「さっきは、悪かったな」
アマルガムがそう言った瞬間、鬼蜘蛛の両拳がぐっと握られた。
「……よし」
弾けるように立ち上がり、ニヤニヤとあくどい笑みを浮かべる。
「やっぱ効いとるぞ。見立て通りじゃ。虚にも効いたぞ、『愛喰』」
「う、うん……」
少し離れたところで見守っていた懐は、未だ状況を呑み込み切れていない様子で頷いた。
先ほどまで自分達を喰おうとしていた虚が、今は何事もなかったように鬼蜘蛛と向き合っている。
鬼蜘蛛はそんなアマルガムの周囲をぐるりと回った。
「おい、どうじゃ。わしを殺したいか? うざいか?」
「いや、別に。ちょっとうざい」
「喰いたいか?」
「腹は減ってるけど、お前らはもういい」
「ほほう」
顎へ手を当て、しばらく観察する。
やがて満足したのか、大きく頷いた。
「よし。お前、今日からわしの舎弟じゃ」
「……なんでだよ」
「わしがお前を倒したからじゃ」
あまりにも当然のことのように言い切られ、アマルガムが黙る。
しばらく考え込んだ末、巨体が僅かに傾いた。
「……まあ、倒されたのは事実だからな。それでいいが」
「はっはー!」
鬼蜘蛛はますます気を良くした。
「わしのことは、あにさんと呼べ」
「はぁ、あにさん」
「……いい響きだ」
満悦だった。
その横で、懐がアマルガムを見上げる。
「懐は、懐っていうの。お名前は?」
「あ?」
アマルガムは少しだけ顔を下げた。
「アマルガムだ」
「あまるがむ?」
「ああ」
懐は一度その名を口の中で転がすように繰り返し、それから嬉しそうに笑った。
「じゃあ、がむくん」
「……くん?」
鬼蜘蛛が横から、くっくっくとニヤニヤしている。
「悪くないな、舎弟。急に愛い奴に見えてきた」
「うるせえな、あにさん」
「どこぞの犬と違って学ぶのが早いようじゃ。よしよし」
鬼蜘蛛はますます上機嫌になり、アマルガムの甲殻をばしばしと叩いた。
「そういやお前、腹すかしとるんじゃったな。どこぞで飯でも調達するか」
「この辺いねえぜ」
「ふむ。まぁどっか適当に」
鬼蜘蛛は答えながら、白砂の向こうへ目をやった。
気づけば、舟はとうに見えない。
来る時は『尺躍』で一気に距離を縮めてきたが、今度は懐もいる。試したいこともだいたい済んだ。
「そろそろ戻るか」
「姉様……」
懐が思い出したように小さく呟く。
その顔から、先ほどまでの楽しそうな色が少し引いた。
「……怒ってるかな」
「ばちばち怒っとるじゃろうな」
「やっぱり?」
「外出るな言うとったじゃろ。ブチぎれてるに決まっとるわ」
「くもくん……」
「なんじゃ」
「くもくんが行こうって言ったんだよ」
「おう。お前もほいほい来たな」
「……そうだけど」
懐がしょんぼりと俯く。
鬼蜘蛛は気にも留めず、散らばっていた刀をまとめ始めた。
「まぁ気にすんな。説教なんぞで人はくたばらん。少しの間、退屈なだけじゃ」
「怖いよぉ……」
「はっ、雑魚め」
そんな二人を、アマルガムが見下ろしていた。
「舟って、どっちだ」
鬼蜘蛛が適当な方向を指差す。
「あっち」
「遠いのか?」
「結構」
「乗るか?」
鬼蜘蛛の手が止まった。
「ほお? 足になってくれるんか?」
「そのくらいなら付き合ってやる」
巨大な掌が白砂の上へ差し出される。
鬼蜘蛛の目が輝いた。
「舎弟、使えるではないか!」
「がむくん、ありがとう」
「いいさ、あねさん」
鬼蜘蛛とお揃いのような呼ばれ方に、懐の頬がほころんだ。
二人が掌へ乗ると、アマルガムはゆっくりと立ち上がる。
懐は甲殻の縁へ手を掛け、少し高くなった景色に目を丸くする。
「わぁ……」
「落ちるなよ」
「うん!」
「わしは落ちても平気じゃぞ」
「あんたにゃ聞いてねえよ、あにさん」
「生意気じゃのう。愛い奴め」
鬼蜘蛛は機嫌良く笑い、懐もつられて笑った。
そうして三人は、舟へ向かって白砂を進んでいった。
*
「……という訳じゃ。洗いざらい吐いたし、もう正座崩してええか?」
「駄目」
即答だった。
鬼蜘蛛の顔が露骨にしかめられる。大きな舌打ちも鳴った。
舟の一室。
床には鬼蜘蛛と懐が並んで正座させられていた。
向かいには禽雀。
笑っていない。
「懐も?」
「懐も」
「……はい。ごめんなさい」
懐はしゅんと肩を落とし、膝の上で指をもじもじと動かした。
鬼蜘蛛はまだ納得がいかないらしく、自分の痺れ始めた足をちらちら見ている。
「おい、不服申し立てる。虚に効いたぞ。これはでかい成果じゃ。しかも舎弟までできた」
「結果の話はしていません」
「帰っても来た。あねさんの大事な懐に傷一つつけずにな」
「一つでも傷があれば、この程度で済ますはずもないけど」
禽雀の視線が鋭くなる。
鬼蜘蛛は口を閉じた。
懐もびくびくと背筋を伸ばす。
「懐」
「……はい」
禽雀が静かに名前を呼ぶ。
「姉様が何を言ったか、覚えてる?」
懐は俯いた。
「……外に出ないでって」
「覚えていたのに、出てしまったの?」
「……はい」
「鬼蜘蛛について行きたかったから?」
少し迷う。
それでも、懐は小さく頷いた。
「……一人が嫌で」
禽雀はそこで初めて、ほんの僅かに息を吐いた。
「心配した」
懐の肩がさらに縮こまる。
「戻って来なかったらどうしようって。本当に、怖かった」
「……ごめんなさい」
懐は膝の上へ視線を落としたまま、素直に謝った。
鬼蜘蛛が横からその顔を覗き込む。
「解決じゃな。もういいか? まったく、巻き込まれて散々じゃ」
「鬼蜘蛛」
「はい」
今度は鬼蜘蛛まで姿勢を正した。
*
どうやら、例の小僧は禽雀から相当な大目玉を食らったらしい。
義衛門が姿を見つけた時には、説教そのものはもう終わっていた。
今は声を掛けない方がいいかもしれない。そう思って少し離れたところから様子を窺ってみたが、心配はまるで要らなかった。
鬼蜘蛛は床に何振りもの刀を並べ、口笛など吹きながら一振りずつ手入れをしていた。堪えた様子など欠片もない。むしろ機嫌すら良さそうで、刃を翳して眺めては、満足げに布を滑らせている。
その姿にしばらく迷ってから、義衛門はようやく近づいた。
「……あ、あー、その」
「あ?」
口笛が止まり、赤い頭が上がった。
正面から顔を合わせるのは、これが初めてだった。
「……鬼蜘蛛、でいいか?」
「あぁ」
素っ気ない返事だったが、追い払う様子もない。
義衛門はその傍らへ目を落とした。
何振りもの斬魄刀に混じって、探していた一振りがある。
「その『九ツ』なんだが……少しの間、貸してもらえないか」
「まぁええけど――」
鬼蜘蛛の手が伸びかけて、止まった。
何かに気づいたように義衛門を見る。
「……代わりに始解見せてくれ。真打しか見てなかった」
「始解?」
「おう」
思いがけない条件だった。
義衛門は鬼蜘蛛の顔をしばし眺めたが、それ以上を要求してくる様子もない。
「……まあ、それなら」
刀を抜く。
解号と共に『落涙』が姿を変えると、鬼蜘蛛の目が露骨に輝いた。
真打とは違う。
刃の周りを流れる雨を食い入るように眺め、角度を変えろだの、もう少し近くで見せろだのとひとしきり騒いだ末、ようやく満足したらしい。
「よし」
それで取引成立、とばかりに『九ツ』を差し出してきた。
義衛門は両手で受け取った。
少し離れたところへ腰を下ろし、膝の前へ静かに置く。
あの時、帰れるとは思っていなかった。
何もかも奪われ、罪まで着せられ、最後には世界の外へ捨てられた。あとはここで死ぬまで生きるしかないのだと、半ばそう思っていた。
惨蔵が、自分達を密かに帰そうとしていたと知ったのは、その後だ。
結局、その願いは叶わなかった。
それでも。
帰れるかもしれないと、ほんの一度でも思わせてくれた。
己達を見捨てていない者がいたのだと知れた。
それだけで、あの時の義衛門は救われた。
目を閉じ、静かに手を合わせる。
何を祈るでもなく、ただ長く頭を下げていた。
「……そんだけ熱心に手ぇ合わせられんなら、あのおっさんも捨てたもんじゃないんじゃな」
不意に声が落ちてきた。
義衛門は目を開き、鬼蜘蛛を見る。
「惨蔵殿を知っているのか?」
「まぁな。あのおっさんにふんじばられて今ここにおる」
「……そうだったのか」
義衛門は僅かに目を伏せた。
会議の場で交わされた言葉が、頭をよぎる。
惨蔵を殺した者達と、それを許せない者達。あの場には、まだ消えていない感情がいくつも燻っていた。
「お前も、惨蔵殿を恨んでるのか?」
「いや、ぜんぜん?」
あまりにも軽い返事に、義衛門が顔を上げる。
「最近までは恨んどったな。刀全部取られたし」
「最近まで?」
「くくく」
疑問に答える代わりに、鬼蜘蛛は妙に機嫌よく笑った。
義衛門の前に置かれていた『九ツ』をひょいと取り上げ、そのまま一息に真打まで解き放つ。
足元へ広がった影が揺れた。
次の瞬間、その中から刀が一振り、二振り――ばらり、ばらりと吐き出される。
「盗られた刀、全部入っとった」
鬼蜘蛛は得意げに影を指差した。
「そんで収納までできるときとる。いくら拝み倒しても足りん」
言うなり『九ツ』を抱え込み、頬ずりまで始める。
義衛門はしばし何も言えず、その様子を眺めた。
やがて、苦笑いが漏れる。
惨蔵への評価がそんな理由でひっくり返る者がいるとは、さすがに思っていなかった。
鬼蜘蛛は何事もなかったように『九ツ』を戻すと、また別の刀を手に取った。
磨き始めたその横顔を見ながら、義衛門はふと尋ねる。
「お前みたいな子供が、なぜ流刑のような目に遭うことをして捕まったんだ?」
「あぁ、殺しじゃ」
布を動かす手すら止めず、鬼蜘蛛は答えた。
義衛門の眉が動く。
だが、驚きは長く続かなかった。
真打で見せた、あの異様な光景を思い出せば、この少年が見た目通りの存在でないことくらいは分かる。
「……理由を聞いてもいいか?」
「かたき討ち? ……ぬー、なんじゃろな。渡世の義理というか」
今度こそ、義衛門は意外そうに鬼蜘蛛を見た。
渡世の義理。
そんな言葉とは、最も縁遠そうに見える。
鬼蜘蛛はその視線を気にするでもなく、傍らへ手を伸ばした。
そこに立てかけられていた一振りを取る。
『九ツ』の影へ放り込まれた他の刀とは違う。
いつでも手を伸ばせば届く場所に、最初から置かれていた刀だった。
「『べっこう飴』って刀じゃ」
鞘を軽く叩く。
「昔けっこう世話になった女のもんじゃ。腹が減って死にそうなのを何回か救われた」
「……その人は」
「偉い奴に殺されたんだと。迫られてたのを断り続けてたら、かどわかされそうになったらしい。抵抗したら殺されたんじゃと」
鬼蜘蛛の声には、怒りも悲しみも滲んでいなかった。
ただ、知っていることをそのまま並べている。
「ほんでまた腹が減って死にそうになった時あってな」
『べっこう飴』へ目を落とす。
「今あいついたらわし腹減ってねえよな、と思ったらむかっ腹が立って。捨てられてた『べっこう飴』に聞いて、あいつ殺した奴殺したんじゃ」
「…………」
義衛門は少し引いた。
仇討ちと聞いた時、自分にもどこか重なるところがあるのかと思った。
今となっては、その考えを取り消したかった。
むしろ一緒にされたくないとすら思う。
そんな義衛門の胸中など知る由もなく、鬼蜘蛛は話は終わったとばかりに『べっこう飴』を元の場所へ戻した。
別の刀を取り、また黙々と磨き始める。
しばらく、布の擦れる音だけが続いた。
「……お前は」
義衛門が口を開く。
「向こうに戻りたいと思うか?」
「あ? いや、どっちでも」
即答だった。
「何かないのか? 会いたい人とか、やりたかったこと。残してきたもの……未練は」
「ないな」
鬼蜘蛛は刀身の曇りを確かめながら答える。
「刀があればいい」
「……そうか」
義衛門はその横顔を見た。
何も持たないからなのか。
何にも縛られないからなのか。
それとも、そもそも自分とはまるで違うところに立っているのか。
「強いな。お前は」
「お前もたいがい強かったぞ」
間髪を入れず返ってきた。
義衛門は一瞬、目を瞬かせる。
どうやら、まったく別の意味で受け取られたらしい。
それが妙に可笑しくて、身体のどこかに入っていた力が少しだけ抜けた。
「くもくーん」
廊下の向こうから声が飛んできた。
鬼蜘蛛の手がぴたりと止まる。
次いで、見るからに嫌そうな顔になった。
「はぁー。面倒な保護者持ちが来よった」
肩を落とす。
ほどなくして懐が駆けてきた。その少し後ろを、禽雀が歩いてくる。
義衛門は彼女の顔を見た途端、先ほどまでとは別の意味で居心地が悪くなった。
一瞬迷い、それでも立ち上がる。
「……その節は、すまなかった」
「あ、はい」
禽雀もまた、どう返したものか困ったように顔を逸らした。
惨蔵を巡って互いに思うところがないはずもない。
だが、ここで何かを言い合うには、どちらもあまりにばつが悪かった。
「がむくんは?」
そんな二人を綺麗に無視して、懐は鬼蜘蛛の隣へしゃがみ込んだ。
「帰っちゃったの?」
「いや。盃の旦那にどっか連れてかれた」
鬼蜘蛛はまた刀を磨き始めている。
「悪いようにはしないって、悪い顔で言っておったな」
「ふーん?」
懐はよく分からないまま首を傾げた。
その気の抜けるようなやり取りを挟み、禽雀と義衛門の視線が合う。
あの男は、次に何をするつもりなのだろうか。
二人は同時に、不穏な気配を察していた。
*
「実はここに越してきたばかりでな」
「あ、あぁ……」
子供二人が連れ帰ってきた収穫と、盃は真正面から顔を突き合わせていた。
アマルガムは落ち着かなそうに座っている。
目の前の男は笑顔だった。
ただし、鬼蜘蛛が言った通り、どうにも悪い顔をしている。
「ご近所さんに挨拶したいところだが、あいにく土地勘がない」
盃は人好きのする笑みを浮かべたまま、頬杖をつく。
「だから、この辺りの情勢を、知ってるだけ教えてもらえるか?」
「情勢……?」
「難しく考えなくていい。どこにどんな奴がいるとか、ここには近づかない方がいいとか。その程度だ」
そこで、ほんの少し笑みが深くなる。
「特に、強い奴の話は聞いておきたいな」
アマルガムは盃の顔を警戒するように見ていたが、やがて考え込んだ。
「……強い奴なら、いる」
「ほう」
盃の目が細くなる。
「ここら一帯を自分の縄張りだって言い張ってる。そこに住んでる奴らも、勝手に自分の舎弟ってことにして、好き放題暴れてる奴だ」
「そいつは強いのか?」
「強い。馬鹿みてえに」
アマルガムは顔をしかめた。
「普通の虚とも違う。自分で仮面を割ったとかなんとか……見た目も、あんたら死神とそう変わらねえくらいだ」
盃の笑みが、そこで変わった。
先ほどまでの愛想のいいものではない。
何か面白いものを見つけた時の顔だった。
「名は?」
「知らねえ」
「知らん?」
「本人が名乗ってんのは聞いたことねえよ」
アマルガムは少しだけ言葉を探し、続けた。
「でも、みんなそう呼んでる」
「何と?」
「――おろち」
盃はしばらく黙っていた。
やがて。
喉の奥から、堪えきれないような笑いが漏れた。