その日の宴は随分と豪勢なものだった。
大皿にはまだ湯気の立つ肉が盛られ、色鮮やかな野菜や川魚、見慣れぬ珍味までが所狭しと並んでいる。酒も上等なものばかりで、徳利を傾ければ芳醇な香りが立った。
弾正盃(だんじょう さかずき)はその中でも一際上等そうな酒を見つけると、勝手に封を切って盃へ注いだ。
「おお。こりゃ美味いな」
「そりゃそうだろ。見ろよ、その銘」
「知らん」
「お前なぁ……」
呆れた声を聞き流し、盃はもう一口含んだ。
知らずとも美味いものは美味い。それで十分だ。
広い座敷には十数人の男女が思い思いに腰を下ろしていた。姿も年齢もばらばらで、揃いの装束を着ているわけでもない。それでも互いに遠慮する様子はなく、料理を取り分け、酒を注ぎ合い、時には皿ごと奪い合って笑っている。
「こうしてると昔を思い出すな」
誰かがぽつりと言った。
「どの昔だ」
「お前がまだ、何を見てもつまらなそうな顔してた頃だよ」
「今も大して変わらんだろう」
「よく言う。昔のお前はもっと酷かったぞ」
何人かが笑った。
盃も否定はしなかった。
昔の盃は退屈していた。
貴族ではない。それでも父はそれなりの力を持つ男で、幼い頃から生活に困ったことはない。貴族の子弟と顔を合わせる機会もあり、流魂街の荒れた土地を目にすることもあった。
死神になってからも同じだった。
与えられた仕事は大抵こなせた。剣を振れば人より早く身につき、鬼道を学べば教えられた以上のことまで分かった。真面目に取り組まなければ追いつけない相手がいるならまだしも、そこまで盃を駆り立てる者には滅多に出会えない。
当時の尸魂界は、後世ほど秩序だった世界ではない。
元流を興した山本重國が護廷十三隊を形作るより以前、各地には大小様々な武装勢力が点在し、力によって物事が決まることも珍しくなかった。
それでも盃にはまだ足りなかった。
「そういや、最初に人を集めたのも暇だったからだったな」
「暇だったからではない。話の通じる奴が少なすぎたんだ」
「同じようなものだろ」
「違う。暇潰しなら貴様なんざ呼ばん」
「帰るぞこの野郎」
笑い声が広がった。
盃も肩を揺らしながら煙管を手に取った。
最初は本当にそれだけだった。
身分も所属も関係ない。自分の考えを持つ者が集まり、互いに好き勝手なことを言う。相手の意見が気に入らなければ反論し、面白ければ認める。才のある者にはもっと上を目指せと焚きつけ、伸び悩む者には手を貸した。
そうしているうちに、一人では味わえなかったものを知った。
人は変わる。
昨日まで自分の背を追っていた者が、いつの間にか横に並ぶこともある。時には思いもよらない考えをぶつけられ、自分の方が考えを改めることさえあった。
それが存外に愉快だった。
「……まあ、悪くはなかったな。あの頃は」
煙を細く吐きながら盃が言う。
「なんだ、急にしみじみしやがって」
「昔話を持ち出したのは貴様らだろう」
盃は笑いながら煙管を置き、再び酒を取った。
やがて酒の席で交わされていた言葉は、否応なく現実へ引きずり出されることになる。
滅却師との大戦。
各地に点在していた武装勢力も、貴族も、死神も、それまでのしがらみを抱えたまま戦火へ呑み込まれていった。
盃達も例外ではなかった。
誰かから隊を預けられたわけではない。気づけば人が集まっていた。
普段から意見を交わし、時には喧嘩までしていた者達が盃の言葉を聞き、さらにその知己が加わった。戦が長引くにつれて人数は増え、いつしか盃は一団を率いて戦場を駆けるようになっていた。
「覚えてるか。あの馬鹿みたいなこと言ったの」
一人が笑った。
「どれだ。馬鹿みたいなことなら山ほど言ったぞ」
「ほら。最初の大戦の時だ。これから死ぬかもしれねえってのに、お前だけ笑ってた」
「ああ」
盃も思い出したらしい。
あの日も今と同じように笑っていた。
目の前には滅却師の軍勢がいる。既に少なくない死者が出ており、次の戦場から何人戻れるかも分からない。
それでも盃は誰より前に立った。
『いいか! この戦は変わり目だ!』
後ろに並ぶ者達を振り返る。
『ここで功をあげて生き延びないのは馬鹿だ! 死んだら指差して笑ってやるぞ、貴様ら!』
酷い激励だった。
それでも誰かが吹き出した。
別の誰かが「てめえが先に死ぬなよ!」と怒鳴り返し、やがて皆の目に覚悟が灯った。
そして盃は、その誰よりも先に敵陣へ飛び込んだ。
「……よく生きてたな、俺達」
「言っただろう。死ぬ奴は馬鹿だと」
「死んだ奴の前でも同じこと言えるのか?」
「言ったぞ」
「言ったのかよ」
笑いながら何人かはもうここにいない者の名を口にした。
盃も覚えていた。
あの戦で死んだ者達を。
初代護廷十三隊が猛威を振るい、各地から集った強者達もまた死力を尽くした。長く凄惨な戦いの果て、滅却師との大戦は死神達の勝利で終わった。
多くを失った。
それでも生き残った者達には、その先があるはずだった。戦で荒れた土地を立て直し、失われたものを埋め、新しい時代を作っていく。
少なくとも盃達はそう思っていた。
「……あの頃は信じてたな」
誰かが呟いた。
今度は笑う者がいなかった。
盃は黙って煙管を口へ運んだ。
戦が終わる。
護廷十三隊を中心として、新たな秩序が形作られていく。
それ自体は否定しない。
各地の武装勢力が好き勝手に力を振るう時代なんていつまでも続いていい訳がない。
統べる者が必要なら置けばいい。貴族という立場が世を動かすために必要なら、それも構わない。
問題は、そこにどういう者が座るかだ。
戦場で命を懸けた者もいれば、戦後の復興に力を尽くした者もいた。戦が終われば、今度は空いた席と権益を巡る争いが始まった。
誰がどれだけ戦い、何人を救い、荒れ果てた土地を立て直したのか。
そんなものより、誰と繋がっているか。誰が邪魔なのか。誰を失脚させれば自分達の取り分が増えるのか。
盃がかつて鼻で笑っていた、名を持つだけの膿。
それが戦の終わった世界で急速に肥え始めていた。
「……で、挙げ句が三途渡しか」
別の男が吐き捨てる。
盃は煙管を灰皿へ軽く打ちつけた。
「便利な話だろう」
口元だけで笑う。
「戦で力を持ちすぎた。言うことを聞かない。殺すにも都合が悪い。なら虚圏へまとめて放り込んでしまえ。ってな。都合のいい話だ」
「その中に自分から入ろうって奴の方がどうかしてると思うがな」
「だから面白いんだろうが」
盃は悪びれもせず、空になった盃を差し出した。
「おい、注げ」
「てめえでやれ」
「冷たい奴だなぁ」
そう言いながら自分で徳利を取る。
「しかし、聖女まで入れるとはなぁ」
その言葉に盃の手が僅かに止まった。
『流魂街の聖女』などと、市井で嘯かれる少女の事だ。
「玉依懐か」
「ああ。まだ餓鬼だろう」
「まったく恐ろしい男だな、盃。いたいけな娘まで己の野望のために利用するとは」
「言い方に悪意があるぞ」
「どこがだ。事実だろう?」
周囲から忍び笑いが漏れた。
盃は煙管を咥えたまま片眉を上げる。
「保護だ保護。己ら良い大人が大事にして導いてやらんでどうする」
「物は言いようだな」
「保護もする。利用もする。何か問題があるか?」
「開き直りやがった」
今度ははっきりと笑い声が上がった。
誰も本気で盃を咎めているわけではない。
玉依懐(たまより なつ)はまだ幼い少女だった。
父が娘を庇った末に命を落とし、当の懐まで手に余る危険な存在として流刑の憂き目にあう。
その扱いに思うところがあるのは盃だけではなかった。
計画のためにその力は利用する。だからといって使い潰すつもりはない。
虚圏へ渡った後も自分達の側へ置き、守り、必要ならば教え導く。その程度のことは当然だと、この場にいる者達は考えていた。
盃は煙管を指先で弄びながら、ふと笑みを薄くした。
「それにな。あの娘については少々気になる」
「能力か?」
「ああ」
紫煙を細く吐き出す。
「話に聞くに、本人の力量と起きている現象がまるで釣り合っていない」
それだけなら、ここまで気には留めなかっただろう。
だが盃には一人、思い当たる男がいた。
「俵山紋太夫(たわらやま もんだゆう)」
その名が出ると、何人かの顔から僅かに酔いが引いた。
「あれは酷かったな」
「ああ。酷かった」
盃はあっさり同意すると、大皿から骨付きの肉を一つ取った。
俵山は元より抜きん出た死神ではなかった。始解すら満足に扱えず、少なくとも盃が知る限り、真打など遥か先にいる男だった。
それが滅却師との戦の最中に姿を消した。
逃げたのか。迷ったのか。どれほどの間を彷徨っていたのか。
飢えと渇きで痩せ細り、生き延びるためなら口へ入るものを選ばなくなっていた。
そして、そんな俵山を盃が見つけた時、男は滅却師達を貪っていた。
「あは、まぁた美味そうが来たぞ──『生贄(なまにえ)』」
笑った男から噴き上がった霊圧を、盃は今でも覚えている。
最初に抱いたのは恐怖ではなく疑問だった。
積み重ねた技量がない。それに見合うだけの霊圧もなく、何より盃の知る俵山紋太夫には、そこへ至るまでに必要だったはずの過程そのものが存在していない。
それなのに男は、その先──真打へ至っていた。
本来なら長い研鑽を重ね、己の真へ辿り着いた者が手にするはずの領域を、俵山は何か別の方法で踏み倒していた。
「腹が減った。ただそれだけだ」
盃は手にした肉へ歯を立て、骨を掴んだまま強く引いて噛み千切った。
「そんなありふれた思いすら、突き詰めれば人食いの化け物を作り出す狂気になりうる」
ゆっくりと咀嚼して飲み込む。
「そして乱世ってのは、その狂気が実によく熟す」
「……聖女も同じだと?」
「さあな」
盃は骨を皿へ放った。
「俵山は飢えた。あの娘は人を好く。それだけ見れば正反対だ」
煙管を取ると、僅かに口角を上げた。
「だが、どちらも度が過ぎれば……なんてな」
まだ仮説に過ぎない。
長い研鑽を積み上げ、自らの斬魄刀を知り、己を知った末に真を打つ者がいる。その一方で何か一つの感情や欲求を常軌を逸するほど膨れ上がらせ、本来そこへ至るまでに必要な過程そのものを踏み倒して己の真を剥き出す者もいるのではないか。
盃自身、まだ答えを出したわけではなかった。
「まぁ、お前らも十分に気を引き締めておけ。聖女の他に俵山のような外れた者がいても決しておかしくない。虚でも体制でもなく、身内の暴走に殺されたら笑い話にもならんからな」
「縁起でもねえこと言うな」
盃は笑った。
その時だった。
廊下の向こうから足音が聞こえた。
宴席にいた者達の何人かが顔を上げる。だが立ち上がる者はいない。武器を取る者もおらず、そもそもこの場には一振りの刀すら置かれていなかった。
盃だけが足音のする方へ目を向けると、煙管を咥えたまま小さく笑った。
「──来たか」
襖が開く。
現れた男──吉良惨蔵瞑徳(きら さんぞう めいとく)は、開かれた襖の前で足を止めた。
目に入ったのは宴席だった。
つい先ほどまでこの屋敷の主が客人をもてなすために用意させていたのであろう料理が並び、その中央で盃達は何食わぬ顔で酒を酌み交わしている。
次に、首。
畳の上には、いくつもの生首が無造作に転がっていた。
広がった血はすでに乾き始めている。
いずれも惨蔵には見覚えがあった。
名を持ち、それなりの地位にあった貴族達だ。その中にこの屋敷の主も混ざっていた。
「……随分と寛いでおるな」
「見れば分かるだろう。宴の最中だ」
盃は座ったまま答えた。
惨蔵の視線が室内を巡る。
誰も刀を持っていない。隠し持っている様子もなく、惨蔵が姿を現したというのに霊圧を高める者さえいなかった。
「酒は飲むか?」
「いらん」
「そうか。良い酒なんだがな」
残念そうに言って、盃は自分の盃を満たした。
惨蔵は答えず、その様子を見ていた。
各地でほぼ同時に起こった襲撃と蜂起。互いに無関係と思われていた集団が突如として呼応し、瀞霊廷の対応が追いつくより先に複数の有力者が殺された。
誰が始めたのか。誰が誰へ命じたのか。調べれば調べるほど線は増え、一本の根へ辿ろうとすれば別の場所で途切れる。
それでも、その中心に同じ男の影がちらついた。
「……弾正盃」
「なんだ」
「貴様が首魁か」
盃は酒を口に含み、少し味わってから飲み込んで首を傾げる。
「さて。何の話だ?」
「とぼけるか」
「とぼけるも何も、この有様だ。己が人の上に立っているように見えるか?」
盃が周囲を指した。
「おい盃、それ取ってくれ」
「ほら見ろ。顎で使われている」
「そういう話ではなかろう」
「冗談の通じん男だな」
盃の仲間から小さな笑いが漏れた。
惨蔵はしばらく盃を見据えたあと、床に転がる首へ視線を落とした。
「……これは誰が斬った」
「さあ? こいつは誰がはねた? 己だったか?」
「盃はそこの豚を無駄に甚振ってただろ。そいつはたぶん遊佐か楯円だな」
「あれ? そうだっけ?」
「覚えてねえ」
遊佐と楯円は互いに顔を見合わせたが、結局どちらからも答えは出なかった。
「貴様ら……」
「そんな顔をするな。聞かれたから思い出そうとはしただろう」
盃は悪びれる様子もなく酒を口へ運んだ。
惨蔵の目が細くなる。
「……各地で起きた騒乱。裏で糸を引いているのは貴様か」
「随分と買ってくれるじゃないか。己がそんな壮大な絵図を描いたと?」
盃は愉快そうに笑った。
「惨蔵。捕まえたいなら大人しく付き合ってやる。知る限りの事も洗いざらい吐いてやってもいい」
箸を伸ばし、残っていた料理を一つ摘まむ。
「どうせこんな美味いものを食えるのもここが最後だ。食い終わるまでの間は少し話に付き合え」
惨蔵は座らなかった。
盃も勧め直しはしなかった。
しばらくして盃は煙管へ火を入れた。
「……惨蔵。早蕨家がどうなったか知っているか?」
惨蔵は僅かに目を細めた。
「当主と子息は連座で処刑。大戦では大手柄を上げた物部家の懐刀も罪人として送られるそうだな。主君の物部まで危うく巻き込まれるところだった」
「知っておる」
「そうか。なら説明はいらんな」
盃は煙管を咥え、深く煙を吸い込んだ。
「では、楢崎は?」
「……何?」
「楢崎商会だ。戦の二年目から北方への補給を請け負った。荷駄を三度潰されても道を変えて送り続けた連中だよ。主人は戦の終わる頃には財の半分以上を失っていたが、残った金も流魂街の復興に回した」
惨蔵は答えなかった。
「去年、滅却師との内通を疑われた。主人と長男が捕縛。店は取り潰し。倉と土地は三家に分けられた」
その三家の名まで、盃は淀みなく口にした。
「次。羽代衆」
「……西方で戦っていた者達か」
「そうだ。死神の部隊が包囲された時、退路を開くために四十七人残った。帰ったのは十一人。戦後は命じられるまま武装を解いた」
煙を吐く。
「頭領は二年前に処刑。残った連中は離散した。理由は知っているか?」
「反乱の企てありと聞いておる」
「便利な言葉だな」
盃は笑った。
まだ、いつもの笑いだった。
「武器を捨てた連中が何を使って反乱するつもりだったのか、一度聞いてみたかった」
仲間の一人が鼻で笑う。
それからも盃は話し続けた。個人の名から一家の末路、戦場を共にした一団まで話は途切れない。
どこで戦ったのか。何人を失ったのか。戦後に何をしたのか。そしてどのような罪を着せられ、誰がその後釜へ収まったのか。
一度として名前を間違えなかった。
惨蔵は黙って聞いていたが、やがて足元へ視線を落とした。
先ほど誰が首を刎ねたのかすら思い出せなかった、この屋敷の主が転がっている。
「……よく覚えておるな」
「当たり前だろう」
盃は即座に答えた。
それから煙管を口へ運ぶ。
「惜しい奴からいなくなるんだ。忘れたら、本当に何も残らん」
煙を吐いた。
ほんの少しだけ、声が違っていた。
「で──」
盃も足元の首を見た。
「こいつは?」
誰にともなく問いかける。
「こいつは戦の時、何をしていた?」
返事はなかった。
「己の知る限りでは、何もしていない。前線へ出たわけでもない。財を吐き出したわけでもない。戦が終わってからは随分と忙しかったようだがな」
空いた土地を拾い、失脚した家の権益を奪い、物部家へ手を伸ばして早蕨家を潰す流れにも一枚噛んだ。
そうして肥えた男が最後に用意させた料理を、今は盃達が食っている。
「……美味かったぞ」
盃は料理を見ながら言った。
「酒も良かった」
口元が僅かに持ち上がる。
だが笑いにはならなかった。
「大したものだ。戦場で人が喰うものにも困っていた頃に何をしていたのか知らん男が、こんなものを毎晩のように食える身分になった」
煙管を咥えて吸い込んだが、煙は出なかった。
「……ちっ」
いつの間にか火が消えている。
盃は火をつけ直そうとしたが、一度目はつかず、もう一度試してようやく小さな火が灯った。それもすぐに消えた。
「貸せよ」
仲間の一人が手を伸ばしかける。
「いい」
短く返した声に、その手が止まった。
盃は自分の指を見た。
震えていた。
「……は」
乾いた笑いが漏れた。
「参ったな」
煙管を卓へ置く。
「腹が立ってきた」
誰も笑わなかった。
盃はしばらく俯いていた。
「戦が終わったんだぞ、惨蔵」
先ほどより低い声だった。
「己らは勝ったんだ」
「……ああ」
惨蔵が答えた。
「勝ったんだよ」
もう一度、盃は言った。
「だから死んだ奴らの分まで、少しくらいマシなものが見られると思った」
顔を上げる。
「贅沢を言ったつもりはないぞ。戦がなくなれば皆が幸せになるなんて思っちゃいない。貴族が消えるとも思っていない。権力争いがなくなるとも思っていない」
声はまだ静かだった。
「それでもだ」
卓の上で拳が握られる。
「命を懸けた奴がいた。家族を失った奴がいた。財産を吐き出した奴がいた。戦が終わった後まで泥を被って働いた奴がいた」
一つずつ数えるように言葉が続いた。
「そいつらが少しくらい報われると思うのは、そんなにおかしいか?」
惨蔵から答えはない。
「なあ」
盃の眉間に皺が寄る。
「早蕨が何をした?」
返事を待たずに続けた。
「楢崎が何をした?」
声が大きくなる。
「羽代の連中が何をした!?」
盃が立ち上がった。
「何人死ねば足りる!? どれだけ差し出せば、今度こそあいつらの番になる!?」
宴席にいた誰も動かなかった。
「それで残ったのがなんだ!」
盃の足が転がる首を蹴った。
血の乾いたそれが畳の上を転がり、壁際で止まる。
「こいつか!?」
声が震えていた。
「こいつらか!?」
もはや煙管の火など見ていない。
「席が空けば奪い合う! 邪魔なら罪を着せる! 従わなければ切り捨てる! 戦で力を持ちすぎた者は危険だからと、今度は三途渡しだ!?」
拳が卓へ叩きつけられ、器が跳ねる。
「よく考えたものだな! 殺すには都合が悪い! 飼うには危険だ! ならば虚圏へ捨ててしまえ! ついでに世界のためだとでも言っておけば、さぞ聞こえも良かろう!」
盃は息を荒らげながら惨蔵を睨んだ。
いつもの笑みは欠片も残っていなかった。
「失うに惜しい者達の骸を山ほど積み上げて残ったのが、下らぬ贅に身を肥やした塵共だ!」
拳が震える。
怒鳴るたびに、自分で自分の怒りを煽っているようだった。
「なあ、惨蔵! どうだ!?」
一歩、惨蔵へ踏み出す。
「こんなものか!?」
さらに声を張る。
「まだマシなものが見れると信じた世界がこんなものだと納得できているのかお前は!?」
惨蔵は動かない。
だからこそ、盃の言葉は止まらなかった。
「おい!?」
腕が振るわれた。
轟音とともに宴席の卓が砕け散った。
料理も皿も酒も宙へ舞い、畳へ叩きつけられる。
静寂が落ちた。
仲間達は驚かなかった。
ただ一人が手元の酒を飲み干し、盃を放った。乾いた音が鳴る。それに続いて別の一人が、さらにもう一人が盃を捨て、やがていくつもの音が畳の上に重なった。
肩で息をしながら、盃はその音を聞いていた。
「はっ」
ようやく笑った。
いつもの顔へ戻るには、まだ少しだけ時間がかかった。
「……見ての通り、宴は終いだ」
砕けた卓と散らばった料理を見渡す。
「悪いなお前ら。大人しく連行されてやれ」
誰も異を唱えなかった。
一人が立ち上がると続いてもう一人、やがて全員が立ち上がり、後ろ手を組んだ。最後に盃もそうした。
惨蔵だけがその様子を見ている。
「……貴様」
「なんだ」
「初めから、このつもりだったか」
盃の口元に、ようやく見慣れた笑みが戻った。
「さてな」
惨蔵の目が細くなる。
刀はない。抵抗する者もいない。
それでも、この男に不穏な何かを感じずにはいられなかった。
盃はそんな惨蔵をしばらく眺めたあと、ふと思い出したように口を開いた。
「吉良惨蔵」
「なんだ」
「お前となら美味い酒が飲めると思ったんだがな」
足元には砕けた徳利と零れた酒が広がっている。
盃は僅かに笑った。
「やはりだめか?」
「……貴様を縛につけた後で考えておこう」
「はっ。そりゃ残念だ」
盃は素直に両腕を後ろへ回した。
それを合図にしたように惨蔵の後方から死神達が入り、室内にいた者達を次々と拘束していく。
誰一人として抵抗しなかった。
誰も武器を持ってはいなかった。
少なくとも、この座敷には。
僅かに位相をずらされた空間の中で、一振りの斬魄刀──『逸軸(いちじく)』は静かに動き続けていた。
その傍らに、大量の浅打を侍らせながら。
惨蔵達の目に触れることはない。
縄を掛けられた盃は一度だけ宴席を振り返った。
砕けた卓と散らばった料理。その向こうには貴族達の首が転がり、床には途中から折れた煙管が残されている。
盃は少し惜しそうにそれを眺めてから前を向いた。
口元にはもう、いつもの笑みが戻っていた。
おそらく出てこない裏設定
俵山紋太夫(たわらやま もんだゆう)
豪商の息子。箔欲しさに死神になり戦場に出るまでは飢えや渇きとは無縁だった。
始解「しゃぶれ、『生贄(なまにえ)』」
糸鋸状の斬魄刀。斬った相手の肉を絡めとる。
真打(卍解)『肉掻生贄供物(ししがきなまにえくもつ)』
背中から糸鋸の刃が触手のようにいくつも伸びる。絡めとった肉を貪り肥大化する。