アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
集会酒場の依頼掲示板の前には、いつもより人が少なかった。
紙片が何枚も並んでいるのに、そこだけ妙に空いている。誰かが依頼書を手に取っては戻し、また別の誰かが遠巻きに眺めるだけで、受付へ持っていこうとする者はいない。
カイルは人の隙間から掲示板へ近づき、貼られていた一枚の依頼書に目を止めた。
依頼主の欄には、短くこう記されている。
――同時狩猟依頼。
その下に続く文章を、カイルは黙って読み進めた。
あの日、金火竜と銀火竜から庇ってくれたあの人。
でも、獰猛な奴らの前ではなすすべもなく……。
一人残った私は二頭を追い続け、遺群嶺の巣を突き止めました。
あちらは二頭。でも、私は一人。
協力を求む。
カイルの視線が最後の一文で止まった。
周囲から、小さな声が漏れる。
「……金火竜と銀火竜か」
「二頭、同時ってことか?」
「それだけじゃない。獰猛化してるんだろ」
「無理だろ……」
誰も笑わなかった。
金火竜も銀火竜も、ただ珍しいだけのモンスターではない。長い狩猟経験を持つ者でさえ、その姿を見た瞬間に戦い方を変えなければならないほどの相手だ。空を支配する銀火竜と、地上から獲物を追い詰める金火竜。炎と毒、鋭い爪と尾、そして一瞬の隙を許さない速度。
まして獰猛化している。
一頭だけなら、それでも腕に覚えのある者が挑むことはある。
だが、二頭が同じ巣にいる。
それを同時に相手にした記録は、龍識船にもなかった。
それぞれを狩った者はいる。だが、金と銀が揃った場所へ入って、生還した者はいない。
「……誰も受けないんですか」
カイルが呟くと、隣にいた男が苦笑した。
「お前、依頼書の最後まで読んだか?」
「はい」
「なら分かるだろ。あちらは希少種二頭。一頭でも無理なのにこっちは一人。本人だって分かってるんだよ」
「だから、依頼しているんでしょうね」
男は返事をしなかった。
その沈黙だけで十分だった。
カイルはもう一度、依頼書を見た。
文字は乱れていない。
文章も簡潔だ。
けれど、その簡潔さがかえって胸に残った。
これを書いた人間は、泣きながら誰かに助けを求めているわけではない。
自分が何をしようとしているのか、分かっている。
分かったうえで、一人では無理だと認めている。
それでも止まれない。
カイルは依頼書を掲示板から外した。
「僕が受けます」
周囲の視線が一斉に集まった。
「おい、カイル」
「二頭だぞ」
「分かっています」
それだけ言って、カイルは受付へ向かった。
少し離れた場所で、その様子を見ていたカティは、胸の奥が冷たくなるのを感じていた。
まただ。
カイルは、こういうときに迷わない。
誰も行きたがらない場所へ、自分だけは行こうとする。
それが彼の強さなのだと、カティも分かっている。
分かっているからこそ、怖かった。
受付の前には、依頼主の女性が立っていた。
彼女がセレナだった。
最初に目に入ったのは、長い赤茶色の髪だった。肩の後ろへまとめられているが、ところどころ風にほどけた髪が頬へ落ちている。
その顔立ちは、整っていた。
しかし、華やかさより先に目につくものがある。
疲れている。
ひどく。
それでも背筋は伸びていた。
装備の下からでも分かるほど身体は鍛えられている。細い腰に対して肩や脚はしっかりしていて、長年武器を振ってきた者の身体つきだった。女性らしい豊かな輪郭を隠すように防具を身につけているが、それでも立っているだけで目を引く。
カティは、そこで一瞬だけ目を逸らした。
自分でも嫌になるくらい、胸の奥がざわついた。
――綺麗。
――強そう。
――……大人っぽい。
その視線の先で、カイルは何も気にしていなかった。
「セレナさん、ですね」
「ええ」
セレナの目がカイルを捉える。
灰色がかった青い瞳だった。
一瞬、何かを思い出したように目が細くなる。
「……あなた、カイル?」
「はい」
「そう。あなたが受けてくれるのね」
「一人では行かせられませんから」
セレナの表情が、ほんの少しだけ硬くなった。
「……そう」
それ以上、何も言わなかった。
カイルは彼女の手元を見る。
左手首に、古い傷跡が覗いている。
「二頭の居場所は?」
「遺群嶺の奥。巣を見つけたのは三日前よ」
「下見を?」
「した。でも近づきすぎてはいない」
セレナはそこで言葉を切った。
「近づけば、殺されると思ったから」
カイルは黙った。
強い人間の言葉だった。
自分なら大丈夫、などとは言わない。
危険なら危険だと判断する。
それでも行かなければならないから、ここに立っている。
「……夫は」
カイルが問いかけると、セレナの指がわずかに動いた。
「金火竜と銀火竜に殺されたわ」
淡々とした声だった。
セレナは視線を落とす。
「だから、終わらせたいの」
カイルは頷いた。
「行きましょう」
その会話を少し離れた場所で聞いていたカティは、胸の奥がまた締めつけられるのを感じていた。
セレナは夫を亡くしている。
自分が嫉妬していい相手ではない。
そんなことは分かっている。
分かっているのに、カイルが彼女と並んで立つ姿を見ると、嫌な不安が膨らんでくる。
そこへルーチェがそっと近づいた。
「カティさん」
「……はい?」
「大丈夫ですか?」
「大丈夫ですよ」
返事が少し早かった。
ルーチェは首を傾げた。
「そうですか?」
「……何がですか」
「いえ。カイルさんが危険なクエストを受けたから、心配なのかなって」
「……それは、もちろん心配です」
そこまでは本当だった。
だからこそ、その先を言えない。
セレナの姿が視界に入る。
自分よりずっと大人びていて、強そうで、綺麗で、カイルと並んでも不自然ではない。
カティは唇を結んだ。
「……私、嫌な人ですね」
「え?」
「なんでもありません」
ルーチェはそれ以上聞かなかった。
ただ、カティの横顔を見て、何かを考えるように目を細めた。
---
遺群嶺に入ってから、二人はほとんど言葉を交わさなかった。
風が強い。
遠くで鳥の声がする。
斜面を上がるほど、空気が変わっていく。
セレナが足を止めた。
「……ここからよ」
カイルも足を止める。
遠くから、低い唸り声が響いた。
次の瞬間、巨大な影が頭上を横切った。
金色。
太陽の光を弾きながら、金火竜が空を旋回する。
その翼が一度、大きく羽ばたいた。
風圧だけで砂埃が舞う。
カイルは反射的に盾を構えた。
セレナも大剣へ手をかける。
「……見つかった」
金火竜が咆哮した。
その声が遺群嶺の斜面を震わせた直後、頭上から鋭い羽音が落ちてきた。
銀火竜だった。
岩壁の向こうから高々と舞い上がった銀色の巨体は、金火竜とは違って地面へ降りようとしなかった。大きく旋回しながら高度を取り、二人を見下ろしている。
カイルの目が細くなる。
金火竜が地上。
銀火竜が空。
それだけで戦い方が決まってしまう。
金火竜が地面を蹴った。
セレナが大剣を構える。
真正面から来る。
彼女は逃げなかった。
金火竜の爪が振り下ろされる寸前に身体を半歩ずらし、大剣の腹で攻撃を受け流した。巨体が横を通り過ぎる。
セレナが踏み込む。
大剣が金火竜の後脚へ叩き込まれた。
硬い鱗を削る音が響く。
金火竜が振り返った。
その尾が大きくしなる。
セレナはすぐに後退した。
しかし、金火竜の尾は彼女が離れた先まで追ってくる。
セレナは大剣を盾代わりにして受け流した。
尾の先端が大剣の刃を掠め、その直後、金火竜の身体が大きく沈んだ。
「下がって!」
カイルが叫ぶ。
セレナが反応した。
金火竜が地面を蹴り、身体を反転させる。
毒をまとった尾が、さっきまでセレナの頭があった場所を凄まじい速度で通り抜けた。
セレナは紙一重でかわしたものの、着地した金火竜との距離が近すぎる。
その瞬間だった。
上空から炎が降ってきた。
カイルはセレナの腕を掴んで引いた。
火球が地面に叩きつけられ、爆炎が二人の肌を焼いた。
「銀が来ます!」
銀火竜が低空まで高度を落としていた。
そのまま二人の頭上を通過し、鋭い爪を振り抜く。
カイルが盾を掲げた。
衝撃が腕を突き抜ける。
身体が横へ流された。
銀火竜はそのまま上昇する。
カイルは追わなかった。
追えば、地上の金火竜を見失う。
視線を戻す。
金火竜がセレナへ向き直っていた。
「右です!」
セレナが走る。
金火竜の突進が斜面を削った。
セレナは横へ飛び、大剣を地面へ突き立てて身体を止める。
そこへ金火竜が振り返った。
再び尾がしなる。
今度はセレナも読み切っていた。
身を低くしてかわし、そのまま金火竜の脚へ大剣を振り抜く。
深く入った。
金火竜がよろめく。
セレナは追撃しようと踏み込んだ。
だが、その頭上に銀火竜の影が落ちている。
カイルは迷わず走った。
「下がって!」
セレナが振り返る。
銀火竜の爪が迫る。
カイルが割り込んだ。
盾と爪がぶつかり、凄まじい衝撃が響く。
カイルの身体が後ろへ滑った。
銀火竜はそのまま翼を大きく広げて上昇する。
カイルは盾を下ろさなかった。
銀火竜が再び空へ戻る。
その下で金火竜がセレナを狙っている。
二頭が交互に攻めてくる。
金火竜が前から圧力をかけ、その間に銀火竜が上空から狙う。セレナが金火竜へ大剣を向ければ銀火竜が落ちてくる。銀火竜を警戒すれば、金火竜の尾や突進が地面を逃げ場ごと奪っていく。
カイルは二頭の位置を何度も確認した。
「セレナさん、金を引きつけてください。無理に斬りに行かなくていい!」
「分かった!」
セレナはすぐに理解した。
金火竜が迫る。
彼女は大剣を構えたまま後退する。
突進を横へかわし、振り返らずに距離を取る。
金火竜が追う。
その背後から銀火竜が降下してくる。
カイルはそこへ走った。
銀火竜の爪がセレナへ届く直前、盾を滑り込ませる。
爪を受け流し、そのまま銀火竜の脚へ片手剣を叩き込んだ。
銀火竜が身体をひねる。
カイルは一歩下がった。
追撃しない。
銀火竜が上昇するのを見送る。
そして、金火竜を見る。
セレナが追い詰められていた。
金火竜が口を開く。
炎が来る。
セレナは横へ逃げた。
火炎が地面を舐める。
だが、金火竜はそのまま突進へ移った。
セレナの逃げ道を読んでいる。
「セレナ!」
カイルが走る。
金火竜の頭部がセレナへ届く寸前、カイルが側面から盾をぶつけた。
進路が逸れる。
金火竜の身体が斜面へ流れた。
セレナがその隙に踏み込む。
大剣が振り上がる。
金火竜の翼の付け根へ、深々と刃が入った。
金火竜が咆哮する。
しかし倒れない。
身体を捻り、セレナへ向けて尾を振り抜く。
カイルが割って入る。
盾で受ける。
今度は毒の棘が盾を掠めた。
衝撃で腕が痺れる。
カイルは顔をしかめながらも、すぐに距離を取った。
「大丈夫?」
「大丈夫です。それより上!」
セレナが見上げる。
銀火竜が高空から急降下していた。
今度はカイルを狙っている。
カイルは逃げなかった。
銀火竜が高度を落とす。
爪が届く直前まで引きつけ、横へ身体を滑らせる。
銀火竜の身体が目の前を通り過ぎた。
その翼の下へ入り込む。
片手剣を振り上げる。
刃が翼膜を捉えた。
銀火竜が大きく羽ばたく。
カイルの身体が吹き飛ばされ、斜面を転がった。
背中を岩に打ちつける。
一瞬、呼吸ができなかった。
それでも起き上がる。
銀火竜は再び上空へ戻っていた。
カイルは息を整えながら、金火竜とセレナを見る。
セレナはまだ立っている。
しかし、明らかに消耗していた。
大剣を構える腕がわずかに遅れている。
一頭なら戦える。
だが、この二頭を同時に相手にし続ければ、いずれ対応が遅れる。
カイルは判断した。
「セレナさん!」
「何?」
「僕が銀を引きつけます。金を倒してください」
「でも、あなた一人で――」
「長くは持たせません」
セレナは一瞬だけカイルを見た。
そして頷いた。
「分かった」
銀火竜が降りてくる。
カイルは前へ出た。
銀火竜の視線がカイルへ向く。
狙いが変わった。
それでいい。
カイルは走った。
銀火竜が爪を振り下ろす。
盾で受け流す。
次の攻撃が来る。
今度はかわす。
三度目の攻撃を紙一重で避け、片手剣を脚へ入れる。
銀火竜が翼を広げた。
カイルはすぐに距離を取る。
飛ぶ。
来る。
そう読んだ瞬間、銀火竜が急上昇した。
カイルはその場から動かなかった。
上空で旋回する銀火竜の影が、少しずつ大きくなっていく。
狙いを定めている。
急降下。
カイルは最後まで待った。
爪が迫る。
その瞬間、横へ跳ぶ。
銀火竜が地面へ突き刺さるように着地した。
カイルはすぐに反転した。
銀火竜が身体を起こすより早く、その側面へ入り込む。
盾をぶつける。
身体が崩れる。
片手剣を脚へ叩き込む。
銀火竜が吠え、翼を振り回した。
カイルは後退する。
無理に倒しに行かない。
目的は時間を稼ぐことだった。
その視界の端で、金火竜が大きく身体を反転させた。
セレナへ向かっている。
セレナは大剣を構えていた。
金火竜が突進する。
セレナは真正面から迎えない。
横へ逃げる。
金火竜が通り過ぎる。
その瞬間、セレナが踏み込んだ。
大剣が振り下ろされる。
刃が金火竜の頭部へ叩き込まれた。
巨体が大きく揺れる。
それでも金火竜は立ち上がった。
怒りに任せて翼を広げ、セレナへ迫る。
セレナは後退する。
しかし、斜面の岩に踵が当たった。
身体が止まる。
金火竜が迫る。
カイルは銀火竜から視線を外した。
セレナが危ない。
銀火竜も同時に動いた。
一瞬、二つの危険が重なった。
カイルは迷わなかった。
まず金火竜へ向かう。
走りながら盾を構える。
金火竜がセレナへ噛みつこうと頭を振った。
カイルが横から盾を叩きつける。
金火竜の頭が逸れる。
セレナが足場を立て直す。
「今です!」
セレナの大剣が横薙ぎに振り抜かれた。
金火竜の翼へ深く食い込む。
金火竜が大きくよろめいた。
そこへカイルが脚を斬る。
金火竜の身体が崩れた。
セレナは一歩も退かなかった。
大剣を両手で握り直し、全身を使って振り下ろす。
金火竜が地面へ沈んだ。
動かない。
「……一頭」
セレナが荒い息を吐いた。
だが、カイルはすぐに振り返った。
銀火竜が上空にいる。
そして今度は、明確にカイルを狙っていた。
金火竜が倒れたことで、銀火竜は地上の邪魔を失った。
高度を上げる。
さらに上へ。
カイルは盾を構えた。
セレナも大剣を構え直す。
銀火竜が急降下した。
カイルは横へ走った。
しかし、銀火竜は途中で軌道を変えた。
カイルが読んでいた方向と違う。
爪が肩を掠める。
防具が裂け、血が滲んだ。
カイルはよろめいた。
銀火竜が旋回する。
もう一度来る。
カイルは肩を押さえた。
「カイル!」
「まだです!」
銀火竜が翼を広げる。
カイルはその動きを見る。
さっきと同じ。
だが、今度は違う。
銀火竜の片翼がわずかに下がっている。
飛び方に癖が出ていた。
カイルは斜面を走った。
銀火竜が追う。
高度を下げる。
カイルは岩場へ入り込んだ。
銀火竜が翼をたたみ、岩壁の間へ突っ込んでくる。
その瞬間、カイルは身体を伏せた。
銀火竜が頭上を通り抜ける。
翼が岩へぶつかり、巨体が大きく傾いた。
カイルは振り返る。
「セレナさん!」
「分かってる!」
セレナが走った。
銀火竜が体勢を立て直そうとする。
大剣が振り上げられる。
銀火竜が翼を広げた。
その翼が完全に開く前に、セレナの大剣が叩き込まれた。
銀色の鱗が弾ける。
銀火竜が大きく身体を傾けた。
それでも立ち上がろうとする。
カイルが懐へ入った。
盾で身体を押し込み、逃げる方向を塞ぐ。
銀火竜が爪を振る。
カイルは盾で受けた。
衝撃で膝が沈む。
それでも耐える。
「今だ!」
セレナが踏み込む。
大剣が振り下ろされる。
銀火竜の身体が大きく揺れた。
カイルは最後の一瞬まで距離を詰めていた。
銀火竜が翼を動かそうとする。
カイルの片手剣が、その動きを止めるように脚を斬り払った。
巨体が崩れる。
地面が震えた。
そして、銀火竜は二度と立ち上がらなかった。
しばらく、二人とも動かなかった。
荒い呼吸だけが遺群嶺の風に混じっている。
カイルは盾を下ろした。
セレナも大剣を地面へ下ろす。
二頭の希少種は、もう動かなかった。
セレナは倒れた二頭を見つめたまま、長い間、何も言わなかった。
やがて、ぽつりと呟く。
「……終わったんですね」
「はい」
「夫は、帰ってこないのに」
カイルは何も答えなかった。
答えられなかった。
セレナは目を閉じた。
泣かなかった。
ただ、大剣を地面に立て、その柄を両手で握った。
「……あの人なら、きっと笑うんでしょうね」
「どうしてですか」
「私が一人でこんな馬鹿なことをしたから」
ほんの少しだけ、笑った。
その笑顔は、悲しかった。
「でも……これで、少しだけ前を向ける気がする」
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龍識船へ戻ると、カティは誰より先にカイルの姿を見つけた。
傷だらけだった。
防具には焼け焦げた跡があり、盾にも大きな傷が入っている。
それでも歩いている。
カティは駆け寄りそうになって、足を止めた。
「……おかえりなさい」
「ただいま、ネコ嬢」
その一言だけで、胸の奥がほどけた。
カティはカイルの腕を見る。
「怪我……」
「大丈夫です」
「大丈夫じゃないです」
思わず強い口調になった。
カイルが少し驚いた顔をする。
「……ごめんなさい」
「謝らなくていいです」
カティは視線を落とした。
本当は、もっと言いたいことがあった。
怖かった。
帰ってこなかったらどうしようと思った。
セレナと二人で出ていく姿を見たとき、嫌なことばかり考えた。
でも、そんなことを言えるはずがない。
少し離れたところで、セレナが受付へ向かっていた。
カティは彼女を見る。
セレナは疲れ切っていた。
美しい顔も、鍛えられた身体も、今はただ疲労に沈んでいる。
夫を失った女性として、ようやく一つの区切りをつけた顔だった。
カティは胸の奥で小さく息を吐いた。
それでも、完全には消えない。
自分でも呆れるくらい、嫉妬している。
そんな自分が嫌だった。
その横でルーチェが小さく笑った。
「カティさん」
「……何ですか」
「カイルさんが帰ってきて、嬉しいんですね」
「……当たり前です」
「それだけ?」
カティは答えなかった。
ルーチェも、それ以上は聞かなかった。
ただ、優しく微笑んでいた。
そしてカイルは、そんな二人の会話にも気づかないまま、傷ついた盾を眺めている。
セレナは少し離れた場所で、最後に一度だけ振り返った。
カイルを見る。
夫と似ている。
そのことが、今は少し怖かった。
けれど同時に、あのとき自分を一人にしなかった男に、ほんの少しだけ感謝していた。
彼女は何も言わず、受付の奥へ消えていった。