アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
朝の龍識船では、すでにいくつもの仕事が動き始めていた。
研究員たちは昨日の記録を整理し、受付では新しい依頼書が並べられている。運搬用の荷物を抱えて走る者もいれば、甲板では船の設備を確認している者もいる。
その喧騒の中を、カティは一人、書類を抱えて歩いていた。
昨日の昼食のときから、どうにも落ち着かない。
別に、何か特別なことがあったわけではない。
一緒に食事をしただけだ。
カイルにとっては、本当にそれだけなのだろう。
そう思えば思うほど、昨日の何気ない時間が妙に鮮明に思い出される。
紙を拾ってくれたときの手。
昼食を誘ったときの返事。
向かいに座って食事をしていたときの横顔。
そして、ふと目が合ったときに向けられた、いつもの穏やかな笑顔。
カティは小さく息を吐いた。
「……私、ちょっと変ですね」
誰に聞かせるでもなく呟いて、すぐに首を振る。
考えるのはやめよう。
そう決めたところで、前方から聞き慣れた声がした。
「おはようございます、ネコ嬢」
顔を上げると、カイルが歩いてくるところだった。
片手には剣を携え、もう一方の手には訓練用の道具を抱えている。朝の鍛錬を終えたばかりなのだろう。額には薄く汗が浮かび、黒髪が少しだけ乱れていた。
その姿を見た瞬間、カティの胸が小さく跳ねる。
「お、おはようございます、カイルさん」
「何か運ぶんですか?」
「ええ。オトモたちの装備品に関する書類を研究室へ持っていくところです」
「それなら、持ちますよ」
「え?」
返事をするより早く、カイルは彼女の抱えていた書類の束を受け取った。
「これくらいなら僕が持ちます」
「あ……」
カティの腕から荷物がなくなる。
ほんの一瞬だった。
それなのに、なぜか胸の奥が妙に寂しくなる。
自分でもおかしいと思った。
手伝ってもらえたのだから、嬉しいはずなのに。
「……ありがとうございます」
「どういたしまして」
カイルは何の疑いもなく笑った。
その顔を見ていると、さっきまで感じていた寂しさが馬鹿らしく思えてくる。
この人は、たぶん誰に対してもこうなのだ。
困っている人がいれば手を貸す。
重そうな荷物があれば持つ。
怪我をした人がいれば助ける。
それが当たり前だから、きっと本人には特別なことをしているつもりなどない。
「カイルさんって……」
「はい?」
「誰にでも、そうなんですか?」
「そう、というのは?」
「……いえ」
言えるわけがない。
誰にでも優しいんですか、と聞いたところで、きっとカイルは首を傾げるだけだ。
案の定、彼は少し考えてから、
「困っている人がいたら、手伝うでしょう?」
と答えた。
あまりにも自然な答えだった。
「……そうですよね」
「何か変でしたか?」
「いいえ。カイルさんらしいなって思っただけです」
笑ってみせる。
けれど胸の奥には、小さな痛みが残った。
やっぱり、自分だけではない。
そのことが、少しだけ悔しい。
それでも、隣を歩けることは嬉しかった。
研究室までの短い道のりが、今日はいつもより少しだけ長く感じられた。
*
午前の仕事が一段落したころ、カティは甲板へ出た。
風に当たりたかった。
研究室の中は資料と機材で少し息苦しく感じることがある。そんなとき、雲海を眺めると不思議と頭の中が整理される。
けれど、甲板に出たカティはすぐに足を止めた。
少し先で、カイルが剣を振っていた。
朝とは違う。
今度は実戦を想定しているのだろう。
一歩踏み込む。
刃が走る。
身体がわずかに沈み、そのまま横へ流れる。
速い。
けれど、速さそのものを見せつけるような動きではなかった。
一つ一つの動作が静かで、無駄がない。
剣を振り終えた瞬間には、もう次の攻撃に備えた姿勢へ移っている。
カティはしばらく黙って見つめていた。
カイルの強さは、派手なところではないのかもしれない。
大きく踏み込んで敵を圧倒するのではなく、相手が動くより先に、自分が次に何をするか決めている。
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
カイルがこちらを振り向く。
「見てたんですか?」
「えっ」
「いつから?」
「い、今来たところです」
とっさに嘘をついた。
カイルは疑う様子もなく、
「そうですか」
とだけ言った。
そのまま剣を鞘へ戻す。
「カイルさんの動きって、静かですよね」
「そうですか?」
「はい。もっと速く動いているように見えるのに、実際には無駄な動きが少ないというか……」
「速く動くことより、次に何をするか迷わないことのほうが大事なんです」
「迷わない?」
「ええ」
カイルは甲板の向こうを見た。
雲海が風に流れている。
「戦っているときは、考えている時間そのものが危険になることがあります。攻撃するのか、避けるのか、距離を取るのか。それを一瞬で決められるようにしておく。だから普段の鍛錬では、速く動くことよりも、次の動きを身体に覚えさせることを意識しています」
カティは黙って聞いていた。
何かを見て、何かを感じて、それが恐ろしいことでも、それでもカイルは動ける。
そういう人なのだろう。
強いから動けるのではない。
動かなければならないときに、迷わないために強くなったのかもしれない。
「……カイルさんって、すごいですね」
「そんなことないですよ」
「また、それです」
「何がです?」
「そういうところです」
カティは笑った。
カイルは困ったように眉を下げる。
「僕、何かしました?」
「いいえ。何も」
何もしていない。
それが一番困るのだ。
こんなふうに何気なく優しくされるたび、こちらだけが特別な意味を見つけてしまう。
*
午後になって、甲板で小さな騒ぎが起きた。
調査から戻った若いハンターが、荷物を運んでいる途中で足を滑らせたらしい。大きな怪我ではなかったが、手のひらを擦りむいていた。
カイルがすぐに駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「これくらいなら……」
「傷は小さくても、砂が入ると面倒ですよ」
カイルはしゃがみ込み、相手の手を確認する。
その様子を見ていたカティは、少しだけ笑った。
やっぱり同じだ。
誰に対しても。
「ネコ嬢、救急箱ありますか?」
「あります。すぐ持ってきます」
「僕が取りに行きます」
「え?」
「走るより僕のほうが早いでしょう」
「でも……」
「ここをお願いできますか?」
そう言ってカイルは歩き出した。
ほんの少しだけ、寂しかった。
自分も役に立ちたい。
カイルのそばで、ただ守られるだけではなく、同じように何かをしたい。
そんな気持ちが芽生えていることに、カティ自身が驚いていた。
やがてカイルが戻ってくる。
救急箱を開き、傷口を洗う。
「少し染みますよ」
「はい」
その横顔を、カティは黙って見ていた。
手当てを終えたカイルが立ち上がる。
「これで大丈夫です」
「ありがとうございます」
「無理はしないでくださいね」
そう言って去っていく。
カティはその背中を見つめた。
そして、ふと気づく。
自分はカイルの背中を目で追うことが増えた。
朝も。
昼も。
仕事中も。
気づけば探している。
姿を見つけると、少し嬉しい。
話しかけられると、もっと嬉しい。
名前を呼ばれるだけでも、胸の奥が温かくなる。
「……困ったな」
誰にも聞こえないように呟いた。
もう、誤魔化せないところまで来ている。
*
夕方。
仕事を終えたカティが船内の通路を歩いていると、前からカイルがやってきた。
「ネコ嬢。今から戻るんですか?」
「はい。今日の仕事は終わりました」
「じゃあ、一緒に行きましょうか」
その一言だけで、胸が軽くなる。
「……はい」
二人で並んで歩く。
昼間より風が冷たい。
カティが腕をさすると、カイルが気づいた。
「寒いですか?」
「少しだけ」
「風の当たらないほうを歩きます?」
そう言ってカイルが自然に位置を変える。
風上側に自分が立ち、カティを風下へ入れる。
本当に、何でもないような顔をして。
「……ありがとうございます」
「いえ」
まただ。
こういうところだ。
カティは俯き気味に歩いた。
隣を歩く距離が、ほんの少し近い。
肩が触れるほどではない。
けれど、風向きが変われば互いの腕が触れそうな距離だった。
一度だけ、袖が触れた。
その瞬間、カティは思わず息を止める。
カイルは気づいていない。
それが少し悔しくて、それでも嬉しい。
「カイルさん」
「はい?」
「昨日のこと……ありがとうございました」
「昨日?」
「昼食です」
「ああ」
カイルは少し笑った。
「こちらこそ。楽しかったですよ」
たったそれだけ。
それだけなのに、カティの頬が熱くなる。
「……そうですか」
「はい。また時間が合えば一緒に食べましょう」
「……はい」
今度は、声が少し小さくなった。
カイルはそれにも気づかなかった。
けれどカティは、それでよかった。
まだ、気づかれたくない。
今はまだ、この時間を壊したくない。
自分だけが少しずつ好きになっていくのも、悪くないと思えた。
*
その夜。
研究室には、昼間とは違う緊張が漂っていた。
竜ノ墓場から、新しい報告が届いたのだ。
研究員たちが資料を囲んでいる。
「同じ場所ではありません」
龍識船研究員ネコが資料を指した。
「昨日の骨が見つかった場所から、さらに離れたところで見つかったニャ」
カイルも資料へ目を落とす。
骨。
まただ。
今度は一本ではない。
複数の骨が、不自然な位置に散らばっている。
そして、その周囲には細長い擦過痕が残っていた。
まるで、何か大きなものを引きずったように。
カイルの指が止まった。
「……同じですね」
「何がですか?」
ハイメルが尋ねる。
カイルはすぐには答えなかった。
耳の奥で、何かが聞こえた気がした。
ずるり。
ずるり。
湿った何かが地面を擦る音。
暗い夜。
鼻につく湿った空気。
足元にまとわりつく、奇妙な感触。
そして、遠ざかっていく何かの気配。
胸の奥が、わずかに強く脈打つ。
「……いえ」
カイルは首を振った。
「まだ、何も」
そう言いながらも、視線は骨から離れなかった。
死んだ場所と、見つかった場所が同じとは限らない。
昨日よりも、その意味がはっきりしてきた。
何かがここへ運ばれている。
何のために。
誰が。
そして――どこから。
ただ、胸の奥に沈んでいた古い感覚だけが、少しずつ形を取り戻し始めていた。
その頃、別の場所ではカティが一人、今日のことを思い返していた。
風の中で並んで歩いたこと。
袖が触れたこと。
「また一緒に食べましょう」と言ってくれたこと。
思い出すたびに、頬が少し熱くなる。
「……ほんとに、鈍いんだから」
誰に聞かせるでもなく呟いて、カティは小さく笑った。
それでも、明日の朝になれば、きっとまたカイルを探してしまう。
それでいいと思った。
まだ、この気持ちは自分だけのものだから。
そして龍識船は、夜の雲海を静かに進んでいた。