褪せ人 Ramo と Saki の物語 作:Skinny Slaver
今回のゲストは褪せ人ではなく敵モブ。世界設定に関する個人的な興味・疑問・解釈が雑多に放り込まれています。
天と地の合わせ鏡。湖のリエーニエの景観はその壮大な美しさで見る者を魅了する。だが、その足元に目を向ければ、至るところに残された戦禍とそれに続く混乱の爪痕に気がつくだろう。
Saki of Astora は東部の岸を街道に沿って北上していた。路傍に点々と転がる遺体。その中には未だ「声」を発しているのもある。それは、彼女のように聖職の修練を積んだ者のみが聞くことできる、死者が残した想念。なるべく聞かないようにはしているものの、時折出会う、苦しみ悲しみを一際強く訴えるものを無視することは難しかった。そのたびに Saki はこれに駆け寄り、『鎮魂』でその魂を送りにかかる。
「──は救いの御手。迷える者よ、その差し出さるるを取り、恩寵に身を委ねん──。」
詠唱に淀みはないが、故国で送った「神」と向き合う生活を離れて久しい彼女の心は、既にその意味を追ってすらいなかった。ただ幼い頃より聞き、諳んじることで身についたものが習慣として再現されているに過ぎない。内なる信心を伴わずとも、過たず唱えられた聖句は奇跡を呼び起こし、死者の魂とそれが残した肉体を光に変じて天へと放つ。──わかっている。これは偽善だ。この地に打ち捨てられた死者すべてを送るには、集中力も時間もまったく足りない。自分がしているのは、ただ自身の心を乱す哀れな声が耳に届かぬよう消し去っているだけのことではないか──。
これらの死者を生み出した戦禍のひとつである「マレニアの南進」を伝える剣の碑。そのほど近くにある祝福で休息していた Saki は、どこからか呼びかける声を聞いた。
「褪せ人よ、あんたに話がある。敵対するつもりはないから、攻撃しないでほしい。」
「誰!?」
彼女は反射的に立ち上がる。
「落ち着いて。そんなんじゃ、おっかなくて出ていけやしない。とりあえず腰を下ろして。」
声は近くの茂みから聞こえてくる。しばし黙って様子を伺うが、要求に応じぬ限り姿を現す気はないようだ。聖印は握ったまま、再び腰を下ろす。
「これでいい?」
枝葉が揺れ、そこから人影が立ち上がる。初めはその体躯の矮小さから子供かと思ったが、陽の当たる場所へ出てきたその人物の相貌は年齢を重ねた女性のそれだった。背丈さえ並みであれば「Saki の母親」でも通りそうだ。汚れの目立つ革製の鎧を身に付けている。
「突然声を掛けて悪かったね。私は Ivana という。見ての通り卑兵だ。」
その声には不思議な落ち着きがあった。
「ここ、いいかい?」
Ivana は祝福の前の地面を指した。
「ええ、どうぞ。」
断ったらどうするのだろうと思ったが、もちろん口にはしない。女は Saki の隣、相手を緊張させるほど近くもなく、よそよそしさを感じさせるほど遠くもない、絶妙な距離に座った。
「頼みたいことがあるんだけど、その前に確かめておかなきゃならんこともある。さて、何から話したものか。」
赤茶けた蓬髪ごしに、こちらを見るその眼には、確かに敵意や企みのようなものは感じられない。
「それならまず、私から質問させてもらってもいいですか?」
そう訊ねると、相手は小さく頷いた。
「卑兵というと、通りがかる人たちを待ち伏せて襲う集団ですよね。少なくとも私が今まで遭遇したのは例外なくそうでした。あなたは──彼らとは違うんですか?」
問われた Ivana は驚いたような顔を見せる。
「へえ。あんた、見かけによらず聡い娘だね。」
余計なお世話だ、と内心で言い返す。
「私が連中と違うってのは──そう、その通り。なんでそうなのかは分からんけどね。エルデンリングとやらが砕けたとき、あいつら──というか私以外の全員──がおかしくなっちまった。」
「じゃあ、それ以前は皆、追い剥ぎみたいなことをしてたわけじゃないんですね?」
意外な話に興味を引かれた Saki が重ねて問う。
「そりゃあ、あんた。我々は本来 "戦場の番人" なんだ。打ち捨てられた兵どもの亡骸を片付け、醜く腐れ果てたり、あるいは魂のない状態で歩き回ったりすることを防ぐ。遺体から剥いだ金品を生活の足しにしたりもするが、危険な役目、汚れる仕事にはそれくらいの役得はあって然るべきだろう?」
そこで Ivana は Saki をじろりと睨んだが、彼女の目の内に反発も咎め立ての色もないこと見て取ると、表情を緩めた。
「それがエルデンリングが砕けたことで変わった、と。」
「もちろん一晩でガラリと、ってわけじゃない。徐々に、徐々に、だ。仕事に身が入らなくなり、仲間内でのいざこざが目立つようになった。他所の連中と揉めることも増えたね。そのときの私には何が起きているのか分からなかった。」
女王マリカの手により黄金の律が砕かれたことで、狭間の地に住む者たちの多くは精神に変調を来したと聞く。気の毒なことに、彼らはその影響を大きく被ったようだ。
「通りがかる者を襲うようになったところで、私は連中と袂を分かつことに決めた。さすがにそんな非道に付き合うことはできない。息子の Misha を連れて、住んでいた集落を離れたんだ。けれども──、」
痛みを伴う記憶。息を整えて続ける。
「Misha もおかしくなっていった。私が止めるのも聞かず、集落の奴らに合流し、襲撃と略奪、そして殺戮に参加するようになったんだ。」
「そんなことって──。」
言葉を詰まらせる Saki を、女は片手を上げて制した。
「本当に優しい子なんだね。でも本題はここから。」
吹き流れる雲が陽光を遮り、あたりは不気味な暗さに包まれた。
「そうやって通りかかる者を襲っていれば、ときには腕の立つ者にも当たる。連中はそのたびに数を減らしていったが、一向に凶行をやめる気配はなかった。まあ、当たり前か。狂っているんだから。」
減った頭数には、Saki 自身が撃退した者たちも含まれているだろう。5人か、10人か、もっと多いかもしれない。
「そんな中でも Misha は長らく負傷もせず生き残れていた。それは本当に巡り合わせによるものだったんだけど、本人は自分を優れた狩人だと思っていたようだ。そして先日、その幸運はあっけなく尽きた。」
その先は聞きたくないというのが本音だったが、それを言い出すには既に遅すぎた。
「その日、Misha が加わった襲撃部隊は獲物と狙った相手に返り討ちにされたらしい。誰一人として集落に戻らず、Misha を含めた隊員たちの遺体を最初に見つけたのは彼を探しに行った私だった。」
その時の彼女はどんな心持ちだっただろう。想像するだけで胸が苦しい。そんな Saki を宥めるかのように Ivana は微笑んでみせた。
「もちろん悲しかったさ。夜ごと夢に見る。でも、私が最初に彼を見つけたのは幸運でもあった。狂っても卑兵は卑兵。習慣通り、死体になった者は敵だろうが味方だろうが、すべて切り刻んで塚に投げ込んでしまう。けれども私にはできなかった。Misha の身体を奴らに委ねることも、自分の手で切り刻むことも。これまで散々、戦場で兵たちの遺体にそれをしてきたくせにね。──可笑しいだろう?」
そう言って、Ivana は自嘲する。
「それで、頼みたいことというのは他でもない。あんたが使っていた、死者を光に変えて送る──"送る" って解釈で合ってるかい?──あの儀礼を息子にも施してもらいたいんだ。」
出来る、出来ないで言えば、おそらく可能だろう。だが、あの奇跡は──
「狭間の地で信仰されているように黄金樹に還るわけではありません。あなたたちから見れば、異教の神ということになります。」
その言葉に、Ivana は静かに首を横に振る。
「構いやしないさ。弔いで大事なのは、誰が、どんな思いで送り出すかだ。どの神の下へ送られるかはたいした問題じゃない。なにせ、この地の神とやらは私たちを蔑まれ踏みにじられるための存在として作り給うた薄情者なんだから。それに──」
女の小さな手が Saki の肩に乗せられる。
「ここまでの道々、死者を送る様子を観察させてもらったが、あんたは心から彼らを慈しみ、悼んでやっていた。違う神の元に生まれたとて、それくらいはわかる。わからいでか。」
目の奥が熱い。自ら偽善と断じたその行いでも、救えるものがあるのだろうか。
「私でお役に立てるのなら、是非に。」
立ち上がった彼女を見上げた Ivana が目を細めたのは雲の切れ間から再び顔を出した太陽のせいだけではなかっただろう。
「では早速案内させてもらおう。」
Ivana も腰を上げる。彼女の背丈は Saki の胸元ほどしかなかった。
「言い忘れてたけど、息子のところへ行く道には幾つか問題があってね。」
「ええ? そういうことは先に言ってくださいよ。」
抗議の声はうるさげな声に跳ね返される。
「あんたがあれこれと訊くもんだから、話す暇がなかった。」
「私のせいなんですか?」
こうして二人は、約束された悲しみへの道程を歩き出した。
Ivana と Saki は海際の崖を歩いた。息子の遺体は地下墓に隠してあるという。
「そうでもしないと集落の連中に解体されてしまうからね。で、さっき言った道中の問題のひとつがここだ。」
倒れた石柱が岩棚に寄りかかってできたアーチの前で足を止める。
「ここは奴らの狩場のひとつなんだ。さすがに、まだ私のことは同族とわかるらしく襲ってはこないが、今はあんたがいる。」
そう言われて道の前方、左右の茂みに意識を向けると、確かに気配がある。少なくとも四人。
「戦いは避けられないだろうが、一応試させておくれ。」
片手を上げ、そこで待てと Saki を制すると、彼女はそこから数歩進み出で声を張る。
「おまえたち。これは私の友人だ。手を出すんじゃないよ。」
短い静寂の後、茂みの中から一人の卑兵が立ち上がった。布を巻いて顔を隠しているためその表情は伺い知れない。手には長柄の武器。先端には血に錆びた鋸が取り付けられている。他の者たちはまだ姿を現していない。彼女の意は通じたのだろうか──。成り行きを見守っていた Saki の傍らで、陶器の割れる音と共に白煙が噴き出した。卑兵たちが使う煙玉。それは獲物に対する目隠しであると同時に、仲間に狩りの始まりを伝える合図でもある。他の連中が茂みから一斉に飛び出してくるのが見えた。
「交渉決裂だ! やるよ!」
「はい!」
Saki の手に『黒炎』が燃え上がり、Ivana は二刀の『ショーテル』を構え、敵に切り込んだ。
時間にして二分足らず。亡骸となって地に横たわる五人の卑兵。
「ざまあないね。」
物言わぬ同胞たちを見下ろして Ivana は呟いた。
「あんたもやるじゃないか。路傍の死者を憐れむ心優しいお嬢さんかと思いきや、敵に相対すれば一切の容赦がない。」
「それとこれとは話が別。私、まだ死にたくないですもん。」
皮肉を涼しい顔で流された Ivana は呵々と笑う。
「気に入った。息子が生きてれば、嫁にと乞うところだ。」
左手に海を臨みつつ坂を下り、途中で山側へ折り返して上り道。その先の岩壁には木製の扉が取り付けられていた。
「ここがその地下墓ですね。さっき問題が "幾つか" って言ってましたけど、この中にも?」
「むしろこっちが本番。」
そう答えながら、Ivana は閂を外す。扉の外側に取り付けられていることから、外部からの侵入を防ぐためのものではないことがわかる。
「Misha を運び込んだときは気付かなかったんだ。あいつは最近になってここに棲みついたらしい。」
「あいつ?」
抜き取った角材を近くの岩に立てかける。
「全身に角の生えた馬鹿デカい奴だ。私はもちろん、あんたら "普通" の人間と比べても二回りは大きい。そんで、これまた長くてぶっとい刀を振り回しやがる。墓から出ようとしたところで鉢合わせて、命からがら逃げだした。そいつをなんとかしないと、Misha のところへは戻れない。──さ、開いたよ。」
石造りの階段から黴臭い風が吹きあがる。
「お先にどうぞ。」
「こういうときは若い者が身体を張るもんだ。」
押し問答の末、Saki が前を行くことになった。『ランタン』に灯を入れる。
「進む方向はちゃんと指示してくださいね。」
「そいつは任せておきな。」
彼女が掲げる燈明は闇の中へと薄れていき、すぐに見えなくなった。
『断崖下の地下墓』。この場所はそんな立地そのままの名前で呼ばれているという。入ってすぐの場所に昇降床。その狭い足場の上に、Saki と Ivana は寄り添うように並び立った。
「結構降りますね。」
「ああ。この仕掛けが壊れたら、もう出れないよ。」
「妙な脅しをかけないでほしいなあ。」
降りた先からさらに奥へと延びる通路は、階段と曲がり角が続き見通しが悪い。
「いませんね。」と Saki が囁く。
できればここでは戦いたくないが、その望みが叶う見込みは薄い。そんなことを考えていた彼女の背に Ivana が声をかける。
「この先は慎重に。罠が仕掛けられているんだ。踏むと矢が飛んでくるやつとかね。」
呼び起こされる過去の苦い──いや、痛い経験。
「私、あれ苦手なんですよ。」
「得意な奴ってのもいないと思うが。」
そのとき、周囲の空気の流れが不意に乱れた。咄嗟に左右に分かれて跳んだ二人の間を分厚い刃が走り抜け、床を打つ。甲高い衝突音が石造りの墓地内に響いた。
「こいつだ。」
襲撃の主は、見上げるような巨体で、先に Ivana が言った通り全身の至る所から──その顔面からさえも──捻じくれた角が突き出している。不意打ちを外された鬼は大刀を担ぎ上げ、その双眸を Saki に据えた。
自身が標的になったことを悟った彼女は、相手の周囲をゆっくりと巡る。その手には『君主軍の直剣』が握られていたが、筋肉と反射神経の塊のような怪物を相手に近接戦を挑むつもりはない。狙いは他にあった。刀が再び、今度は袈裟懸けに振り下ろされる。姿勢を低くしてこれをくぐり、素早く相手の背後へ。鬼もこれを追って全身で反転。その足元へ入れ違いに飛び込んだ Ivana が交差させたショーテルを振り払い、一閃で膝裏の腱を正確に断ち切った。支えを失った鬼の身体は崩れ落ち、膝を着いたところで一瞬静止する。そして──。ちょうど目の高さに降りてきた心臓を Saki の『貫通突き』が穿つ。口から二度大量の血を吐き出した後、怪物は倒れ伏して動かなくなった。
「やるじゃないか。剣も使えるとはね。」
感嘆の声を上げる Ivana に、Saki は安堵の笑顔で応じる。
「上手くいってよかった。Ivana さんこそ、すごい動き──」
その瞬間、巨大な手が彼女の首を鷲掴みにし、その身体を宙に吊り上げた。咄嗟に左腕を差し込んで首を折られるのだけは避けたものの、その凄まじい握力による締め付けに意識が遠のく。
「Saki!」
地を蹴って相手の背後に回り込もうとする Ivana だったが、その動きを読んで振り下ろされた足に背を押さえられた。
もう一体いたなんて。巨体の重量を乗せた踏みつけに肺が潰れそうだ。俯せの状態では、ショーテルで足首に斬りつけることもできない。Saki も完全に身動きを封じられているようだ。このままでは──。肺の内に残された最後の空気が漏れ出る寸前、ありったけの力を込めて右手に握ったショーテルを目の前の石壁に向かって投げつける。跳ね返ったそれは鋭く回転しながら飛び、先端を敵の脇腹に食い込ませた。不意の激痛に緩んだ鬼の手から、Saki の身体が抜け落ちる。拘束から解放された彼女は、敵とそれに踏みしめられたままの仲間に背を向け、通路の奥に向かって走り出す──が、それは逃げるためではない。駆け出して十数歩目、足元の床が沈み込んだのを感じた Saki は地面に身体を投げ出した。その頭上を、奥の壁から放たれた矢が次々と通り過ぎ、敵の身体の至る所に突き刺さる。致命傷となったのは、その眼窩に深々と食い込んだ一本だった。
「こいつら、いったい何者なんだい?」
倒れた鬼の下から這い出た Ivana が問う。Saki は以前、ストームヴィル城の中庭でも、これと同じ姿の敵と戦ったことがあった。
「彼らは『忌み子』です。この角は、原初の生命の姿の表れだとか。王都では、この姿は祝福されぬ生命──穢れとして蔑まれ、赤子のうちに角を切り落とした上で地下に捨てられるそうです。」
そこで Ivana が首を傾げる。
「だが、そっちの奴は角を切られてないじゃないか。」
「あっ、本当ですね。」
指摘の通り、最初に彼女たちを襲った忌み子には角を切り落とされた形跡がなかった。それとは対照的に、後から現れた方はすべての角が根元で切られ、体全体が瘤あるいは瘡で覆われているようにも見える。
「じゃあ、こっちの角のある方は王都の生まれではないってことですかね。」
「さあ、私に訊かれても分からん。あと、そっちは女だね。それとも "雌" と言うのが適当なのか。」
「ええっ!?」
驚いてよく見てみると、確かに角のある個体はもう一方より一回り小さく、体つきもやや丸みを帯びていた。
「すごい。よく気が付きましたね。」
「そんなこと、見りゃ分かるだろ。」
王都に生まれ遺棄された忌み子が外へと逃げ延び、ここで身の上を同じくする女性と出会い、寄り添って暮らしていた──のだろうか。今となっては知りようもないことだが。
「さあ、行くよ。息子はすぐそこだ。」
自分たちが倒した忌み子たちの来し方に思いを馳せていた Saki は Ivana の声で現実に引き戻された。
墓地内の階段。その踊り場の下に設けられた儀礼用と思しき空間に横たえられた Misha は、母親よりは幾分大きいが、やはり Saki たち "普通" の人間と比べるとかなりの矮躯だった。その顎と頬を覆う髭がなければ、子供と見紛ったかもしれない。
「右手が、ありませんね。」
「私が見つけたときには既に。戦いの中で切り落とされたんだろう。近くを探したが、見つからなかった。狼にでも持ち去られたんだと思う。」
彼の傍らに跪き、その左手を取る。
「すぐに始めますか? お別れの時間が必要なら言ってください。」
しばしの間、Ivana は物言わぬ息子の顔に視線を落としていたが、意を決したように顔を上げた。
「いや、いい。お別れなんて、気が済むまでやってたらいつまでたっても終わりゃしない。──あ、でもちょっと待っておくれ。」
そう言うと彼女は Saki の右側へ回り込んで座った。そして Misha の頭を持ち上げ、自分の膝の上に乗せる。
「これでよし。さあ、送ってやっておくれ。」
それを合図に、Saki は左手に『白のタリスマン』──故国アストラにおいて聖職の女性に授けられる奇跡の触媒──を握り、聖句の詠唱を始めた。常の彼女の声とは異なる響きが、目に見えぬ力場を周囲に形成していく。その間、母の目は瞬きもせず息子に注がれていた。最後の一節を唱え終えた Saki は、タリスマンを持つ手を死者の手に重ねる。次の瞬間、Misha の肉体は白い光となり、地下墓の天井に吸い込まれていった。Ivana を見遣ると、彼女は声もなく静かに涙を流している。その後しばらく、二人は言葉を交わすこともなく、ただその場に並んで座っていた。
どれほどの間そうしていただろうか。石畳の冷えが膝に沁みてきた頃、Ivana がゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ出ようか。墓地は死者たちの場所。長居しちゃいけない。」
「そうですね。でも、少しだけ時間をもらえますか。」
続いて腰を上げた Saki は Misha が寝かされていた一角を囲う壁をランタンで照らす。そこには、書棚が並べられていた。空きも多いが、それでもすべての棚を合わせれば、そこに収められた本の量はかなりのものになる。巻物の類も見受けられた。
「普通、墓地にこんなもの置きませんよね。」
「言われてみりゃ、そうだね。」
それらの中からいくつかを手に取り、内容に目を通す。多くは経典の類だが、狭間の地の歴史に関するもの、天体の運行についての記述と観測記録、祈祷の作法解説など、その内容は多岐に渡っている。Saki には読めない文字で書かれているものもあった。振り返ると、彼女たちが通ってきた開けた空間の壁にも同じように書棚が並べられている。しかし、ここは明らかに居住には適さぬ場所。信徒たちが集う礼拝所の役割も兼ねていたのかと考えてみたが、それにしてもこの本の量は多すぎる上、その内容があまりにも雑多だ。普段は使わない類の書物を保管するための閉架として用いられたのだろうか。興味は尽きないが、Ivana をこれ以上待たせるわけにもいかない。
「行きましょう。」
二人は出口に向かって歩き始めた。
「ところで私、Misha さんの遺体について心配してたことがあったんですよ。」
「心配? 何を?」
「多くの地下墓は『死の根』に侵食されているんです。見たことありませんか?小さな棘がびっしり並んでいて、ところどころに目玉らしきものがある、木の根──のようなもの。」
「いや、ないね。他の墓地にはそんなものがあるのかい。」
Ivana はここ以外の墓地を見たことはないと言う。
「それは、還樹を待つ死者たちに取り憑き、"死に生きる者" として蘇らせるんです。」
「ああ、それなら知っている。スケルトンとか、何度倒しても起き上がってくる奴だね。」
それが地下墓の扉に閂が外側からかけられている理由だった。
「だから、Misha さんが墓地に運びこまれて数日と聞いて、もしかしたら死の根に憑かれてるんじゃないかとおもったんです。でも──」
そこで彼女は辺りを見回した。
「不思議なことに、この地下墓には死の根の影響が見られない。」
そうするうちに、昇降床まで戻ってきた。二人は再び身を寄せてこれに乗る。
「理由はわからんが、Misha の身体が歩き回るようなことにならなくてよかったよ。彼にあれ以上の問題が起きたら、私は耐えられない。」
「ええ、本当に。」
仕掛が止まると、出口はすぐそこだ。数時間ぶりに目にする太陽の光が目に痛かった。
地下墓を出た Saki と Ivana は、彼女たちが出会った祝福に戻り休んでいた。憩う二人の距離は、先ほどより少しだけ近い。
「ありがとう。見も知らぬ卑兵の頼みを聞く者などいないと半分諦めていたが、なんとか息子を送ってやることができた。」
「お役に立てたなら、嬉しいです。」
そこで Ivana は少々きまりの悪そうな顔を見せた。
「それで、この件のお礼についてなんだが──」
「あまり気を遣わないでください。」
慌てて首を横に振る Saki に、Ivana は苦笑する。
「話は最後まで聞くもんだ。──息子を無事に送り出せたら、私はこの生涯を閉じるつもりでいたんだ。遺灰となって、あんたに力を貸そうとね。」
そう言うと、彼女は用意していたと思しき小さな陶製の箱──遺灰を収める器──を取り出してみせた。
「そんなの駄目ですよ!」
気色ばむ Saki を、再び制して彼女は続ける。
「だから、話は最後まで聞きなさいって。──あんたと一緒に行動するうちに、私は考えを改めた。Misha はかけがえのない存在だったけど、私の "一部" ではなかったんだ。彼には彼の、私には私の、それぞれに独立した生命と魂がある。」
彼女は空を──息子が送られし方を見上げる。
「だから、息子が先立ったからといってそれを理由に母親の私が生きるのをやめてしまうのは、彼の独立した存在としての尊厳を損なうことになるんじゃないかとね。母親だからといって、子の在り方、生き様を私物化していいということはない。」
なるほど、そんな考えもあるのだ。子を持ったことのない Saki は実感をもってそれを受け止めることはできなかったが、理は通っている、と感じた。
「まあ、そんなわけで──報酬の遺灰は渡せなくなってしまった。悪いね。」
そう言って向き直った彼女の表情は、しかし全く申し訳なさそうではなく、むしろ楽しげですらあった。
「それで、これからどうされるんです?」
その問いに、Ivana は考え込む。
「同族があの調子ではもう戦場掃除では生計を立てられんし、何か新しい仕事を探さなきゃならん。でも、この背丈では誰が見ても卑兵上がりだとわかるから、それも難しいだろうね。」
狭間の地では、小さく生まれついた者は、ただそれ故に──その能力、才能、あるいは意志とは一切関係なく──蔑みの対象となる。生まれに対して与えられた生業を外れて生きるのは難しい。だが、Saki には心当たりがあった。
「それなら、リムグレイブに行くといいですよ。ハイト砦を訪ねてください。」
「リムグレイブというと、あの崖の上の城のさらに南か。そこに何があるって言うんだい。」
「そこでは、人間と亜人が一緒に暮らしているんです。私、領主のケネスさんと顔見知りなんで、紹介状、書きますね。」
唐突な話の展開に、Ivana の思考はついていけないようだ。
「亜人が? 人間と暮らしてる? どうやって? そんで、領主と顔見知りで紹介状? 褪せ人のあんたが?」
目を白黒させる彼女を他所に、Saki は道具入れから筆記具を取り出し、紹介状を認める──といっても内容はごく簡素なものだ。誰の紹介がなくとも、ケネスは自らを頼って来るものを拒んだりはしないと彼女は確信している。この書状はただ、Ivana がハイト砦を訪ねるのに抵抗がないようにするための "お守り" に過ぎない。
「それじゃあ、一応貰っておくよ。」
封書を受け取り懐に仕舞った彼女を眺めて Saki が言う。
「人に会うなら、少し見た目を整えた方がいいですね。ちょっと後ろを向いてください。」
長らく伸びるがままにされていたと思しき Ivana の赤髪に櫛を入れる。身長差のため、互いに立ったままの方がやりやすかった。
「ああ、気持ちいいねえ。最後に櫛を通したのは随分前になる。まして、人に梳いてもらうなんてのは子供の頃以来。」
十分に梳られた髪を後ろに結わえ、彼女の顔立ちに合うよう微調整。
「できました。これで五つは若返って見えますよ。」
その具合を確かめた Ivana は満更でもない様子を見せた。
「上出来だ。だが、そういうときは "十" と言ってやるもんだ。覚えておきな。」
「それは欲張りすぎです。十若返るには、鋏を入れなくちゃ。」
「まったく、口の減らない娘っ子だ。」
しばらくしたら訊ねて来てくれ。今日の礼を用意しておくから。そう言い残して、Ivana は街道を南に去っていった。ハイト砦に着くのはいつ頃になるだろうか。あちこち寄り道をするだろうから、結構かかるかもしれない。東の空にうっすらと浮かぶ月を見上げ、彼女は北を目指して歩き出す。今日は考えることの多い日だった。卑兵、忌み子、祝福が生み出す差別と断絶。今は遠い故国でも、ここ狭間の地でも、悲しみの絶える日はない。
「──難しいよね、本当に。」
リエーニエの湖面は人の子の嘆きなど素知らぬ風に、ただ宵の星々を映して悠然と輝いていた。