早蕨義衛門(さわらび ぎえもん)が自分を凡人だと知ったのはいつの頃だったか。
早蕨家は上級貴族である物部(もののべ)家に代々仕える下級貴族で、父も文官としてその実務を担っていた。何人もいる兄弟の一人として生まれた義衛門は、家督を継ぐ長兄でもなければ、何か特別な役目を期待された子でもない。
父も息子達を厳しく律するような男ではなかった。仕事には真面目で実直だったものの、家へ帰ればよく酒を飲み、酔えば決まって子供の誰かを捕まえてはもっともらしい高説を垂れる。
その日は義衛門の番だった。
「いいか義衛門。凡人てのはなぁ、人事を尽くすか、どこかで腐るか。そのいずれかしか人生はないのだ」
赤ら顔の父は酒臭い息を吐きながら、幼い義衛門へびしりと指を突きつける。
「お前は凡人だ。尽くせ! 尽くして尽くして尽くせ! そうしたらなぁ!」
勢いよく言葉を切った父は、しばらく宙を睨んだ末に首を傾げた。
「あー、なんだ。ええー……何話してた?」
家族の誰もまともには答えなかった。いつものことである。
所詮は酔っ払いの戯言だったのだろうが、幼い義衛門には一つだけ強く残った。
自分は凡人なのだ。
ならば、人よりやらなければならない。
それから義衛門は、朝は家の者が起き出す前に走り、戻れば木刀を振った。腕が上がらなくなれば足腰を鍛え、翌朝にはまた同じことを繰り返す。
父や兄達の書物を借りて霊術の基礎から鬼道まで頭に叩き込み、分からなければ人に聞き、剣も教えられた型を何百、何千と重ねながら、足の置き方や握りの甘さを一つずつ潰していった。
別段、苦行だとは思わなかった。才のある者が一度で覚えるのなら、自分は十度やればいい。十度で足りなければ百度。それでも足りないなら、できるまで続ければいい。
凡人なのだから、その程度は当たり前だった。
やがて研鑽は努力と呼ぶほど特別なものではなくなり、義衛門にとって日々の暮らしと変わらないものになった。
そうして積み上げた結果、彼は真央霊術院へ首席で合格した。
もっとも、それで自分に才があるとは思わなかった。所詮は学生の中で一番だったというだけの話で、才を秘めた者が目覚めれば凡人などすぐに捲られる。
自分はその前にできるだけ遠くまで行っておけばいい。
在学した六年間、義衛門を抜く者はついに現れなかった。
首席のまま卒業して護廷十三隊へ入ると、任務の合間にも剣を振り、歩法を磨き、鬼道を復習した。
ほどなく斬魄刀の声を聞いて始解へ到達し、働きぶりも評価されて席官への昇進が囁かれ始めた頃、珍しく素面の父から家へ来るよう言われた。
物部家から義衛門へ、仕官の話が来ているという。
義衛門は迷わず飛びついた。
物部家の当主は、父から折に触れて義衛門の働きぶりを聞いていたらしい。泥臭い努力を厭わず、その積み重ねを着実に結果へ変えている。
そう聞いた当主は直接義衛門と面会し、飾ることなく条件を告げた。
「下働きからになる。だが、働きには必ず応える」
義衛門も仕事を選ばなかった。
雑事であろうと下働きであろうと手を抜かず、任されたものを一つずつ片づけていくうちに、その働きぶりは誰の目にも明らかになった。
数年が過ぎたある日、屋敷での仕事を終えた義衛門は当主から呼び出された。何か粗相でもしたかと記憶を辿りながら部屋へ入ると、机の向こうで書面へ目を通していた当主が顔も上げずに言った。
「義衛門」
「はっ」
「明日から今の仕事はせんでよい」
一瞬、意味が分からなかった。
「……何か、不手際がございましたか」
「何故そうなる」
当主が呆れたように顔を上げる。
「お前を近衛へ上げる」
今度こそ義衛門は言葉を失った。
「不服か」
「いえ。ただ……某で、よろしいのでしょうか」
「よいから言っておる。今まで通り働け。それでよい」
「……承知いたしました」
深く頭を下げながら、義衛門は仕官した日に言われた言葉を思い出していた。
働きには必ず応える。
その約束を、この人は本当に守った。
いつしか義衛門にとって彼は、単なる主君ではなくなっていた。この人のためならば生涯を尽くしてもいいと、そう思えた。
当主の近くで働くようになれば、自然とその家族とも顔を合わせる機会が増える。その中でも義衛門が頻繁に接するようになったのが、物部家の令嬢、千砂だった。
いずれは他家へ嫁ぐ身でありながら、屋敷の奥でその日を待つような娘ではない。誇りが高く、聡く、行動力もあり、若くして家の内政へ深く関わっていたため外へ出る機会も多く、その護衛として義衛門が選ばれた。
最初の頃、二人の会話は仕事のことばかりだった。
「次は南の蔵へ参ります」
「承知しました」
「その後、役所へ寄ります」
「承知しました」
「……あなた、それしか言えないの?」
「必要な返答はしておりますが」
千砂が呆れたように眉を上げる。義衛門には、何を咎められているのか分からなかった。
「もういいわ」
「承知しました」
「それをやめなさいと言っているの」
そんなやり取りを重ねるうちに、二人の間には仕事以外の言葉も少しずつ増えていった。
休日にも鍛錬していると知った千砂から、なぜそこまでするのかと問われれば、義衛門の答えは決まっている。
「凡人ですので」
「首席で霊術院を出て、始解を修めて、父上の近衛にまでなった人間が?」
「運が良かったのです」
「六年間、一度も首席を譲らなかったのも?」
「皆が本気を出すのが遅かったのでしょう」
「……あなた、自分で話していておかしいと思わない?」
「特には」
結局、最後には千砂が笑う。
義衛門は何故笑われているのか分からないまま、その隣を歩いた。
そうして共に過ごす時間が増えるにつれ、二人は少しずつ互いへ惹かれていった。どちらから明確に想いを告げたわけでもないが、自分達の間にあるものが令嬢と護衛の信頼だけではないことくらい、互いに分かっていた。
やがて、滅却師との大戦が始まった。
物部家からも戦える男子達とその護衛が戦場へ送られることになり、義衛門もその中へ加わった。
出立を前に、当主は息子達を義衛門へ託した。
「頼む」
「お任せください」
それだけだった。
屋敷を出る直前、今度は千砂に呼び止められる。
「義衛門」
振り返ると、千砂は何かを言いかけ、一度口を閉じた。
「……必ず帰ってきなさい」
「はい
「無茶をするなと言っても、どうせ聞かないのでしょうけれど」
「必要であればします」
「ほら」
千砂が呆れたように息を吐く。
「あなたも無事に帰ってきなさい」
「承知しました」
「……もう少し気の利いたことを言えないの?」
義衛門は少し考えた末に答えた。
「無事に戻ります」
千砂はしばらく彼を見つめ、やがて小さく笑った。
「それでいいわ」
義衛門はその約束通り、激戦の中で主家の息子達を守り抜き、自らも生還した。
さらに戦場では己の真を打つ境地――『真打』へ至り、数多の戦功を携えて物部家へ帰還する。
身体にはまだ幾つもの傷が残っていた。
屋敷の前では当主が待っており、その少し後ろには千砂の姿もあった。
「ただいま戻りました」
義衛門が膝をつくと、当主は答える前にその背後へ目を向けた。戦場へ送り出した息子達が誰一人欠けることなく立っているのを確かめてから義衛門へ視線を戻し、頭を下げる。
「よく、帰してくれた」
義衛門の目が僅かに見開かれた。
「お顔を上げてください。役目を果たしただけにございます」
「それに応えるのが、儂の役目だ」
返す言葉がなく、ふと横を見れば千砂と目が合った。
彼女は義衛門の姿を頭から足元まで確かめるように眺め、ようやく息を吐く。
「……本当に帰ってきたのね」
「約束しましたので」
「ええ」
その顔を見て、義衛門はようやく自分が戦場から帰ってきたのだと実感した。
ほどなくして、義衛門と千砂は婚姻を願い出た。
下級貴族の、それも家督を継ぐ立場ですらない男と、上級貴族の令嬢。本来ならば異を唱える者はいくらでもいただろうが、当主は二人の言葉を最後まで黙って聞いた。
「覚えておるか」
「何をでしょうか」
「働きには必ず応える。そう言った」
義衛門は黙って頭を下げる。
「お前はもう、応えるに余る働きをした」
そう言って千砂へ視線を移した。
「後は、こやつが選んだことだ。儂から言うことはない」
「父上」
「ただし」
再び義衛門を見る。
「千砂を泣かせるでないぞ」
義衛門は深く頭を下げた。
「生涯を賭して」
「重い」
千砂が即座に口を挟む。
「だから、そういうところよ」
「何か間違えましたか」
「……間違えてないわよ」
そう答えた千砂は笑っていた。
婚姻を許され、二人は夫婦となる日を待つ身となった。
父から凡人だと言われた男の人生は、その時まさに絶頂にあった。
*
同じ頃、戦の終わった瀞霊廷では、戦場とはまた別の争いが始まっていた。
戦後処理と論功行賞を巡って、誰が何を得て誰が退くのか。戦時中には表へ出なかった思惑まで絡み合う、生々しい権力争いが貴族達の間で繰り広げられていた。
大戦を経て存在感を増した物部家も例外ではなく、その家臣である早蕨家には、政敵にとって格好の火種があった。
義衛門の兄の一人である。
家督を継ぐ長兄と、戦功を重ねて主家から重用されていく弟。その間で焦りを募らせた兄は、大戦中、自らも功を立てようとある集団へ物資や武装、資金を援助していた。
その時点で謀反へ加担する意図などなかったが、終戦後、その集団は自分達の戦功が軽んじられたことに不満を募らせ、やがて反乱分子と結びついて謀反を起こした。
戦時中の繋がりは、調べれば容易に見つかる。
物部家を引きずり下ろしたい者達にとって、それが兄個人の独断だったかどうかなど重要ではなかった。
援助は早蕨家から出ていた。そう断じることができれば十分だった。
ある日、義衛門は早蕨家へ呼び戻された。
屋敷へ着いた時にはすでに門前に見慣れぬ死神達が立っており、差し出された書面へ目を通すほど、記されている罪状の意味が分からなくなっていった。
「……謀反?」
自分の名がある。
父も、兄達も。
「何かの間違いではないか」
「こちらで判断することではない」
屋敷の奥から父と兄達が連れ出されてくる。
「父上。これは、何です」
「……後で分かる」
「俺には何の話も――」
「分かっておる」
短く返されたその一言で、義衛門は口を閉じた。
腰には刀があり、振り払おうと思えばできた。おそらく、この場にいる者だけでは自分を止められない。
だが、それをした瞬間、本当に謀反人になる。
義衛門は刀を外し、鞘ごと差し出した。
「預ける」
手首へ縄が掛けられても抵抗はしなかった。
自分は何もしていないのだから、調べれば分かる。
その時は、本気でそう思っていた。
嫌疑はやがて物部家へまで伸び、父は長年仕えてきた主家へ、自分達を切り捨てるよう進言した。
物部家まで巻き込んではならないと最後まで己の役目を果たして、早蕨家と主家の間に明確な線を引いたのである。
早蕨家は没落した。
父も、兄達も、弁明の機会すら与えられぬまま刑死した。
義衛門がそれを知らされたのは獄の中だった。
「……そうか」
返したのは、それだけだった。
その後も兄が誰と繋がっていたのか、早蕨家はどこまで関与していたのか、物部家は知っていたのかと何度か事情を聞かれたが、義衛門は知っていることをすべて話し、知らないことは知らないと答えた。
やがて、誰も来なくなった。
そこで初めて、自分が何を答えようと、もう大勢には関係がないのだと気づいた。
父は死んだ。
兄達も死んだ。
早蕨の家はなくなり、物部家との間にも線が引かれた。千砂が今どうしているのかすら知らされない。
そして義衛門だけが残された。
潔白が認められたからではない。大戦の中で真打へ至った義衛門は、それだけ高密度の霊子を宿す強大な魂魄となっており、その身を尸魂界で処刑して大地へ還せば、大戦によって揺らいだ三界の均衡へさらに大きな影響を与えかねなかった。
上層部にとって、義衛門は強すぎたのである。
刑死は免れたものの赦免されたわけではない。ただ不要だと、この世界から捨てられるだけだ。
決定が下されてから数日後、義衛門のいる獄へ吉良惨蔵瞑徳(きら さんぞう めいとく)が訪れた。
格子の向こうに立つ男を見て、義衛門は僅かに顔を上げる。
「……なにか」
「早蕨義衛門」
惨蔵は挨拶もなく名を呼んだ。
「貴様の件は、こちらでも調べた」
義衛門は黙ってその顔を見る。何を調べ、何が分かったのか。訊きたいことはいくらでもあったはずなのに、言葉は出てこなかった。
「このまま捨て置くつもりはない」
義衛門の目が僅かに動く。
「……どういう意味でしょうか」
「言葉通りだ。貴様を必ず尸魂界へ帰す」
「…………」
すでに虚圏への流刑は決まっている。そんな言葉一つで何かが覆るとは、到底思えなかった。
それでも、これまで積み上げた全てを失い、この先の未来すら失くした義衛門の前で、初めて誰かの言葉が心に落ちた。
「……本当に」
声が僅かに掠れた。
「帰れるのですか」
「帰す」
惨蔵は迷わなかった。
「それまで生きておれ」
それだけ告げると、背を向ける。
義衛門は呼び止めなかった。
遠ざかっていく足音を、ただ黙って聞いていた。
その言葉だけが残った。