広く、薄暗い石造りの室内だった。
装飾らしいもの一つないその空間の中央で、二人の死神が向かい合っていた。
一番隊総隊長、山本元柳斎重國(やまもと げんりゅうさい しげくに)。
結い上げた黒髪の下には、鋭く吊り上がった眉と、額を斜めに走る一筋の傷跡。口髭を蓄えたその相貌には、これからなお幾多の戦を潜り抜けていくであろう壮健さが漲っている。
佩いた刀に手をかけるまでもない。
ただそこに立っているだけで、対峙する者の背筋を強張らせる圧があった。
その正面に立つのは、一番隊五席、玉依上総介(たまより かずさのすけ)。
実直を絵に描いたような男だった。
長く総隊長の傍らに仕え、剣の腕も人格も、多くの死神から信を置かれてきた。
だが今、その面からは常の落ち着きが失われている。強張った顔には隠しきれない緊張と、それ以上の後悔が滲んでいた。
問われているのは、滅却師(クインシー)の残党を匿った罪だった。
長きにわたる大戦を終えたばかりの尸魂界にとって、滅却師はいまだ記憶の中の敵ではない。つい先頃まで刃を交え、多くの死者を出した相手である。
その生き残りを、一番隊の席官たる上総介が密かに庇護していた。
「――馬鹿者め」
低く落ちた声に、上総介の身体が強張った。
「その行いが何を意味するか、分からぬ貴様ではあるまい」
それだけ告げると、山本は口を噤んだ。
上総介はその場に崩れ落ちるように膝をつき、額を石床へ擦りつけた。
「……申し訳ございません」
長年仕えてきた男を裏切った。
その事実の重さに、上総介自身が押し潰されかけているのは明らかだった。
しばらく沈黙が続いた。
やがて上総介が、ゆっくりと顔を上げる。
「先生。お願いがございます」
山本は答えない。
「私への沙汰は、いかようにも。ですが、娘だけは――」
「無理だ」
言葉を重ねる余地すら与えぬ即答だった。
「あの子はただ、見捨てられなかっただけです」
「娘が主導で手引きをしていた事実は、上へ話が届いている。儂が知るよりも先にな」
その一言で、上総介の顔から僅かに血の気が引いた。
膝をついた身体を支えるように、片手を床へつく。
「すでに先遣の者が捕縛に向かっておる」
「……私の首では、足りませんか」
「それで済むならば、そうしておる」
上総介は何も返せなかった。
己が責として死ねば済むと思っていた。
それで愛娘が生きられるならば、命など惜しくもない。
だが、それすら叶わない。
もう何をしてもどうにもならぬのなら――。
上総介は俯いたまま動かなかった。
ただ、膝の上で強く握り込まれた拳だけが、小刻みに震えている。
「先生」
ようやく絞り出された声は、弱々しく掠れていた。
しかし、顔を上げたその目は荒々しく血走り、見開かれている。
「……どうにも、ならないのですね」
山本は答えなかった。
上総介の右手が、ゆっくりと腰へ下りていく。
刀の柄へ触れる寸前で、その指が止まった。
幼い頃から剣を教わった。
死神としての在り方を教わった。
今の自分を作った男へ、これから刃を向けようとしている。
勝てるとは微塵も思っていない。
それでも、何もせず娘を諦めることだけはできなかった。
「恩を、仇で返します」
震えていた指が、柄を握る。
山本の目が僅かに細められた。
「……私は、あの子の父を、捨てられませぬ」
それ以上の言葉はなかった。
断腸の思いを刃へ乗せ、上総介がすべてを賭けて踏み込む。
山本もまた、弟子を迎え撃つべく刀を抜いた。
二人の刃が交わろうとした、その直前。
「――っ」
上総介の身体が止まった。
胸元から、血に濡れた切っ先が突き出している。
山本の視線がその向こうへ向く。
上総介の背後。
彼が最後まで気づくことのなかった死角から、吉良惨蔵瞑徳が姿を現していた。
上総介の背を貫いた刀が、静かに引き抜かれる。
力を失った膝が崩れた。
「……惨蔵、殿……」
倒れ込む身体を、山本が受け止めた。
薄れゆく意識の中で、上総介は山本を見上げる。
それから、惨蔵へ目を向けた。
「……先生……惨蔵殿……申し訳……ありません……」
その先は続かなかった。
師へ刃を向けたことも。
自分を斬る役目を惨蔵へ負わせたことも。
最後まで娘を捨てられなかったことも。
言葉にするには、もう時間が足りなかった。
「……懐……」
最後に娘の名だけを呼び、上総介は動かなくなった。
山本は腕の中の弟子を見下ろしたまま、しばらく口を開かなかった。
その顔からは、いつもの峻厳さが僅かに消えている。
「……なぜ儂に斬らせなかった、惨蔵」
「それが某の役目だからだ」
「儂の弟子だ。儂が斬るべきであった」
「ならば、後ろめたさを見せるな」
山本は答えなかった。
ただ、上総介の亡骸へ目を落とす。
「……馬鹿者が」
同じ言葉のはずだった。
だが、その響きは先ほどとはまるで違っていた。
惨蔵は刀を収めると、二人へ背を向けた。
「懐は某が連れてくる」
「……」
振り返ることなくそう言い残し、惨蔵は部屋を出た。
*
流魂街へ向かう道すがら、惨蔵の脳裏から上総介の最期が離れることはなかった。
己の手で背を貫いた感触。
崩れ落ちる身体。
そして最後に、娘の名を呼んだ声。
どれもまだ、ひどく生々しい。
玉依懐(たまより なつ)。
その名を思えば、どうしても上総介の傍らにいた幼い姿が浮かんだ。
初めて会ったのは、懐がまだ父親の腕へすっぽりと収まるほど小さかった頃だ。
『先生、惨蔵殿。娘の懐にございます』
そう言って娘を連れてきた日の上総介を、惨蔵はよく覚えている。
普段は実直を絵に描いたような男が、その日に限っては妙に口数が多かった。
『最近はよく笑うようになりまして。私が帰ると声を上げて喜ぶのです。それにこの間など――』
『上総介』
『はっ』
『聞いておらん』
『これは失礼を』
口ではそう答えながら、その顔には少しも反省の色がない。
腕の中にいる娘が可愛くて仕方がない。
普段の上総介を知る二人からすれば、呆れるほど分かりやすかった。
そんな父親をよそに、幼い懐は山本をじっと見上げていた。
鋭く吊り上がった眉。
額を斜めに走る傷。
ただ目を向けられただけで、大の男でさえ背筋を強張らせる相手である。
だというのに、懐は少しも怯えなかった。
『お父様の、おししょうさま?』
『……そうだ』
山本が答える。
すると、それだけで懐の顔いっぱいに笑みが広がった。
『おししょうさま! おししょうさま!』
父親の腕から身を乗り出し、小さな両手を山本へ伸ばす。
山本は眉間の皺をさらに深くして、上総介を見た。
『上総介』
『はい』
『どうすればよい』
『抱いていただければ』
珍しく狼狽えて冷や汗を流す山本に、惨蔵は思わず小さく笑った。
すると今度は、懐がこちらを見る。
『おじさま!』
『……某のことか?』
とぼけた疑問が零れると、幼子はきゃっきゃと惨蔵に関心を移す。
山本へ伸ばされていた手が、そのまま今度は惨蔵へ向けられる。
上総介は嬉しそうに娘を差し出した。
『懐は惨蔵殿もお好きなようです』
『会ったばかりだろうに』
『子供の考える事は分からんもんです』
何がそれほど嬉しいのか、声を上げて笑いながら、惨蔵の黒衣を小さな手で掴む。
離すつもりはないらしい。
山本と惨蔵を前にしても、怖がるどころか、父親から親しい者だと教えられただけで何の疑いもなく懐いてくる。
上総介はそんな娘を、ただ幸せそうに見つめていた。
その顔を。
惨蔵は今でも覚えている。
――その男を、某が斬った。
そこで記憶が途切れた。
胸の奥に残る苦味をじっくりと噛みしめながら、惨蔵はただ流魂街へ歩みを進めた。
*
集落へ辿り着いた頃には、先遣隊が到着してから相当な時間が過ぎていた。
だというのに、遠目に見える家々に荒れた様子はない。
戦後も各地に潜伏していた滅却師の残党を匿っている――そう聞かされていた場所にしては、あまりにも穏やかだった。
事前の報告によれば、玉依懐に抵抗の意思はない。
匿われている滅却師達も、敗戦を認めず戦を続けるために集った者達ではなく、行き場を失って流れ着いた者が大半だという。
ならば、捕縛そのものはとうに済んでいてよい頃合いだった。
惨蔵は無言のまま集落へ足を踏み入れ――眉を寄せた。
軒先に死神が座っている。一人ではない。
集落の男と肩を並べ、その向かいには滅却師がいた。
誰の手にも縄はなく、抜刀している者もいない。何やら話し込んでいたらしく、惨蔵が近づく直前まで小さな笑い声さえ聞こえていた。
視線を巡らせる。
あちらでも、こちらでも同じだった。
住民と、死神と、滅却師。
捕らえる者と捕らえられる者であるはずの三者が、その境目を失ったように混じり合っている。
「……何をしておる」
低い声が落ちた。
途端に空気が変わる。
「さ、惨蔵殿!」
先遣隊の死神達が、弾かれたように立ち上がった。
つい先ほどまで談笑していた滅却師を庇うでもなければ、今さら捕らえようとするでもない。
自分達が何をしに来たのか、突然思い出したような顔をしている。
惨蔵はその中の一人へ目を向けた。
「状況を報告しろ」
「はっ。抵抗はありません。集落の者達も、我々の指示には従っております」
「そうか」
惨蔵の視線が、男の脇を抜ける。
滅却師はまだ座ったままだった。
「では何故、そやつらは縛についておらん」
「それは……」
「説明せよ」
返事が鈍った。死神は困ったように滅却師達へ目を向ける。
規律を忘れたわけではない。
何を問われているのか理解できぬわけでもない。
それでも少し迷った末に出てきた言葉は、
「……抵抗の意思もない者を、縛る必要まではないかと」
だった。
惨蔵の目が僅かに細まる。
玉依懐については、ここへ来るまでに幾つか妙な報告を受けていた。
敵味方を問わず、人が集まる。
長く傍にいる者ほど、娘へ好意的になる。
誰が言い出したのかも定かではない、それだけを聞けばどうという事もない。
人柄の良い娘である。
その程度で説明のつく話とも思えた。
少なくとも、この光景を見るまでは。
「……娘はどこだ」
「中で休んでおります。上総介殿のことをお伝えしてから、ずっと――」
死神が言い終えるより先に、家屋の戸が開いた。
現れたのは、小柄な少女だった。
淡い紫の着物に、濃い色の帯。
黒へ紫を溶かしたような長い髪を高い位置で一つに結い、白い髪飾りの下から零れた髪が頬を縁取っている。
腰には、短刀ほどの小さな刀が差されていた。
惨蔵の記憶にある幼子は、もうそこにはいない。
それでも面差しには、昔のままのものが残っていた。
本来なら、人と目が合えばよく笑う娘だった。
自分から騒ぎ立てる性質ではない。それでも人を警戒せず、声を掛けられれば素直に応じ、親しい者を見つければ嬉しそうに寄ってくる。
その娘の目は、今は赤く腫れていた。
頬にも、何度拭ったのか分からぬ涙の跡が残っている。
懐が顔を上げる。
惨蔵を見つけた。
「……惨蔵おじさま?」
昔と同じ呼び方だった。
その一言を口にした途端、懐の顔が歪む。
「おじさま……っ」
駆け寄ってくる。
「お父様が……お父様が……っ」
そのまま惨蔵の胸元へ縋りつき、黒衣を握り締めた。
小さな肩が、嗚咽のたびに震えている。
惨蔵はそれを見下ろした。
幼い頃から、何度そうしたか分からない。
泣けば頭を撫でてやった。
転べば起こしてやった。
上総介が忙しい時には、膝へ乗せたことすらある。
自然と上がりかけた手が、懐の髪へ触れる寸前で止まった。
「懐」
「……はい」
泣きながら、懐が顔を上げる。
「お前の父を斬ったのは、某だ」
黒衣を掴んでいた指が止まった。
何の音もなかった。
懐はただ、惨蔵を見上げている。
やがて腫れた目から、新しい涙が一粒落ちた。
「……お父様は」
掠れた声だった。
「懐を、庇われたのだと、聞きました」
惨蔵は答えない。
「おじさまにも……お辛いことを、させてしまいました」
一度、息を詰まらせる。
「懐のせいです。ごめんなさい……ごめんなさい……」
惨蔵の胸の奥が軋んだ。責められた方が、まだ容易かった。
父を斬ったと告げた相手に、謝られている。
その涙を前にして何も感じぬほど、惨蔵も枯れてはいない。
だが、抱き締めて慰めることもしなかった。
代わりに、周囲へ視線を向ける。
住民達が懐を見ていた。
滅却師達も。
先遣隊の死神達も。
涙を拭っている者までいる。
そこまでは、まだよい。
問題は――。
惨蔵と共に、たった今この集落へ入ったばかりの死神まで、いつの間にか痛ましげに懐を見つめていたことだった。
「……なるほどな」
誰にも届かぬほど小さく呟いた。
その時、懐の腰に差された刀が目に入る。
「おい」
「はっ」
先遣隊の一人が背筋を伸ばした。惨蔵は刀を顎で示す。
「何故、持たせておる」
「……それは」
今度こそ、部下の顔から血の気が引いた。
視線が懐と刀の間を行き来する。
「母君の形見だと、伺いまして……その」
惨蔵は黙って額へ手を当てた。
「貴様らは、一体何をしに来た」
「……申し訳ございません」
叱責はそれだけにした。惨蔵は懐へ向き直る。
「懐。その刀を寄越せ」
「はい」
迷いはなかった。
懐は腰から小刀を外し、鞘に収めたまま両手で差し出した。
惨蔵も手を伸ばす。
距離が縮まる。
その途中で、違和感に気づいた。
近づくほどに、何かが濃くなっている。
霊圧、と呼ぶにはあまりにも柔らかい。殺気もなければ、敵意もない。
あと僅かで鞘に指が触れる。
そこで、惨蔵の手が止まった。
――心地よさが浸透してくる。
長く張り詰めていたものをほどき、そのまま身を委ねてしまいたくなるような穏やかさが、小さな刀の中から満ちている。
優しい。あまりにも。
憎悪も、執着も、狂気も、恐怖も見てきた。
それらが人を狂わせることなら、嫌というほど知っている。
そのどれとも違う甘やかな気配『善意』を前にして、惨蔵はその抵抗も警戒も難しい厄介さを知った。
伸ばした手を戻す。
「……よい。そのまま持っておれ」
懐が僅かに首を傾げた。
「ただし、抜くな」
「はい」
素直に刀を腰へ戻す。
先ほど叱責された死神が、何とも言えない顔でこちらを見ていた。
当然だった。武器を取り上げずに何をしていると叱った男が、いざ己で取り上げようとして止めたのだから。
惨蔵はその視線を無視した。
己まで甘きに流されている可能性を今は否定できない。
「滅却師は全員、縛につけ」
声を張る。
「匿うことへ深く関わった者もだ」
「はっ」
今度は誰も迷わなかった。
滅却師達も住人も抵抗をしない。
差し出された手へ、次々と縄が掛けられていく。
「……すまない」
一人の滅却師が、共に捕らえられる男へ頭を下げる。
「俺達が来なければ、お前達までこんな目には」
「いいんだよ。気にすんな」
男は笑って首を振った。
「あんた達だって、行くところがなかったんだろ」
別の場所では、縄を打たれながら死神へ「迷惑を掛けるね」と頭を下げる者がいる。
謝られた死神の方が、苦い顔で目を逸らした。
捕らえられた住民の一人は、同じように縛につく滅却師の女へ、自分の上着を掛けてやっている。
助けられた者が助けた者を案じる。捕らえられる者が捕らえる者にまで気を遣う。
誰一人として、自分だけ助かろうとはしない。
善き者達しかいないその美しい光景が、惨蔵にはひどく不気味に映った。
無垢な善意ばかりが、あまりにも綺麗に噛み合いすぎている。
「行くぞ」
惨蔵が告げる。
「はい。惨蔵おじさま」
懐は素直に従った。
縄は掛けなかった。必要がないと判断した。
荷支度も時間を与えてさせた。苦労するだろうと配慮した。
なぜそこまで手心を加えたかは、惨蔵本人も考えすらしなかった。
*
集落を離れる直前だった。
懐はふと足を止め、腰の小刀を外した。
胸元へ抱き寄せる。
「よかった……」
泣き腫らした目を伏せる。
「一緒にいていいんだって。『愛喰(ちかばみ)』」
誰の耳にも届かぬほど、小さな声だった。
その背後から、柔らかな白い腕が伸びる。
惨蔵にも。
死神達にも。
滅却師達にも見えていない。
女の白い腕が、懐の小さな身体を後ろから包み込んだ。
幼子をあやすように抱き締め、その頬へそっと顔を寄せる。
「懐」
甘く、慈しむ声が囁いた。
「ずっと一緒だからね」
その心地よい腕の中で、懐は小さく頷いた。