千年前欠史変   作:鬼屋敷

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14、落涙

 

 義衛門はゆっくりと顔を上げる。

 そこにあったのは、先ほどまでとは比べものにならないほど暗い眼だった。

 ゆらりと右手が刀の柄に掛かる。

 盃の同心達が動きかけたが、今度は振り返りもしないまま手で制した。

 

「手ぇ出すな」

「盃」

「聞こえんかったか? 下がれ」

 

 同心達が足を止める。

 

「……腹の底からむしゃくしゃしてるんだ」

 

 鞘から刀が抜かれる。

 

「ずっと、……あぁ、どれくらいだろうな。……あまりに不運が続くもんでな」

 

 低く押し殺した声には、隠しきれない荒さが滲んでいた。

 盃は煙管を咥え直す。

 

「ほう」

 

 義衛門の霊圧が、じわじわと膨れ上がっていく。

 

「……帰してもらえるはずだった」

 

 ぽつりと、誰に聞かせるでもないような声だった。

 

「あの方は、そう言った」

「はっ、信じたのか? めでたいな」

「嘘なわけがない」

 

 からかいの言葉に返ってきたのは、深く静かな断定だった。

 根拠などなかった。ただずっと、自分にそう言い聞かせていた。それだけしか縋るものがなかったから。

 そこで口が止まる。

 何かを言おうとして、出てこない。

 

「……あれは……」

 

 義衛門が奥歯を噛んだ。

 

「……本当、だった」

 

 刀を握る手が震え始める。

 

「……もはや全て終いだがな。もう、なんでもいい」

 

 膨れ上がった霊圧が、言葉と共に義衛門の中へ収束する。

 ぎょろりと、不穏な瞳を向けた。

 

「なんでもいいがな。ただ、せめてお前は死ね。不愉快だ」

 

 義衛門の中へ収束していた霊圧が、さらに深く沈む。

 

「真打」

 

(ッ……いきなりか)

 

 

 盃は思わず苦笑を浮かべ、煙管を手にしたまま大きく後退した。

 同時に、義衛門へ押し込められていた霊圧がぶわりと解き放たれる。

 周囲へ走ったのは、ただの圧ではなかった。

 湿り気を帯びた何かが白砂の上を這うように広がり、その外側へ、さらに遠くへと染み出していく。

 集まっていた者達もすぐに異変を察した。

 死神達は刀を構え直し、罪人達も義衛門から距離を取る。術者達の何人かは顔色を変え、後退した。

 火黒も刀を抱えたまま顔を上げる。

 禽雀の目が細まり、鬼蜘蛛も拾いかけていた刀から視線を外した。

 虚圏の乾き切った空気が、明らかに変わっていた。

 義衛門が刀を掲げる。

 

「『落涙・雨家盗(らくるい・あまやどり)』」

 

 最初の一滴が、白砂を濡らした。

 次の一滴が落ちる頃には、その周囲にもぽつぽつと黒い染みが生まれている。数える間もなく雨脚は強まり、やがて白い砂漠を埋めるような雨音が戦場一帯へ広がった。

 

「……なんだ、これ」

 

 罪人の一人が腕を擦る。

 近くにいた死神も、自分の手を訝しげに見下ろしていた。肌を伝った雨粒が指先から落ちるたび、身体の内側まで僅かに薄くなっていくような感覚がある。

 

「霊子が……流れてる?」

「雨の外へ出ろ!」

 

 異変を察した者達が義衛門から離れていく。

 だが、距離を取っただけでは変わらない。降り注ぐ雨に触れている限り、身体や刀に纏わせた霊子が少しずつ削がれ、水へ溶けて足元へ落ちていく。

 盃も片手を掲げた。

 掌を叩いた雨水が指の間を流れ、その中に己の霊子が混じっているのを感じ取る。視線を落とすと、白砂へ落ちた水はその場へ染み込まず、細い流れを作っていた。

 一つ、二つではない。

 方々から生まれた水の筋が、雨に削ぎ落とされた霊子を含んだまま義衛門の方へ集まっている。足元へ辿り着くたび、義衛門を包む霊圧が僅かずつ厚みを増していった。

 盃はしばらくその流れを追った後、濡れた煙管を口元へ戻しかけてやめる。

 

「随分と性質の悪い雨じゃないか」

 

 義衛門は答えなかった。

 刀を垂らしたまま白砂を蹴る。

 盃が『逸軸』を跳ね上げた直後、振り下ろされた刃が激突した。腕へ走った衝撃に表情が僅かに強張り、足元の砂を抉りながら身体が押し込まれる。

 受け止めた刃の軸を横へずらし、義衛門の刀を地面へ逃がす。空いた脇へ回り込み、肩口へ返す刀を走らせた。

 義衛門は身体を捻ってかわし、ほとんど間を置かず横薙ぎへ繋げる。

 盃も軸をずらした。

 斬撃そのものは逸れる。

 だが、切っ先が胸元を浅く裂いた。

 

「……っ」

 

 後ろへ退き、濡れた衣へ指を当てる。血が雨水に薄く滲んだ。

『逸軸』が通用しないわけではない。

 ただ、力を通すために流した霊子まで雨に削がれている。その僅かな不足が、普段なら完全に外せるはずの軌道を残していた。

 盃が顔を上げる頃には、義衛門がもう間合いへ入っていた。

 刃が噛み合う。

 義衛門の剣に、奇を衒ったところはない。

 踏み込み、斬り、受ければ返し、外されれば足を運び直す。剣を愚直に積み重ねてきた者の動きが、真打によって膨れ上がる力を一切余らせず刃へ乗せていた。

 二合、三合。

 初めに受けた時より、明らかに重い。

 三度目の激突で盃の腕が沈んだ。

 押し込まれる前に『逸軸』を滑らせ、刀ごと義衛門の腕を外へ逃がす。その懐へ踏み込み、脇腹へ蹴りを叩き込んだ。

 義衛門の身体が横へ流れる。

 数歩で踏みとどまり、すぐに顔を上げた。

 効いていないわけではない。

 だが、先ほどより厚みを増した霊圧がその身体を覆っている。

 盃はそれ以上追わなかった。

 次の一撃を真正面から受け、軸を外へ逃がしながら背後へ回ろうとする。ところが踏み出した足が、想定より僅かに遅れた。

 濡れた砂に滑ったわけではない。

 瞬歩へ回した霊子まで雨に持っていかれている。

 その隙へ義衛門の肘が飛んだ。

 盃は咄嗟に腕で受けたが、衝撃で身体が浮く。空中で姿勢を立て直し、数間先の白砂へ着地すると、雨に濡れた煙管へ目を落とした。

 

「……ったく」

 

 火はほとんど消えかけている。

 

「さすがに吸ってる場合じゃないな」

 

 煙管を袖へ収めた。

 離れたところでは、火黒が抱えていた刀を下ろし、面白そうに戦いを眺めている。

 禽雀も目を離さない。その傍で懐は、禽雀の羽織の裾で雨を凌ぎながら、激しくぶつかり合う二人を見つめていた。

 鬼蜘蛛は、いつの間にか刀拾いを完全にやめている。

 義衛門から目を離さない。

 その視線の先で、雨の流れが変わった。

 義衛門の足元へ集まっていた水が、突然大きな渦を巻き始める。

 

「……ん?」

 

 盃が眉を上げた。

 義衛門が刀を持ち上げる。

 呼応するように、周囲へ溜まった雨水が白砂を巻き込みながら宙へ昇った。最初は一本の太い柱だったものが、さらに水を吸い上げながら膨らみ、次第に輪郭を持ち始める。

 地面を踏みしめる二本の脚。

 その上に巨大な胴が起こり、左右へ肩が張り出す。降り続ける雨が次々と吸い寄せられ、太い腕となり、頭部を形作っていく。

 やがて義衛門の背後に、濁った水と白砂から成る巨大な人影がそびえ立った。

 周囲からどよめきが起こる。

 火黒がその全容を追うように首を上げた。

 

「おいおい」

 

 鬼蜘蛛の目が大きく開く。

 盃もまた、巨体を見上げていた。

 義衛門が右腕を動かす。

 巨大な腕が同じように持ち上がった。

 僅かな遅れもない。

 義衛門が刀を構えれば、その背後で巨人も同じ構えを取る。

 

「『戴沱螺(だいだら)』」

 

 義衛門が一歩を踏み出した。

 巨体もまた足を上げる。

 その一歩が落ちた瞬間、濡れた白砂が大きく沈み、周囲へ泥と雨水が弾け飛んだ。

 義衛門が刀を振り下ろす。

 頭上で『戴沱螺』の腕も同じ軌道を描く。

 盃はまともに受けず、横へ大きく跳んだ。

 巨腕が白砂へ叩きつけられる。

 轟音とともに地面が沈み、泥と雨水が周囲へ吹き上がった。その飛沫を突き破って、義衛門自身が盃へ迫る。

 

「ちっ……!」

 

 振り抜かれた刀を『逸軸』で外す。

 義衛門の刃は脇へ逸れたが、直後、その動きに連なるように『戴沱螺』の腕が横薙ぎに迫った。

 盃は身を沈めてかわす。

 頭上を巨腕が通り過ぎ、巻き起こった風と雨水が髪を乱した。

 義衛門は止まらない。

 巨人を前面へ出して戦うのではなく、自身の剣と巨体の動きを重ねてくる。本人の刃を逸らせば、その先から巨大な腕が来る。巨体へ意識を割けば、義衛門の刀が懐へ入る。

 そのうえ、降り続ける雨は少しずつ盃の霊子を削り、奪った分を義衛門へ運び続けていた。

 盃は一撃を受け流し、その勢いを利用して義衛門の脇へ回り、そのまま斬りつける。

 義衛門は即座に刀を合わせた。

 鍔迫り合いになった刀の向こうで、暗い瞳が盃を睨んでいる。

 

「惨蔵殿は……」

 

 低い声が漏れた。

 

「死ぬべき人ではなかった」

 

 義衛門がさらに力を込める。噛み合った刃が軋み、盃の足元で濡れた白砂がゆっくりと沈んだ。

 

「死ぬべきかどうかを決めるのは、貴様か?」

 

 盃が刃越しに問い返す。

 義衛門はしばらく何も言わなかった。

 押し合っていた刀を弾き、数歩の距離を取る。背後では雨の巨人も、主の動きをなぞるように巨大な身体を起こした。

 

「……そうだな。決める権利はない」

 

 義衛門の刀が再び上がる。

 

「だが、お前は決めたな」

 

 暗い眼が盃を捉える。

 

「お前には、あるんだな」

 

 声に熱はなかった。先ほどまで荒れ狂っていた怒りが、冷えた刃のように細く研ぎ澄まされている。

 

「誰が死ぬべきか、誰を切り捨てるかを、決める権利が」

 

 盃の表情から、ほんの僅かに笑みが消えた。

 刀が下から跳ね上がり、『逸軸』が受ける。直後、『戴沱螺』の巨腕も同じ軌道で迫り、盃は受け切ることを諦めて後方へ跳んだ。

 巨腕が空を薙ぐ。

 風圧だけで雨が横殴りに流れ、着地した盃の足元を濁った水が走った。

 

 *

 

 雨の中で、二人はまだ刀を振るっていた。

 義衛門の一撃を盃が逸らす。その背後から巨人の腕が追いかけ、白砂を抉った。跳ね上がった泥水が雨に混じり、遅れて轟音が届く。

 懐はそれを、禽雀の傍からじっと見ていた。

 さっきまでとは違う。

 大虚はもういない。

 あれほど怖かった気配も消えて、刀を拾い集めていた鬼蜘蛛も、火黒も、皆もう戦わなくていいのだと思っていた。

 惨蔵が死んだ時には、息が苦しくなるほど泣いた。鬼蜘蛛に縋りつき、戻ってきた禽雀の胸にも飛び込んだ。

 それでも、しばらくすれば涙は止まった。鬼蜘蛛の刀拾いを手伝って、その途中には少し笑うこともできた。

 だからもう、終わったのだと思っていた。

 なのに。

 義衛門は怒っている。盃も刀を下ろさない。

 懐の眉が僅かに寄った。

 何を言い合っているのか、懐には難しかった。けれど、二人が互いを嫌っていることくらいは分かる。

 だから喧嘩をしている。

 嫌いなら、嫌いじゃなくなればいいのに。

 好きになれば、こんなことは絶対にしない。

 そうしたら、今度こそ終わる。

 

 ――じゃあ、そうしてあげようよ

 

 懐の指が止まった。胸の奥がざわつく。

 腰の守り刀へ手を伸ばしかけ、そのまま動けなくなる。

 よくない。なぜか、そんな気がした。

 雨の向こうで轟音が響いた。

 まだ続いている。

 懐はしばらく二人を見つめた。

 それから、抱えていた刀を手放した。

 

「懐?」

 

 禽雀がこちらを向く。懐は答えず、雨の中へ駆け出した。

 

「懐!」

 

 禽雀がすぐに手を伸ばす。

 その腕を横から鬼蜘蛛が掴んだ。

 

「っ、離してください!」

「見れるぞ」

「……は?」

 

 禽雀が振り向く。鬼蜘蛛は彼女を見ていなかった。

 雨の中を走っていく懐だけを、食い入るように見つめている。

 口元がゆっくりと吊り上がった。

 

「見れるぞ。やっと、あれが。愛喰(ちかばみ)が」

 

 禽雀の顔から血の気が引いた。

 懐は走った。

 数歩も進まないうちに、身体が重くなる。

『雨家盗(あまやどり)』の雨が肌を打つたび、身体の内側から力が抜けていった。

 足へ込めたものまで奪われるようで、濡れた着物も脚へまとわりつく。

 それでも前へ出る。

 足を取られ、白砂へ手をついた。膝が沈む。

 懐はすぐに起き上がった。

 息を吸うたび胸が痛んだ。腕も脚も重く、走っているつもりなのに思うように進まない。

 それでも、二人の姿は少しずつ近づいてくる。

 懐の顔には、ほとんど何の表情もなかった。

 ただ前だけを見ていた。

 先に気づいたのは盃だった。

 義衛門の刃を外し、そのまま次の一撃へ備えようとした視界の端に、小さな影が入る。

 雨の中を少女が走っていた。

 髪も着物も濡れきり、膝には白砂が張りついている。顔色も悪く、今にも倒れそうな足取りだった。

 それでも真っ直ぐこちらへ向かってくる。

 盃の目が細まる。

 少女の手が腰へ伸びた。

 

「まさか……っ」

 

 その声に義衛門も振り返った。

 

「なんだ……?」

 

 懐は二人の少し手前で足を止めた。

 肩で息をしながら、義衛門を見る。

 次に盃を見る。

 二人とも刀を持っている。

 まだ同じ顔をしている。

 懐は守り刀へ手を掛けた。

 

 ――大丈夫。できるよ。

 

 ゆっくりと鞘から抜く。

 小さな刀身へ雨粒が当たり、細かな水滴となって散った。

 懐はもう一度、二人を見る。

 ここまで来れば届く。

 そう思った途端、それまで強張っていた頬が、ふっと緩んだ。

 安心したように。

 嬉しそうに。

 ようやく、どうすればいいのか分かった子供の顔だった。

 

「落ちろ……」

 

 雨に掻き消されそうな声で告げる。

 

「『愛喰(ちかばみ)』」

 

 その瞬間、懐を中心に霊子が一瞬歪み、取り繕うように淡く漂った。

 

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