「……いや、悪い。話を戻そう」
どうにか笑いを収めた盃は、目尻に滲んだものを指で拭ってから、改めて一同を見渡した。
「最初の標的が決まった」
盃の声に、部屋の空気が変わった。
「――『大蛇』。まずはこいつを落とす」
「大蛇?」
黒駒が眉を寄せる。
「でかい蛇の虚だそうだ。もっとも、普段は人の姿をしているらしいがな」
「そりゃ虚なのか? 化け物ならいくらでも見てきたが」
「己に聞くな。直接見たわけじゃない」
盃は肩を竦めると、陣兵へ顔を向けた。
「どうなんだ、壬剣。死神なら、そういう虚にも覚えがあるんじゃないか?」
「……人の姿をした虚か」
陣兵は少し考えた。
「俺も実際に見たことはない。だが、虚は力を増すほど人に近い姿になる、という話は聞いたことがある」
「へえ。ってことは強えのか?」
火黒が身を乗り出した。先ほどまでの眠気は、とうに消えている。
「一概には言えんが、侮ってよい相手ではあるまいよ」
「実際、アマルガムは歯が立たなかったそうだ」
盃が口を挟む。
「ガキ共が連れ帰った虚だ。昔、大蛇と出くわしたことがあるらしい。大虚になりたての頃とはいえ、戦いにもならず、石ころでも蹴るように吹っ飛ばされたとさ」
「……いいじゃねえか」
火黒の口元が吊り上がった。
「大蛇はこの辺り一帯を縄張りだと言い張ってるらしい。しかも一ヶ所だけじゃない。あちこち渡り歩いちゃ、見込みのある連中を集めて舎弟にしてるそうだ」
「舎弟……」
禽雀の視線が、火黒と鬼蜘蛛へ向いた。
「あ?」
「なんじゃ」
「……いいえ」
怪訝な顔をする二人から、禽雀はそっと目を逸らした。
黒駒が鼻を鳴らす。
「随分と傍若無人な親分だな」
「あんたが言うと説得力があるな」
「一緒にするな阿保たれ」
「まぁ、大蛇本人もそうだが、その下の連中も丸ごと頂きたい。そこそこ腕の立つ奴が揃ってるなら、なおさらな」
「アマルガムとやらも舎弟なのですよね? ではあまり期待できないのでは?」
一美が首を傾げた。
「あいつは大雑把に括られてるだけらしい。ある程度戦える奴だけを正式に舎弟と認めてるんだとよ。席官程度と渡り合えるなら上等。あるいは己らでも苦戦するなら万々歳だがな」
「たかが舎弟に一々苦戦していては先が思いやられますな」
「ははっ、手厳しいな。だが、その通りだ。そんな情けないザマで尸魂界への報復もなかろうよ」
盃は笑いながら頷いた。
「それに、まさか化け物共の巣へ子供を放り込んで、友達になってこいと頼むわけにもいかんからな」
そう言って、懐へ目を向ける。
「まずはきっちり上下を分からせる。その上で穏便に仲良くなる。それが筋ってもんだろう?」
「『愛喰』ですか」
禽雀が口を開いた。盃が頷き、今度は鬼蜘蛛を顎で示す。
「アマルガムにはもう効いてるそうだ」
「効いてるって、どんな感じなんだよ」
火黒に訊かれ、鬼蜘蛛がぼんやりしていた顔を上げた。
「最初わしで試したんじゃが、よう分からんかった。化け物ならいけるかと思ってな」
禽雀の眉間に皺が寄る。
「……あなたに使ったなんて、聞いてないけど」
「おい、説教ならもう聞いたぞ」
「鬼蜘蛛」
「知らん知らん知らん」
全力で顔を背ける鬼蜘蛛に、禽雀が額へ指を当てた。
「まあ、その辺は後でやってくれ」
盃が苦笑しながら間に入る。
「会った時はこいつらを喰う気だった。それが今じゃ、鬼蜘蛛を『あにさん』、懐を『あねさん』だ。わざわざ掌に乗せて運んできたらしい」
「性格まで変わったのか?」
黒駒が問う。
「腹が減れば虚を喰うし、口も悪い。根っこは変わらん。ただ、実に都合よく絆されている」
「そりゃそうじゃ」
椅子の背に預けていた身体を起こして、鬼蜘蛛が口を挟んだ。
興味なさげだった顔から、ぼんやりとしたものが薄れていく。
「あれは、元からあるもんに染み込んどる。元が変わるわけじゃない」
「染み込む?」
「溶ける……違うな。じゅわっと入る感じじゃ」
鬼蜘蛛は眉を寄せ、言葉を探した。
「ひっくり返しとるわけじゃない。隙間に入って少しいじくる。『愛喰』が良いようにな。がむも変わってる自覚はない」
自分自身よりも『愛喰』のことを理解しているかのように語る鬼蜘蛛を、懐は静かに見つめていた。
「随分ちゃんと見てるじゃないか」
「刀じゃからな」
当たり前の顔で、鬼蜘蛛は答えた。
「ならば、力が強ければ効かぬ、という話でもないのか?」
義衛門が腕を組んだまま問う。
「抵抗はあるが効くぞ。旦那にも兄さんにも通ってたじゃろ」
鬼蜘蛛は虚空を見て、にへらと表情を緩ませた。
思い出すのは、死の手前で会話を交わした惨蔵の様子だった。
「あのおっさんはなぁ、ありゃあ、だいぶ溶けてたな。自覚以上にやられとった」
くっくと喉の奥で笑いながら出たその話に、禽雀の顔から、僅かに表情が消えた。
「固かったじゃろ、あのおっさん。警戒もしてたな? それでも、ずっと前からやられてた。たぶん芯までな」
さもおかしな話を共有するように語る鬼蜘蛛とは対照的に、部屋は静まり返った。
陣兵の顔が、僅かに強張った。
「……ご本人にも、そこまでの自覚はなかったと?」
「絆されてるくらいはあったかもな。だとして関係ない。骨抜きじゃ」
鬼蜘蛛はあっさりと答えた。
陣兵は、返す言葉を失った。
禽雀は黙ったまま懐を見る。懐は居心地が悪そうに、視線を床へ落としていた。
「抗う前に入られるわけか」
盃が独り言のように呟く。
「んー、そこがまだ分からん。受けてはみたが変わった感じもないしな。これで入られてるなら、もっと面白いなぁ」
まだ考え足りないとでもいうように、鬼蜘蛛は首を傾げた。
「その、『大蛇』にも通ると?」
一美が尋ねる。
「そいつのこと知らんから知らんよ」
身も蓋もない答えに、一美が僅かに目を瞬いた。
「……ま、まぁ、惨蔵を基準にするなら、随分高いところまで見込めますな」
「そうね。……あの男でそうなるのね」
鳴子が神妙に零した言葉の重みは、惨蔵という男をよく知る者ほど分かった。
陣兵は口を閉ざしたまま、先ほどより険しい顔で懐を見ている。義衛門も腕を組み、自身が受けた時のことを思い返しているのか、視線を宙に置いていた。
盃はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷く。
「知らんなら知らんで十分。試す価値は見出した。やらん理由はなくなったな」
盃が頷くと、ひとまず『愛喰』の話はまとまった。
「なぁ、懐」
椅子の上で膝を抱えていた鬼蜘蛛が、不意に顔を上げた。
「真打ならどうなんじゃ? いけるんか?」
懐の顔から、さっと血の気が引いた。
「……え?」
禽雀が振り返る。
懐は何も答えない。
「鬼蜘蛛、何を言ってるの? 懐は真打なんて――」
「使えるじゃろ? たぶん」
その目は確かめるというより、すでに分かっていることを本人へ訊いているようだった。
懐はますます俯き、禽雀の背へ隠れるように身を寄せる。
その反応に、禽雀の言葉が止まった。
「……ほお」
盃が低く声を漏らす。驚いたというより、何かが一つ繋がった時の顔だった。
「なぜそう思った」
「刀と近すぎる」
鬼蜘蛛は即答した。
「近い?」
「あぁ。そういう奴は大体できる」
あまりに感覚的な答えだった。盃はそこを掘り下げず、自分の胸元を指差す。
「では、己もそう見えるか」
「あぁ」
「早蕨は」
「見えるな。えー……」
鬼蜘蛛は気の抜けた声を漏らしながら、一同へ視線を巡らせた。
その目が、夢枕蔵人のところで止まる。
「お前と――」
「待て」
盃が遮った。突然話の矛先を向けられた蔵人が肩を跳ねさせる。
周囲の視線が集まる。居心地悪そうに目を泳がせ、最後には助けを求めるように盃を見た。
「言わなくていいぞ」
「あ?」
「懐もそうだろうが、言わないのは言わないなりの理由がある。己らみたいに見せびらかすのが好きなのばかりでもないからな」
「ふーん。分かった」
鬼蜘蛛はあっさり引いた。
椅子の上で膝を抱え直し、好きな話が終わって退屈になったように、またぼんやりとした様子へ戻る。
一方、懐の顔色は戻らなかった。皆の視線を避けるように俯き、青い顔のまま床を見つめている。
禽雀は、その様子を黙って見ていた。
鬼蜘蛛の言葉より、懐自身の反応が気にかかる。自分の知らない何かがある。
問いかけようとして、やめた。
代わりに盃へ目を向けると、向こうもすぐに気づく。
「なんだ?」
盃は懐を一瞥してから、禽雀へ視線を戻した。
「懐は貴様の領分だ。気にはなるが、どうするかは貴様が決めたらいい」
追及する気はないらしい。禽雀は少し考え、隣にいる懐の肩へ手を置いた。
「保留にしてください。今すぐに知る必要は、ないはずです」
「ああ。分かった」
盃は頷くと、改めて一同を見渡した。
「さて、大蛇の話に戻そう。居場所までは分からんが、アマルガムが出くわした場所なら分かっている。まずはそこを起点に動く」
「全員で向かうのか?」
陣兵が尋ねた。
「いや、最初は少数だ。死ぬ心配のない面子で挨拶する。そこである程度の情報がまとまればあとは手分けだ」
「それは気を付けないとですね。生かさず殺さず油断せずですな」
当然のように自分も選ばれるつもりでいる一美に、盃は呆れたように笑った。
「まぁ己らはこの土地の客じゃない。侵略者だ。使える奴は生かしておきたいが、舐められてまで手加減する必要はない。初っ端から間抜けな死にざま晒すくらいなら、徹底的に暴れろ」
盃はさらりと言ってのけた。
陣兵が訝しげに眉根を寄せる。
「……随分と乱暴なやり方だな。どちらが化け物だか」
「人としての死に様を選ばせなかった貴様らが言えた口か? お前も乗ると決めたならせいぜいこちらに付き合え」
盃の口元が吊り上がる。
「上手くすりゃ、向こうから大蛇が顔を出してくれるかもしれん」
「はっ、面白そうじゃねえか」
火黒が楽しそうに笑った。
「おい、最初から殺すつもりでやるなよ。使えそうな奴はなるべく残したいんだ」
「大丈夫だ。使えそうな奴なら死なねえはずだ」
「……お前さんに任せると、戦力が残りそうにないな」
盃は苦笑したがそれ以上は言わなかった。
ひとまず、探索の方針はまとまった。
「それと、もう一つ」
盃は禽雀へ目を向けた。
「さっきの話だが、『愛喰』についても引き続き試したい」
そこで、禽雀の傍らにいる懐へ視線を移す。少女はまだ俯いたままだった。
「懐に協力してもらえると助かるんだが」
禽雀はすぐには答えず、隣の懐を見た。
「それも、後日お答えします」
「ああ、分かった。返事を待つ」
盃は頷き、一同を見回す。
「今日はこんなもんだろ。誰を連れていくかは追って伝える。終いだ」
それを合図に、張っていた空気がほどけた。
それぞれが席を離れていく。火黒は待ってましたとばかりに大きく伸びをし、鬼蜘蛛はだらだらと立ち上がって、ふらふらとどこかへ消えた。
禽雀はすぐには立たなかった。今日出た話を、頭の中でもう一度辿る。
隣を見ると、懐はまだ俯いていた。会談が終わったことにも気づいていないのか、両手を膝の上で強く握りしめたまま、床を見つめている。
「懐」
呼ぶと、肩が小さく跳ねた。
ゆっくり顔を上げた懐は、目が合った途端、何かを言おうとして、結局何も言えずに唇を閉じる。
禽雀も、問いかけなかった。今ここで聞かないと、決めたばかりだ。
ただ、その怯えた顔を、見なかったことにはできない。
「疲れたでしょう。戻って、少し休みましょうか」
禽雀が立ち上がると、懐も慌てて後を追った。その指が、縋るように禽雀の袖を掴む。
袖越しに伝わる指先が僅かに震えている。
気づかなかったふりをして、少し緩めた歩調で懐と共に部屋を出た。