「はは……――『真打』」
その声は、戦場の喧騒に呑まれた。
誰の耳にも届かなかっただろう。
ただ一人、鬼蜘蛛から目を離せずにいた盃だけが、その口の動きを見ていた。
直後。
鬼蜘蛛の足元から白砂が弾け飛んだ。
小柄な身体から溢れたとは思えない霊圧が周囲へ叩きつけられ、近くにいた罪人が思わず腕で顔を庇う。大虚の一体さえ動きを止め、鬼蜘蛛へ仮面を向けた。
盃の目が見開かれる。
「……真打?」
見間違いではない。
あの小僧は、確かにそう口にした。
鬼蜘蛛の左手に握られた『虚命(こだま)』。その柄頭から垂れていた赤い綱が、ひとりでに揺れ始める。
やがて一本だった綱がほどけ、幾筋もの細い糸へ裂けていった。
無数に分かれた赤い糸が鬼蜘蛛の手首から腕へ這い上がり、血管のように肩を巡って胸元へ広がっていく。その一方で、別の脈が右手に握られた『九ツ(ここのつ)』へ向かって伸びた。
赤い糸が刀身へ触れる。
絡みつき、表面へ張り巡らされていく。
どくん、と脈打った。
赤い筋が一斉に膨らみ、すぐに細く戻る。
もう一度。
鬼蜘蛛の身体と『虚命』、そして主を失った『九ツ』の間で、何かが循環し始めていた。
火黒も異変に気づいて振り返る。
「……あ?」
つい先ほどまで何の力も発していなかった刀から、霊圧が漏れ始めている。
火黒の鼻先が僅かに動いた。
ほんの少し前まで、自分が散々打ち合っていた霊圧だった。
視線が白砂に伏した惨蔵へ向かう。続いて、鬼蜘蛛の手元へ戻った。
そこには確かに、『九ツ』の気配がある。
「……なんだ、そりゃ」
鬼蜘蛛は答えなかった。
赤い脈に全身を繋がれながら、うっとりと『九ツ』を見つめている。
脈動を重ねるたび、刀から失われていた霊圧が濃くなっていった。それに呼応して、ありふれた刀へ戻っていた姿にも変化が現れる。
死によって解けたはずの解放が、逆向きに辿られていく。
惨蔵が握っていた、あの姿へ。
『九ツ』へ。
「『夜摩惹虚命(やまびこだま)』」
鬼蜘蛛がその名を口にした。
赤い脈が一斉に張り詰める。
鬼蜘蛛自身の霊圧と、再び目覚めた『九ツ』の霊圧が、一つの身体へ同時に流れ込んだ。
二つは混ざらない。
鬼蜘蛛のものは鬼蜘蛛のものとして、『九ツ』のものは『九ツ』のものとして、赤い脈だけが両者を無理矢理に繋いでいる。
その異様な光景に、近くで戦っていた死神の一人が思わず目を奪われた。
「九ツ……?」
惨蔵の斬魄刀を知る者だった。
主はすでに白砂へ倒れている。
それなのに、その刀だけが再び目を覚ましている。
鬼蜘蛛には周囲の驚愕など見えていなかった。
ようやく手に入った。
ずっと使ってみたかったものを、今度は自分の手で確かめられる。
それだけで頬が緩んでいた。
鬼蜘蛛は蘇った『九ツ』を持ち上げ、刀身を眺める。
その向こうでは、大虚の群れがなお押し寄せている。
「これか」
小さく呟く。
赤い脈が、どくん、と大きく鳴った。
鬼蜘蛛は『九ツ』の切っ先を大虚達へ向ける。
「真打」
そして、待ち望んでいた名を口にした。
「『九ツ・落陽常夜(ここのつ・らくようとこよ)』!」
変化は、光から始まった。
鬼蜘蛛の足元に落ちていた影が伸びたのではない。
そこにあった光そのものが、ゆっくりと失われていく。
鬼蜘蛛を中心として、虚圏の闇よりもなお濃い夜が白砂の上へ広がり始めた。
もとより虚圏の空に陽光などない。それでも白砂は月明かりにも似た淡い光を帯び、互いの姿を見分けるには十分な明るさがある。
その白さが、鬼蜘蛛の足元から沈んでいった。
色が失われ、輪郭が薄れ、やがてそこにあったはずの光さえ黒の中へ消えていく。
最初に呑み込まれたのは、惨蔵の亡骸だった。
夜は白砂の上を音もなく侵食し、倒れた罪人達の間を抜けながら、大虚の群れへ向かって広がっていく。
その進路近くにいた火黒は、黒が足元へ届くより早く反射的に後方へ跳んだ。
先ほど惨蔵が真打を解放しようとした時に感じたものと、よく似た気配だった。
しかし、今は違う。
あの時はまだ、何も始まってすらいなかったのだ。
火黒が距離を取る一方で、鬼蜘蛛は『九ツ』を握ったまま、広がっていく夜を食い入るように見つめていた。
真打を振るっている本人とは思えない。
初めて触れる玩具の仕組みでも確かめているように、目を輝かせている。
やがて闇が、一体の大虚の足元へ届いた。
大虚は気にも留めず、一歩を踏み出そうとする。
持ち上げたはずの脚が、動かなかった。
「……?」
仮面が僅かに下を向く。
もう一度、力を込める。
それでも脚は動かない。
闇へ沈んだ足先から、感覚そのものが消えていた。
そこに脚があるはずなのに、何も感じない。膝から下へ命令を送っているつもりでも、身体からは何の反応も返ってこなかった。
低く唸り、もう片方の脚へ体重を移そうとする。
その足も夜へ触れた。
巨体が完全に止まる。
後方から迫っていた別の大虚が、その背へぶつかった。押された身体が前へ傾くが、踏ん張るための両脚はすでに『九ツ』の夜へ沈んでいる。
轟音とともに、巨体が白砂へ倒れ込んだ。
反射的についた腕まで闇へ触れる。
起き上がろうとして力を込めても、今度は腕が応えない。
大虚の喉から、それまでとは違う咆哮が漏れた。
鬼蜘蛛の目がさらに輝く。
「ははっ」
『九ツ』を握る手を僅かに動かす。
夜はなおも広がった。
一体、二体と足元を呑まれ、やがて三体目まで動きを止める。
そこでようやく、群れ全体の様子が変わった。
後方にいた大虚達が進むのをやめ、白砂を侵食してくる黒を見下ろす。そのうちの一体が、ゆっくりと後ろへ退いた。
群れが初めて、鬼蜘蛛から逃れようとした。
その様子を見た鬼蜘蛛の笑みが、さらに深くなる。
「逃げんのか?」
夜は止まらない。
後退した大虚がもう一歩距離を取ろうとした時には、黒が足元まで追いついていた。
片脚が沈んだ途端、動きが止まる。
仮面を振り、力任せに身体を引こうとするものの、何かに掴まれているわけではない。脚そのものを動かす感覚も自由も失われている以上、振りほどくという行為さえ成立しなかった。
別の大虚が口を開く。
赤い光が、その奥へ集束し始めた。
狙いは鬼蜘蛛。
虚閃を放とうとした大口の下半分へ、広がった夜が触れる。
途端に顎から力が抜けた。
集束していた霊圧が歪み、行き場を失った赤光が口元で炸裂する。仮面の一部が砕け、巨体が仰け反ったところへ、さらに夜が這い上がった。
脚から腹へ。
腹から腕へ。
触れた場所から感覚と自由を失い、巨大な身体が少しずつ自分のものではなくなっていく。
やがて立っていることすらできなくなり、その大虚も白砂へ崩れ落ちた。
その頃には、戦場の様相そのものが変わっていた。
つい先ほどまで罪人達と護送役を数で押し潰そうとしていた大虚の群れが、今では鬼蜘蛛一人を中心に広がる夜から逃れようとしている。
しかし、その巨体では遅い。
一度でも夜へ触れれば、そこから身体の自由を奪われる。逃げようとした足が止まり、支えを失った身体が倒れ、倒れた先でさらに多くの部位が闇へ沈んでいく。その上へ後続が躓き、折り重なった巨体ごと黒が呑み込んでいった。
そして何より異様だったのは、大虚達が明らかに怯え始めていることだった。
何をされたのか理解したわけではない。
理由など分からなくても、本能には十分だった。
触れれば、自分の身体が自分のものではなくなる。
脚も腕も、意思に応えなくなる。
正体の分からない夜だけが、逃げる自分達を確実に追ってくる。
巨大な指が震え、仮面の奥から低い呻きが漏れる。後方にいた個体ほど必死に距離を取ろうとするが、その足元へも黒はじわじわと迫っていた。
護送役の死神達も、罪人達も、いつしか鬼蜘蛛の方を見ていた。
戦いが終わったわけではない。夜の外にはまだ大虚が残り、別の場所では今なお斬魄刀と爪がぶつかる音が響いている。
それでも、目を奪われる。
死んだ惨蔵の真打を、得体の知れない小僧が使っている。
しかも、その力で大虚の群れそのものを呑み込もうとしていた。
盃もまた、言葉を失っていた。
あの小僧自身が真打に至っていること。他人の斬魄刀へ干渉できること。
そんなものが、惨蔵が特別に扱っていた小僧の中に隠れていた。
当の鬼蜘蛛だけが、周囲の視線など気にも留めていない。
「楽しいなぁ、九ツ」
嬉しそうに刀を眺め、再び大虚達へ向ける。赤い脈が激しく蠢いた。
鬼蜘蛛から送り込まれる霊圧に応じて、夜がさらに濃さを増していく。
大虚達を呑み込んだ黒からは光が完全に失われ、もはや巨体の輪郭すら見えない。ただ何か巨大なものが倒れる音だけが、闇の奥から次々と響いていた。
夜の外に残る大虚も、すでに数えるほどになっている。
一体が闇の届いていない砂丘へ背を向け、逃げ始めた。鬼蜘蛛はすぐにそれを見つけ、『九ツ』を向ける。
だが、振ろうとした手が途中で止まった。
「……あ」
何かを思い出したように目を見開く。にやりと笑った。
「あれやってみるかぁ……」
『九ツ』を両手で握り直す。夜を維持したまま、さらに莫大な霊圧を刀身へ練り込んでいく。
赤い脈が太く膨らみ、鬼蜘蛛の身体から『虚命』を経て、『九ツ』へと激しい勢いで霊圧が流れ込んだ。
黒い刀身の輪郭が揺らぐ。
その周囲へ影がまとわりつき、細く、長く伸びていった。
実体の刀身を遥かに越える巨大な黒い刃。
鬼蜘蛛の顔が、ぱっと明るくなった。
「これじゃ、これじゃ」
惨蔵が使っていた技。
数体もの大虚を、一息に呑み込んだあの一撃。
腰を落とす。
「――『陰餓摩滅(いんがまめつ)』!」
一払い。巨大な影の刃が、逃げる大虚の胴を通り抜けた。
抵抗はない。
その直線上にいた二体目、三体目まで、黒い刃が一息に薙いでいく。三体はなお数歩進んだ。
直後。
先頭の胸元へ残された黒い切れ目が、ばきりと音を立てた。
巨体が内側へ折れ始める。腕が引き込まれ、胴が潰れ、仮面までもが一点へ呑み込まれていく。
同じ現象が後続にも起こった。
幾つもの巨体があり得ぬほど小さく圧縮され、最後にはその姿すら黒い裂け目へ消えていった。
鬼蜘蛛はその光景を見つめ、腹を抱えて笑っていた。
「ははっ……ははははは!」
堪え切れなくなったように、肩を震わせて膝を叩いている。
両手に刀を握ったまま、心底楽しそうにけらけらと笑っている。
「すげえ。やっぱすげえなぁ」
『九ツ』を持ち上げ、黒い刀身を食い入るように眺めた。
鬼蜘蛛の笑いは止まらなかった。やがて、別のものを思い出す。
「……あ」
鬼蜘蛛が空を見上げる。
惨蔵の頭上へ浮かんでいた、巨大な黒い円。無数の虚閃を呑み込み、噛み砕いていたもの。
目がまた輝いた。
「次、あれじゃ」
『九ツ』を握り直す。
戦場の端には、まだ大虚が残っている。
「なんじゃったか……朔羅……」
霊圧を練り上げようとする。
先ほどの『陰餓摩滅』で莫大な量を使ったばかりだったが、そんなことは気にも留めていない。
もっと見たい。
もっと使いたい。
惨蔵が見せたものを全部試したい。
鬼蜘蛛はさらに霊圧を絞り出した。
赤い脈が膨らむ。
――はずだった。
「……あ?」
脈動が途切れた。
鬼蜘蛛が眉を寄せる。もう一度、力を込めた。
何も起きない。
『九ツ』から立ち昇っていた霊圧が急激に薄れていく。同時に、戦場を覆っていた夜も端から崩れ始めた。
「おい。なんじゃ」
鬼蜘蛛が手元の刀を見る。
返事を待つ間にも闇は消えていき、奪われていた白砂の淡い光が少しずつ戻ってくる。黒の中へ倒れ伏していた大虚達の巨体が再び姿を現し、『九ツ』へ絡みついていた赤い脈も張りを失って垂れ下がった。
「……いや、おい、ちょっと」
『九ツ』を握り直す。霊圧を送り込もうとする。
そこでようやく、自分の身体にも異変が起きていることに気づいた。
空だった。絞り出そうにも、送り込む霊圧そのものがほとんど残っていない。
心底不満そうに、残った大虚達を睨む。
一歩踏み出した。その瞬間、膝から力が抜けた。
鬼蜘蛛の身体が前へ傾き、白砂へべしゃりと腹這いになる。
それでも、両手の刀だけは離さなかった。
「……良い所で切れよった。ふざけんなクソが」
砂へ顔を寄せたまま、恨めしそうな声が漏れた。