アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
翌朝。
龍識船の甲板には、いつもと変わらない朝の風が吹いていた。
研究員たちはそれぞれの仕事へ向かい、荷物を運ぶ者や資料を整理する者の姿が見える。空はよく晴れていて、遠くには薄い雲が流れていた。
そんな中、カイルは甲板の端で少しだけ足を止めた。
「……ネコ嬢?」
「はい?」
振り返ったカティの目が、ほんの少し眠そうだった。
金色の髪はいつも通り整えている。服装も乱れてはいない。けれど、よく見れば目元にわずかな疲れが残っていた。
「眠そうですね」
「えっ……」
カティは慌てて目元を擦った。
「そ、そうですか?」
「少しだけ」
「……昨日、あまり眠れなくて」
「何かあったんですか?」
「い、いえ! 何もありません!」
妙に勢いよく否定してから、カティは自分で恥ずかしくなった。
昨夜のことを思い出してしまう。
腰を支えられたこと。
身体が近かったこと。
そして、そんな些細な出来事を何度も思い返してしまった自分のこと。
眠れなかった理由など、とても言えるはずがない。
「ちゃんと休んだほうがいいですよ」
「……それ、カイルさんにも言いたいです」
「僕に?」
「昨日も傷を負って帰ってきたじゃないですか」
「これくらいなら大丈夫ですよ」
「ほら、それです」
カティは少しだけ頬を膨らませた。
「カイルさんは、すぐそう言うんですから」
「そうですか?」
「そうです」
真剣な顔で言い切ったあと、カティは少しだけ視線を逸らした。
「……心配したんですから」
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃありません」
「では、どうすれば?」
「ちゃんと帰ってきてください」
カイルは少しだけ目を丸くした。
それから、穏やかに笑った。
「分かりました」
「……本当に?」
「はい」
「絶対ですよ?」
「はい」
「……もう」
カティは小さく笑った。
何度言っても、この人には自分の気持ちがきっと伝わらない。
それが少し寂しくて。
でも、こうして約束してくれたことが嬉しくて。
結局、自分はこの人のそんなところが好きなのだと思う。
「では、今日もよろしくお願いします」
「はい」
その日の調査には、カイルとカティ、それに数名の研究員とハイメルが同行することになった。
調査地点は、龍識船からしばらく離れた場所にある大きな河川の流域だった。
以前から、この周辺では大型モンスターの死骸がいくつも発見されている。
しかし、奇妙なのは死骸そのものではなかった。
完全な状態で残っているものが少ない。
肉の一部だけが失われ、骨だけが残されているもの。
身体の一部だけが河川の近くに転がっているもの。
そして、本体とは離れた場所に、骨や皮膚の一部だけが残されているもの。
そのため、研究員たちは今回も河川そのものだけでなく、その周囲を広く調べることにしていた。
「こちらですニャ」
先行していた研究員ネコが声を上げた。
カイルたちが近づく。
そこには、大型モンスターの死骸の一部が残されていた。
胴体の一部と、そこから続く骨。
頭部も四肢もなく、何者かに食い荒らされたようにも見える。
すぐそばには、大きな河川が流れていた。
「本体は?」
ハイメルが尋ねる。
「見つかっていませんニャ。この周辺にもありません」
「なるほど」
研究員たちは死骸の周囲へ散っていく。
カティもしゃがみ込み、死骸の状態を確認した。
「傷が……かなり大きいですね」
「はい。ただ、普通の大型モンスターに襲われた傷とは少し違います」
研究員が傷口を確認する。
「こちらを見てください」
肉の一部に、黒いものが付着していた。
「これは……?」
「粘液でしょうか」
カティが身を乗り出す。
その瞬間、後ろからカイルの声がした。
「近づきすぎないほうがいいですよ」
「え?」
「何か分からないものですから」
「あ……はい」
カティは素直に少し下がった。
けれど、カイルが自分を心配してくれたことが嬉しくて、口元が少し緩んでしまう。
「……何か嬉しそうですね」
「えっ?」
「笑っていたので」
「そ、そんなことありません」
「そうですか?」
「ありません」
明らかに動揺している。
カイルは首を傾げた。
カティはそんな彼から顔を背ける。
――もう。
こういうところなのだ。
自分だけが勝手に嬉しくなって、勝手に恥ずかしくなっている。
少しくらい気づいてくれてもいいのに。
「採取します」
研究員が黒い粘液を容器へ移す。
「まだ乾ききっていませんね」
「死骸が発見されたのは?」
「数日前です」
「それなら、この粘液は比較的新しい可能性があります」
別の研究員が周囲を調べ始めた。
「河川との距離は?」
「かなり近いですね。数十メートルほどです」
カイルは死骸と河川を交互に見た。
死骸の一部がある。
そのすぐ近くに、大きな河川がある。
偶然なのか。
それとも、何か意味があるのか。
「カイルさん?」
カティが隣から声をかけた。
「どうしました?」
「また考え込んでます」
「そうですか?」
カティは少しだけ笑った。
「難しい顔をしてます」
「自分では普通のつもりなんですが」
「カイルさんは、考え込むとすぐ分かりますよ」
「そうなんですか?」
「分かります」
少し得意そうに言ったあと、カティは自分で気づいた。
――あ。
まるで、いつも見ているみたいな言い方だった。
頬が少し熱くなる。
「……どうしました?」
「なんでもありません」
「顔、赤いですよ」
「それは……」
カティは一瞬考えてから、小さく咳払いをした。
「今日は少し暑いんです」
「そうですか?」
「そうなんです」
カイルは空を見上げた。
「確かに、昨日より暖かいですね」
カティはほっとした。
また信じてくれた。
そのことが嬉しいような、少し残念なような。
複雑な気持ちになりながら、彼女も河川へ目を向けた。
「……でも、変ですね」
「何がです?」
「どうして死骸の一部だけが、ここにあるんでしょう」
「僕もそれが気になっています」
カイルは地面へ視線を落とした。
河川へ向かう地面には、わずかに草が倒れている。
土が削れている場所もあった。
「ここを見てください」
カイルがしゃがみ込む。
「何かを引きずった跡があります」
研究員たちも集まってくる。
「確かに……」
「ただ、これだけでは死骸そのものを引きずったのか、別の何かが通った跡なのかは分かりませんね」
「はい」
カイルは跡を追うように視線を動かした。
それは河川の近くで途切れている。
「少なくとも、この死骸がここで死んだとは限らない」
ハイメルが頷いた。
「過去の発見地点も調べる必要がありますね」
「はい」
研究員が資料を取り出す。
「これまで発見された死骸の位置を地図にまとめてみます」
「河川との位置関係も」
ハイメルが指示を出した。
「地下水路や洞窟の記録もあれば、合わせて確認してください」
「了解しましたニャ」
研究員たちが作業を始める。
カイルはその様子を見ながら、再び死骸へ目を向けた。
そのときだった。
風に乗って、妙な臭いがした。
湿った土。
水。
腐敗した肉。
そして、その奥にある何か。
「……」
カイルの表情がわずかに変わった。
カティはそれに気づいた。
「カイルさん?」
「……いえ」
カイルは目を閉じる。
何かを思い出しそうだった。
けれど、まだ形にならない。
ただ、胸の奥に引っかかるものだけが残った。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
いつもの言葉。
カティは少しだけ眉を下げた。
昨日も同じことを言っていた。
そして今日も。
「……また、それですか」
「え?」
「なんでもありません」
カティはそれ以上言わなかった。
心配している。
けれど、無理に聞き出したくはない。
自分がそばにいることで、少しでも彼の力になれるなら、それでいい。
そう思った。
調査はその後も続いた。
研究員たちは死骸の一部から採取した粘液を調べ、過去の記録と照合していく。
やがて、一人の研究員が声を上げた。
「隊長、こちらを」
「何か分かりましたか?」
「過去に発見された死骸の位置をまとめてみました」
地図が広げられる。
いくつもの印が付けられていた。
「……これは」
ハイメルが目を細める。
発見地点は、完全に同じ場所ではない。
しかし、いずれも大きな河川の近くに集中している。
「偶然とは考えにくいですね」
研究員が言った。
「さらに調べると、そのいくつかは地下水路や洞窟の入口にも近いようです」
カイルは地図を見つめた。
河川。
地下水路。
洞窟。
そして、死骸。
それぞれが少しずつ繋がり始めている。
「……水の流れに沿っている」
カイルが呟いた。
「はい」
ハイメルが頷く。
「大きな水脈が、この周辺一帯を繋いでいる可能性があります」
その後、調査隊は河川の上流にある洞窟へ向かった。
入口から中へ入ると、空気が一気に冷たくなる。
奥から水の流れる音が聞こえていた。
研究員たちは灯りを掲げながら、壁や地面を調べていく。
「ここにもあります」
壁際に、黒い粘液が付着していた。
採取したものと、よく似ている。
「成分を比較します」
研究員が慎重に採取する。
「……同じものですね」
ハイメルが壁を見る。
そこには、長く擦ったような傷が残っていた。
「これは爪痕ではなさそうです」
「何か大きなものが接触した跡でしょうか」
「可能性はあります」
カイルはその傷へ近づいた。
壁に残された傷。
黒い粘液。
地下を流れる水。
そのすべてが、何かを示している。
そのとき。
また、あの臭いがした。
湿った洞窟の臭い。
黒い粘液の臭い。
それが、何か遠い記憶を呼び起こす。
けれど、今度もはっきりとは思い出せなかった。
ただ、胸の奥が強く締めつけられる。
「……っ」
カイルは無意識に片手剣の柄へ手を添えた。
「カイルさん?」
カティの声が聞こえた。
「……大丈夫です」
「でも……」
「少し、嫌な臭いだっただけです」
それ以上は何も言わなかった。
カティも聞かなかった。
ただ、少しだけカイルとの距離を縮める。
「……分かりました」
そう言って、隣に立った。
カイルは何も言わなかった。
けれど、その距離が少しだけありがたかった。
「……骨です」
研究員の声が響いた。
灯りが照らした先には、いくつもの骨が積み重なっていた。
大型モンスターのものもあれば、小型のものもある。
一つの種類ではない。
「かなり古いですね」
「こちらにもあります」
「これも……別種です」
研究員たちが一つずつ確認していく。
「これだけの種類が同じ場所に集まるのは妙ですね」
「捕食されたものが運び込まれたのでしょうか」
「それも考えられます。ただ、運んだ生物の種類までは……」
研究員たちは慎重に記録を続けていた。
カイルはその光景を見つめる。
なぜだろう。
ただ骨が積み重なっているだけなのに、胸の奥がざわつく。
知らないはずの場所なのに、どこかで見たような気がする。
けれど、その記憶を掴もうとした瞬間、頭の奥に霧がかかった。
「……」
カイルは目を閉じた。
何かがいる。
ずっと昔から、自分の中に残っている何か。
だが、それが何なのかまでは分からない。
カティが横から彼を見る。
今度は何も言わなかった。
ただ、そっと自分の手を握った。
自分まで不安そうな顔をしたら、きっとカイルはまた「大丈夫です」と言う。
それが分かっていた。
だから笑った。
「……ネコ嬢?」
「はい?」
「何かありましたか?」
「いいえ」
カティは笑った。
「ただ、ちゃんとここにいますから」
カイルは一瞬だけ彼女を見つめた。
「……ありがとうございます」
「いえ」
それだけの会話だった。
けれど、カティにはそれで十分だった。
自分にできることは、それほど多くない。
それでも、この人が一人で抱え込もうとするときくらいは、隣にいたい。
そんな気持ちだった。
やがて研究員たちが古い資料を取り出した。
「隊長、これを見てください」
そこには、この周辺で過去に確認された大型生物についての記録が残されていた。
死骸の発見地点。
河川。
地下水路。
大量の骨。
そして、黒い粘液。
「……全部、繋がっていますね」
ハイメルが呟く。
「はい」
研究員が古い図面を広げる。
「さらに、この地下水路はかなり広い範囲に繋がっています。この地下水路は上流域の洞窟からさらに地下へ伸び、やがて大きな河川へ繋がっている可能性があります」
カイルは黙って図面を見ていた。
河川から地下へ。
地下から、さらに遠くへ。
その先に何がいるのか。
まだ誰にも分からない。
研究員が、もう一枚の古い記録を取り出した。
「こちらも見つかりました」
紙はかなり古く、端が擦り切れている。
そこには、巨大な頭部と長い触腕を持つ、異様な姿の生物が描かれていた。
周囲には、無数の骨が描かれている。
そして、絵の下には短い記述が残されていた。
「……地下水路にて確認された大型生物、とあります」
ハイメルが記録を読む。
「特徴は?」
「詳細はほとんどありません。ただ……」
研究員が資料の端を指で追った。
「骨をまとい、黒い粘液を残す、と」
カイルの視線が、そこで止まった。
黒い粘液。
骨。
地下水路。
河川。
ここまで積み重なった情報が、初めて一つの生物を指し示し始める。
「名前は?」
ハイメルが尋ねた。
研究員は資料の端へ目を落とした。
そこに記された古い文字を読み取る。
そして、ゆっくりと口にした。
「――オストガロア」
その名前を聞いた瞬間。
カイルの呼吸が、ほんのわずかに止まった。
「……」
胸の奥で、何かが揺れた。
河川。
骨。
黒い粘液。
あの妙な臭い。
そして、先ほどから何度も感じていた、説明のつかない違和感。
それらが、頭の中で一瞬だけ繋がったような気がした。
けれど、何が繋がったのかは分からない。
ただ、その名前だけが妙に重かった。
「カイルさん?」
カティが振り返る。
「……何でもありません」
「本当に?」
「はい」
カティは彼の顔を見つめた。
いつもの「大丈夫です」とは少し違う。
何かを隠しているというより、本人にも分からない何かを抱えている。
そんな顔だった。
「……分かりました」
カティはそれ以上聞かなかった。
カイルはもう一度、資料を見る。
描かれているのは、実物を見たこともないはずの生物。
なのに、なぜか目を逸らせなかった。
名前を知っただけなのに、胸の奥に眠っていた何かが、かすかに動いた気がする。
それが何なのか。
カイル自身にも、まだ分からない。
カティは、そんなカイルの横顔を静かに見つめていた。
そして、ほんの少しだけ不安そうに、彼の袖へ手を伸ばした。
けれど、触れる直前で止める。
今はまだ、何も聞かない。
ただ、ここにいる。
それだけでいい。
カティはそう思いながら、古い資料へ視線を戻した。
その日から、龍識船の調査は少しずつ変わり始めた。
単なる死骸の調査ではない。
河川の先。
地下水路の奥。
大量の骨と黒い粘液を残す、正体不明の巨大生物。
そして、その名を聞いたときだけ、わずかに揺れたカイルの表情。
まだ、その存在が何を意味するのかを知る者はいない。
ただ一つ確かなのは、これまで集めてきた痕跡が、すべて同じ場所へ向かっているということだった。
河川の先。
地下水路の奥。
そこには、まだ誰も知らないものが待っている。
調査隊は、その正体を確かめるため、次の調査へ進むことになった