尸魂界へ攻め入った滅却師達との戦いは、山本元柳斎重國率いる死神達の勝利に終わった。
だが、戦が終わったからといって、戦によって生じた問題まで消えてなくなるわけではない。
死神に斬られた虚は浄化され、魂の循環へと戻る。
対して、滅却師に討たれた虚は魂魄そのものが消滅する。
大戦に至る以前から続いていた衝突と、その果てに起きた大規模な侵攻。
長きにわたって多くの虚が滅却されたことで、三界を巡る魂の均衡には無視できない歪みが生じていた。
その一方で、戦後の尸魂界には数多の罪人が残された。
戦の中で力を持ちすぎた者。
平時へ戻った世に馴染めなかった者。
新たな秩序に反旗を翻した者。
あるいは、戦後の権力争いによって罪人へと落とされた者。
処刑すること自体はできる。
しかし世界の均衡が揺らいでいる最中、強大な霊圧を持つ魂を次々と処分することが何を招くのか。それを確かめるために試してみようと考える者はいなかった。
ならば、殺さず別の場所へ移せばいい。
そこで持ち上がったのが、罪人達を虚圏へ流すという案だった。
問題は、その方法である。
当時の尸魂界には、死神の術だけで大人数を虚圏まで送り届けるだけの技術は存在しなかった。
しかし戦を終えた死神達の手元には、それまで存在しなかったものが残されていた。
戦利品である。
光の帝国が尸魂界への侵攻に用いた世界間移送術式――『ディ・アルヒェ・ノア(聖輝の箱舟)』。
本来は現世と尸魂界を繋ぎ、大軍を一度に送り込むために作られたものだった。
戦が終わった後、敗走した滅却師達が残していったそれを、尸魂界は接収した。
だが、戦火を潜り抜けた舟はすでに酷く損傷している。しかも滅却師の術式で組まれた代物だ。死神達に完全な修復などできるはずもなかった。
だから、直せない部分は別のもので埋めた。
途切れた術式を繋ぐために使われたのは、戦後に捕らえられた滅却師達の霊体だった。
それだけではない。
そもそもこの舟が渡るために作られたのは、現世と尸魂界の間である。行き先を虚圏へ変えるには、それだけでは足りない。
そこで、生きた虚までが舟へ組み込まれた。
虚が本来持つ、黒腔を開き虚圏へ渡る性質。それだけを無理やり引き出し、滅却師の術式へ継ぎ足したのである。
そして、そんな継ぎ接ぎだらけの舟を動かすための力まで、別に用意する必要はなかった。
乗せられている。
四十余名もの、強大な霊圧を持つ罪人達が。
彼らを包む拘束具は、ただ力を封じるためのものではない。
身体から少しずつ霊圧を抜き取り、その霊子を舟へ流し続けている。
暴れる力を奪い、その力で自分達を虚圏まで運ばせる。
敵から奪った舟。
その傷口を敵の霊体で塞ぎ、生きた虚を異界へ渡るための部品とし、最後には積み荷である罪人達まで燃料として使う。
何とも悍ましい舟だった。
もっとも、これを作った者達にとって、美しくある必要などなかったのだろう。
一度。
ただ一度、罪人達を虚圏へ送り届け、護送する死神と術者達だけが戻ってこられれば、それでいい。
そのためだけに組み上げられた特例流刑措置。
それが――『三途渡し』だった。
かつて光の帝国の兵を運んだ方舟は今、罪人達を腹に抱え、虚圏への道を進んでいる。
舟の各所では術者達が絶えず術式の状態を確かめ、継ぎ接ぎの機構が破綻しないよう制御を続けていた。
罪人達は厚い布で作られた拘束衣の中へ身体を収められていた。
両腕は胴へ沿わせるように内側へ封じられ、その上から首元、胸、腹、腰、脚に至るまで幾重もの帯で固定されている。
口も塞がれ、まともに動かせるのは歩行に必要な足首から先くらいのものだった。
履物すらない。
拘束衣の裾から、裸足だけが覗いている。
そして、その身体からは今も絶えず霊圧が抜き取られていた。
奪われた霊子は拘束具を通じて舟へ流れ込む。
自ら力を使おうとしても、霊圧はまとまるより先に吸い上げられて安定しない。
人狼族の男、陽炎火黒(かぎろい かぐろ)もまた、その中にいた。
黒い毛に覆われた巨体を拘束衣へ押し込まれ、腕も脚も満足に動かせない。口を塞がれている以上、声を発することもできなかった。
そんな中、火黒の獣耳が僅かに動いた。
何かが擦れた。
音と呼ぶには、あまりに小さい。
術式が絶えず低い唸りを響かせ、術者達が行き交う舟内では、普通なら聞き流してしまう程度のものだった。
また、擦れる。
今度は先ほどとは違う場所から。
火黒の耳がそちらへ向いた。
少し間を置いて、別の場所から返ってくる。
足元だ。
床と、裸足の指先。
誰かが足の指を僅かに動かし、床を擦っている。
一度。
間を置いて、二度。
別の場所から、また返る。
火黒は黙ってそれを聞いていた。
意味までは分からない。
だが、偶然にしては出来すぎている。
誰かが擦れば、別の誰かが返す。
それが一度や二度ではなく、場所を変えながら続いていた。
(……やり取りしてやがるな)
何らかの符丁か。
内容を知りたいとは思わなかった。
この状況でも、何人かがこっそりと何かを伝え合っている。
それだけ分かれば十分だった。
火黒の口元が、塞がれた布の下で僅かに吊り上がった。
何かやるつもりらしい。
火黒は何もせず、再び耳を澄ませた。
*
陽炎火黒に、野望と呼べるものはなかった。
尸魂界を変えたい訳でもなければ、誰かの上に立ちたいとも思わない。山本重國に恨みもなければ、護廷十三隊という新たな枠組みに反感を抱いてもいない。
ただ、戦うことが好きだった。
それだけならば、戦乱の世に珍しい男でもない。
だが火黒の場合、それ以外のことにあまり頓着しなかった。
勝てば楽しい。
斬れば血が出る。
殴れば骨が軋み、殴られれば自分の身体が痛む。
追えば逃げ、追い詰めれば向かってくる者もいる。
その全てが好きだった。
人狼族として生まれた火黒は、幼い頃から己の中にある衝動を抑えろと教えられてきた。
獣の性を恥じろ。
理性を持て。
欲するままに振る舞うな。
そう言われるたび、火黒には一つの疑問しか浮かばなかった。
――なんでだ?
腹が減れば食う。
眠ければ寝る。
欲しいもんは手に入れる。
戦いたければ戦えばいい。
それで気分がいいのなら、何を恥じる必要があるのか。
やがて滅却師との戦が始まると、火黒にとってはこれ以上なく居心地のいい時代が訪れた。
どこへ行っても殺気があり、刀を抜いても誰も止めない。敵を見つけて斬れば褒められることさえある。
昨日まで知らなかった相手と命を奪い合い、生き残ればまた次が来る。
死神のためでも、尸魂界のためでもない。全て自分の欲求だ。
楽しかったから戦った。
そして、戦は終わった。
周囲の者達は刀を収めたが、火黒は収められなかった。
戦が終わったから戦うなと言われても、あの日々が鮮烈すぎて到底理解できない。
昨日まで許されていたことが、今日から駄目になる。
その境目に従う謂れなど火黒にはなかった。
戦いたければ戦う。
止めに来た者がいれば、そいつと戦った。
最初は諫めるだけだった死神達も、やがて刀を抜くようになった。それはとても喜ばしい事だった。
何人倒してもおかわりが来る。
そうして戦後の混乱が少しずつ収まり始めた頃には、陽炎火黒という男は、放置できない荒くれ者として名を知られるようになっていた。
何度目だったかも覚えていない追手を叩き伏せた日。
火黒は刀についた血を振り払いながら、次に現れた女を見た。
女は一人だった。
長い黒髪を垂らし、刀を提げている。
立ち姿だけを見れば、これまで追ってきた死神達と大きな違いはない。
だが、火黒の鼻が動いた。
次いで、黒い毛の下で皮膚が粟立つ。
女はまだ刀を抜いていない。
殺気すら向けていないというのに、身体の方が先に何かを感じ取っていた。
火黒は笑った。
「お前、強ぇだろ」
女は答えなかった。ただ静かに刀へ手を掛ける。
それだけで、火黒の笑みが深くなった。
これまでとは違う。理由など説明できない。
ただ、全身を覆う黒い毛が逆立ち、身体の奥から湧き上がるものがあった。
火黒は刀を握り直した。
「打ち鳴らせ! 『血祭(ちまつり)』!!」
解号とともに刀身が崩れ、その霊子が両腕へと絡みつく。
現れたのは、指先に鋭い爪を備えた一対の手甲だった。
火黒は爪を打ち鳴らし、地を蹴る。
速い。
それでも女は火黒の一撃を見切っていた。
振り抜かれる爪の軌道から半歩だけ身体を外し、同時に抜いた刃を火黒の脇腹へ走らせる。
爪は女の身体を捉えていない。
間違いなく避けた。
それなのに、女の肩口から血が散った。
初めて、その表情が僅かに動く。
「……なるほど」
「はっ!」
火黒は牙を剥いて笑い、爪を振り上げる。
もう一度、二人の刃が交わった。
*
地面へ倒れた火黒は、指一本まともに動かせなくなっていた。
黒い毛皮は血に濡れ、全身には数える気にもならないほどの斬創が刻まれている。呼吸をするたび胸が痛み、口から溢れた血が地面へ垂れた。
その前に、女が立っていた。
無傷ではない。肩、腕、脇腹。死覇装の所々が裂け、その下から滲んだ血が布を濡らしている。
それでも、立っている。
地面に転がっているのは火黒だけだった。
女が静かに彼を見下ろす。
負けた。
生まれて初めて、どうにもならないほど綺麗に負けた。
碌に使う機会すらなかった『真打』まで切った。
それなのに、この様か。
身体中が痛む。
立ち上がりたいのに立てないことが、どうしようもなく腹立たしい。
なのに、血の混じった息と一緒に笑いが漏れた。
「……は、はは。はぁ、負けた、負けるって、こんな感じか……」
知らなかった。
負けるというのは、こんな気分なのか。
勝つのは好きだった。
相手を叩き伏せるのも、血の臭いも、骨を砕く感触も好きだった。
だが、負けるというのは知らなかった。
痛い。
悔しい。
腹が立つ。
知らないものが、まだあった。
それが妙に嬉しくて、火黒は血まみれの牙を剥いた。
「おもしれぇなぁ……お前」
女はしばらく黙って火黒を見下ろしていた。
「……卯ノ花八千流(うのはな やちる)」
「あ?」
「私の名です」
火黒は一瞬きょとんとして、それからまた笑った。
「……八千流か」
覚えた。
もし、死なずに目覚めたらまたやろう。
そう思ったところで、火黒の意識は途切れた。
*
獣耳が、ぴくりと動いた。
聞こえてくるのは、刃の音ではない。
三途渡しを動かす術式の低い唸り。
その奥に、床を擦る微かな音が混じっている。
そこでようやく、火黒は自分が眠っていたことに気づいた。
夢だったらしい。
目覚めてしまえば、夢で見たものよりも鮮明にあの時の戦いが浮かんでくる。
八千流の刀筋。
斬られた痛み。
血の臭い。
立ち上がろうとしても動かなかった身体。
そして、自分を見下ろしていた女の姿。
思い返すだけで、身体の奥が疼いた。
(あぁ……やりてぇなぁ、八千流)
楽しかった。
殺してぇ。
殺されてぇ。
どちらでもいい。
なんでもいいから、もう一度あいつと斬り合いたい。
火黒は身動き一つ取れない中で、あの日の戦いを幾度となく頭の中で繰り返した。
その間にも、裸足の指が床を擦る音は途切れていない。
どこかで擦れ、少しして別の場所から返る。
八千流とまた斬り合えるかもしれない。
これから放り込まれる虚圏にも、まだ見たことのない強者がいるかもしれない。
おまけに、この舟の中では何人かが何かを企んでいる。
塞がれた口元で、火黒はまた笑った。
どう転んでも、退屈だけはしなさそうだった。