アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
龍識船へ戻ったのは、日が傾き始めた頃だった。
遺群嶺から運び出された金火竜と銀火竜の素材が次々と船へ積み込まれ、帰還したばかりの船上は普段よりも慌ただしい。獰猛化した希少種を二頭同時に相手取り、しかも討伐に成功したのだから、龍識院の研究員たちが興味を示すのも無理はなかった。
カイルは船縁に腰を下ろし、肩の防具を外していた。
銀火竜の爪が掠めた場所は、思っていたより深い。血はもう止まっているものの、赤く裂けた傷口が残っている。
「……やっぱり、怪我してるじゃないですか」
背後から声がした。
振り返ると、薬箱を抱えたネコ嬢が立っている。
淡い青の服が夕方の風に揺れ、金色の髪はいつもより風に煽られている。肩から胸元へ流れ落ちるたび、細い髪が白い首筋へ触れていた。
ネコ嬢はカイルの隣へしゃがみ込むと、傷口へ目を向けた。
「これくらいなら大丈夫ですよ」
「それ、今日だけで何回目ですか?」
「何がです?」
「『大丈夫』って言うの」
カイルが答えに詰まる。
ネコ嬢は小さく息を吐いて、薬箱から包帯を取り出した。
「座ってください。傷を見ます」
「もう止血は――」
「座ってください」
いつもの明るい声なのに、そこだけ妙に逆らえない。
カイルは苦笑しながら従った。
ネコ嬢が隣へ腰を下ろす。肩の傷を確認するため、彼女の身体が自然と近づいた。
金色の髪が頬の横を滑り、カイルの腕に触れる。
ネコ嬢はそれに気づいていないのか、傷だけを真剣に見ていた。
「……少し深いですね」
「動けないほどじゃありません」
「そういう問題じゃないですよ」
包帯を巻く指先は、驚くほど丁寧だった。
傷口に薬を塗るときも、カイルが痛まないように力加減を調整している。
「痛かったら言ってくださいね」
「はい」
「我慢もしないでください」
「分かりました」
「本当に?」
「本当に」
ネコ嬢は疑うようにカイルを見上げた。
緑色の瞳が近い。
カイルは何気なくその目を見返したが、ネコ嬢のほうが先に視線を逸らした。
「……心配したんです」
小さな声だった。
「……すみません」
「謝ってほしいわけじゃありません」
包帯を結ぶ手が止まる。
「ただ……」
ネコ嬢は言葉を探すように唇を結んだ。
「ちゃんと帰ってきてください」
「……分かりました」
「約束ですよ?」
「はい」
「絶対ですよ?」
「はい」
「……もう」
ネコ嬢が少しだけ頬を膨らませる。
それから、困ったように笑った。
「カイルさんって、本当に分かってるんですか?」
「何がです?」
「……なんでもありません」
ネコ嬢はそれ以上言わなかった。
言えるはずがなかった。
あなたが傷つくと怖い。
帰ってこないかもしれないと思うと、胸の奥が冷たくなる。
そんなことを、本人に言えるほど彼女は素直ではない。ましてカイルは、自分が心配されていることさえ深く考えていない。
だからせめて、包帯を結ぶ指だけは丁寧にする。
せめて「帰ってきてください」という言葉だけは、何度でも伝えておきたかった。
その瞬間、船がわずかに揺れた。
「……あっ」
立ち上がろうとしたネコ嬢の足元が揺らぎ、身体が前へ傾く。
カイルは反射的に手を伸ばした。
「危ない」
倒れかけた身体を腕で受け止める。
勢いを止めきれず、ネコ嬢の上半身がカイルの胸元へ寄った。
「……っ」
ネコ嬢は一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど、自分がカイルに支えられていることに気づくと、顔が一気に熱くなった。
「大丈夫ですか?」
「……カイルさん」
「はい?」
「……もう、大丈夫です」
そう言いながらも、ネコ嬢はすぐには離れなかった。
ほんの一瞬だけ、そのままでいた。
けれど、自分から離れなければならないことに気づくと、名残惜しさを隠すように身体を起こした。
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
「……何がですか?」
「手当てしてもらったので」
「あ……」
ネコ嬢は小さく笑った。
「そういうところですよ」
「?」
「……なんでもありません」
少し離れたところで、その様子を見ていたルーチェが、何とも言えない顔をしていた。
「……大変そうですね」
誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その直後だった。
「カイルさん!」
研究員ネコが船上を駆けてくる。
「少し、よろしいですかニャ」
カイルが立ち上がる。
「どうしました?」
「報告したいことがありますニャ」
研究員ネコの表情は、いつもの快活さが薄れていた。
ネコ嬢も表情を改める。
「何か分かったんですか?」
「はい。先ほど運び込まれた素材とは別に、これまで龍識院で記録されている大型モンスターの死骸について、記録を洗い直しましたニャ」
研究員ネコは資料を抱えていた。
「死骸が見つかった場所、状態、損傷の種類、それから周辺に残されていた痕跡を比較したところ、いくつか妙な点が出てきましたニャ」
「妙な点?」
「はい」
カイルが資料を受け取る。
「同じような傷を負った死骸が、かなり離れた場所で発見されているんですニャ」
「同じモンスターに襲われた?」
「それだけなら、まだ偶然で済ませられますニャ」
研究員ネコは首を振った。
「ですが、死骸の周囲には共通して、何かを引きずったような跡が残っていましたニャ」
カイルの目が細くなる。
「引きずった跡……」
「はい。そして、もうひとつ」
研究員ネコが資料を開いた。
「その跡が、どれも大きな川の近くで途切れているんですニャ」
カイルは地図を見た。
遺群嶺。
その周辺を流れる大きな河川。
さらに下流へ続く水系。
「……水か」
「そうですニャ」
研究員ネコが頷く。
「最初は川で死んだモンスターが流された可能性も考えました。でも、流されたにしては死骸の損傷が少なすぎるんですニャ」
「川を流れたわけじゃない」
「はい。むしろ――」
そのとき、別の声がした。
「追加の情報です」
振り返ると、ハイメルが地図を抱えて立っていた。
彼は二人の前まで来ると、机の上に地図を広げた。
「死骸の発見場所を、周辺の河川と地下水系の記録に重ねてみました」
ハイメルがいくつかの地点を指で示す。
「……ほとんどが、この流域に集中しています」
カイルが地図を見る。
点と線が、まるで一本の道を描くようにつながっていた。
「大きな川沿い……」
「はい。ただ、もっと重要なのはその先です」
ハイメルの指が下流へ進む。
「この地域の地下には、地表から確認できない大規模な水系が存在すると考えられています。詳しい構造までは分かっていませんが、古い地質調査の記録にも残っています」
「つまり、この川の下には……」
「水が続いている可能性があります」
カイルは黙って地図を見つめた。
山から流れ出した水が、地中へ入り、さらに深い場所へと続いている。
もしそこを通れるほど巨大な空間があるのなら。
「……大きな生物が移動できる」
ハイメルが頷いた。
「可能性としては、そうなります」
「でも、そんなものが本当にいるなら、足跡くらい残るだろ」
「陸上を歩いているのであれば、そうでしょう」
ハイメルは静かに答えた。
「ですが、水の中を移動しているのであれば?」
船上に沈黙が落ちた。
カイルはもう一度、地図を見る。
死骸。
引きずった跡。
大きな川。
そして、その先へ続く地下水系。
すべてが一本の線になりかけている。
「……死んだ場所まで、同じだとは限らない」
誰に言うでもなく、カイルが呟いた。
ネコ嬢が隣で息を呑む。
「じゃあ……死骸は、別の場所から運ばれてきた?」
「そう考えると、いくつか説明できますニャ」
研究員ネコが資料をめくる。
「頭部が失われた死骸。骨の一部だけがなくなっているもの。翼膜を大きく損傷したもの。まるで、運ばれている途中で何かに持っていかれたような個体もありますニャ」
「捕食した、ということか?」
「分かりませんニャ」
ハイメルが答えた。
「ただ、これまで確認された死骸の数を考えると、単なる偶然とは思えません」
カイルは地図から目を離さなかった。
そのとき、不意に胸の奥で何かが軋んだ。
冷たい空気。
湿った土。
遠くで何かを引きずる音。
低く、腹の底へ響くような唸り声。
炎に照らされた夜。
崩れた家。
逃げ惑う人々。
伸ばした手。
届かなかった誰かの声。
「……っ」
カイルは目を閉じた。
一瞬だけ蘇った光景を押し込める。
「カイルさん?」
ネコ嬢の声がした。
心配そうな響きだった。
「大丈夫ですか?」
「……ああ」
カイルはゆっくり目を開いた。
「少し、昔のことを思い出しただけです」
ネコ嬢はそれ以上尋ねなかった。
ただ、そっとカイルの袖口をつまむ。
ほんのわずかな力だった。
けれど、そこにいると伝えるには十分だった。
「……無理しないでくださいね」
カイルが彼女を見る。
「ありがとう」
ネコ嬢は照れたように目を伏せた。
「これくらいしか、できませんから」
その言葉に、カイルは少しだけ笑った。
「それで十分ですよ」
「……そういうことを平気で言うんですよね」
「?」
「なんでもありません」
ネコ嬢は小さく笑いながら、つまんでいた袖を離した。
ハイメルは二人のやり取りを邪魔しないように少し待ってから、最後の資料を机に置いた。
「もうひとつ、報告があります」
「何だ?」
「死骸の周囲で、黒い粘液のようなものが見つかっています」
カイルの表情が変わった。
「粘液?」
「はい。量は多くありません。ただ、どの場所でも似たものが確認されています」
ハイメルが資料の写真を示す。
地面に残った黒い染み。
そこから細く伸びる跡。
まるで何か巨大なものが、地面を這うように移動した痕跡だった。
「これが何なのかは、まだ分かっていません」
カイルは写真を見つめた。
「……調べましょう」
「はい」
ハイメルが頷く。
まだ、何がこの骸を運んでいるのかは分からない。
ただ、残された骸と、水の流れに沿って残された痕跡だけが、確かに何かの存在を告げていた。
それは山から流れ出る大きな川の先へ続き、さらにその地下深くへと伸びている。
カイルは黒い粘液の跡を、もう一度だけ見つめた