逃げろ。
獣としての本能が、理屈より先にそう告げている。
火黒は一度だけ自分の腕へ目を落とした。
それから、ゆっくり惨蔵を見る。
「……へえ」
口元が吊り上がった。
怖い。
これは、怖い。
その感覚を理解した瞬間、火黒の笑みはむしろ深くなる。
「まだあんのかよ」
惨蔵は答えず、『九ツ(ここのつ)』を握る指へ静かに力を込めた。
霊圧が膨れ始める。
白砂が震え、足元の砂粒が一つ、また一つと浮き上がった。風もないのに黒衣が揺れ、周囲で戦っていた大虚の何体かが、ほとんど同時に惨蔵へ仮面を向ける。
近くの罪人達も動きを鈍らせ、護送役の死神達の中には息を呑む者がいた。
少し離れた場所にいた盃も、惨蔵へ視線を向ける。
先ほどまで口元に残っていた笑みが消えた。
火黒だけが笑っていた。
「は……ははっ……!」
惨蔵の霊圧が、一気に噴き上がった。
轟、と白砂が円状に吹き飛ぶ。
火黒は咄嗟に腕を顔の前へ掲げる。吹きつける霊圧に黒い毛並みを激しく煽られながらも一歩も退かず、『灼鳴』で熱を帯びた身体を震わせながら血走った目で惨蔵を見据えていた。
次に何が出てくるのか。
それだけを待っている。
惨蔵が『九ツ』を構え、ゆっくりと口を開く。
火黒も腰を落とした。
――乾いた銃声がした。
火黒の耳が動く。
大虚の咆哮も、剣戟も、鬼道の炸裂も止んではいない。そのすべてに紛れ込み、聞き逃しても不思議ではないほど小さな音だった。
惨蔵の身体が僅かに揺れる。
火黒の笑みが止まった。
黒衣の胸元へ、ぽつりと赤が滲む。
それが広がった直後、惨蔵の背から血が噴き出し、真打へ向けて膨れ上がっていた霊圧が大きく揺らいだ。
惨蔵は傷口を見ていなかった。視線だけを、乱戦の先へと向ける。
崩れ落ちた大虚、さらに奥、入り乱れる死神達の隙間を縫うように、志波禽雀(しば きんじゃく)が銃口を下ろすところだった。
その手には、中筒へ姿を変えた『朽蛭(くちびる)』。細い銃口から、まだ一筋の煙が立ち昇っている。
つい先日まで、自分の指示を受けて動いていた女だった。
惨蔵は僅かに目を細めただけで、何も言わない。
胸を貫いた傷は深い。それでも惨蔵は『九ツ』を握り直し、銃撃によって乱された霊圧を無理矢理に繋ぎ止める。
足元の影が、再び揺らいだ。
輪郭を失った黒が白砂の上へ滲み出し、消えかけていた圧迫感が戻ってくる。
火黒の毛並みがまた逆立った。
「……まだやんのか」
今度の声には、先ほどまでの笑いが少なかった。
惨蔵は答えず、真打へ届かせるため、さらに霊圧を引き上げようとする。
その時、胸の奥で何かが蠢いた。
「……ぐ」
銃創とは違う痛みに、惨蔵の表情が僅かに歪む。
肉の内側へ食らいつき、血と霊圧を啜りながら膨らんでいる異物。
惨蔵は一瞬だけ呼吸を止めた。
『朽蛭』。
その刀は、撃ち抜くだけで終わりではない。
惨蔵が『九ツ』を握る手へ力を込めるのと、禽雀が体内へ潜り込ませた『朽蛭』へ意識を向けるのは、ほとんど同時だった。
次の瞬間、惨蔵の胸の奥で鈍い破裂音がした。
身体が硬直する。
外から見れば、胸がほんの僅かに跳ねただけだった。その内側では、血と霊圧を吸って膨れ上がった蛭が炸裂し、心臓ごと周囲の肉を破壊している。
惨蔵の口から大量の血が溢れた。
それでも『九ツ』は落ちない。震える腕がなお刀を持ち上げようとし、足元へ広がっていた黒も主の意思に応えるように一度だけ大きく脈打った。
それ以上は続かなかった。
惨蔵自身にも、もう分かっている。
間に合わない。
霊圧を繋ぎ直そうとしても、その先から身体の方が崩れていく。真打へ届くより先に、自分の命が尽きる。
片膝が白砂へ落ちた。
ふと、六人の顔が浮かんだ。
ここへ送られる謂れのなかった者達。
罪なき者は、必ず生きて帰す。
そう約束した。
その自分が、先に死ぬ。
惨蔵の口元から血が零れた。
続いて、山本の顔が浮かぶ。
あの男には、随分と偉そうなことを言ったものだ。
結局、自分も約束一つ果たせずに終わる。
『九ツ』を支えにしていた腕から、少しずつ力が抜けていく。
もう一つだけ、気に掛かることがあった。
鬼蜘蛛は、約束を果たすだろうか。
懐を守るなら刀を一本くれてやる。
そう持ちかけた時、あの小僧は命より優先して守ると答えた。
道理も常識もろくに通じず、刀のこととなれば何をしでかすかも分からない。
(……果たすであろうな。そう、信じるほかない)
もはや確かめる術はないが、そうでなければ困る。
自分はもう、懐の傍へ戻れない。
そこでようやく、最後まで決め切れなかったことへ意識が戻った。
懐を虚圏へ残すのか。
連れて帰るのか。
『愛喰(ちかばみ)』の危険性は、まだ測り切れていない。
流魂街で名の知られた懐を連れ帰れば、他の者達のように誰かと入れ替えて済ませることもできず、山本の影として積み上げてきた立場も、名も、居場所も失うことになったかもしれない。
だから決められないのだと、そう思っていた。
答えなど、とうに出ていたのだろう。
惨蔵の視界が少しずつ霞んでいく。
白砂も、大虚も、遠くに立つ禽雀も、次第に輪郭を失っていった。
最後に浮かんだのは、懐の顔だった。
『懐は大丈夫です。ここで良い子にできます』
そう言って笑っていた。
何も知らず、誰も憎まず、自分が捨てられようとしている場所でさえ、周囲を信じようとしていた娘。
惨蔵の指から、ゆっくりと力が抜けていく。
(……すまぬ)
声にはならなかった。
『九ツ』の切っ先が白砂へ沈み、やがて柄を握っていた手も滑った。
吉良惨蔵瞑徳の身体が、静かに前へ傾いた。
*
倒れた身体が白砂へ沈む。その音は大虚の咆哮や剣戟に呑まれ、戦場の喧騒へ紛れて消えた。
懐は、その光景を見ていた。
惨蔵が血を吐き、『九ツ』を支えに立とうとして、それでも最後には力を失って倒れるところまで、ずっと見ていた。
「……おじさま?」
思わず、声が漏れる。
何が起きたのか理解しようとするように、懐は倒れた惨蔵を見つめ続けた。胸から流れた血が白砂を赤く濡らし、握っていた『九ツ』もすでにその手を離れている。
「おじさま……?」
もう一度呼んだ声は、先ほどよりも弱かった。
倒れた。
それきり、起き上がってこない。
遠くで何が起きたのかまでは分からない。ただ、その事実だけが少しずつ頭の中へ積み重なっていく。
何度か瞬きをすると、視界がさらに滲んだ。
頬へ熱いものが伝っていく。手の甲で拭ってみても、すぐにまた零れてきた。
「……え……」
そこでようやく、自分が泣いていることに気づいた。
胸の奥が急に苦しくなり、息を吸おうとしてもうまく入ってこない。足から力が抜け、懐はその場へ崩れるように膝をついた。
「……なんで……」
掠れた声に答える者はいなかった。
その傍らで、鬼蜘蛛も倒れた惨蔵を見ている。
しばらくその姿へ向けられていた視線が、やがてゆっくりと下へ落ちた。
惨蔵の手元には、主を失った斬魄刀が残されている。
つい先ほどまで戦場へ影を這わせていた『九ツ』。その姿はすでに解放を失い、少しずつ元へ戻り始めていた。
鬼蜘蛛の目が、その刀を捉えた。
*
惨蔵が倒れても、戦場そのものは止まらなかった。
すぐ近くでは護送役の死神が大虚の爪を受け止め、その向こうでは虚閃が白砂を焼いている。解放された罪人達の怒声と大虚の咆哮が重なり、吉良惨蔵瞑徳が死んだことにまだ気づいていない者さえいた。
火黒は、その中でしばらく惨蔵を見下ろしていた。
つい先ほどまで自分へ向けられていた霊圧は、もうどこにもない。獣としての本能が逃げろと告げるほどの何かが、出てくる寸前で消えてしまった。
「……ちぇっ」
鼻から大きく息を吐き、『血祭(ちまつり)』の爪を軽く振る。付着していた血が白砂へ散った。
「これからだったのによ」
勝ったという喜びは欠片もなかった。
むしろ、ようやく引きずり出したものを最後まで見られなかったことの方が気に入らないらしい。
火黒は一度だけ銃声の聞こえた方角へ目を向けると、それ以上何をするでもなく、倒れた惨蔵へ視線を戻した。
その銃声を放った禽雀は、離れた場所で火縄銃の形を保った『朽蛭』を構えていた。
銃口の先にいる惨蔵が完全に動かなくなったことを確かめ、ゆっくりと腕を下ろす。
上総介を死へ追いやった者の一人を、これで倒した。
ならば少しくらい、自分の中に溜まり続けていたものが晴れてもよさそうなものだった。
けれど、まるでそんな気はしない。
視界が僅かに滲み、目の奥からじわりと溢れた涙を、禽雀は乱暴に手の甲で拭った。
「……くそ」
吐き捨てるように呟くと、そのまま腹いせでもするように近くの大虚へ銃口を向けた。
乾いた銃声が、再び戦場へ響く。
少し離れた場所では、盃も大虚を相手取りながら惨蔵の死を確認していた。
巨大な爪が頭上から振り下ろされる。
盃が『逸軸(いちじく)』を振るうと、大虚の爪の軌道が僅かにずれ、身体の脇を逸れて白砂へ深く突き刺さった。
空いた懐へ入り込み、刃を走らせながら一瞬だけ惨蔵の方へ目を向ける。
倒れたまま、動かない。
今度こそ間違いなかった。
それを確認してなお、盃の額には細い汗が伝っていた。
(……さすがだな)
胸を撃ち抜かれても止まらず、その後も真打へ届こうとしていた。
禽雀が仕留め切れなければ、何が起きていたのか分からない。あのまま真打を許していれば、自分達の企みそのものがそこで終わっていた可能性もある。
迫ってきた大虚の牙を『逸軸』で外しながら、盃は胸中で吐き捨てた。
(ここを越えられねば、そもそも破綻していたな。化け物め)
盃が大虚へ意識を戻す一方で、惨蔵のもとへ裸足で近づいていく者がいた。
赫錆鬼蜘蛛だった。
倒れた惨蔵の傍まで来ると、その顔を覗き込む。呼びかけるでもなくしばらく眺めていたが、反応がないと分かると、すぐ近くにいた火黒を見上げた。
「死んだのか?」
「あ?」
火黒が振り返り、鬼蜘蛛と白砂へ倒れた惨蔵を交互に見る。
「ああ、もうくたばったな」
その返事を聞いた途端、鬼蜘蛛の顔が明るくなった。
「じゃあこれわしのだ」
「……は?」
火黒が呆気に取られるより早く、鬼蜘蛛は惨蔵の傍へしゃがみ込んだ。
手を伸ばした先には、主を失った斬魄刀が残されている。惨蔵の死とともに解放は解け、つい先ほどまで異形の姿を見せていた『九ツ』も、すでにありふれた刀へ戻り始めていた。
鬼蜘蛛はそれを拾い上げる。
両手で持ち、しげしげと眺めた。
刀身を傾けて表を見たかと思えば、今度は裏へ返し、柄の具合まで確かめるように握り直す。一度軽く振ると、満足げに口元を緩めた。
「…………」
火黒が妙なものを見るような目を向けていた。
周囲では今なお戦闘が続いている。大虚の足が砂を踏み鳴らし、遠くでは虚閃が爆ぜ、そのたびに巻き上げられた白砂が辺りへ降り注いでいた。
そんな中で、死体から拾った刀を手にした小僧だけが、まるで欲しかった玩具でも手に入れたように喜んでいる。
「おいガキ、遊び場じゃねえぞ」
火黒はそれだけ言うと、もう興味を失ったように鬼蜘蛛から目を離した。迫ってきた大虚へ黒い獣面を向け、『血祭』の爪を構える。
鬼蜘蛛は聞いている様子もなかった。
何度か『九ツ』を振り、手へ伝わる重さを確かめている。その顔には、戦場にはあまり似つかわしくない笑みが浮かんでいた。
少し離れた場所から、その様子を盃も見ていた。
(あの小僧は……)
見覚えがある。
惨蔵が玉依懐と共に、他の罪人とは別に扱っていた小僧だ。何者なのかまでは知らないが、あの惨蔵がわざわざ扱いを変えていた以上、ただの子供であるはずもない。
そんな視線にも気づかず、鬼蜘蛛は手に入れたばかりの刀へ話しかけていた。
「ずっと気になっとったんじゃ」
もちろん返事はない。
それでも鬼蜘蛛は、刀が聞いていることを疑っていないようだった。
惨蔵に制圧された時も、その後の戦いも、ずっと『九ツ』を見ていた。
影が伸び、人の身体を勝手に動かし、大虚や虚閃さえ呑み込んでいく様を、目を輝かせながら追っていた。
そして最後には、まだ先があった。
惨蔵は間違いなく、あの時のアレを出そうとしていた。
鬼蜘蛛は眉を寄せる。
「なんで使わんのじゃ。あんなもん、隠す事なかろうが。辛抱たまらんわ」
右手には、惨蔵から拾った『九ツ』。
左手が腰の斬魄刀へ伸びた。
鍔のない短い刀を抜き、深紅の柄を握り込む。柄頭からは、刀身と同じほどの長さをした赤い綱が垂れている。
「なぁ、虚命(こだま)」
鬼蜘蛛は二本の刀を見比べ、堪えきれないように笑った。
「はは……――『真打』」