褪せ人 Ramo と Saki の物語 作:Skinny Slaver
今回のゲストのモデルは、幾度かご一緒させて頂いた鉤指さん。野良なのにきちんと連携してくれてとても楽しかったです。
ケイリッド、エオニアの沼の西岸。好んで踏み入れる者のないこの場所を Ramo が定期的に訪れるのは、彼が重用する『火矢』を扱う商人がここに店を構えているためである。
「60本、確かに。いつも助かっている。」
卓として用いられている木箱に代価のルーンを乗せ、その端を指で軽く叩いた。
「こちらこそ。こんな場所で商いをしていても飢えずにいられるのは、あんたに負うところが大きい。」
優れた弓の遣い手である Ramo にとって、火矢の用途は広い。陽動、阻塞の破壊、獣の駆除。暗所では照明ないし着弾位置を測るための目印としての役割も果たす。それだけに消費量も多く、彼はこの商人に定期・定量の購入を約すことで安定した供給を確保していた。その労に報いるため、対価も割増しで支払っている。
「今後ともよろしくお頼み申す。それでは、また。」
「ああ、ちょっと待って。」
立ち去ろうとしたところを商人に引き留められた。
「あんたの名前は Ramo さん──で間違いないね?」
彼との付き合いは短いとは言えなくなりつつあるが、あくまで売手・買手の関係であり、名乗ったことはない。その必要がなかったからだ。それが今になって、ということは──。不穏なものを感じ、どう応じたものか迷うが、その沈黙が既に答となってしまっている。
「そんなに心配しなくても大丈夫。別に危害を加えようってんじゃない。」
そう言うと、彼は少し離れた場所にある「剣の碑」を指した。
「さっきやってきたご婦人に言伝を頼まれたんだよ。夜が明ける少し前かな。火矢をたくさん買うお侍に、その碑の陰に置いたサインを見てもらえるように、とね。」
差し当たりの危険はないようだが、なお腑に落ちぬ話である。俺がここで火矢を買うことを知っている──ご婦人?
「それはどのような御仁でしたか?」
「うーん、この通り私は盲だからねえ。声から判断する限り、小娘でもなく年増でもなく、といったところかな。」
やはり心当たりがない。碑の裏側を覗いてみると、枯草に隠れるように救援依頼のサインが置かれていた。逡巡はあったが、好奇心がそれを上回る。そんな己に呆れつつ、Ramo はサインに手をかざした。
「悪いね、お呼び立てしちゃって。」
「──貴女か。」
Ramo を召喚したのは、近頃 "同僚" として働くことの多い褪せ人だった。
「私がかの商人を訪れることは如何にして?」
鉤指として共に戦いはしたが、それ以上の交流はない相手。こちらの動向を把握しているのは解せない。
「ふっふっふっ。この Qeero さんは武器だけでなく、頭も少しは使えるのだ。」
彼女は口を横に広げ、悪童のように破顔してみせた。彫りの深い顔立ち。やや色の濃い金髪を頭の後ろで一本にまとめている。山吹色のローブに包まれたその身の丈は Ramo と同じくらい。女性としては大柄な部類に入るが、ほっそりとしたその体躯は見る者に可憐な印象を与えるだろう。
「火矢を使ってたでしょう? 惜しまず使ってくれるんで助かってたけど、調達が大変そうだなあ、とも思ってたんだ。」
「なるほど。思いもよらぬところから足がつくものだ。して、用向きは。」
そう言いながら辺りを見回す。ここは──エオニア北東の岸。先ほど彼がいた商人の店とは沼を挟んでほぼ反対側だ。
「そこの坑道で身動き取れなくなっている褪せ人がいるんだ。その救出に手を貸してほしい。」
そう言って、彼女は北側にある崖に空いた穴──『サリアの結晶坑道』の入り口──を指した。
「救出? それはまた珍しい依頼だ。」
褪せ人は皆、独立した戦士だ。強敵を破るために協力し合うことはあれど、基本は単独行動である。実力に見合わぬ場に足を踏み入れて戻れなくなったならばそれまでのこと。そうしてひっそりと消えていく褪せ人は多い。
「まあ、そうだね。詳しいことは歩きながら話そう。」
昨夜遅く、Vann という年若い褪せ人が血相を変えて Qeero のもとへ駆け込んできた。彼は友人の Wals と共にアギール湖のほとりにある『竜に焼かれた廃墟』を探索していたという。そこで地下への階段を発見した彼らは勇んで駆け下り、果せるかな宝箱が置かれた部屋へと行き当たった。先行していた Wals が飛びつくようにしてこれを開けた途端、箱の中から白い煙が噴き出す。
「やばい!」
「退がれ!」
二人は逃げようとしたものの、室内に充満した煙で出口を見失い、手探りで右往左往するばかり。ほどなくして視界が戻ったときには、Vann の友人の姿もまた煙と共に忽然と消えていた。
「──転送罠だな。」
「うん。この地に来たばかりの褪せ人の半数──は言いすぎかな、三分の一が引っかかるやつだ。」
Vann は──そしてそれは Wals も同様だが──未だ円卓にも至っていない新参の褪せ人であるため、頼れる伝手がない。そこで彼は、鉤指として名の知られた Qeero に助けを求めた、というのが事の次第であった。Ramo は小さく溜息を吐く。
「常に友と連れ立って歩き、これを見失ったとあれば他に助けを乞う。王座への道を征く者としては、少々頼りなくも思えるが。」
「まあ、そう言わずに。正直私だって、軟弱な奴らだなあとは思うよ。でも、そういう友情って貴重でしょ。この狭間の地では特に。」
以前の彼ならば、それを弱さと片付けかもしれない。だが、先頃より彼の内にはそれを許容する余地が広がりつつあった。坑道の入り口で手筈を確認する。
「今回は坑道の "主" を倒すことが目的じゃない。戦闘は最小限に留めて探索を行い、目標を発見したらすみやかにこれを回収、そして撤退する。」
「承知した。」
Ramo が認識する限り、Qeero の戦闘力は明らかに彼を上回っている。単純に坑道内を掃討し、最奥にいる "主" を倒すのであれば、他人の手を借りる必要などないだろう。だが、限られた時間の中での探索・救出となると、いかな猛者とて単身での遂行は覚束ない。Qeero は Ramo に微笑みかけ、その胸板を拳で軽く叩いた。
「これまで一緒に働いた中で、一番信頼できる奴を喚んだんだ。」
世辞とは分かっていても、そう言われれば悪い気はしない。
「光栄の至り。」
面映ゆさを隠して短く応ずると、彼は先んじて坑道の暗がりに分け入った。
「たくさんいるなあ。」
岩陰から採掘場の様子を伺う二人。全体に上り坂になっており、その先にさらに木製の足場が組まれている。
「見て、あそこ。」
Qeero が指した先には梯子が見えた。あれを降ろせば、長い側道をたとらずとも足場に上がることができる。採掘を行っている鉱夫たちは仕事に没頭しているため、こちらから手を出さない限り敵対することはない。ただし、彼らを "監督" するために巡回している個体は、侵入者を認めればこれを排除にかかるので、気付かれた場合の対処を考えておくべきだろう。そして最も厄介なのは──
「"虫" は向こうと、そっち。あと、ここからだと見えづらいけど、その櫓の上に一匹。」
「都合三体、か。」
彼女が "虫" と呼ぶそれ、『腐敗の眷属』は人のように二本の脚で歩く節足動物だった。知能もそれなりにあるようで、二本の腕で『蟲のグレイブ』と呼ばれる長柄の武器を握り、これを振るう。その感覚器官は鋭敏で、連中の周辺を気付かれずに通り抜けるのはほぼ不可能。つまり、この三体はどうあっても倒す他ない。
「行くよ。」
その合図で二人は同時に走り出した。Qeero は『ハルバード』──槍に斧の刃を取り付けたもので、奇しくも虫どもが手にしているグレイブと同じ系統の武器だった──を構え、向かって左手にいる近い個体に向かう。敵の存在を察知した虫が甲高い奇声を上げ、その体側に並ぶ九対の孔から粘液の糸を吹き出した。いかなる力の作用によるものか18本の糸は空中で旋回し Qeero を迎え撃つ軌道を取る。彼女は臆することなく地を蹴り、その内側に飛び込んだ。その勢いを乗せて突きを放つ。しかし、敵はその外見からは想像もできないほどの機敏さで横へ動いてこれを躱した。慣性で動きの鈍った Qeero 目掛けて振り下ろされるグレイブ。だが、その刃が彼女に届くよりも早く、宙を突いて止まっていたハルバードが弾かれたように飛んで相手の胴を薙ぎ払った。上下に断ち切られた虫の体が採掘場を転げ落ちていく。
幾度見ても、実に。これまでの共闘の中で、Ramo は彼女が振るうハルバードの尋常ならざる動きの機序を見出していた。最初の突きあるいは振りからの切り返しの際、彼女はハルバードの柄を足で蹴ることで加速させている。狙った箇所を過たず蹴り上げる技量と、片足でも上体を微塵も揺らがせぬ強靭な体幹があってこそできる、まさに離れ業だった。
「こちらも負けてはおれぬ。」
飛来する蟲糸を Qeero 同様に前方に踏み込んで掻い潜り、戦技『貫通突き』を放った。相手が横に走るのを見越し、切っ先を滑らせて捉える。胸部を貫いた刀身を、柄を捻ってから抜き去ると、虫は大量の体液を吐き散らしながら地面に倒れ、すぐに動かなくなった。残りの一体を仕留めねば──。そう思って見遣った櫓の上には、頭部を断ち割られた虫の死骸と、ハルバードを担いで微笑む乙女の姿があった。
巡回する監督役の鉱夫を避けつつ、二人は梯子の下へたどり着いた。
「そんじゃ、投げてもらえる?」
Ramo が腰を屈めて両手を組み、Qeero がそこに足を乗せる。
「せえ、のっ……うわっ!」
彼女の身体は予想以上に軽く、足場の床面からさらに1メートルほども高く飛び上がった。響く着地音。まずい、敵に気付かれただろうか。だが梯子はすぐに降りてきた。
「頭ぶつけるかと思ったあ。とにかく上がってきて。」
足場の上には鉱夫の死体があった。
「これは、救出目標 Wals くんの仕業かな。」
「鉱夫たちと戦いながら奥へ進んでいる、ということか。」
予想される足取りを追った先、果たして彼はそこにいた。周囲を取り囲む数体の鉱夫に牽制を仕掛けてはいるが、Wals の構える『ロングソード』の刀身は半ばで折れ失われており、もはや武器としての機能を殆ど残していない。さらに悪いことに、彼は右脚を負傷しているらしかった。攻めに出るにしても踏み込みが効かず、逃げるにしても走れない。
「まずいね。飛び込んで行きたいところだけど、数が多い。乱戦になると彼が危ない。」
歯噛みする彼女に、Ramo が問う。
「弓の経験はおありか?」
「ええ、少しは。」
「あそこを。」
彼が指す先には、乱雑に積み上げられた資材があった。足場を組むための木材、掘り出した鉱石を運ぶ荷車、水を運ぶ桶。
「奥の、筵を掛けられた樽。あれは火薬だ。」
坑道の中は暗く、Qeero には確認できなかったが、彼がそう言うのであれば間違いないだろう。
「あれを火矢で射って、奴らの注意を逸らしてもらいたい。その隙に Wals 殿を引っ張ってくる。」
弓の腕前からすれば射手は Ramo が適任だが、プレートアーマーを着込んだ男を抱えて走る膂力は Qeero にはない。
「わかった。やってみる。」
彼女は頷いて『ロングボウ』と火矢を受け取った。
久方ぶりに引く弦の硬さに、Qeero は緊張していた。Ramo は既に動き出している。細く息を吐きながら引き絞り、そして──放つ。矢は筵に突き刺さったが、期待していた爆発は起きない。しくじった! 冷たい汗が背中を伝う。しかし彼女の目は、炎が払った闇の中に一瞬だけ浮かび上がった樽の輪郭を捉えていた。次は外せない、──外さない。二の矢が樽に食い込んだ瞬間、閃光と轟音が洞内を駆け抜けた。爆炎が押し出した煙が充満し、何も見えなくなる。目を開けているのさえ難しい。その時、煙の奥から Ramo の姿が現れた。Wals は半ば彼に引きずられるようにして走っている。
「走れ! 止まるな!」
梯子で上ってきた段差を飛び降り、岩肌を滑り、三人は転げるようにして坑道を飛び出した。
エオニア沼南岸。一行は街道沿いを移動し、ここでようやく一息を付いていた。
「もう駄目かと思いました。お二人が来てくれなければ今頃は。本当に何とお礼を言ったらよいか。」
深々と首を垂れる Wals に Qeero は軽い調子で応じる。
「ともかく生きててくれて良かったよ。お礼は、助けを呼んでくれたお友達に言うといい。」
「はい、そうします。」
実に素直な若者だ。
「剣が折れても諦めずに戦う姿、格好良かったぞ。」
佳人より向けられた笑顔と賞賛の言葉に、Wals は耳まで赤くしている。
「要らぬ世話かも知れぬが、支障なくばこれを持たれよ。」
彼が武器を失っていたことを思い出した Ramo は、道具入れから『ショートスピア』を取り出した。
「直剣とは勝手が違うだろうが、次を手に入れるまでの繋ぎと、帰り着くまでの杖にはなろう。」
「ありがたいです。折れ直より百倍頼もしい。」
Wals は受け取った槍をついて十数歩を進んで振り返る。
「大丈夫、歩けそうです。」
「して、ここからの予定は。」
Ramo の問いに、Qeero は北西を指す。
「ケイリッドとリムグレイブの堺にある『燻り教会』へ。Vann にはそこで待つように言ってある。ちょっと遠いけど頑張ろう。」
こうして三人は歩き出した。遠目の利く Ramo が先行して接敵のない経路を探り、Qeero が負傷を押して歩く Wals を励ましながらこれに続く。度重なる迂回のために彼らの進みは遅々としていたが、それでも陽が空の頂に至る頃には目的地である教会が見える場所までやって来れた。その崩れた壁の前には Vann が立っており、こちらに向かって両手を振っている。おそらく、ずっとあそこで待っていたのだろう。足の痛みを忘れたかのように駆け出す Wals だったが、Qeero がそれを制した。
「待って。──侵入だ。」
三人の行く手を阻むかのように、赤黒い光を帯びた人影が虚空より立ち現れた。
「何だ──アレ?」
侵入者の異様な風体に、Qeero は思わずそう呟いた。指巫女の装束をまとった女が、人間を両断できそうな馬鹿でかい包丁を担いでこちらに駆けてくる。
「褪せ人さあああああん!」
絶叫しながら走り来るその様は完全に狂人のそれだ。
「ひょっとして、偽装のつもりなのか?」
指巫女とは、褪せ人を導くため二本指から遣わされる案内役である。しかし、今や狭間の地から彼女らの姿は消えて久しい。いや、そうでなくてもアレに騙される褪せ人はいないだろう。
「ここは我に任されよ。貴女は Wals 殿を。」
抜刀し進み出た Ramo に場を預け、二人は路傍へ退がる。
「お一人で大丈夫なんですか?」
「たぶんね。強いんだよ、彼。」
彼女の見立て通り、相手は Ramo にとって然したる脅威ではなかった。血走った目で聞き取れぬ言葉を発し、巨大な刃物を振り回す様は見る者に恐怖を抱かせるかもしれないが、それは外見だけのこと。女の攻撃は単調で、振りも鋭さを欠く。刃を躱し、その後隙に斬撃を入れる。これを数度繰り返すことで、敵の勢いは容易く殺がれた。一方的な運びを前に Qeero がぽつりと呟く。
「あれは相手にならん。」
襲撃者は膝を着き、口の端から血泡を噴きながら Ramo をねめつけていたが、不意にその視線を傍で戦いの行方を見守る二人へ向けると、そちらへ走り出した。女と手負いの若造ならば容易に仕留められると思ったのだろうが──そちらはなお相手が悪い。
「こ、こっちに来ますよ!?」
Wals は声を震わせながも Qeero の前に立ち、迫り来る敵に向けショートスピアを構える。
「頼もしいねえ。でも、ここはお姉さんに任せなさい。」
そう言って少年を退がらせた Qeero は左手に『氷紋の鉄盾』を構えていた。彼女はハルバードを両手持ちで扱うため、この盾が使われることは滅多にない。だが、背後より彼女が戦う様を見る者には、ひるがえる山吹色のローブの背を彩る蒼い氷紋が強い印象を残す。これが彼女の異名「氷の戦姫」の所以であろう。その盾が狂女の振り下ろした包丁を払う。戦技『パリィ』。体勢を崩した相手にハルバードによる致命の一撃が突き刺さる──と思いきや、Qeero はそのガラ空きになった顎を力いっぱい蹴り上げた。予想だにしなかった決着。吹き飛び仰向けに倒れた女は、そのまま光る塵となって消え失せた。
再会した Wals と Vann は繰り返し感謝の意を述べ、リムグレイブ方面へと帰っていった。狭間の地に流布する「氷の戦姫」の活躍を伝える逸話の一節、彼女に付き従う「剣鬼」の物語は、この頃に付け加えられたものと考えられている。
燻り教会の崩れた壁の内で、二人はようやく訪れた安堵の時を過ごしていた。
「お疲れ様。そして本当にありがとう。」
Qeero が改まって頭を下げる。
「少しは役に立てたようだ。」
「少しだなんて。あなたが来ていなければ、あの少年は生きて戻れはしなかった。鉱夫どもに突っ込んだ私もどうなったやら。」
彼女は腰のポーチを探りながら続ける。
「それで、今回の報酬なんだけど──あれ、どこだ?」
「お気遣いなく。此方にとっても得るもの多き道中であった故。」
それは本心からの言葉だったが、彼女はそれをぴしりと制した。
「そうはいかないって。ここまで世話になった御仁を手ぶらで帰したとあっては、Qeero さんの名がすたる。──あ、あった。」
彼女が差し出したのは黒い櫛だった。
「男の人はこういうのあんまり興味ないだろうけど、売ればそれなりのルーンにはなるから。」
Ramo は受け取ったそれを裏表と返して眺めた後、懐に収めた。
「では有り難く頂戴致す。──ときにつかぬことを伺うが、Qeero 殿は葦の地の出ではないか。」
問われた彼女の目が丸くなる。
「え、なんで分かったの?」
「この櫛の塗り──漆は他の地で見ぬもの。そして貴女の名前。」
「そうかあ。ほら、私って顔立ちも髪色も背丈も、葦の地の人とは全然違うでしょう?」
そう言って彼女は腕を広げ、自分の姿を改めて Ramo に見せた。
「然り。故に我もしばらくは思い至らなんだ。」
「父親が、他所の国から流れ着いた異人だった。私が幼い頃に亡くなったから記憶にはないんだけどね。そういうわけで、こんなナリだけど生まれも育ちも葦の地でござる。」
なるほど──と得心する。海に囲まれた彼の地では稀にしか起きぬことだったが、それ故に伝聞されることの多い事柄でもある。
「では、随分と苦労されたのでは。」
その問いに Qeero は首を横に振る。
「それがそうでもなくて。周囲はみんないい人たちばかりだったから。ああ、同じ年回りの子供たちからは "南蛮黍" ってからかわれたけれど。」
彼女は後ろでまとめた黄色い髪を振ってみせた。故郷で見た実物を思い出し、思わず吹き出す Ramo。
「あ、笑ったな?」
そう咎めるも声も実に楽しそうだった。
「いや、失敬した。それからもう一つ、あの斧槍捌き。型破りではあるが、その基本にあるのは薙刀術──であろう。」
「そこまで分かっちゃうんだ。」
彼女は遠くを見遣る。おそらく昔を思い出しているのだろう。
「母が一応は武家の出ってことで、娘の私を道場に通わせてたんだ。」
そこで彼女はハルバードを取り出し、構える。
「葦の地の薙刀術に、足クセの悪さを取り入れた Qeero 流斧槍術。結構イケてるでしょう?」
「比類するものなき柔剣かと。」
冗談めかして応じたが、実際あれはひとつの到達点であろう。
「でもね、時々蹴り損ねて痛い思いしてるんだ。脚なんかいつも痣だらけ。」
ローブのスリットから膝頭を出して見せる。そこには確かに青痣があったが、Ramo はそれどころではない。彼が目を背けるのと、Qeero が赤面して裾を掻き合わせるのは同時だった。
「失礼。はしたない真似を。」
「いや、気に病まれるな。」
束の間、遠い故国の思い出話に花を咲かせた後、Ramo は立ち上がった。
「ではこの辺りで失礼致す。また御用の向きあれば、気兼ねなく訪ねてくだされば。」
「うん、またね。」
一礼の後『指切り』をして去った彼の気配が完全に消えたことを確かめると、Qeero は天を仰いで深い溜息を吐く。強いし、気も合うし、上手くいくと思ったんだけどなあ。同郷のよしみもあったのに。櫛を受け取ったときの様子を見て分かってしまった。
「振られたら、私のところにおいで。」
決して直接は伝えられぬ言葉を呟くと、彼女はリムグレイブの青い空を目指して歩き出した。
数日後。Saki of Astora は円卓でローデリカに呼び止められた。
「こちら、Ramo 様からの預かりものです。」
先日出した手紙の返事が来たんだ。そう思って受け取った包みは存外に厚く、しかしそれに比して妙に軽かった。
「なんだろコレ?」
「たぶん、綿だと思います。壊れやすい品が入っているのでは。」
「なるほど、ありがとうね。」
礼を言って彼女のもとを離れる。すぐにでも開封したかったが、人の目のある所では憚られた。ここ円卓では、皆が他人への無関心を装いつつ、その実は常に互いを監視していることを Saki は知っている。とりあえず、ここを出よう。
ストームヴィル城の裏手、湖を臨む断崖。募る好奇心を抑えながら、ようやくこの場にたどり着いた。ここなら辺りに人はいないし、誰がが来てもすぐに気が付く。懐から取り出した包みには「Saki 殿へ」とだけ書かれていた。
「こういうときは自分の名前も書くもんじゃない?」
そう独り言ちつつ封を切ると、予想された通り、中から純白の『ふんわり綿』が飛び出した。入っていたのは紙片。これには、先日彼女が送ったお礼の手紙への返答として、彼女の息災を願う旨の定型句が書かれていた。そして黒い櫛。
「すごく綺麗。なんだろうこの表面。真っ黒なのに不思議な艶があって、まるで濡れているみたい。それなのに、手触りはすべすべ。」
彼女は周りを見回す。人目はないが、ここではちょっと。坂を下ったところにある、『イリス教会』の遺構に駆け込む。人の訪れが耐えて久しい礼拝堂の静寂の中、彼女は背に垂らした白金の三つ編みを解き、それに櫛を通した。長い旅を通して傷み、あちこちで絡んでいた髪がきれいに整っていくのが分かる。心ゆくまで梳いた後に結い直す。こんな滑らかな手触りは久しぶりだ。故国アストラにいた頃を思い出す。
「これは大変に良いものを貰ってしまった。」
Ramo の厚意に感謝しつつ、陽の光の下で改めて櫛を眺めた。面にあしらわれた螺鈿の蝶が闇の中で艶やかに輝いている。その蒼は、櫛の新たな持ち主の瞳の色に少しだけ似ていた。