アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
第1話 龍識船
龍識船の朝は早い。
夜明けの冷気が甲板を撫で、帆柱の間を抜けた風が、吊り下げられた縄や旗をかすかに揺らしていた。眼下には雲海が広がっている。朝日を受けた雲の端が淡く金色に染まり、その向こうには、まだ眠りから覚めきらない山々の頂がいくつか浮かんでいた。
そんな甲板の端で、カイルは一人、片手剣を振っていた。
大きく踏み込むことも、力任せに刃を振り回すこともない。振り下ろした剣が止まる寸前に身体を半歩だけ前へ送り、その勢いを殺さずに手首を返して横薙ぎへ移る。足が甲板を踏む音も小さく、身体の軸はほとんどぶれない。
片手剣は軽い。
だからこそ、扱う人間のわずかな乱れが、そのまま動きに現れる。
カイルはその乱れを嫌った。
攻撃するために動き、防ぐために動き、避けるために動く。その一つ一つを別々に考えるのではなく、ひとつの動作として繋げていく。盾を受けに使った直後、そのまま身体を滑らせて相手の脇へ入り、空いた懐へ刃を置く。相手が振り向く頃には、もうそこにはいない。
それが、カイルの片手剣だった。
派手な技ではない。
けれど、長く積み重ねてきた動きには、妙な速さがあった。
最後の一振りを終えると、カイルは剣を下ろした。吐いた息が白くほどける。額に浮いた汗を手の甲で拭い、刃に残った朝の光を眺めていると、背後から声が飛んできた。
「……今日も朝からやってるニャ」
振り返ると、甲板の入口から一匹のアイルーが顔を出していた。
「おはよう」
「おはようニャ。毎日よく飽きないニャ」
「剣は飽きないですよ」
「剣は、ニャ?」
「鍛錬は飽きます」
アイルーが目を細めた。
「それは分かるニャ」
カイルは笑った。
龍識船では、こうした何気ない会話がよく交わされる。狩りに出る者もいれば、研究をする者もいる。船を動かす者も、オトモたちの世話をする者もいる。目的は違っても、空を進む一隻の船に乗っている以上、顔を合わせれば自然と言葉を交わす。
カイルが剣を鞘へ収めたときだった。
甲板の向こうから、金色の髪が風に揺れた。
小柄なカティが、書類を抱えてこちらへ歩いてくる。
龍識船で働く彼女は、今日も朝から忙しそうだった。両腕に抱えた書類の束は、彼女の身体に比べるとかなり大きく見える。
「カイルさん、おはようございます」
「おはよう、ネコ嬢。朝から大変そうですね」
「はい。確認してもらわないといけない書類がいくつかあって……」
そう言いながら、カティは抱えていた書類を少し持ち直した。
腕の中には溢れんばかりのかなりの枚数がある。
「手伝いましょうか?」
「え?」
「それ、重いでしょう」
「だ、大丈夫です。これくらいなら」
カティは慌てて首を振った。
「本当に?」
「はい」
カイルが引っ込めた手を見て、カティは小さく息を吐いた。
その直後、横から強い風が吹き抜けた。
「あっ」
書類の一番上にあった紙が、風にさらわれる。
カティが咄嗟に手を伸ばしたが、指先をすり抜けた紙は甲板の端へ流されていった。
カイルは駆け出さなかった。
ただ一歩だけ踏み込み、身体を低くする。
風に煽られた紙が一度だけ大きく浮いた。
その軌道に合わせるように身体をひねり、伸ばした指が紙の端を捉える。
「はい」
振り返ったカイルが、何事もなかったように差し出した。
カティは目を丸くしたまま、それを受け取る。
「……ありがとうございます」
「危なかったですね」
「本当に……」
紙を受け取るとき、指先が触れた。
ほんの一瞬だった。
カティは反射的に手を引きかけたが、抱えていた書類まで落とさないよう、すぐに腕の中へ収め直した。
カイルはそんな彼女の仕草に気づかず、拾った紙を眺めている。
「これ、大事なものですよね?」
「はい。今日中に提出するものなので」
「じゃあ、飛ばされないように気をつけないと」
「……はい」
カティは書類を胸元で抱え直した。
さっき触れた指先に、まだ感触が残っている気がする。
たった一度、指が触れただけなのに。
「やっぱり手伝ったほうがよかったんじゃないですか?」
「え?」
「一人で持つには多いでしょう」
「……カイルさん、そういうところですよね」
「どういうところです?」
「いえ」
カティは小さく笑った。
「なんでもありません」
風に髪を揺らされながら、カイルは不思議そうに彼女を見る。
その視線を受けると、なぜか少しだけ落ち着かなくなる。
だからカティは、空を見上げた。
「今日はいい天気ですね」
「そうですね」
雲海の向こうから朝日が昇っている。
しばらく二人でその景色を眺めていたが、カティはふと思い出したように書類へ目を落とした。
「……あの、カイルさん」
「はい?」
「もし、お昼に時間があったら……」
言いかけて、カティは口を閉じた。
何でもないことのように言えばいい。
そう思っているのに、妙に緊張する。
「一緒に食事しませんか?」
言ってから、少しだけ後悔した。
断られたらどうしよう。
そんなことを考えながら顔を上げる。
「いいですよ」
返事は、驚くほどあっさりしていた。
「……本当ですか?」
「はい。いつもの場所で?」
「……はい」
カティの顔に、思わず笑みが浮かぶ。
「じゃあ、お昼に」
「分かりました」
カイルはそれだけ言って頷いた。
それだけだった。
けれどカティは、その場を離れてからもしばらく嬉しさが抜けなかった。
廊下を歩きながら、何度も思い返してしまう。
昼になったら、一緒に食事をする。
たったそれだけのことなのに、足取りが少し軽い。
自分でも、どうしてこんなことで嬉しくなるのか分からなかった。
ただ、こういう小さな約束を、もっと増やしていけたらいいと思った。
*
昼前、龍識船の研究室では、普段とは少し違った空気が流れていた。
「カイルさん」
穏やかな声に呼ばれて振り返ると、調査隊の隊長、ハイメルが立っていた。
長い耳を持つ竜人族で、細身の身体には研究者らしい服が整然と収まっている。見た目だけなら、荒々しい狩場より書物に囲まれた研究室のほうが似合う。
それでも、龍識船にいる者たちは彼の判断を信頼していた。
声を荒らげることはない。
必要なときには迷わず指示を出し、その判断に責任を持つ。
静かな男だった。
だが、決して弱い男ではない。
「少し、お時間をいただいてもいいでしょうか」
「もちろんです」
ハイメルが一枚の記録紙を差し出した。
「先ほど、竜ノ墓場周辺から予備調査の報告が届きました」
カイルは紙へ目を落とした。
「周辺、ですか?」
「はい。現地へ入った調査員からではなく、周辺の巡回で確認されたものです」
その地名を見た瞬間、カイルの指がわずかに止まった。
ほんの一瞬。
ハイメルは何も言わない。
「何かあったんですか?」
「大きな異常というほどではありません。ただ、少し気になる報告がありまして」
ハイメルが視線を向けると、研究員ネコが奥から何かを運んできた。
白く乾いた骨だった。
「周辺で見つかったものニャ。大型モンスターの骨だと思われるけど、種類まではまだ特定できてないニャ」
研究員ネコが台の上に置く。
カイルは身をかがめた。
「妙なのは、骨そのものじゃないニャ」
「場所ですか?」
「そうニャ」
研究員ネコが骨の側面を指した。
細い傷が何本も走っている。
自然に割れたものとは違う。
何かに擦られ、長く引きずられたような跡だった。
「運ばれた?」
「その可能性が高いニャ。ただ、途中から痕跡が消えてるニャ」
「どこから来たか分からない、と」
「そういうことニャ」
カイルは骨から目を離さなかった。
「ほかにもありますか?」
「今のところ、確認されているのは三体分ほどニャ。どれも完全な骨格ではないニャ」
「食べられたんでしょうか」
「おそらく。でも、普通の捕食痕とは少し違うニャ」
研究員ネコが骨の一部を示した。
黒っぽい染みが、乾いた表面に薄く残っている。
「これも気になるニャ。粘ついたものが乾いた跡みたいに見えるニャ」
カイルの目が止まった。
その瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。
暗い夜。
湿った空気。
遠くで響く、何かを引きずる音。
そこまで思い出したところで、ハイメルの声が現実へ引き戻した。
「カイルさん?」
「……すみません」
「いえ」
ハイメルはそれ以上、尋ねなかった。
「この件について、もう少し詳しく調べたいと思っています。近いうちに、竜ノ墓場周辺へ調査隊を出す予定です」
カイルは骨を見た。
ただの骨なら、珍しくもない。
だが、なぜか目を離すことができなかった。
「……僕も同行できます」
ハイメルがカイルを見る。
「お願いしても?」
「はい」
答えはすぐに出た。
「引き受けます」
「ありがとうございます」
ハイメルが静かに頭を下げる。
研究員ネコが骨を片付け始めた。
カイルはその手元を見ながら、もう一度だけ骨を振り返った。
まだ何も分からない。
ただ、竜ノ墓場という名前だけが、妙に胸へ引っかかっていた。
*
昼になると、カイルは約束した場所へ向かった。
船の一角に設けられた小さな食事スペースには、すでにカティが来ていた。机の上には二人分の食事が並んでいる。
「ネコ嬢」
「あ……カイルさん」
カティが顔を上げる。
「待たせましたか?」
「いえ。今来たところです」
そう答えたものの、カイルが来るまで何度も時計を見ていたことは言わなかった。
「じゃあ、食べましょう」
「はい」
二人は向かい合って食事を始めた。
朝の風の話から始まり、龍識船の設備のこと、最近増えた依頼のことまで、話題は自然に移っていく。
カイルはいつもと変わらない様子で話していたが、カティはときどき、その横顔を窺っていた。
朝に比べると、少しだけ静かだ。
何か考えているようにも見える。
しばらく迷ったあと、カティは口を開いた。
「……カイルさん」
「はい?」
「何か、ありましたか?」
カイルの手がわずかに止まる。
「何か?」
「いえ……」
カティは少し迷ってから、首を横に振った。
「なんとなく、そう思っただけです」
カイルは少し考えてから、窓の外へ目を向けた。
流れていく雲海を眺めながら、静かに口を開く。
「骨を見ていたときに、昔のことを少し思い出したんです」
「昔のこと……?」
「はい」
カイルはそこで言葉を止めた。
何かを思い出そうとしているというより、胸の奥に浮かんだものを確かめるような顔だった。
「はっきりした記憶というほどじゃないんです。ただ……何かを引きずるような音を聞いた気がして」
「音、ですか?」
「ええ。昔、どこかで聞いたような気がします」
カティは黙ってカイルを見る。
その言葉だけでは、何があったのか分からない。
けれど、これ以上聞いてはいけないような気がした。
「……そうなんですね」
「すみません。変な話をしてしまって」
「そんなことありません」
カティは小さく首を振った。
「でも、無理に思い出さなくてもいいと思います」
カイルは一瞬だけ目を伏せ、それから穏やかに笑った。
「そうですね」
それ以上、二人はその話を続けなかった。
カイルは再び食事に戻り、カティもそれに合わせる。
けれど、カティの胸には小さな引っかかりが残っていた。
カイルが何を思い出しかけたのかは分からない。
どこで聞いた音なのかも、何があったのかも。
ただ、自分から話したくなるまで待とうと思った。
カイルにとっては、昼食に誘われたから一緒に食べているだけなのだろう。
きっと、それだけだ。
けれどカティにとっては違う。
朝、紙を拾ってくれたことも。
昼食を一緒にすると約束してくれたことも。
こうして何気なく笑っていることも。
どれも、少しずつ嬉しい。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が妙に温かい。
きっとカイルにとっては、本当に何でもないのだろう。
それが少しだけ、悔しかった。
カイルがふと顔を上げた。
「……ネコ嬢?」
「はい?」
「どうしました?」
「え?」
「さっきから、ずっとこっちを見ていたので」
「!」
カティは思わず視線を逸らした。
「み、見てません」
「そうですか?」
「そうです」
カイルは不思議そうに首を傾げた。
その仕草まで、いつも通りだった。
カティは小さく息を吐く。
たぶん、この人は本当に分かっていない。
それが少しだけ困る。
でも――。
分からないままでいてほしい気もした。
今はまだ。
そう思いながら、カティは再び箸を手に取った。
窓の外では、龍識船が雲海の上を進んでいる。
どこまでも穏やかな空だった。
その遥か下、竜ノ墓場のどこかには、ひとつの骨が残されている。
死んだ場所から運ばれたものなのか。
何に運ばれたのか。
まだ誰にも分からない。
ただ、その骨に残された傷だけが、そこに存在した何かの痕跡を静かに残していた。
そしてカイルだけが、その傷を見た瞬間に、あの夜へ繋がる記憶を思い出しかけていた。