による『回復』祈祷と下女たちの介抱を受けた後に上等な寝床で一晩を過ごしたことで、腕の負傷も含めて完全な健康を取り戻していた。
「学者殿は戻るなり自室に籠って私への報告にも来ないが──」
塔を見上げていたケネスの視線が Ramo に戻る。
「そのことが逆に、調査が上首尾に終わったことを示している。──違うかね?」
「そうかも知れません。死にそうな目には遭いましたが、なんとか戻って来れましたので。」
アギール湖での顛末を思い出して苦笑する。
「苦労をかけたようだ。その働きに報いることができればよいのだが。」
ケネスは装飾付きの小さな箱を卓の上に置き、彼に向けて開いて見せた。『古竜岩の鍛石』──神殺しの武器を鍛えると言われる、ファルム・アズラの秘宝である。
「有り難く頂戴致す。」
Ramo はこれを押し戴くと、丁重に懐に収めた。
「あの男の魔術はあらゆる点において狭間の地のそれとは異なります。炎や氷を用いた攻撃はもとより、回復をも担えるなど実に応用の幅が広い。」
そこで Ramo は言葉を切り、これは言ってもよいものかと逡巡しつつケネスの顔を見遣る。彼はにこやかな表情で先を促した。
「おそらく戦士としても優秀です。──学者にしておくのが惜しいほどに。」
ケネスはおだやかな調子でこれに応える。
「なるほど、そうかも知れない。彼が持つ知識と技術を開放すれば、この地の魔術に著しい変革をもたらすだろう。──だが、人を見るに当たっては、才気・能力のみならず、その性分にも目を向ける必要がある。SecretFire が褪せ人であることは聞いているね?」
「はい。彼自身が話してくれました。」
ケネスは彼方に聳える黄金樹に目を向けた。
「彼はこの地に来たそのときから、祝福の導きが見えていなかったそうだ。つまりは、そういう性分の人物ということ。望まぬ者をその意に逆らって道に就けたところで、決して良い結果にはならんよ。」
彼は今、SecretFire についてのみ語っているのではない。Ramo は言葉の裏に秘められたケネスの強い意思を感じ取ったが、敢えてそれには触れずにおく。
「彼に必要なのは、王への道を歩むことではない。差し当たっては──そう、貴公の如き友であろう。そう思ったのだよ、私は。」
結局は何もかも、領主殿の目論見通りだったということか。Ramo は「友」が籠る塔を見上げて呟いた。
「今後ともよろしくお願い致しますぞ、学者殿。」
後に、事あるごとに呼び出されては彼の危険な探求に付き合わされるようになることを、この時の Ramo はまだ知らない。