アセンダンス待ちきれないから書いてしまったダブルクロス 作:ペプシよりコカ・コーラだよなぁ
翌朝。
龍識船は、いつもと変わらない朝を迎えていた。
雲海の向こうから差し込む光が甲板を白く照らし、帆柱の間を抜けた風が、吊り下げられた縄や旗をかすかに揺らしている。研究員たちはすでに動き始めており、昨日までとは明らかに違う量の調査道具が甲板の一角へ集められていた。
竜ノ墓場へ向かうための準備が始まっている。
その喧騒から少し離れたところで、カイルは腰の片手剣を確認していた。鞘の留め具を確かめ、刃の状態を確認してから、いつものように柄へ手を添える。
剣に異常はない。
それを確認すると、ようやく手を離した。
昨夜のことが、まだ頭の片隅に残っていた。
燃える村。
崩れていく家。
逃げろと叫ぶ声。
そして、失った人たち。
思い出そうとすると、胸の奥に重いものが沈んでいく。
それでも、カイルはしばらくその場に立ったまま、何も考えずに剣を見つめていた。
すべてを思い出したわけではない。
何があったのかを、完全に整理できたわけでもない。
ただ、昨日までとは少しだけ違う。
胸の奥に残っているものを抱えたままでも、今日やるべきことはある。
カイルは片手剣を腰へ戻した。
船内へ戻ろうとしたとき、後ろから声がした。
「カイルさん」
振り返ると、カティが立っていた。
金色の髪はきちんと整えられているものの、いつもより少しだけ目元が重い。彼女自身は隠しているつもりなのだろうが、カイルにはなんとなく分かった。
「おはようございます、ネコ嬢」
「おはようございます」
カティは笑った。
ただ、その笑顔が浮かぶまでに、ほんの少し間があった。
「眠そうですね」
「……分かります?」
「少しだけ」
「昨日、ちょっと遅くまで仕事をしていたので」
そう答えながら、カティは視線を逸らした。
本当の理由を話すつもりはない。
部屋へ戻ってからも、昨夜のことを何度も思い返していた。カイルの部屋に入ったときの空気や、近くで見た彼の顔、そして何より、自分にだけ話してくれた過去のことが頭から離れなかった。
大切な人たちを失った。
その言葉は、思っていた以上に胸へ残っている。
「無理はしないでくださいね」
カイルがそう言った。
カティは思わず顔を上げる。
「……それ、カイルさんにも言いたいです」
「僕ですか?」
「昨日も怪我をして帰ってきたじゃないですか」
「あれくらいなら大丈夫ですよ」
「ほら、それです」
思わず声が強くなった。
カイルが少し驚いたように目を瞬かせる。
「何がです?」
「カイルさんは、すぐそう言うんですから。大丈夫、大丈夫って言って、気づいたら傷を増やして帰ってくるじゃないですか」
カティは頬を少し膨らませた。
怒っているというより、心配しているのだと自分でも分かっている。だからこそ、言葉が止まらなかった。
「……気をつけます」
「本当に?」
「本当です」
「なら、いいです」
ようやくカティは表情を緩めた。
その顔を見て、カイルは小さく笑う。
「心配してくれてありがとうございます」
「……そういうことを平然と言うから困るんです」
「?」
「なんでもありません」
カティが顔を背ける。
カイルはしばらく不思議そうに彼女を見ていたが、そこへ廊下の向こうから軽い足音が近づいてきた。
「カイルさん、カティさん」
ルーチェだった。
両手に資料を抱え、少し急いだ様子で二人の前まで来る。
「ハイメル隊長が、研究室に来てほしいそうです。研究員ネコさんが、昨日の資料について新しいことを見つけたみたいですよ」
「分かりました」
カティが返事をすると、ルーチェは二人の顔を見比べた。
「じゃあ、私も先に行ってますね」
そう言って歩き出しかけたところで、ふと思い出したように振り返る。
「……なんだか、二人が一緒だと安心します」
「そうですか?」
カティが少し意外そうに尋ねる。
「はい。なんとなくです」
ルーチェはそれだけ言って、今度こそ研究室へ向かっていった。
カティはその背中を見送ったあと、隣のカイルへ視線を戻す。けれど、彼は特に気にした様子もなく、いつものように研究室へ向かおうとしていた。
「行きましょうか、ネコ嬢」
「……はい」
二人は並んで歩き出した。
*
研究室には、昨日よりも多くの資料が広げられていた。
竜ノ墓場周辺の地図に加え、河川の位置を記した古い地図、過去の調査記録、採取した黒い粘液の分析結果、そして発見された骨についての報告書まで、机の上は紙で埋め尽くされている。
その中央に、ハイメルが立っていた。
「来てくれてありがとうございます」
「何か分かったんですか?」
カイルが尋ねると、ハイメルは資料へ目を落とした。
「はい。まだ確定ではありませんが、これまでに集めた情報が少しずつ繋がってきました」
研究員ネコが、分析結果をまとめた紙を持ち上げる。
「まず、この黒い粘液ニャ」
そこには昨日採取された物質の成分が細かく記録されていた。
「普通の大型モンスターが出す体液とは性質が違うニャ。乾いても粘着性が残るうえに、付着したものを簡単には離さないニャ」
「獲物を捕らえるために使う可能性がありますね」
カイルが言うと、研究員ネコが頷いた。
「その可能性が高いニャ」
別の研究員も記録をめくりながら続ける。
「それだけではありません。過去の資料を調べたところ、似たような黒い物質について書かれた記録がいくつか見つかりました」
「同じものですか?」
「完全に同一とは断定できません。ただ、発見された場所には共通点があります」
研究員が地図を広げる。
これまで骨や死骸の一部が見つかった地点が、いくつもの印で示されていた。
「大きな河川の周辺です」
カイルは地図へ顔を近づける。
点在しているように見えた発見地点は、視点を変えてみれば一本の大きな流れに沿うように並んでいた。
「……水の流れに沿っている」
「そうなんです」
ハイメルが頷いた。
「昨日までは偶然という可能性もありました。しかし、過去の記録まで重ねてみると、無視できないほど一致しています」
研究員ネコがさらに古い地図を広げる。
「それと、この地域には現在の地図には記録されていない地下水路があるニャ」
「地下水路?」
「古い地質調査の記録に残っているニャ。現在の河川と繋がっている可能性もあるニャ」
カイルは地図を見つめた。
地上を流れる大きな河川。その上流にある洞窟。さらにその奥へ続く地下の水脈。
それらを重ねていくと、ひとつの可能性が浮かび上がってくる。
巨大な何かが、水の中を移動している。
それならば、陸地に残された痕跡が途中で途切れていることも説明できる。
「竜ノ墓場へ続いている可能性は?」
「まだ分かりません」
ハイメルは慎重に答えた。
「だからこそ、実際に確認する必要があります」
研究員ネコが、今度は古びた一枚の記録を取り出した。
紙は黄ばんでおり、何度も開かれた跡がある。
そこには、奇妙な絵が描かれていた。
巨大な頭部。
その周囲から伸びる、何本もの長いもの。
そして、その下に積み重なる無数の骨。
カイルの視線が、その絵の上で止まった。
胸の奥がざわつく。
昨日の洞窟で感じたものと同じだった。
湿った空気。
鼻に残る妙な臭い。
暗闇の向こうから聞こえてくる、何かを引きずるような音。
知らないはずなのに、どこか知っている。
そんな奇妙な感覚だった。
無意識のうちに、カイルの指が剣の柄へ触れる。
「カイルさん?」
カティの声がした。
カイルはゆっくり顔を上げた。
「……大丈夫です」
そう答えたものの、カティはすぐには視線を逸らさなかった。
昨夜のことを知っているから、というより、いつも見ているカイルの表情が少しだけ硬く見えた。
何かを思い出しているのかもしれない。
けれど、それが何なのかまでは分からない。
カティは少しだけ迷ってから、静かに尋ねた。
「……大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫ですよ」
「……そうですか」
カティはそれ以上、尋ねなかった。
ただ、少し気になった。
そして、これから向かう場所が危険かもしれないことも。
また、この人が無理をして傷ついて帰ってくるのではないかと思うと、それだけが心配だった。
カティは邪魔にならない程度に、ほんの少しだけカイルの近くへ移動した。
肩が触れるほどではない。
けれど、手を伸ばせば届くくらいの距離だった。
「……何かあったら、ちゃんと言ってくださいね」
カイルがカティを見る。
「分かりました」
「約束ですよ?」
「はい」
カティは小さく笑った。
それ以上は何も言わない。
ただ、隣に立っている。
それだけでよかった。
「今回の調査では、何を確認するんですか?」
彼女が尋ねると、ハイメルが地図を指した。
「河川の上流にある洞窟です。地下水路へ繋がっている可能性があります。そこで同じ粘液や骨の痕跡が見つかれば、この仮説の信頼性はかなり高くなるでしょう」
「僕も同行します」
カイルが言った。
「お願いします」
ハイメルは頷いたが、そのまま資料を閉じることはしなかった。
「ただ、一つだけお願いがあります」
「はい?」
「今回の調査では、単独で先へ行かないでください」
カイルは少しだけ目を細めた。
「……分かっています」
「本当に?」
穏やかな声だった。
けれど、その目には隊長としての厳しさがあった。
「カイルさんは、危険があると分かっている場所ほど、自分が先に行こうとするでしょう」
「……そう見えますか?」
「ええ」
ハイメルはわずかに笑った。
「あなたが強いことは知っています。だからこそ、無理をすれば一人でどうにかしてしまえるとも思っています」
カイルは何も答えなかった。
確かに思い当たるところがある。
危険な場所ほど、自分が先に確認したほうがいい。
誰かが傷つく可能性があるなら、自分が引き受ければいい。
それが今までのカイルにとっては、ごく自然な判断だった。
「ですが、今回は一人で戦うための調査ではありません」
ハイメルは地図へ目を落とした。
「仲間と帰ってくるための調査です」
その言葉に、カイルの表情がわずかに変わった。
昨夜、カティから言われた言葉が脳裏に浮かぶ。
ちゃんと帰ってきてください。
約束ですよ?
絶対ですよ?
カイルは小さく息を吐いた。
「……分かりました」
「ありがとうございます」
ハイメルはそれ以上何も言わなかった。
ただ、カイルが頷いたことを確認すると、静かに資料をまとめ始めた。
その様子を見ていたカティは、胸の奥に小さな安心を覚えていた。
自分が言ったことと同じような言葉を、ハイメルも伝えてくれた。
それが嬉しかった。
*
調査の準備は昼過ぎから本格的に始まった。
採取用の容器、照明器具、簡易寝具、食料、記録用の道具に加え、万が一の戦闘に備えた装備まで、一つずつ確認していく。
カイルが道具の状態を確かめている隣では、カティが研究員と一緒に採取用の容器を整理していた。
「それはこちらへお願いします」
「はい」
カティが受け取った容器を箱へ収める。
その手元を見ながら、カイルがふと思い出したように声をかけた。
「ネコ嬢」
「はい?」
「洞窟では足元に気をつけてください」
「分かっています」
「昨日も少し危なかったでしょう」
「……覚えてたんですか?」
カティの声が少しだけ弾んだ。
「もちろん」
それだけの返事なのに、カティの表情が柔らかくなる。
そんな小さな変化に、カイルは気づかない。
「じゃあ、カイルさんも気をつけてください」
「はい」
「今度はちゃんと約束してくださいね」
「約束?」
「無茶をしないことです」
カイルは少し考えるように黙った。
「……分かりました」
「本当に?」
「本当です」
ようやくカティは満足そうに笑った。
「なら、いいです」
少し離れた場所からその様子を見ていたルーチェが、ふと目を細める。
二人が並んでいると、不思議と空気が穏やかになる。
カイルが特別なことをしているようには見えない。
ただ、カティがカイルの近くにいると、普段より少しだけ表情が柔らかくなる。
それが何を意味するのかまでは、まだルーチェにも分からなかった。
だから、何も言わずに自分の作業へ戻った。
*
夕方になる頃には、出航の準備はほとんど終わっていた。
甲板には赤い夕日が差し込み、遠くに連なる山々が薄い影となって雲海の向こうへ沈んでいる。
カイルは船の外を眺めていた。
明日、あの先へ向かう。
竜ノ墓場。
その名前を思い浮かべるだけで、胸の奥に古い感覚が蘇ってくる。
けれど、今度は一人ではない。
ハイメルがいる。
研究員たちがいる。
そして――。
「カイルさん」
振り返ると、カティが立っていた。
「そろそろ夕食ですよ」
「もうそんな時間ですか」
「はい。今日はちゃんと食べてくださいね」
「分かりました」
カティは笑った。
「明日、早いですから」
「そうですね」
二人は並んで船内へ戻った。
しばらく歩いたところで、カイルはふと足を緩める。
カティが不思議そうに彼を見る。
「どうしました?」
「いえ」
カイルは少しだけ前を見た。
昨夜、自分が過去を話したこと。
カティが何も聞かずに受け止めてくれたこと。
そして、帰ってきてほしいと言ってくれたこと。
そのことを思い返すと、胸に残っていた重さがほんの少しだけ和らぐ気がした。
カイルは隣を歩くカティへ目を向けた。
カティは前を向いている。
カイルは何も言わなかった。
ただ、彼女の歩調に合わせるように、少しだけ速度を落とした。
カティはそれに気づいて、ほんの少しだけ笑った。
言葉はなかった。
それでも、不思議と落ち着いていた。
過去が整理されたわけではない。
何かを乗り越えたわけでもない。
ただ、今の自分のそばには、一緒に歩いてくれる人たちがいる。
それだけで十分だった。
翌朝。
龍識船は、竜ノ墓場へ向けて出航する。