アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
夜の龍識船は、昼間とは別の場所のように静かだった。
昼間なら研究員たちの声や、荷物を運ぶ音、オトモたちの鳴き声が絶えず聞こえている船内も、夜になればそのほとんどが途絶え、時折、船体が風を受けて軋む音と、帆を張る縄がかすかに揺れる音だけが廊下へ響いている。窓の外には雲海が広がり、その向こうには月明かりに照らされた山々がぼんやりと浮かんでいた。
カイルは自分の部屋で、ベッドに腰を下ろしたまま、しばらく窓の外を眺めていた。
眠れない。
昼間に聞いた、あの名前が頭から離れなかった。
オストガロア。
その名を聞いた瞬間、胸の奥に引っかかったものは、まだ正体を見せていない。ただ、思い出せそうで思い出せない何かが、ずっと頭の隅に残っている。
目を閉じると、湿った空気の感触が蘇った。
どこか遠くから、何かを引きずるような音が聞こえる。ずるり、ずるりと、重いものが地面を擦る音が夜の中を近づいてくる。その音に混じって、焦げた木の匂いと煙の臭いが鼻を刺した。
カイルは眉を寄せた。
次の瞬間、視界の奥に炎が浮かんだ。
燃えている。
家が。
村が――自分が幼い頃を過ごした、あの村が。
暗い夜空を赤く染める炎の向こうで、人が走っている。誰かが叫び、誰かが泣き、崩れた建物の下から助けを求める声が聞こえる。
父も母も、そこにいた。
その光景は覚えている。
けれど、その夜に何があったのかを辿ろうとすると、なぜかそこで思考が止まる。
カイルは眉を寄せた。
「……なんでだ」
その瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。
「……っ」
カイルは目を開いた。
いつの間にか、手が強くシーツを握りしめていた。
呼吸が浅くなっていることに気づき、ゆっくりと息を吐く。額には薄く汗が浮かんでいた。
カイルはしばらく動かなかった。
あの村のことは覚えている。
父の声も。
母の姿も。
燃えていた家も。
けれど、その先を思い出そうとすると、頭の奥に濃い霧がかかったようになる。
それ以上考えることができず、カイルは小さく息を吐いた。
カイルはベッドから立ち上がり、窓辺へ歩いた。
雲海の向こうに月が浮かんでいる。
自分だけが生き残った。
その事実が、なぜか今になって重く感じられた。
「……今度は」
窓に映った自分の顔を見つめながら、カイルは静かに呟く。
「今度は、誰も失わせない」
その言葉が、どこから出てきたのか。
カイル自身にも分からなかった。
ただ、胸の奥から自然に浮かんできた。
そのとき、廊下からかすかな足音が聞こえた。
カイルは顔を上げる。
夜も遅い。
こんな時間に誰だろうと思っていると、部屋の前で足音が止まり、控えめな声がした。
「……カイルさん?」
聞き慣れた声だった。
「ネコ嬢?」
「起きていますか?」
「はい」
少し間があってから、カティが続ける。
「すみません。こんな時間に。研究室から戻る途中だったんですけど、少し音が聞こえたので……その、具合でも悪いのかなと思って」
「大丈夫ですよ」
「本当に?」
「はい」
しばらく沈黙が続いたあと、カティが小さく尋ねた。
「……入ってもいいですか?」
カイルは一瞬だけ迷ったが、すぐに答えた。
「どうぞ」
扉がゆっくり開く。
カティが顔を覗かせ、そのまま遠慮がちに部屋へ入ってきた。
「失礼します」
普段なら、仕事の合間に甲板や研究室で顔を合わせるだけだ。カイルがどんな部屋で眠っているのかなど、考えたこともなかった。
けれど、今は違う。
目の前にはベッドがあり、その脇には丁寧に畳まれた衣服が置かれている。壁には片手剣が立てかけられていた。
必要なものだけがきちんと整理された部屋だった。華美なものは何もない。
それなのに、カティには妙に落ち着かなかった。
ここが、カイルが普段暮らしている場所なのだ。
そう思うだけで、いつもより彼を近くに感じてしまう。
カティは無意識に息を吸った。
すると、部屋の空気に混じった匂いに気づく。
外から入ってきた夜風の冷たい匂い。
武器の手入れに使った油の、かすかな匂い。
そして、その奥に残っている、石鹸のような清潔な匂い。
いつも近くで話しているときにも感じていたものだった。
けれど、こうして二人きりの部屋で意識してしまうと、妙に近く感じる。
カティは慌てて視線を逸らした。
危ない。
こんなことを考えに来たわけではない。
それでも、ふとベッドへ目が向いてしまう。
ここで、カイルさんが寝るんだ。
そう思った途端、妙な想像が浮かんだ。
今は起きているけれど、もしここで眠っていたら、どんな顔をしているのだろう。普段はきちんと整えている黒髪も、眠っているときなら少し乱れているのかもしれない。目を閉じて、何も考えずに眠っている姿を見たら、今よりもっと近く感じてしまうのではないか。
そんなことまで考えてしまったところで、カティは自分で自分に驚き、慌てて視線を戻した。
頬が熱い。
「ネコ嬢?」
「は、はい?」
「どうしました?」
「……何でもありません」
「顔、赤いですよ」
「赤くありません」
思わず早口になった。
カイルは不思議そうに彼女を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
そのことに少しだけ安心しながら、カティは彼の向かいに腰を下ろす。
「それで……大丈夫なんですか?」
「何がです?」
「さっき、かなり苦しそうな声が聞こえました」
カイルは少し黙った。
それから、窓の外へ目を向ける。
「……昔の夢を見ていたんです」
「昔の?」
「はい」
それ以上を話すべきか迷っているようだった。
カティは急かさず、ただ静かに待った。
しばらくして、カイルが口を開く。
「昔、村を襲われたことがあるんです」
カティの表情がわずかに曇る。
「……村を?」
「はい。そのとき、大切な人たちを失いました」
淡々とした言葉だった。
けれど、その声の奥にあるものを、カティは感じ取った。それ以上、聞いてはいけない気がする。
少なくとも、今は。
「……そうだったんですね」
それだけを返した。
カイルは小さく頷く。
「オストガロアの名前を聞いてから、少し思い出しそうになって」
「だから、眠れなかったんですか?」
「たぶん」
カティは膝の上で手を重ねた。
もっと聞きたい気持ちはある。
どんな村だったのか。
誰を失ったのか。
何が起きたのか。
けれど、それを尋ねることがカイルの傷を抉ることになるかもしれないと思うと、口にはできなかった。
「……話したくなったら、話してくださいね」
カイルが彼女を見る。
「無理に話さなくてもいいですから」
「ありがとうございます」
「私にできることなんて、あまりないですけど……」
そこでカティは少しだけ笑った。
「話を聞くくらいなら、できますから」
カイルはしばらく彼女を見つめていた。
やがて、穏やかに笑う。
「それだけでも、十分ですよ」
その言葉だけで、カティの胸が温かくなった。
けれど、カイルがこうして自分の過去を話してくれたことを思うと、胸の奥が少しだけ締めつけられた。
この人は、今までずっと一人で抱えてきたのだ。
それを思うと、明日もまた一人で何かを抱えて、危険な場所へ向かってしまうのではないかという不安が、ふと胸をよぎった。
カティは膝の上で手を握る。
自分でも、どうしてこんなに心配になるのか分からない。
ただ、無事に帰ってきてほしい。
それだけだった。
「……カイルさん」
「はい?」
「ちゃんと、帰ってきてくださいね」
カイルは少し驚いたように目を瞬かせた。
「もちろんです」
「……約束ですよ?」
「はい」
「絶対ですよ?」
「絶対です」
カティはようやく笑った。
「……よかった」
小さく呟いたあと、立ち上がる。
「じゃあ、私はもう戻りますね。遅い時間にすみませんでした」
「いえ。来てくれてありがとうございました」
扉の前まで歩いたカティは、そこで一度だけ振り返った。
部屋の中央に立つカイルを見つめる。
もし、ここで眠っている彼を見ることができたら。
そんなことを考えてしまった自分が、少し恥ずかしい。
それでも、今こうして彼が無事に目の前にいることのほうが大切だった。
「……おやすみなさい、カイルさん」
「おやすみなさい、ネコ嬢」
扉が閉じる。
廊下へ出たカティは、そのまま扉の前でしばらく立ち尽くしていた。
頬がまだ熱い。
部屋の中の匂いまで覚えてしまったことが、なぜか恥ずかしくて仕方がない。しかも、あんなことを考えていたところを顔に出してしまっていたかもしれないと思うと、今さらながら両手で頬を覆いたくなった。
小さく息を吐いてから、カティはようやく歩き出した。
それでも数歩進んだところで、また振り返る。
当然、扉が見えるだけだった。
「……ちゃんと、帰ってきてくださいね」
今度は誰にも聞こえないほど小さな声で呟いて、カティは自分の部屋へ戻っていった。
部屋に残ったカイルは、しばらく閉じた扉を眺めていた。
カティが来てくれたことで、胸の奥に残っていたざわつきは少しだけ薄れている。過去の記憶が消えたわけではない。それでも、自分の帰りを待っている人がいるのだと思えば、先ほどまでとは違う静かな安心があった。
ベッドへ横になる。
目を閉じると、再びあの夜の光景が浮かびかけた。
炎。
煙。
誰かの背中。
そして、逃げろと叫ぶ声。
けれど今度は、それだけではなかった。
自分の帰りを待つ仲間がいる。
傷ついてほしくないと思う人たちがいる。
カイルは胸の奥で静かに息を吐き、カイルはゆっくりと目を閉じた。
夜の龍識船は、何事もなかったかのように雲海の上を進み続けていた。