アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
出航を翌朝に控えた龍識船は、いつもより静かだった。
調査に必要な道具や食料の積み込みはほとんど終わり、甲板では最後の確認をする研究員たちが行き交っている。昼間まで続いていた慌ただしさも落ち着き、夕暮れの船内には、明日の出航を待つような穏やかな時間が流れていた。
カティは研究室で最後の書類を整理していた。
何度目かの確認を終え、ようやく筆を置く。肩を回して窓の外へ目を向けると、夕暮れの雲海が淡い橙色に染まり、遠くの山々まで柔らかな光に包まれていた。
明日は竜ノ墓場へ向かう。
そのことを考えれば、少しくらい緊張してもよさそうなものなのに、今日のカティの頭に浮かんでいたのは、別のことだった。
――カイルさん、今どこにいるんでしょう。
そう思った瞬間、自分でもおかしくなって小さく笑う。
朝から何度、同じことを考えただろう。
仕事をしているときも、書類を整理しているときも、食事をしているときも、気づけば彼の姿を探している。別に用事があるわけではない。話さなければならないことがあるわけでもない。
ただ、顔を見たい。
声を聞きたい。
できれば、少しだけ話したい。
それだけだった。
「……会いたいな」
誰もいない研究室で呟く。
口にしてしまうと、途端に頬が熱くなった。
けれど、もう誤魔化す気にはなれない。
自分はカイルが好きなのだ。
顔を見れば嬉しいし、名前を呼ばれれば胸が温かくなる。少し優しくされただけで、その日のことを何度も思い出してしまう。ほんの少しでも近くにいられるなら、それだけで仕事の疲れさえ忘れられる。
そんな自分を、最近のカティはもう隠そうとは思わなくなっていた。
もちろん、本人に伝えるつもりはない。
今はまだ。
それでも、少しくらい自分から会いに行ってもいいだろう。
そう決めると、カティは席を立った。
*
甲板へ出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
カティは周囲を見回した。
けれど、目当ての姿は見当たらない。
「……どこでしょう」
小さく呟いたところで、遠くから金属音が聞こえてきた。
剣を振る音だった。
その音だけで、誰なのか分かってしまう。
カティの足は自然とそちらへ向いていた。
やっぱり。
甲板の端で、カイルが片手剣を振っていた。
出航前だというのに、最後まで鍛錬を欠かさないらしい。大きな動きはない。必要以上に踏み込まず、刃を振った直後には次の動作へ移っている。盾で攻撃を受ける動きから、そのまま身体を滑らせて懐へ入り、片手剣を返す。
静かな動きだった。
けれど、その静けさの中に無駄のない鋭さがある。
カティは少し離れた場所で立ち止まり、しばらく彼を眺めていた。
何度見ても綺麗だと思う。
剣を振る腕。
踏み込む足。
わずかに揺れる黒髪。
鍛錬のせいか、首筋には薄く汗が浮いている。
普段なら仕事仲間として見るだけだったはずのものまで、今のカティには妙に目についてしまう。
もう少し近くで見たい。
そう思ったところで、カイルが最後の一振りを終えた。
「……ネコ嬢?」
「……っ」
気づかれた。
カティは一瞬だけ固まった。
「いつからそこに?」
「い、今来たところです」
咄嗟についた嘘だった。
けれど、カイルは疑う様子もなく笑った。
「そうですか」
片手剣を鞘へ収める。
「どうしました?」
「いえ……」
本当は、会いたかっただけです。
そんなことを言えるはずもない。
「少し、風に当たりたくて」
「そうなんですね」
カイルはそれ以上追及せず、甲板の手すりへ視線を向けた。
カティは少しだけ迷ってから、その隣へ歩いていく。
最初は腕一本分ほどの距離を空けた。
けれど、思っていたより近い。
少し身体を動かせば、袖が触れそうな距離だった。
「明日、出航ですね」
「はい」
「準備は終わったんですか?」
「だいたいは。あとは朝の確認くらいです」
「そうですか」
カティは空を見上げた。
けれど、視線はすぐ隣へ戻ってしまう。
横顔。
黒髪。
鍛錬を終えたばかりの少し熱を持った肌。
そんなものまで気になってしまう自分が、少し恥ずかしい。
「……どうしました?」
「えっ?」
「さっきから、何度かこっちを見ていたので」
気づかれていた。
カティは慌てて視線を雲海へ戻す。
「見てません」
「そうですか?」
「……少しだけです」
「何かついてました?」
「そういうわけじゃ……」
言葉が続かない。
カイルは不思議そうに首を傾げている。
カティは観念したように小さく息を吐いた。
「……カイルさんを見てただけです」
言ってしまった。
「僕を?」
「はい」
「どうしてですか?」
そんなことまで聞かれるとは思わなかった。
カティは唇を結び、ほんの少しだけ頬を膨らませる。
「……見たかったからです」
「そうですか」
あまりにも自然な返事だった。
カティは思わず苦笑する。
けれど、隣にカイルがいることが嬉しくて、結局すぐに笑顔へ戻ってしまう。
「カイルさん」
「はい?」
「もう少し、そちらに行ってもいいですか?」
「もちろん」
カイルが少しだけ身体をずらす。
カティはその隣へ移動した。
今度は、さっきより近い。
肩が触れるほどではない。
けれど風が吹けば、袖同士が触れる。
そのたびに、胸が小さく跳ねた。
カイルは気づいていない。
それでもいい。
今は、この距離にいられるだけで嬉しかった。
「……暖かいですね」
「そうですか?」
「はい」
カティが小さく笑う。
本当は、気温のことを言ったわけではない。
カイルが隣にいる。
そのことが嬉しくて、胸の奥まで温かく感じているのだ。
*
しばらく二人で雲海を眺めていた。
会話は途切れている。
けれど、不思議と気まずくない。
カティは隣にいるカイルをちらりと見る。
この人の隣は落ち着く。
戦っているときは、あんなに遠く感じるのに、こうして何気なく並んでいると、意外なほど近い。
夕暮れの風が二人の間を抜ける。
カティは、ほんの少しだけ身体を寄せた。
肩が触れる。
今度は、自分からだった。
心臓が速くなる。
カイルがちらりとこちらを見る。
けれど、何も言わない。
そのことに少しだけ安心して、カティは小さく笑った。
「……カイルさん」
「はい?」
「もう少しだけ一緒にいてもいいですか?」
「はい」
その返事が嬉しくて、カティは笑った。
好きな人の隣にいる。
肩が触れている。
それだけなのに、胸の奥が満たされていく。
カティはもう少しだけ、その距離を保った。
風が吹くたび、互いの袖が触れる。
そのたびに、カティの胸は小さく高鳴った。
やがて風が少し強くなり、彼女の髪が大きく揺れた。
頬へかかった髪を手で押さえる。
「風、強くなってきましたね」
カイルが言う。
「……そうですね」
「そろそろ戻りますか?」
「……はい」
本当は、もう少しだけここにいたかった。
けれど、今日のところは十分だった。
カティは名残惜しそうに身体を離す。
肩から離れた瞬間、さっきまであった温かさが少しだけ遠くなった気がした。
それでも、カティは嬉しそうに笑った。
*
船内へ戻る階段を下りていると、カティの足元が少しだけ乱れた。
カイルがすぐに手を伸ばす。
「大丈夫ですか?」
「はい」
腕を支えられる。
ほんの一瞬。
それだけなのに、カティはその手を意識してしまう。
「……ありがとうございます」
「いえ」
手が離れる。
少し寂しい。
けれど、そんなことを口にするわけにはいかなかった。
分かれ道へ着く。
カイルは足を止めた。
「僕はこっちです」
「私は研究室へ戻ります」
「では、また明日」
「……はい」
カイルが歩き出す。
カティはその背中を見つめた。
呼び止めたい。
もう少し話したい。
けれど、これ以上は贅沢だ。
「……カイルさん」
カイルが振り返る。
「はい?」
「……おやすみなさい」
「おやすみなさい、ネコ嬢」
それだけだった。
カイルの姿が角の向こうへ消える。
カティはしばらく、その場から動けなかった。
やがて自分の頬へ手を当てる。
「……好き」
誰にも聞こえない声だった。
それでも、今夜はそれだけで満足だった。
少し近くにいられた。
肩が触れた。
自分から近づけた。
その小さな出来事だけで、胸の奥がいっぱいになる。
カティは小さく笑い、自分の部屋へ戻っていった。
*
その夜。
カイルは自室で、明日の準備をしていた。
片手剣の刃を確認し、盾の留め具を調整する。必要な道具を一つずつ並べ、明日の調査に備えていく。
竜ノ墓場。
何が待っているのかは分からない。
けれど、調査隊の一員として、自分の役割を果たすだけだ。
その途中で、ふと夕方のことを思い出す。
隣で笑っていたカティ。
いつもより少し近かった気がする。
「……今日は、楽しそうだったな」
それだけ呟いて、カイルは明日の準備へ戻った。
*
翌朝。
龍識船は、まだ薄暗い空の下で静かに動き始めていた。
研究員たちが最後の確認を行い、調査用の道具が積み込まれていく。
カティも忙しそうに動いていた。
それでも、カイルの姿を見つけると、自然と目で追ってしまう。
目が合った。
カイルが笑う。
「おはようございます、ネコ嬢」
「おはようございます、カイルさん」
それだけで、カティは嬉しくなった。
昨日より少しだけ近くなれた気がする。
そんな小さな幸せを胸に、カティは笑った。
やがて出航の合図が響く。
龍識船がゆっくりと動き始める。
雲海の向こうへ。
竜ノ墓場へ