アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス   作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ

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第9話 出航前夜

 

 出航を翌朝に控えた龍識船は、いつもより静かだった。

 

 

 

 調査に必要な道具や食料の積み込みはほとんど終わり、甲板では最後の確認をする研究員たちが行き交っている。昼間まで続いていた慌ただしさも落ち着き、夕暮れの船内には、明日の出航を待つような穏やかな時間が流れていた。

 

 

 

 カティは研究室で最後の書類を整理していた。

 

 

 

 何度目かの確認を終え、ようやく筆を置く。肩を回して窓の外へ目を向けると、夕暮れの雲海が淡い橙色に染まり、遠くの山々まで柔らかな光に包まれていた。

 

 

 

 明日は竜ノ墓場へ向かう。

 

 

 

 そのことを考えれば、少しくらい緊張してもよさそうなものなのに、今日のカティの頭に浮かんでいたのは、別のことだった。

 

 

 

 ――カイルさん、今どこにいるんでしょう。

 

 

 

 そう思った瞬間、自分でもおかしくなって小さく笑う。

 

 

 

 朝から何度、同じことを考えただろう。

 

 

 

 仕事をしているときも、書類を整理しているときも、食事をしているときも、気づけば彼の姿を探している。別に用事があるわけではない。話さなければならないことがあるわけでもない。

 

 

 

 ただ、顔を見たい。

 

 

 

 声を聞きたい。

 

 

 

 できれば、少しだけ話したい。

 

 

 

 それだけだった。

 

 

 

「……会いたいな」

 

 

 

 誰もいない研究室で呟く。

 

 

 

 口にしてしまうと、途端に頬が熱くなった。

 

 

 

 けれど、もう誤魔化す気にはなれない。

 

 

 

 自分はカイルが好きなのだ。

 

 

 

 顔を見れば嬉しいし、名前を呼ばれれば胸が温かくなる。少し優しくされただけで、その日のことを何度も思い出してしまう。ほんの少しでも近くにいられるなら、それだけで仕事の疲れさえ忘れられる。

 

 

 

 そんな自分を、最近のカティはもう隠そうとは思わなくなっていた。

 

 

 

 もちろん、本人に伝えるつもりはない。

 

 

 

 今はまだ。

 

 

 

 それでも、少しくらい自分から会いに行ってもいいだろう。

 

 

 

 そう決めると、カティは席を立った。

 

 

 

     *

 

 

 

 甲板へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。

 

 

 

 カティは周囲を見回した。

 

 

 

 けれど、目当ての姿は見当たらない。

 

 

 

「……どこでしょう」

 

 

 

 小さく呟いたところで、遠くから金属音が聞こえてきた。

 

 

 

 剣を振る音だった。

 

 

 

 その音だけで、誰なのか分かってしまう。

 

 

 

 カティの足は自然とそちらへ向いていた。

 

 

 

 やっぱり。

 

 

 

 甲板の端で、カイルが片手剣を振っていた。

 

 

 

 出航前だというのに、最後まで鍛錬を欠かさないらしい。大きな動きはない。必要以上に踏み込まず、刃を振った直後には次の動作へ移っている。盾で攻撃を受ける動きから、そのまま身体を滑らせて懐へ入り、片手剣を返す。

 

 

 

 静かな動きだった。

 

 

 

 けれど、その静けさの中に無駄のない鋭さがある。

 

 

 

 カティは少し離れた場所で立ち止まり、しばらく彼を眺めていた。

 

 

 

 何度見ても綺麗だと思う。

 

 

 

 剣を振る腕。

 

 

 

 踏み込む足。

 

 

 

 わずかに揺れる黒髪。

 

 

 

 鍛錬のせいか、首筋には薄く汗が浮いている。

 

 

 

 普段なら仕事仲間として見るだけだったはずのものまで、今のカティには妙に目についてしまう。

 

 

 

 もう少し近くで見たい。

 

 

 

 そう思ったところで、カイルが最後の一振りを終えた。

 

 

 

「……ネコ嬢?」

 

 

 

「……っ」

 

 

 

 気づかれた。

 

 

 

 カティは一瞬だけ固まった。

 

 

 

「いつからそこに?」

 

 

 

「い、今来たところです」

 

 

 

 咄嗟についた嘘だった。

 

 

 

 けれど、カイルは疑う様子もなく笑った。

 

 

 

「そうですか」

 

 

 

 片手剣を鞘へ収める。

 

 

 

「どうしました?」

 

 

 

「いえ……」

 

 

 

 本当は、会いたかっただけです。

 

 

 

 そんなことを言えるはずもない。

 

 

 

「少し、風に当たりたくて」

 

 

 

「そうなんですね」

 

 

 

 カイルはそれ以上追及せず、甲板の手すりへ視線を向けた。

 

 

 

 カティは少しだけ迷ってから、その隣へ歩いていく。

 

 

 

 最初は腕一本分ほどの距離を空けた。

 

 

 

 けれど、思っていたより近い。

 

 

 

 少し身体を動かせば、袖が触れそうな距離だった。

 

 

 

「明日、出航ですね」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「準備は終わったんですか?」

 

 

 

「だいたいは。あとは朝の確認くらいです」

 

 

 

「そうですか」

 

 

 

 カティは空を見上げた。

 

 

 

 けれど、視線はすぐ隣へ戻ってしまう。

 

 

 

 横顔。

 

 

 

 黒髪。

 

 

 

 鍛錬を終えたばかりの少し熱を持った肌。

 

 

 

 そんなものまで気になってしまう自分が、少し恥ずかしい。

 

 

 

「……どうしました?」

 

 

 

「えっ?」

 

 

 

「さっきから、何度かこっちを見ていたので」

 

 

 

 気づかれていた。

 

 

 

 カティは慌てて視線を雲海へ戻す。

 

 

 

「見てません」

 

 

 

「そうですか?」

 

 

 

「……少しだけです」

 

 

 

「何かついてました?」

 

 

 

「そういうわけじゃ……」

 

 

 

 言葉が続かない。

 

 

 

 カイルは不思議そうに首を傾げている。

 

 

 

 カティは観念したように小さく息を吐いた。

 

 

 

「……カイルさんを見てただけです」

 

 

 

 言ってしまった。

 

 

 

「僕を?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

「どうしてですか?」

 

 

 

 そんなことまで聞かれるとは思わなかった。

 

 

 

 カティは唇を結び、ほんの少しだけ頬を膨らませる。

 

 

 

「……見たかったからです」

 

 

 

「そうですか」

 

 

 

 あまりにも自然な返事だった。

 

 

 

 カティは思わず苦笑する。

 

 

 

 けれど、隣にカイルがいることが嬉しくて、結局すぐに笑顔へ戻ってしまう。

 

 

 

「カイルさん」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「もう少し、そちらに行ってもいいですか?」

 

 

 

「もちろん」

 

 

 

 カイルが少しだけ身体をずらす。

 

 

 

 カティはその隣へ移動した。

 

 

 

 今度は、さっきより近い。

 

 

 

 肩が触れるほどではない。

 

 

 

 けれど風が吹けば、袖同士が触れる。

 

 

 

 そのたびに、胸が小さく跳ねた。

 

 

 

 カイルは気づいていない。

 

 

 

 それでもいい。

 

 

 

 今は、この距離にいられるだけで嬉しかった。

 

 

 

「……暖かいですね」

 

 

 

「そうですか?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

 カティが小さく笑う。

 

 

 

 本当は、気温のことを言ったわけではない。

 

 

 

 カイルが隣にいる。

 

 

 

 そのことが嬉しくて、胸の奥まで温かく感じているのだ。

 

 

 

     *

 

 

 

 しばらく二人で雲海を眺めていた。

 

 

 

 会話は途切れている。

 

 

 

 けれど、不思議と気まずくない。

 

 

 

 カティは隣にいるカイルをちらりと見る。

 

 

 

 この人の隣は落ち着く。

 

 

 

 戦っているときは、あんなに遠く感じるのに、こうして何気なく並んでいると、意外なほど近い。

 

 

 

 夕暮れの風が二人の間を抜ける。

 

 

 

 カティは、ほんの少しだけ身体を寄せた。

 

 

 

 肩が触れる。

 

 

 

 今度は、自分からだった。

 

 

 

 心臓が速くなる。

 

 

 

 カイルがちらりとこちらを見る。

 

 

 

 けれど、何も言わない。

 

 

 

 そのことに少しだけ安心して、カティは小さく笑った。

 

 

 

「……カイルさん」

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

 その返事が嬉しくて、カティは笑った。

 

 

 

 好きな人の隣にいる。

 

 

 

 肩が触れている。

 

 

 

 それだけなのに、胸の奥が満たされていく。

 

 

 

 カティはもう少しだけ、その距離を保った。

 

 

 

 風が吹くたび、互いの袖が触れる。

 

 

 

 そのたびに、カティの胸は小さく高鳴った。

 

 

 

 やがて風が少し強くなり、彼女の髪が大きく揺れた。

 

 

 

 頬へかかった髪を手で押さえる。

 

 

 

「風、強くなってきましたね」

 

 

 

 カイルが言う。

 

 

 

「……そうですね」

 

 

 

「そろそろ戻りますか?」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 本当は、もう少しだけここにいたかった。

 

 

 

 けれど、今日のところは十分だった。

 

 

 

 カティは名残惜しそうに身体を離す。

 

 

 

 肩から離れた瞬間、さっきまであった温かさが少しだけ遠くなった気がした。

 

 

 

 それでも、カティは嬉しそうに笑った。

 

 

 

     *

 

 

 

 船内へ戻る階段を下りていると、カティの足元が少しだけ乱れた。

 

 

 

 カイルがすぐに手を伸ばす。

 

 

 

「大丈夫ですか?」

 

 

 

「はい」

 

 

 

 腕を支えられる。

 

 

 

 ほんの一瞬。

 

 

 

 それだけなのに、カティはその手を意識してしまう。

 

 

 

「……ありがとうございます」

 

 

 

「いえ」

 

 

 

 手が離れる。

 

 

 

 少し寂しい。

 

 

 

 けれど、そんなことを口にするわけにはいかなかった。

 

 

 

 分かれ道へ着く。

 

 

 

 カイルは足を止めた。

 

 

 

「僕はこっちです」

 

 

 

「私は研究室へ戻ります」

 

 

 

「では、また明日」

 

 

 

「……はい」

 

 

 

 カイルが歩き出す。

 

 

 

 カティはその背中を見つめた。

 

 

 

 呼び止めたい。

 

 

 

 もう少し話したい。

 

 

 

 けれど、これ以上は贅沢だ。

 

 

 

「……カイルさん」

 

 

 

 カイルが振り返る。

 

 

 

「はい?」

 

 

 

「……おやすみなさい」

 

 

 

「おやすみなさい、ネコ嬢」

 

 

 

 それだけだった。

 

 

 

 カイルの姿が角の向こうへ消える。

 

 

 

 カティはしばらく、その場から動けなかった。

 

 

 

 やがて自分の頬へ手を当てる。

 

 

 

「……好き」

 

 

 

 誰にも聞こえない声だった。

 

 

 

 それでも、今夜はそれだけで満足だった。

 

 

 

 少し近くにいられた。

 

 

 

 肩が触れた。

 

 

 

 自分から近づけた。

 

 

 

 その小さな出来事だけで、胸の奥がいっぱいになる。

 

 

 

 カティは小さく笑い、自分の部屋へ戻っていった。

 

 

 

     *

 

 

 

 その夜。

 

 

 

 カイルは自室で、明日の準備をしていた。

 

 

 

 片手剣の刃を確認し、盾の留め具を調整する。必要な道具を一つずつ並べ、明日の調査に備えていく。

 

 

 

 竜ノ墓場。

 

 

 

 何が待っているのかは分からない。

 

 

 

 けれど、調査隊の一員として、自分の役割を果たすだけだ。

 

 

 

 その途中で、ふと夕方のことを思い出す。

 

 

 

 隣で笑っていたカティ。

 

 

 

 いつもより少し近かった気がする。

 

 

 

「……今日は、楽しそうだったな」

 

 

 

 それだけ呟いて、カイルは明日の準備へ戻った。

 

 

 

     *

 

 

 

 翌朝。

 

 

 

 龍識船は、まだ薄暗い空の下で静かに動き始めていた。

 

 

 

 研究員たちが最後の確認を行い、調査用の道具が積み込まれていく。

 

 

 

 カティも忙しそうに動いていた。

 

 

 

 それでも、カイルの姿を見つけると、自然と目で追ってしまう。

 

 

 

 目が合った。

 

 

 

 カイルが笑う。

 

 

 

「おはようございます、ネコ嬢」

 

 

 

「おはようございます、カイルさん」

 

 

 

 それだけで、カティは嬉しくなった。

 

 

 

 昨日より少しだけ近くなれた気がする。

 

 

 

 そんな小さな幸せを胸に、カティは笑った。

 

 

 

 やがて出航の合図が響く。

 

 

 

 龍識船がゆっくりと動き始める。

 

 

 

 雲海の向こうへ。

 

 

 

 竜ノ墓場へ

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