こんな物が、果たして舟と言えるのであろうか。
惨蔵は少し離れた場所から、これより自分達を虚圏(ウェコムンド)へ運ぶという巨大な構造物を見上げていた。
白銀の外殻に覆われた、扁平な菱形。
帆もなければ甲板もない。窓らしきものすら見当たらず、地面から僅かに浮いたまま、音もなくそこに鎮座している。
唯一、乗り物らしいと言えるのは、側面の一部が開き、人の出入りができるようになっていることくらいだった。
先の大戦で滅却師達が残していった代物。
それを尸魂界が接収し、術者達が手を加えたものだと聞いている。
元より死神の技術で作られた物ではない。その上、本来とは異なる虚圏への渡航に使おうというのだから、惨蔵とて信用しているわけではなかった。
詳しい理屈は術者達の領分だ。動くというのなら動かしてもらうしかない。
無事に往復できるという保証だけは、誰も口にしなかったが。
周囲ではすでに、出立へ向けた準備が進められている。
術者達が構造物の周囲を行き交い、護送を担う死神達も持ち場についていた。側面に開いた入口からは必要な物資が次々と運び込まれ、その傍らでは、これから乗せる罪人達が列を作らされている。
罪人、四十余名。
護送にあたる死神、六十名。
術者、二十名。
総勢百二十名余り。
それだけの人間を腹に収めて、尸魂界から虚圏まで渡ろうというのだ。
惨蔵は改めて白銀の巨体を見上げた。
――せいぜい、この泥舟が沈まぬことを祈ろう。
祈ったところで何が変わるわけでもないが。
惨蔵は視線を下ろした。
準備を終えた死神の合図を受け、罪人達の搬入が始まる。
一度に押し込むような真似はしない。罪人達は、一人ずつ舟内へ送り込まれていた。
全身を包む厚い拘束衣。腕は胴へ沿わせる形で封じられ、首から胸、腹、腰、脚に至るまで幾重にも帯が巻かれている。口元まで覆われ、外へ出ているのは頭と裸足の足だけだった。
惨蔵はその列を傍らから眺めていた。
術者の確認を終えた者から、次へ、また一人。
滞りなく進んでいた流れが、赤い髪の少年のところで止まった。
「待て」
惨蔵が声をかける。
少年はすぐには顔を上げなかった。
赫錆鬼蜘蛛(あかさび おにぐも)。
自らが捕らえてからというもの、妙に大人しい。
暴れもしなければ、周囲を睨みつけることもない。裸足の足を僅かに引きずりながら歩き、目に映るものにもほとんど興味を示さなかった。
惨蔵には、それがひどく退屈しているように見えた。
「赫錆鬼蜘蛛。貴様はこちらに来い」
そこでようやく、鬼蜘蛛の目だけが惨蔵へ向いた。
何の用だと尋ねることもできない。
しばらく惨蔵を見ていたが、やがて促されるまま罪人達の列を外れた。
護送の死神が一人、その後を追おうとする。
「よい。こやつは某が見る」
惨蔵はそれだけ告げ、鬼蜘蛛を連れて舟内を進んだ。
玉依懐(たまより なつ)の扱いには少々難儀した。あの罪人達と同じ場所に置くにも、部下達の監視を付けるにも。
『愛喰』の影響がどこまで及ぶのか、未だ惨蔵にも測りきれていない。かといって、自分一人が傍に居続けるのも避けたかった。
そこで一人、間に置くことにした。
鬼蜘蛛を選んだのは、懐と歳が近く、彼女とも上総介とも縁がないからだ。どの勢力とも繋がりを持たず、他者とのしがらみが一切ない。
少なくとも、懐の傍へ置く人間として余計なものを持ち込むことはない。
それに――『愛喰』が他者へどのように作用するのかを見るには、都合のいい相手でもあった。
他の罪人達が収められていく区画から離れ、やがて一つの部屋の前で足を止める。
戸を開いた。
「おじさま?」
柔らかな長椅子に大人しく腰掛けていた懐が、顔を上げた。
その視線が惨蔵から、後ろにいる見知らぬ少年へ移る。
全身を厳重に拘束され、赤い髪は乱れ、裸足の足には汚れが残っている。
懐は少し驚いたように目を見開いた。
鬼蜘蛛も懐を見た。ほんの一瞬だった。
すぐに興味を失ったように目を逸らす。
惨蔵は鬼蜘蛛を室内へ入れると、後ろ手に戸を閉めた。それから、口元を覆っていた拘束を解く。
久方ぶりに自由になった口を軽く動かし、鬼蜘蛛は一度だけ唇を舐めた。
「……刀くれ」
開口一番、それだった。
「貴様の刀は預かっている」
「返せ」
「断る」
鬼蜘蛛は露骨に顔をしかめた。
惨蔵から顔を背け、つまらなそうに室内を見回す。
その視線が、途中で止まった。
懐の腰。そこに差された、小さな守り刀。
死んだようだった目が見開かれた。
「刀!」
懐の肩がびくりと跳ねた。
「刀刀刀!! 見せっ、それ見せろ見せろ見せろみせッ……!」
「えっ――」
先ほどまでの気怠さは跡形もない。
両腕を封じられていることなど構わず、鬼蜘蛛は全身を捩って懐へ迫った。
突然の豹変に、懐は反射的に後ずさった。
一歩。さらに半歩。
背中が壁に触れる。
鬼蜘蛛の血走った目は懐の顔など見ていない。その腰にある守り刀だけを、食い入るように見つめていた。
「見せろ! それ! なぁ、それ見せろ!」
「え、あ……」
懐の手が守り刀へ添えられる。
怯んでいるのを見て、惨蔵が鬼蜘蛛との間へ入った。
ごつん、と頭頂へ拳を落とす。
「落ち着け。また口を塞ぐぞ」
「だまれ! こっちゃあずっとお預けくらっとったんじゃ! つうかわしの刀返せ! 根こそぎ奪いやがって!」
「貴様のではないだろ」
「わしが拾ったんだからわしのだろ」
「そうはならんな」
惨蔵へ食ってかかりながらも、鬼蜘蛛の目は懐の腰から離れない。
懐は守り刀へ手を添えたまま、困ったように惨蔵を見た。
惨蔵は黙って首を横へ振る。
見せるな。
そう理解したのか、懐は小さく頷いた。
そのやり取りを、鬼蜘蛛も見ていた。
不満そうに顔をしかめたあと、声を落とす。
「おい、女ぁ」
「え、あ、なに」
先ほどまでの喚き声とは違う。
妙に低く、這うような声だった。
懐が僅かに身を固くする。
「名前は」
「あ、はい。懐です」
「ほう、懐か。ええな。どんな姿なんじゃ。ちっこいのぉ。なんて呼ぶんじゃ? どんな事ができるんじゃ? 呼んで見せてくれ」
「え、あ、ちっこい、あ、じゃあ、懐って呼んでくれたら」
「は? いやだからはよ呼べ。起こせ。見せろ」
「え? 起きてる……」
「焦らすな、懐。はよ見せろ懐」
「え、え、ちょ、え、」
「懐! なうぶッ……!」
先ほどより重い拳が落ちた。
勢いよく舌を噛んだ鬼蜘蛛が、口元を押さえることもできないまま涙目で惨蔵を睨む。
「おい阿呆。懐はこの子の名前だ」
「あぁ? ひらん。ひいほあん(あぁ? 知らん。聞いとらん)」
「だろうな。お前はそうだろうな」
惨蔵は深く息を吐いた。
これ以上まともに相手をしていても、埒が明かない。
「数えよ、『九ツ(ここのつ)』」
床に落ちた影が、静かに膨らんだ。
黒が鬼蜘蛛の足元から這い上がり、拘束衣ごと身体を絡め取る。身を捩る暇すら与えず、そのまま持ち上げると、懐の隣にある長椅子へ転がした。
鬼蜘蛛の身体が座面へ沈む。
影はそのまま、胴から脚へまとわりついていた。
これで少しは静かになる。
惨蔵がそう思った矢先、鬼蜘蛛は暴れるどころか、不意に動きを止めた。
「……ふおお」
先ほどまで血走っていた目が、ゆっくりと細くなる。
何をしているのかと惨蔵が見ている前で、鬼蜘蛛は長椅子へ身を預けた。
身体へ絡みつく黒を確かめるように僅かに首を傾け、しばらく黙ってその感触を味わっている。
「あん時は真打だったが、始解だと感覚があるんじゃな。直に影を感じられて悪くない」
妙に満足そうだった。
惨蔵は眉間へ皺を寄せた。
拘束を増やしたはずなのだが、先ほどより明らかに機嫌がいい。
隣にいた懐も、そんな鬼蜘蛛をじっと見ていた。
つい先ほど、自分の刀を見つけた途端に目を血走らせて迫ってきた少年である。長椅子の端に腰掛けたまま、すぐには近寄ろうとしない。
鬼蜘蛛はもう懐を見てすらいなかった。
とろんとした目で宙を眺め、時折、影の感触を確かめるように身体を僅かに揺らしている。
その様子をしばらく眺めていた懐の視線が、鬼蜘蛛から影へ落ちた。
少しして、長椅子の上で身体をずらす。ほんの少しだけ、鬼蜘蛛へ近づいた。
惨蔵を見る。
止められない。
もう一度、影を見る。
やがて好奇心が勝ったらしい。
懐はおそるおそる手を伸ばした。
指先が、黒へ触れる。
ちょん。
すぐに手を引っ込めた。
鬼蜘蛛を見る。反応はない。
怒りもしなければ、こちらを向きもしない。
懐はもう一度だけ指を伸ばした。
ちょん。
今度は先ほどより、ほんの僅かに長く触れていた。
(山本の影と怖れられたこの力も、餓鬼の玩具にされたら形無しだな)
惨蔵は内心で自嘲した。
しばらくして、懐の方から口を開いた。
「あ、あの」
鬼蜘蛛の目だけが、ゆっくりと懐へ向く。
「あぁ?」
先ほどまでなら、その声だけで懐の肩が強張っていた。
今度は少し迷っただけだった。
「愛喰(ちかばみ)、ていうの」
鬼蜘蛛がきょとんとした。
何のことだ、と顔に書いてある。
数秒ほど考えてから、
「……おお、そうか。変わった名前つけられたもんじゃな」
興味もなさそうに答えた。
懐は一瞬、呆気に取られた。
何を言われたのか分からないように瞬きをして――ふと、自分の腰へ目を落とした。
すぐに顔を上げる。
「ちがう! この子!」
守り刀を指し示した。
「おお!」
鬼蜘蛛の目の色が一気に変わった。
「愛喰か! 愛喰! なんか悍ましい響きじゃな! 好みじゃ! どんな意味だ? 何ができる? 形はどんなもんじゃ?!」
先ほどとはあまりにも違う。
懐はしばらくぽかんとしていた。
自分の名前だと思っていた時には、あれほどどうでもよさそうだったのに。
見る間に頬が膨らんでいく。
「知らない! 教えないもん! ばか!」
「はっ? なんじゃお前! 見せびらかしただけか! 自慢かこの野郎!」
「ふん! 私の名前言えたら教えてあげる」
「…………ぇ、ぁ?」
鬼蜘蛛の目が泳いだ。
懐は待った。
鬼蜘蛛も考えた。
出てこない。つい先ほどまで、あれほど何度も口にしていたにもかかわらず。
懐の目にみるみる涙が溜まった。
「さんぞうおじさまぁ……」
「……懐だ」
呆れと疲れの入り混じった声で答えながら、惨蔵は泣きついてきた懐の頭へ手を置いた。
そのまま、ごく自然に撫でる。
一度。もう一度。
懐の髪を撫でたところで、惨蔵の手が止まった。
僅かに目を細める。
何をしている。
ゆっくりと手を離すと、惨蔵はバツの悪そうな顔を背けた。
懐の方は気づいていない。
撫でてもらっただけですっかり機嫌を直し、鬼蜘蛛へ向き直っていた。
「あぁ、懐。思い出したぞ懐。愛喰見せろ懐。ええじゃろ懐」
今度は忘れまいとでもいうのか、露骨に名前を連呼している。
懐は疑わしそうに鬼蜘蛛を見た。それから、惨蔵を窺う。
「おじさま?」
惨蔵はすぐには答えなかった。
懐の腰にある守り刀へ視線を落とす。
二人の間隔を測る。
しばし考え、
「解放はするな。奴の目の前で、指先程度、まず抜いてよい」
懐の顔に小さく笑みが浮かんだ。
少しだけ自慢げに、長椅子の鬼蜘蛛へ近づいていく。
惨蔵は反対に、さりげなく距離を取った。
呼吸を整え、霊圧を静かに固める。
「ケチな保護者じゃの」
鬼蜘蛛はぼやきながらも、露骨に頬を緩ませていた。
懐の指が柄にかかる。
鬼蜘蛛の目が、その動きを追う。
鞘から、ほんの僅か。指先ほどの刃が覗いた。
鬼蜘蛛の表情が蕩けた。目尻が落ち、口元から力が抜ける。
惨蔵の目が鋭くなった。
(……やはり)
そう思ったのも束の間だった。
「はぁ……やっぱこんだけ近くから見ると違うな。あー、美しい、最高じゃ。この刃紋も、あぁ輝いとる。こんなチラ見せじゃなくて、あー切先まで、はぁ。たまらん」
惨蔵は黙って鬼蜘蛛を見た。
鬼蜘蛛は愛喰しか見ていない。
懐にも、その表情にも、何一つ興味を示していない。ただ僅かに覗いた刃を、穴が開きそうなほど見つめている。
全く参考にならなかった。
愛喰の影響を受けてこうなっているのか。元からこうなのか。
むしろ何一つ影響されていないのではないかと思えるほど、鬼蜘蛛はブレることなく、至近距離から眺める刀の魅力だけに取り憑かれていた。
やがて懐が鞘へ戻そうとすると、鬼蜘蛛の顔が露骨に曇った。
「なぁ、懐、ええじゃろ? やっぱ全部、ここまで見せといてこれで終わりは、なぁ? 懐?」
上目遣いというより、何かまずい薬でもやっているのではないかと思うほど理性の飛んだ顔でねだる。
懐が困った顔を惨蔵へ向けた。
惨蔵はしばらく二人を見つめていたが、やがて大きなため息をついた。
「……抜くだけだ。見せていいから、お前達、しばし二人で大人しくしていろ」
懐の顔が明るくなる。鬼蜘蛛はそれ以上だった。
惨蔵はもう相手にせず、自身の平机へ向かった。
背後で、鞘走りの小さな音がする。
続いて鬼蜘蛛が何やら感嘆する声。
懐が何かを言い返す。
また鬼蜘蛛の声。
少なくとも、しばらくは大人しくしているだろう。
惨蔵は筆を取った。
書務へ戻ってから、どれほど経ったか。
背後の声は途切れたり、また始まったりを繰り返していた。
刀を餌に懐柔された鬼蜘蛛は、先ほどよりはいくらか会話というものが成立するようになっている。
「おにぐも? それお名前なの?」
懐の声が聞こえた。
「なんかそう呼ばれてたから、そうなんじゃろ」
自分の名前だというのに、まるで興味がなさそうだった。
惨蔵が視線だけを向けると、懐は不思議そうに首を傾げている。
「お父様とお母様に呼ばれてたのよね?」
「おらんな。見たことない」
「え?」
「気づいたら生きとったからな」
懐はしばらく何も言わなかった。
鬼蜘蛛の顔を見つめている。
冗談を言っているのか。それとも言葉を間違えているのか。
そんな答えを探しているようだった。
鬼蜘蛛の方は、懐がなぜ黙ったのかすら分かっていないらしい。
惨蔵は再び書面へ目を落とした。
流魂街では、そう珍しい話でもない。
「じゃあ、お名前は誰につけてもらったの?」
しばらくして、懐がまた尋ねた。
「知らんて。いつか知らんが勝手に呼ばれてたんじゃ。赫錆の鬼蜘蛛殺しとか言ってな」
惨蔵の筆が僅かに止まった。
赫錆。
その名は知っている。
『赫錆』とは地名である。
流魂街74地区『赫錆』。血と錆びた刀が大地を覆い隠すほど荒れ果てた無法地帯だ。
確か鬼蜘蛛と呼ばれたならず者の集団が跋扈していた時期があった。
惨蔵が記憶を辿っている間にも、鬼蜘蛛は何でもないことのように続けた。
「ちょうど初めてまともな刀を手に入れてすぐじゃったな。くれると言うからもらったら奪い返そうとしてきよってな。そいつらぶち殺してたら、なんかそう呼ばれるようになった」
鬼蜘蛛は、まるで昨日の飯の話でもするような調子で言った。
懐の顔に、僅かな心配が浮かんだ。
自分とそう歳の変わらない少年が、血と錆に塗れた土地で人を殺して生きてきた。その話をどう受け取ればいいのか分からないのだろう。
鬼蜘蛛はそんな懐の顔など気にも留めていなかった。
「あんときゃ嬉しかったなぁ。思いっきり暴れたなぁ」
懐がますます困ったような顔になる。惨蔵も筆を止め、僅かに眉を寄せた。
鬼蜘蛛は何かを懐かしむように目を細めた。そのまま、しばらく動かなかった。
やがて。
細められた目から、涙が一粒こぼれた。
もう一粒。
次の瞬間には、ぼろぼろと頬を伝い始める。
「えっ」
懐がぎょっとした。
惨蔵も思わず鬼蜘蛛を見る。
鬼蜘蛛は二人の視線などまるで気づいていない。
声を上げるでもなく、ただ静かに涙を流していた。
「……あぁ、『虚命(こだま)』ぁ。どこおるんじゃ。会いたいのぉ。恋しいのぉ。『虚命』ぁ」
ぽつぽつとぼやきながら、身体を横へ倒す。
そのまま頬を、身体へ絡みついている九ツの影へなすりつけた。
懐は心配そうに鬼蜘蛛を見つめている。
何か声をかけようとして、けれど何と言えばいいのか分からないのか、口を開きかけては閉じる。
鬼蜘蛛はしばらく九ツの影へ顔を埋めたまま、呼命の名を呟いていた。
やがて頬を擦りつけるように動かし、
「あー……やっぱこれ好き。ええなぁ、九ツ」
涙で濡れた顔のまま、へらへらと気持ちの悪い笑みを浮かべた。
懐はまだ心配そうにしている。
その後ろで、惨蔵は生まれて初めてと言っていいほど、その冷徹な顔に生理的な嫌悪感を浮かべていた。