17、悪戯
虚圏に入った日からしばらく、舟ごと移動した先では慌ただしさが続いていた。
何せ、あの大演説ではっきり決まった物事など、実質ないに等しい。
それぞれの立場で話し合わなければならない事は山ほどある。
場の空気を掴み、盃が主導権を握れたのは確かだが、それだけで片付くほど人の群れというものは単純ではない。
談合への召集がかかった。
術者と護送の死神。それから罪人達のうち、話し合いに積極的な者。
当然、全員というわけではない。集まるのは二十人ほどになるらしい。
禽雀も参加していた。
盃の考えに賛同したからではない。
あの男は懐の力を、先へ進むための手段と言った。前提として懐の存在を組み込んだ計画を進めようとしている。
都合よく使い潰すつもりであるなら、禽雀もやり方を選ぶつもりはない。懐がこれ以上辛い思いをする事だけは避けたい。
そのためにも、自分の意思と立場だけははっきりさせておきたかった。
問題は、その間の懐だった。
「懐はここにいてね」
禽雀からそう言われた懐は、露骨に不安そうな顔をした。
「……姉様、行くの?」
「ええ。すぐ戻るから」
そう答えても表情は晴れない。
懐は少し迷った末、部屋の隅で刀を弄っていた鬼蜘蛛へ目を向けた。
「懐、くもくんといる」
「あ?」
鬼蜘蛛が顔を上げる。
禽雀は二人を交互に見てから、やや躊躇いつつも鬼蜘蛛へ向き直った。
「悪いけど、少しの間だけこの子と一緒にいてもらえないかな?」
「無理じゃ」
即答だった。
「犬っころと喧嘩する予定がある」
「……何なの、それは」
「一度きっちり上下のケジメをつけんといかん。牙を折って分からせんと図に乗っておる」
「……ってナマ抜かしてるクソガキに、目上への態度を躾けてやるための折檻だ」
少し離れたところにいた火黒が口を挟む。
鬼蜘蛛と火黒が睨み合った。
禽雀はその二人を、呆れた顔で見比べる。
「あなたも呼ばれましたよね?」
「あ? 行くとは言ってねえぞ」
「言っていましたよ」
「言ってねえ」
「生返事でしたが」
火黒が眉を寄せた。
「……いつだよ」
「召集を伝えられた時です。『あー、分かった分かった』と」
「……」
火黒の目が僅かに泳ぐ。
思い返しているらしい。
「あー……え、言ったか?」
「言いました」
鬼蜘蛛が横から頷いた。
「ならしゃあないな。約束は守れ。行くと言ったなら行け」
「てめえに言われたくねえんだよ!」
「わしは行かんと言ったし」
火黒はしばらく不満そうに鬼蜘蛛を睨んでいたが、やがて乱暴に頭を掻いた。
「あー、分かった分かった。行きゃいいんだろ」
「また言っとる。それ癖になっとるじゃろ? 学習せん犬じゃ」
「うるせえ!」
吐き捨てるように言って、火黒は先に部屋を出ていった。
禽雀はその背を見送り、改めて鬼蜘蛛へ向き直る。
「じゃあ、お願いしていい?」
「あー」
「……鬼蜘蛛」
「聞いとる聞いとる」
どうにも信用できない返事だった。
禽雀は懐の前へしゃがみ、その顔を覗き込む。
「懐。私が戻るまで、舟の外に出たらだめだよ」
「うん」
素直に頷いたのを確認してから、今度は鬼蜘蛛を見る。
「この子を外へ出さないでね」
「あー」
やはり軽い。
禽雀はしばらく疑わしそうに見つめていたが、いつまでもここにいるわけにもいかない。
「……本当にお願いね」
念を押して、ようやく部屋を出ていった。
足音が遠ざかる。
しばらくして、鬼蜘蛛が立ち上がった。
「よっしゃ。外行くか」
「え?」
懐が目を丸くする。
「外、出ないでって……」
鬼蜘蛛は一度だけ考えるように宙を見た。
「わし約束したっけ。してないよな」
それだけ言うと、何事もなかったように歩き出した。
「え、くもくん」
懐は閉じた扉と、その背中を交互に見る。
一人でここに残る。
そう考えたのは、ほんの僅かな間だった。
「ま、待って」
結局、慌てて鬼蜘蛛の後を追った。
*
背中いっぱいに刀を背負った鬼蜘蛛は、そのまま舟の中をずかずかと歩いていった。
積み荷や道具の整理をしていた者達とすれ違うたび、何度か声を掛けられる。
「おい坊主、またそんなに抱えてどこ行くんだ」
「外じゃ」
「そっか。刀落っことすなよ」
「おう」
鬼蜘蛛は足を止めることもなく返していく。
その後ろを懐がついて歩くと、今度は向けられる顔が少し柔らかくなった。
「嬢ちゃんも一緒か」
「うん」
「気ぃつけろよ」
懐が笑って頷けば、それ以上呼び止められることもない。
何度目かのやり取りを横目で見た鬼蜘蛛が、前を向いたまま言った。
「邪魔になると思ったがお前がいると話が早いな。便利じゃ」
「えへへ」
褒められたような、そうでもないような言葉に、懐は素直に頬を緩めた。
やがて舟を出る。
黒い空の下には、相変わらず白砂がどこまでも続いていた。
二人は特に急ぐでもなく、その中を歩いていく。
昨日試した刀の話。
舟の中で見かけた変な顔の男の話。
鬼蜘蛛が拾った刀の数を、懐が途中まで数えて諦めた話。
ひどく取り留めのない話をしながら進んでいるうちに、懐の歩幅が少しずつ小さくなっていった。
鬼蜘蛛が振り返る。
懐は遅れまいと足を動かしていたが、さすがに息が上がっている。
「うーん。もう少し離れたいとこだが、まぁここでええか」
「ご、ごめんね」
「ええ。座っとれ」
鬼蜘蛛は背中の刀をまとめて外すと、その場へばらりと広げた。
大小も長さも状態もばらばらな刀が、白砂の上へ散らばる。
懐は言われた通り、その近くへ座り込んだ。
「真打、『夜摩惹虚命(やまびこだま)』」
鬼蜘蛛が目を閉じ、集中するように呟く。
次の瞬間、全身へ血脈を思わせる赤い霊子が広がった。皮膚の上を這い、脈動しながら身体へ絡みついていく。
その現実離れした光景を、懐はぼんやりと眺めていた。
やがて鬼蜘蛛が目を開く。
白砂へ並べた刀を見渡し、さっそく一本を拾い上げた。
抜く。
名を呼ぶ。
使う。
次。
すでにいくつかは試していたらしく、扱いに慣れたものもあれば、まだ感触を確かめるだけのものもある。
やがて一振りを鞘へ収め、鬼蜘蛛が満足そうに頷いた。
「これ使い勝手いいな」
「うん。すごい」
少し離れた先では、白砂が大きく抉れている。
懐はその跡を見ながら、小さくぱちぱちと手を叩いた。
「くもくん、色んな事ができるんだね。すごいね」
ニコニコと向けられた言葉に、鬼蜘蛛はなぜか渋い顔をした。
「相性悪いもんはあるぞ。これとか」
刀の中から一振りを抜き出す。
「早駆けろ、『隔刺丸(かくしまる)』」
刀身が形を変え、鬼蜘蛛の手に残ったのは長い和弓だった。
「弓だ」
「あぁ、上手く使ってやれん」
遠くに立つ、白い枯れ木のようなものへ向けて構える。
弦を引き絞り、一射。
矢は勢いよく飛んだ。
そして狙った場所から大きく外れ、随分離れた白砂へ突き刺さった。
「チッ」
でかい舌打ちが鳴る。
懐が枯れ木と鬼蜘蛛を交互に見る。
鬼蜘蛛は手の中の『隔刺丸』へ目を落とした。
「すまんな。せめて当てられるようになるからな」
「頑張ってね」
「頑張る」
そう言って解放を解き、元へ戻った刀を鞘へ収める。
それからも何振りかを手に取り、試しては戻した。
懐はそのたびに目を輝かせたり、驚いたり、時には何が起きたのか分からず首を傾げたりしながら、飽きることなく眺めていた。
やがて、あらかた満足したのか。
鬼蜘蛛は最後の一振りを置くと、膝をぱんと叩いた。
「さて」
そして、ようやく懐の方へ向き直った。
急に顔を近づけられ、懐は目を丸くする。すぐに気恥ずかしくなったのか、少しだけ顔を背けた。
「な、なに?」
「本題じゃ。散々見せてやったよな? わしにも『愛喰(ちかばみ)』見せろ。使え」
「え……」
懐の表情が途端に曇った。
「……だめだよ」
「なんでじゃ」
「父上も、おじさまも、姉様も……使っちゃだめって」
遠慮がちに答える懐を見て、鬼蜘蛛は大げさに首を振った。
「かーっ! なんじゃお前。大人に駄目と言われたら、隠れて悪戯もせんのか。おもんない良い子ちゃんじゃなぁ。あーウブいウブい」
懐の頬がぷくりと膨らむ。
「そんな事ないもん! するもん! 父上のお顔にお絵かきした事だってあるもん!」
「あー、はは。そっかそっか。そりゃとんでもなくやんちゃじゃな。愛いこと愛いこと」
「バカにしてる!」
鬼蜘蛛はけらけらと笑った。
しばらくむくれている懐を眺めていたが、やがて興味を失ったようにむくりと立ち上がり、白砂へ広げた刀をまとめ始める。
「あーあ。わかった。使わんならもうええわ。あーあ、誘って損した。あーあ。あーあ」
「……」
露骨だった。
懐は涙目になりながら、遠くにある舟の方へちらりと目を向けた。
禽雀には駄目だと言われている。
それでも、鬼蜘蛛はもう刀を片付け始めていた。
懐は視線を落とす。
「……内緒にしてね」
鬼蜘蛛の手がぴたりと止まった。
「おう、約束する。はよはよ!」
まとめかけていた刀の束をその場へ放り出し、先ほどまでとは打って変わって目をぎらつかせながら懐へ迫る。
「ちかい!」
懐が慌てて身を引いた。
「でも、誰に使うの?」
「わしじゃろそりゃ」
「え?」
何を当たり前のことを聞いているのか、とでも言いたげな顔だった。
「……いいの? どうなるのか懐も分からないのに」
「知らんことなど気にせんでええ。なんかなった後に考えろ。さあやれ」
そう言って鬼蜘蛛は両腕を軽く広げた。
どこからでも来いとばかりの無防備な姿に、懐はしばらく迷っていたものの、やがて腰の守り刀へ手を伸ばした。
柄を握る。
一度だけ鬼蜘蛛の顔を確かめ、それから小さく息を吸った。
「落ちろ、『愛喰』」
その瞬間、懐を中心に霊子が一瞬歪み、崩れるように淡く漂った。
濃厚な善意が鬼蜘蛛へと流れ込む。
懐は心配そうにその様子を見守った。
鬼蜘蛛はじっと立っている。
しばらくして、首を傾げた。
「……ん? おい、ちゃんとやってんのか?」
「え、あれ、『愛喰』?」
今度は懐の方が戸惑う。
「……なんで? ちゃんとやってるよ?」
「もっと強くできんのか?」
「え、えと……力入れればいいの? こう? ん!」
そんな要求をされたことなど一度もない。
懐はとりあえず守り刀の柄を両手でぎゅっと握り込み、力を込めた。
霊子が濃くなったのかどうかは、本人にもよく分からない。
鬼蜘蛛もまた、自分の身体の内側を探るようにしながら首を傾げていた。
「……んー、うん。妙じゃな」
「ちゃんとやったからね?」
「おう。まぁそれは分かった」
鬼蜘蛛は顎へ手を当てた。
そのまま、あっという間に自分の世界へ沈んでいく。
懐はしばらく待っていたが、もうこちらを見てもいない鬼蜘蛛を確認すると、そっと『愛喰』を収めた。
自分からこんなふうに使ったのは、初めてかもしれない。
そして、使ったことを誰にも窘められなかったのも。
「……くもくん」
「あの時はそれなりの範囲で反応があった気がする。ましてや此度は弱まってもおらん。使い手の感情? 意思? いやしかし……相手を選ぶ? これか? だとしたら試したいが、誰か完全に骨抜きになっても構わんやつ……あのハゲ、犬、うーん……」
「……」
何を話しかけても、しばらくは聞いてくれそうになかった。
懐は小さく溜息をつくと、虚圏の黒い空へ目を向けた。
*
鬼蜘蛛が唐突に立ち上がった。
「そうじゃ」
「え?」
「そうじゃ、そうじゃった」
何度も自分の膝を叩きながら、これだとばかりに一人で盛り上がる。
「興味なかったから忘れとったわ。あのおっさん言っておったな」
懐がぽかんと見上げた。
「どうしたの? くもくん」
「化け物に使ったらええ。どうせここにゃ腐るほどおるんじゃし」
「ばけもの? なに?」
鬼蜘蛛は一瞬きょとんとした。
「ほら。昨日いっぱい来たじゃろ。でかいやつ」
「あれ?」
「あれじゃ」
あまりにも雑な説明だった。
懐が昨日の光景を思い出したのか、少しだけ顔を強張らせる。その様子など気にも留めず、鬼蜘蛛は白砂の向こうへ目を凝らした。
「もう疲れは取れたな? どうだ? まだ休むか? なんならおんぶでも抱っこでもするぞ?」
「自分で歩けるもん!」
勢いに押されるように懐が立ち上がる。
「そうか」
鬼蜘蛛はそれだけ言うと、懐の手を掴んだ。
「えっ」
そのまま、すたすたと歩き始める。
雑に手を引かれた懐は一瞬だけ足をもつれさせ、それから慌てて歩幅を合わせた。繋がれた手が気になって何度か視線を落とすものの、鬼蜘蛛はまるで気づいていない。
意識はすでに、広い砂漠の彼方へ向いていた。
歩きながら何度か顔を上げる。
右。
左。
また正面。
何か一つを正確に捉えているわけではない。ただ、広く浅く撒いた感覚のどこかに、引っ掛かりがないかを探っている。
しばらく進んだところで、鬼蜘蛛の足が止まった。
「……んー?」
「どうしたの?」
返事はない。
ある方向をじっと見ている。
懐もつられて目を凝らしたが、見えるのは白砂と、その向こうに重なる砂丘だけだった。
「なんかおる」
「見えるの?」
「見えん」
「え?」
「でもおる」
鬼蜘蛛はそう言うと、何の前触れもなく懐の身体を抱え上げた。
「く、くもくん!」
「暴れるな。落ちるぞ」
「先に言ってよ!」
「今言った」
「遅いよ!」
鬼蜘蛛は聞き流しながら、刀の束から一振りを抜いた。
再び全身へ赤い霊子が這う。
そのまま手にした刀へ霊圧を通した。
「縮め、『尺躍(しゃくやく)』」
刀身が姿を変える。
細長く平たいそれは、どこか鯨尺を思わせる形をしていた。
鬼蜘蛛が先端を砂丘の向こうへ向ける。
次の瞬間。
二人の姿が消えた。
トン。
少し離れた白砂の上へ現れる。
足が着くより早く、また消える。
トン。
さらに先。
トン。
一定の距離だけが、次々と抜け落ちていく。
走っているわけではない。
踏み込んでもいない。
そこからそこへ、間にあったはずの距離だけを丸ごと縮めるように、二人の位置が飛んでいく。
「わ……っ」
鬼蜘蛛の肩の上で、懐が目を見開いた。
振り返るたび、舟がみるみる小さくなっていく。
こんなに離れて大丈夫なのかという不安が胸を掠める。
それでも。
知らない砂漠を、鬼蜘蛛と二人で進んでいく。
次に何が出てくるのかも分からない。
そんな状況に、いつの間にか別の感情も混じっていた。
少しだけ、わくわくする。
一方の鬼蜘蛛は、移動そのものを楽しみながらも、意識だけは遠くへ伸ばし続けていた。
曖昧だった引っ掛かりが、一度飛ぶごとに濃くなる。
いる。
やはりいる。
もう間違いない。
鬼蜘蛛の口元に笑みが浮かんだ。
もう一度。
トン。
そして。
止まった。
「ほれ、おった」
懐を肩から下ろす。
その先にいたものが、ゆっくりとこちらを振り返った。
ギリアンとは違う。
だが、昨日現れた群れよりも明らかに濃い霊圧を持っている。
アジューカスとなってまだ間もなく、意思を得てからさほど時を経ていない一体。
名を――アマルガム。
白い甲殻のあちこちから、栗のイガを思わせる突起が不規則に飛び出しては引っ込んでいる。脚は落ち着きなく白砂を踏み、その奥に覗く赤い眼が二人を捉えた。
次の瞬間、敵意が剥き出しになる。
「食いがいのありそうなのが来ると思ったら、ずいぶん小せえなあ!! 腹減ってんのによお!!」
「おーおー、活きがいいことだ。うんうん」
鬼蜘蛛は満足そうに頷いた。
その隣で、懐はすっかり縮こまっていた。
*
鬼蜘蛛はそんな懐を間近から覗き込んだ。
「ほれ、やれ」
「え……」
顎でアマルガムを示されても、懐の身体は動かなかった。
目の前の巨大な虚から向けられる敵意に、守り刀へ伸ばそうとした手まで強張っている。
鬼蜘蛛が首を傾げる。
「届かんか?」
見当違いなことを口にした、その時だった。
白砂が弾けた。
いつの間に間合いを詰めたのか、アマルガムがすでに背後へ回り込んでいる。甲殻から無数のイガを突き出した腕が、二人まとめて薙ぎ払うように振り抜かれた。
鬼蜘蛛は懐を抱え、『尺躍』をすぐ横に向ける。
一瞬で距離が縮まり、二人の姿が飛んだ。
直後、剛腕が白砂を抉る。
「ほれ、向こうから近づいてくれた。この距離なら余裕じゃろ」
「……っ」
そう言われても、懐は半泣きのまま鬼蜘蛛へ縋り付くばかりだった。
アマルガムが苛立ったように唸る。
「ちょこまか逃げてんじゃねえぞ!!」
再び腕が伸びる。
鬼蜘蛛は『尺躍』でその軌道から外れながら、腕の中で震えている懐へちらりと目を向けた。
「ほんと弱虫じゃなぁー」
「だ、だって……」
「うーん」
どうしたものかと考えながら、もう一度迫った腕をかわす。
鬼蜘蛛の目がふと動いた。
「あ。あれいけるか」
「え?」
懐が顔を上げる。
その瞬間、アマルガムの剛腕が目前まで迫った。
鬼蜘蛛は懐を放り出した。
「きゃっ――」
白砂へ転がった懐の眼前で、無数のイガが鬼蜘蛛の身体を貫いた。
肉を裂く鈍い音。
赤いものが白砂へ落ちる。
「……え」
懐の顔から血の気が引いた。
胸を、腹を、肩を、何本もの太い棘が貫いている。
鬼蜘蛛の両腕から力が抜けた。
「くも……くん?」
返事はない。
アマルガムが愉快そうに口を大きく開いた。
「なんだぁ? 急に大人しくなったじゃねえか!」
串刺しになった少年の身体を持ち上げ、そのまま口元へ運んでいく。
懐の呼吸が荒くなった。
「くもくん……?」
開いた口へ、鬼蜘蛛の身体が放り込まれようとした。
「残せ、『通飼蝶(つがいちょう)』」
力なく垂れていた腕が動いた。
死んだと思っていた少年の目が、ぎょろりとアマルガムを捉える。
「――な」
その手に握られていたのは、虫ピンを思わせる細い刀だった。
鬼蜘蛛が腕を振る。
『通飼蝶』が、アマルガムの頭部へ深く突き刺さった。
赤い眼が大きく見開かれる。
巨体が、ぴたりと止まった。
消滅はしない。
倒れもしない。
大きく開いた口も、鬼蜘蛛を掴んだ腕も、そのままの形で固まっている。
「……よし」
鬼蜘蛛がにたりと笑った。
それから自分の身体を見下ろす。
アマルガムの腕から生えたイガが、まだ何本も身体を貫いたままだった。
「んっ……」
身体を捻る。
抜けない。
もう一度強く動くと、傷口が広がり、血がぼたぼたと落ちた。
「チッ」
「く、くもくん……?」
懐の震えた声にも構わず、鬼蜘蛛は適当な刀を一本引き抜いた。
躊躇はなかった。
まだイガに縫い止められている臓腑から下へ刃を走らせる。
「――っ、きゃああああっ!!」
懐の叫び声が白い砂漠へ響いた。
切り離された下半身を残し、胸から上だけになった鬼蜘蛛が白砂へ落ちる。
その身体を這っていた赤い霊子が、激しく脈動した。
失われた先へ向かって赤い脈が伸びる。
骨格をなぞるように。
肉の輪郭を描くように。
瞬く間に欠けた身体が補われていく。
すべてが元へ戻るまで、数秒も掛からなかった。
鬼蜘蛛はむくりと起き上がった。
腕を回す。
脚を曲げる。
軽くその場で跳ね、何の問題もないことを確かめる。
そして、青い顔のまま固まっている懐へ向き直った。
「ほれ、やれ」
さっきとまったく同じ台詞だった。
*
懐は返事もできず、目の前に立つ鬼蜘蛛と、少し離れた場所に残された血の跡を何度も見比べた。
確かに、鬼蜘蛛は立っている。
けれど、ほんの数秒前まで身体を貫かれ、自ら半身を切り捨てた光景が頭から消えない。
「……っ、う……」
唇が震えた。
堪えていたものが決壊し、涙が次々と溢れ出す。
「く、くもく……さっき、ち、血が……」
「なんだ。もうこいつ動かんぞ」
鬼蜘蛛は『通飼蝶』の刺さったアマルガムを指した。
懐はぶんぶんと首を振る。
「ちが……っ、うぅ……」
「あ?」
ようやく自分のことを言われているのだと気づいたらしい。
「あー、それな」
何でもないことのように腹を軽く叩く。
「『虚命』が折れん限りわしは死なん。逆もしかり。こいつとは一蓮托生じゃ」
「……え?」
泣き声が止まった。
懐は濡れた目のまま、鬼蜘蛛を見上げる。
「見たじゃろ。こいつさえ無事ならわしは戻される。死なん身体じゃ。命かけ放題じゃ。羨ましいじゃろ」
へらへらと自慢する鬼蜘蛛を、懐はしばらく黙って見つめた。
「……くもくん、死なないんだ」
「おお。また見せてやろうか? 代わりに『愛喰』を――」
「いなくならないんだ」
言葉にした途端、その意味が遅れて胸へ落ちてきた。
今まで、いなくなった人達は、もう戻ってくることはなかった。
泣いても、待っていても。
けれど鬼蜘蛛は、目の前であれほど血を流して、身体を失って、それでも何事もなかったように立っている。
この人は、いなくならない。
そう思った瞬間、張り詰めていたものがほどけた。
ぽろりと涙が落ちる。
安心したはずなのに、止め方が分からない。
次から次へと頬を伝い、懐はまた声を詰まらせた。
「……なんじゃあ? お前」
鬼蜘蛛は露骨に顔をしかめた。
「お前、泣きすぎじゃろ本当に。どっからその水分は湧いてくるんじゃ。ぜったい今でも寝小便してるじゃろ」
「っ……ふ、うぅ、じで、じでないもん」
「言い返せるなら上等じゃな」
これ以上待つ気もなくなったのか、鬼蜘蛛は泣いている懐をひょいと抱き上げ、そのままアマルガムの前まで連れていった。
「ほれ、触ってみろ。突いてもくすぐっても蹴っ飛ばしてもこいつ何もできん。やりたい放題じゃ」
懐は鼻をすすりながら、おそるおそる手を伸ばした。
指先が白い甲殻へ触れる。
硬く、冷たい。
反射的に一度手を引いたが、アマルガムは微動だにしない。
懐は隣の鬼蜘蛛を見る。
先ほどまで血まみれだった少年は、何事もなかったような顔で立っている。
もう一度、甲殻へ手を置いた。
今度はすぐには離さなかった。
「……生きてるの?」
「生きとるよ。止めとるだけじゃ。今もわしらを目の前になんもできんくて頭ん中煮え繰り返っとるんじゃないか?」
懐はアマルガムの顔を見上げた。
赤い眼は開いたまま、こちらを向いている。
怒っているのか、それとも別の何かを考えているのか。それすら読み取れないほど、全身が完全に静止していた。
甲殻の表面を、今度はそっと撫でる。
少し前まで近づくことさえ怖かった相手だった。
それでも、逃げ出そうとはしなかった。
ふと横を見ると、鬼蜘蛛が期待を隠そうともせずにこちらを見ていた。
懐はその顔と、腰の守り刀を交互に見る。
少しだけ背筋を伸ばした。
「落ちろ、『愛喰』」
淡い霊子が刀からこぼれ、アマルガムの白い甲殻へゆっくりと染み込んでいく。
鬼蜘蛛の表情が変わった。
自分に使わせた時とは違い、今度は一瞬たりとも目を離さない。
甲殻の隙間から覗く赤い眼を、食い入るように見つめる。
何か変わるのか。
一分。
二分。
さらに待つ。
だが、アマルガムは変わらず動かない。
鬼蜘蛛が腕を組む。
「……何も分からんな」
「えぇ?」
懐が思わず声を上げた。
あれほど真剣に観察していた割に、結論はあっさりしていた。
鬼蜘蛛はアマルガムの頭に刺さった『通飼蝶』へ手を伸ばす。
「抜くから向こう行ってろ」
「えぇっ!?」
「なんじゃ」
「だって、動くんでしょ?」
「抜けばな」
「危ないよ」
「だから向こう行けと言うとる」
「くもくんは?」
鬼蜘蛛がきょとんとした。
懐は眉を寄せる。
「大丈夫でも、ケガとか気をつけてね。心配になるから」
「あ? あー」
「……」
懐の顔がむっとする。
「しらない!」
ぷいと顔を背けながらも、言われた通り離れていく。
鬼蜘蛛は十分に距離が開いたことを確認すると、何の躊躇もなく『通飼蝶』を引き抜いた。
ぴくり。
アマルガムの指が動く。
肩が震え、甲殻の隙間から突起がゆっくりと伸び始める。
鬼蜘蛛は退かなかった。
むしろ一歩、前へ出る。
興味に満ちた顔のすぐ先で、赤い眼が動いた。
鬼蜘蛛を捉える。
「……」
「……」
しばらく、二人は無言で見つめ合った。
やがてアマルガムの口が開く。
「さっきは、悪かったな」
穏やかな声でそう言った。
鬼蜘蛛の両拳が、ぐっと握られた。