盃の目が見開かれる。
懐を中心に漂った柔らかな霊子は、『雨家盗(あまやどり)』の雨へ触れた端から削ぎ取られていった。
ここへ辿り着くまでに、懐自身も相当な霊子を失っている。
それでも、すべてを流し切れなかった。
雨の隙間を縫うように残ったものが、盃と義衛門の身体へ入り込んでくる。
「――っ」
義衛門への警戒は消えていない。
それなのに、その合間へ場違いなほど柔らかな感情が入り込んでくる。
目の前の男を、先ほどまでと同じようには見られなかった。
ほんの僅かに親しみを覚える。
身に覚えのない感覚に、盃のこめかみを冷たい汗が伝った。
正面では、義衛門も刀を構えたまま動きを止めている。
その背後で『戴沱螺(だいだら)』の輪郭が揺らいだ。
巨大な肩が崩れ、腕が水へ戻る。胴を形作っていた濁流も白砂を吐き出しながら形を失い、轟音を立てて地面へ落ちた。
「……」
義衛門が眉を寄せる。
惨蔵が死んだことは覚えている。
盃が何をしたのかも、自分がなぜ刀を向けたのかも忘れてはいない。
なのに、つい先ほどまで頭の中を埋め尽くしていた熱だけが遠ざかっていた。
目の前にいる盃への感情も同じだった。
憎い。
不愉快だ。
そう思っていたはずなのに、その輪郭がひどく曖昧になっている。
義衛門の刀が、ゆっくりと下がった。
その時、小さな金属音がした。
『愛喰(ちかばみ)』が懐の手から滑り落ちる。
刀身はすでに元の姿へ戻っていた。
続いて、懐の膝から力が抜けた。
身体が傾く。
「懐!」
禽雀が駆け出した。
白砂へ倒れ込む寸前で小さな身体を抱き留め、そのまま膝をつく。
「懐。……懐!」
返事はない。
全身ずぶ濡れで、泥と白砂に汚れている。力が完全に抜けきった身体は禽雀の腕へ預けられ、呼吸だけが浅く胸を上下させていた。
禽雀が頬へ触れる。
意識はない。
ただ、息はしている。
その事を確かめると、強張っていた表情がほんの僅かに緩んだ。
遅れて、義衛門も懐の方を見る。
そこで初めて、その姿をまともに目にした。
見覚えのない少女だった。
誰なのかも知らない。
けれど、着物へ張りついた白砂と濡れきった姿を見れば、どこから来たのかくらいは分かる。
自分の雨の中を走ってきた。
「……しまった」
小さく漏らし、刀を鞘へ収める。
義衛門が一歩近づこうとすると、禽雀が顔を上げた。
鋭い視線だった。
義衛門は足を止める。
何かを言うでもなく、そのまま刀から手を離した。
周囲も静まり返っていた。
『愛喰』の霊子を濃く浴びた者達の何人かは、禽雀に抱かれた懐から目を離せずにいる。
雨に濡れ、泥と砂に汚れ、意識すら失っている。
どう見ても弱々しい姿だった。
それなのに、妙に目を奪われる。
胸の奥へ残った柔らかな感覚が、その小さな姿へ勝手に結びついていた。
「……なんだ、あれ」
誰かが呟く。
少し間を置いて、別の声が続いた。
「……きれいだな」
「は?」
隣にいた者が怪訝そうに振り向いた。
言った本人も、自分で口にしてから戸惑ったようだった。
それでも視線は外れない。
禽雀の腕の中でぐったりと眠る懐を、ただ見つめている。
盃はそんな周囲の様子を横目で眺めていた。
自分の中にも、まだ微かに残っている。
警戒心の隙間へ紛れ込んだ、理由のない好意。
それが何なのか。
どこまで届くのか。
盃は僅かに目を細めた。
――面白い。
頭の隅へ留め、義衛門へ視線を戻す。
いつの間にか、雨は止んでいた。
*
義衛門はその場に立ったまま、しばらく盃を見ていた。
先ほどまで噴き出していた殺気は鳴りを潜めている。それでも、盃を見る眼まで穏やかになったわけではない。
「早蕨」
「……なんだ」
「実のところ、貴様のことはそれなりに知っている。いや――貴様というより早蕨か。何をして、何をされたのか。おおよそのところはな」
義衛門の眉が僅かに動く。
「戻ったところで、早蕨家はもうない。物部とて、以前と同じように貴様を迎え入れられるかは怪しい」
盃はそこで言葉を切った。
「なにより、一度罪人へ堕とした連中が、何事もなかった顔でそれを覆すと思うか?」
義衛門は答えない。
「まあ、これは貴様だけの話でもないがな」
盃が視線を巡らせる。
罪人達。護送の死神達。そして、帰還の準備を進めていた術者達。
「ここにいる連中は皆、戻らんものとして虚圏へ送られた」
幾つもの視線が盃へ集まった。
「もっとも――」
そのまま術者達を見る。
「帰った後を心配する前に、そもそも帰れるのかという話だが」
向けられた視線に、数人の顔が固くなった。
盃はそれを見逃さない。
「さっきから気になっていたんだ」
倒れた惨蔵へ目をやる。
「吉良惨蔵。あれほどの男が、大虚の群れ相手にずいぶん真打を出し惜しみしていたじゃないか」
誰も答えなかった。
「使えば、あそこまで手こずる必要もなかったはずだ。実際、奴の刀で遊んでいた小僧ですら、あの群れを虫けらみたいに潰していた」
少し離れた場所では、話に出された鬼蜘蛛がこちらを気にする様子もなく、拾った刀を眺めている。
盃は一度そちらを見てから、すぐに術者達へ視線を戻した。
「なら、使わなかった理由がある」
僅かな間。
「帰りに使うつもりだったんだろう? あいつの霊圧を」
沈黙が落ちた。
その一瞬で、周囲の空気が変わる。
護送の死神達まで術者へ目を向け始めた。
「……答えろ」
低い声が飛ぶ。
やがて、術者の一人が観念したように口を開いた。
「帰還に必要な霊力の大半は、吉良殿に担っていただく予定だった」
ざわめきが広がる。
「予備はある。だが、あくまで術式を維持するための備えだ。全員を戻せるだけの量はない」
「他に方法は」
死神の一人が詰め寄った。
術者はすぐには答えなかった。
盃の目が細くなる。
「あるんだな」
「……往路と同じ手段なら」
それだけで十分だった。
今度は一斉に、罪人達へ視線が向く。
盃が小さく笑う。
「なるほど。己らを使うか」
否定する者はいなかった。
その沈黙を確かめるように、盃は周囲を見回す。
「聞いて回ってみてもいいかもなぁ。わざわざ燃料になってまで、死にに帰りたい愉快な奴がいるかどうか」
罪人達から返るのは、冷え切った視線ばかりだった。
「さて、困ったな。どうやら貴様らも一蓮托生らしいぞ?」
「……ふざけるな」
護送側から低い声が上がる。
盃がそちらを見る。
「俺達は任務でここへ来た。大義がある。貴様らとは違う」
「そうか」
盃は鼻で笑った。
「その大義とやらで舟が動けば大したものだ」
男は押し黙った。
盃はもう興味を失ったように視線を外し、再び義衛門へ向き直る。
「もっとも、絶対に手がないとも限らん」
義衛門が眉を寄せた。
「なあ、早蕨。貴様なら、惨蔵の代わりを務められるんじゃないか?」
「……俺が?」
「あれだけ派手に霊圧を撒き散らせるんだ。試してみる価値くらいはあるだろう。術者にでも見てもらえばいい」
盃は肩を竦める。
「帰りたいなら、己らは阻まんぞ」
義衛門は何も言わなかった。
一度だけ、遠くにある三途渡しを見る。
つい先ほどまで、それだけを信じていた。
惨蔵が帰すと言った。だから、帰れるのだと思っていた。
その道がまだ残っているかもしれないと示されても、義衛門の口から答えは出なかった。
盃も急かさない。
しばらく義衛門を見たあと、ゆっくりと周囲へ向き直った。
「つまるところ――」
そこで一度、大きく両手を広げる。
「現状、我らは完全に詰んでいるという訳だ!」
声が白い砂漠へ広がった。
「帰る術はこの有様。戻ったところで歓迎される訳もない。かといって、ここへ残れば何がある?」
盃は果ての見えない白砂を見渡す。
少し前まで大虚の群れが押し寄せていた場所には、巨大な骸がいくつも転がっている。
一つ、指を立てた。
「さっさと諦めて、腹でも切ってみるか?」
二本目。
「その辺を彷徨っている虚の腹へ収まるか?」
三本目。
「それとも、己らを捨てた連中の慈悲に縋って、燃料になりながらこの泥舟で帰るか?」
立てていた指を下ろす。
「お前らはどうする?」
誰も答えない。
「どれを選ぶ?」
沈黙は続いた。
迷っている者。苛立っている者。盃が何を言い出すつもりなのかと警戒する者。
先ほどまで互いを罪人と護送役に分けていた者達が、今は同じ白砂の上で口を閉ざしている。
盃はその顔を一人ずつ眺めた。
やがて、大きく息を吸う。
「よく考えろ」
先ほどまでとは違う、低い声だった。
「よく考えて、決めろ」
一歩、前へ出る。
「己は考えたぞ。捕まるよりも、ずっと前からな」
口元がゆっくりと歪む。
「考えて、考えて――とっくに答えは出している」
顔を上げた。
「全部、クソ喰らえだとな」
何人かが顔を上げる。
「冗談ではない!!」
突然、怒声が響いた。
「己らがどれだけ心血を注いで今に尽くした!!」
白い砂漠を震わせるように、盃の声が飛ぶ。
「幾度命を焦がして、血潮を浴びた!! 心を削り、穢れに目を瞑り、それでも足を止めずに進んだ!!」
次第に声が荒くなる。
「背を預けた仲間の骸を置き去りにして――全てだ!! 全てを投げ打って、ほんの僅かでもマシな未来を見たかった!!」
周囲を睨み回す。
「そうだろ!! 己はそれが見たかっただけだ!!」
荒い息を吐いた。
肩が僅かに上下する。
そこで無意識に手が袖へ伸びた。
指先が煙管へ触れる。
一度は引き抜きかけ――止まった。
「……はっ」
短く笑う。
濡れた煙管を取り出し、そのまま足元へ放り捨てた。
「最初から、クソみてえな世界しか作らなかった連中に何かを期待した己が愚かだったんだよ!」
白砂へ落ちた煙管を踏み越える。
「やるなら、そもそも己自身で作れば良かったのだ!」
声がさらに大きくなる。
「ぶち壊してやりゃあいい!!」
先ほどまで黙っていた者達の視線が、一つ、また一つと盃へ集まっていく。
「お前らは気に入らないものがあったか!? 奪われたものは!? 許せんものは!?」
盃は笑った。
「あるだろう!? あるよな!? 己は腐るほどあるぞ!!」
一歩、さらに前へ出る。
「お前らだってあるに決まってるよなぁ!!」
両腕を広げた。
「なら壊させてやる!! 己がな!」
白砂を踏みしめる。
「思い通りにさせてやる!! 己がなぁ!!」
今度は、誰もすぐには言葉を返さなかった。