一人の女が、少女の髪を結っていた。
「痛くない?」
「大丈夫です。すずめ姉様は上手ですから」
「ほんと? よかった」
少女――玉依懐(たまより なつ)の返事に、女はほっとしたように笑った。
地味な着物に、簡素にまとめた黒髪。華やかな顔立ちまでは隠しきれていないものの、その装いだけを見れば随分と大人しい印象を受ける。
女の名は、志波禽雀(しば きんじゃく)。
五大貴族、志波家に生まれ、かつては一番隊に籍を置いていた死神である。
現在は通常の隊務から離れ、吉良惨蔵瞑徳(きら さんぞう めいとく)の直下で働いている。
「できた」
最後に髪を整えてやると、懐が嬉しそうに振り返った。
「ありがとうございます」
「うん。可愛い」
禽雀は少し満足そうに頷いた。
その時、懐が何かを見つけた。
「あっ。父上!」
勢いよく立ち上がる。
禽雀も顔を上げた。
向こうから、見慣れた男が歩いてくる。
「おう。ちゃんと大人しくしてたか?」
「してました」
「本当かぁ?」
「してました!」
疑わしそうに眉を上げた父親へ、懐が頬を膨らませる。
「ね、すずめ姉様?」
「うん。すごく良い子だったよ」
「ほら!」
「そりゃ偉い」
上総介の大きな手が懐の頭へ伸び、禽雀がせっかく整えたばかりの髪を遠慮なく崩した。
「あっ」
「父上!」
「ははは」
「もう! すずめ姉様に結ってもらったばかりなのに!」
「あー、悪い悪い」
そう言いながら、まるで悪びれていない。
禽雀は乱れた髪を見て少し残念そうな顔をしたが、結局は笑った。
こういう男だった。
一番隊にいた頃から、何度も見てきた。
隊務にあたる時には厳しく、後輩の面倒見もいい。刀を取れば禽雀など未だ足元にも及ばない。それなのに娘の前では随分と締まりがなくなる。
一番隊を離れてから、以前のように毎日顔を合わせることはなくなった。
仕事が変われば付き合う人間も変わる。何もしなければ、かつての先輩と後輩など少しずつ疎遠になっていく。
禽雀は、それが嫌だった。
懐の様子を見に行くこともあった。上総介から声を掛けられることもあった。そうでなければ、自分から何かしら用を見つけた。
酒は辛口を好む。甘い物も食べるが、自分から買うことは滅多にない。朝は早いくせに、起きてしばらくは機嫌が悪い。考え事をする時には顎を触る。懐に叱られると、決まって頭を掻く。
私事で嘘をつく時には、右の眉尻がほんの僅かに動く。
「上総介様」
「ん?」
「最近、よく出歩いていらっしゃいますよね」
右の眉尻が動いた。
「……そうだったか?」
「はい」
「よく見てんなぁ、お前」
「……すみません」
「なんで謝るんだよ」
上総介は笑っていた。
何かを隠している。
禽雀はすでに、上総介が先の戦を生き延びた滅却師達を密かに匿っていることを知っていた。
本人から聞いたわけではない。
惨蔵の直下で働いていれば、流魂街から上がってくる情報に触れる機会は多い。断片的な目撃情報、不自然に動く物資、上総介自身の行動。それらを繋げるうちに気づいた。
本来なら報告すべきことだった。
禽雀は報告しなかった。
上総介へ繋がりそうな情報があれば確度が低いとして後へ回し、別の可能性を先に調べさせた。僅かな痕跡なら、そのまま埋もれさせた。
頼まれたことは一度もない。禽雀が勝手にやっていることだった。
けれど、今の嘘はそれではない。
上総介は他にも何かを隠している。
「禽雀」
「はい?」
「お前――」
何かを言いかけた上総介が、口を閉じた。
「……何でしょう」
「いや。なんでもない」
禽雀は少し待った。
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
知ろうと思えば調べることはできた。それでも、上総介が自分から話さないことまで暴こうとは思わなかった。
必要なら頼ってくれる。その時は、何だってするつもりだった。
実際にはこの頃、上総介はいくつもの逃亡先を用意していた。匿っている者達が発見された時のために、流魂街の各所へ人と物資を動かし、逃げ道を作っていた。
全員を逃がすことが叶わなくなれば、せめて懐だけでも逃がす。
そのための準備だった。
禽雀へ助けを求めることも考えた。人を隠し、追跡を欺き、痕跡を消す。今の彼女ほど頼りになる者も少ない。
それでも、上総介は口にしなかった。
自分が踏み越えた一線へ、かつての部下まで引きずり込むことはできなかった。
禽雀がすでに、同じ一線を越えているとも知らずに。
*
異変は唐突だった。
上総介に関する情報が、禽雀のところへだけ入ってこなくなった。
上総介への尋問。懐の身柄。匿われていた滅却師達の捜索と捕縛。その全てから、禽雀は意図的に外されていた。
上総介との個人的な繋がりを警戒されたのか。これまで繰り返してきた隠蔽を掴まれたのか。あるいは、まだ疑われているだけなのか。
禽雀は独自に情報を拾った。
上総介は死んだ。
懐は捕らえられた。
匿われていた滅却師達もすでに拘束されている。
現状を知ったその日から、禽雀は姿を隠した。
*
これまで隠す側として見ていた上総介の痕跡を、今度は自分から辿った。
接触していた者。動かしていた物資。用途の分からなかった金。
以前なら、そこから先へは踏み込まなかったものを一つずつ繋ぎ、やがて流魂街の一角にある小さな家へ辿り着いた。
中に人はいなかった。
食糧と水、寝具。しばらく人目を避けて暮らせるだけのものが揃っている。
追われた時のために上総介が用意していた逃亡先だった。
部屋の隅には、小さな着物が畳まれていた。
禽雀の手が止まった。
手に取るまでもなかった。
懐のものだ。
「…………」
上総介が何をしているのかは知っていた。危険なのも知っていた。頼まれもしないのに、その痕跡まで隠していた。
それでも、ここまで準備していたことは知らなかった。
「……どうして、私を頼ってくれなかったんですか」
自分ならできた。
懐を連れて逃げることも、追っ手を撒くことも、ここへ繋がる痕跡を消すこともできた。
規律なら、とっくに破っていた。
返事はない。
禽雀は小さな着物を元の場所へ戻し、そのままそこを自分の潜伏先にした。
本来なら懐が逃げ込むはずだった場所で、禽雀は懐を取り戻す方法を探し始めた。
上総介はもう助けられない。
懐はまだ生きている。
*
禽雀は同時に、上総介の死に関わった者達も追った。
山本元柳斎重國。
吉良惨蔵瞑徳。
その上で処分を決定した者達。
誰も許すつもりはなかった。
懐を取り戻すこと。
上総介を殺した者達を殺すこと。
その両方を一人で成し遂げるには限界がある。
禽雀は以前の仕事で得た伝手を使い、反山本を掲げる者達との接触を始めた。
誰でもよかったわけではない。いくつかの組織について人の出入りや金の流れ、過去の動きを調べた。
彼らを動かしていたのは、戦後、山本のもとへ権力が集まり、かつての戦友までが反乱分子として切り捨てられていく現状への反発だった。掲げていたのは秩序の否定ではなく、その名を借りた粛清と強権を止めるという大義だ。
少なくとも、その大義と実際の行動に大きな食い違いはない。
禽雀が選んだのは、『思誠衆(しせいしゅう)』だった。
向こうが禽雀を信用する理由はない。
志波家の人間であり、つい先日まで吉良惨蔵瞑徳の直属として働いていた女である。
「それで、我々に何の用だ」
「持ちうる情報は全て渡します。相手を間違えないのなら粛清も引き受けます。代わりに、あなた達の持ちうる物も使わせてください」
「……随分と都合のいい話だな」
「はい。ですから、信用できるかどうかはあなた方が決めてください」
頭目は暫く禽雀を見据えた後、一枚の紙を差し出した。
そこには、一人の中央四十六室の関係筋にあたる者の名が記されていた。
禽雀はその名を知っている。戦後の混乱に乗じて押収された土地や財へ手を伸ばし、幾つもの処分にも口を挟んでいる男だった。惨蔵の下で働いていた頃、その周辺の情報を目にしたこともある。
「この人を?」
「ああ」
「分かりました」
紙を畳み、懐へしまった。
翌日。
顔を布で覆った禽雀が、再び彼らの前へ現れた。
「終わりました」
「……殺したのか?」
「はい」
「もうか」
禽雀は小さく頷き、一枚の紙片を差し出した。
「確認できたら、こちらに」
「これは?」
「情報屋へ渡りをつける符丁です。名前は出さずとも、それで通じます」
それだけ告げて、その場を去った。
翌日、指定された情報屋から標的が殺されたとの確認が入った。
禽雀は再び思誠衆のもとを訪れた。
「貴様が向こうを捨てたことは認めよう」
頭目は禽雀を見据えた。
「だが、目的が分からん。何がしたい」
禽雀は顔を覆っていた布へ手をかけ、ゆっくりと外した。
現れた顔に、頭目が息を呑む。
表情そのものは冷徹だった。
その奥にある剥き出しの怒りまでは隠し切れていない。
「はっきり言って、あなた方の思想や大義はどうでもいいです」
言いながら、女の声は僅かに震えていた。
一筋だけ涙が頬を伝う。
「ただ、……私はただ、……玉依上総介を殺した全てを、殺してやりたいだけなので」
男は暫く禽雀を見ていた。
「……しばらくは、信用を積め。機が来れば、貴様にその役目はくれてやる」
禽雀は黙ってその場を後にした。
*
それから幾度となく、山本元柳斎重國は命を狙われた。
「舐めろ、『朽蛭(くちびる)』」
無駄な装飾の多い中筒の銃を手元で回すと、標的とはまるで関係のない場所へ速射した。
放たれた弾丸は壁を、屋根を、石畳を叩き、幾度もの跳弾の果てに山本元柳斎重國のもとへ辿り着く。
山本は、ほんの僅かに身を動かした。
弾丸がその脇を抜ける。
その結果を確認するよりも前に、禽雀はもうその場を動いていた。
命中したかどうかは見ない。山本がどう対処したのかも確かめない。
引き金を引いた瞬間、暗殺は終わる。
後は消えるだけだった。
失敗すれば方法を変えた。
距離を変え、潜伏場所を変え、弾道を変える。鬼道を学び、射撃へ組み込む。追跡された経路は捨て、看破された隠密は改める。
一度破られた方法に固執はしない。
山本を殺す。
固執するのはそれだけだった。
暗殺者が誰なのか、惨蔵には早い段階から見当がついていた。自分の下で働いていた女なのだから、その技術も癖も知っている。
それでも捕まらない。
追われるたびに禽雀は失敗を拾い、次には以前と違う方法で現れた。惨蔵が知る禽雀を追う間にも、本人はその先へ進んでいく。
そうして山本への暗殺を繰り返す一方で、懐の処分も進んでいた。
特例流刑措置――三途渡し。
虚圏への流刑。
禽雀はその情報も追った。
実施される時期。護送を担当する者。施される拘束。どこなら懐を奪えるのか。
処分そのものを覆せないのなら、護送の途中で奪う。
その機会すら失えば、懐は虚圏へ送られる。
反体制勢力への追及も強まり、思誠衆を含むいくつもの組織が崩れていった。弾正盃をはじめ、名の知れた者達も次々と捕らえられていく。
三途渡しの日が迫る。
山本への暗殺。懐の救出。惨蔵と追っ手の動き。崩れていく思誠衆。
禽雀が同時に追わなければならないものは、あまりにも増えていた。
彼女は、一つのものへ意識を向けている時には異様なほど強かった。
些細な癖を覚え、変化を拾い、失敗した理由を探し続ける。対象へ向けた意識を、どこまでも深く、狭く研ぎ澄ませていく。
その集中が、いくつもの方向へ引き裂かれた。
生じた綻びはほんの僅かなものだった。
吉良惨蔵は、それを逃さなかった。
*
「離して! 離せッ!」
地面へ押さえつけられた禽雀が全身を捩った。
「触るな! 触るなって言ってるでしょう!!」
重い影に両腕を封じられても止まらない。脚をばたつかせ、爪先で地面を掻き、肩が外れかねないほど力任せに逃れようとする。
「……志波禽雀」
「くそッ!!」
顔を上げようとして、押さえ戻される。
「お前……お前、惨蔵……ッ! 殺してやる!!」
「もう、やめろ」
「山本もだ! 奴だけは……あいつだけは絶対に許さない!!」
息が切れる。
「殺す!! 殺してやる!!」
「禽雀」
「奴は殺す!! 何が悪い!!」
声が裏返る。
「あい、あいつが……あのクソが上総介様を殺したんだろうが!!」
「……ちが」
「黙れッ!! お前に何が分かる!!」
惨蔵は否定の言葉を飲み込んだ。
「返せよ!!」
涙が溢れる。
「上総介様を返せ!! 懐を返せ!!」
誰に向けているのかも分からない。
「返せないなら山本を出せ!!」
喉が潰れかけても、まだ叫ぶ。
「殺してやるから!! 私が殺してやるからッ!!」
惨蔵はそれ以上何も言わなかった。
ただ禽雀を押さえ続けた。
叫び声が途切れたのは、拘束が完全に施されてからだった。
*
暗い。
何も見えない。
声も出せない。
厚い拘束衣の中で両腕は胴体へ沿わせるように封じられ、その上から首元、胸、腹、腰、脚まで幾重もの帯で固定されている。
口も塞がれていた。
懐を助けられなかった。
山本も殺せなかった。
惨蔵にも及ばなかった。
何一つ叶わず、自分だけが捕まった。
まともに動かせるのは、拘束衣の裾から覗く裸足だけだった。
その時。
どこかで、ごく小さな音がした。
足の指が床を擦る音。
僅かな間を置いて、また擦れる。
止まる。
今度は別の場所から、微かな音が返った。
禽雀の意識がそこへ向く。
知っている。
――『撫ぜ』。
声を使えず、手も動かせないような状況でも意思を伝えられるよう、僅かに動かせる身体の一部で擦過音と振動を刻む符丁だった。
かつては反体制派の一部で用いられていたものだが、先の大規模な騒乱を通じて複数の組織へ広まっている。
この拘束の中で使えるのは、裸足の指先だけ。
誰かが足の指で床を擦り、短い音と長い音、そして間隔を組み合わせて情報を送っている。
本来なら、その存在を知る者が意識して待って初めて拾えるほど微かなやり取りだった。
擦れる。
少し離れた場所から、それに応える音が返る。
禽雀は耳を澄ませた。
途切れた情報を一つずつ繋いでいく。
ほっき わたす かたな
さんぞう うつ
禽雀の呼吸が僅かに変わった。
潰えたと思っていたものが、まだ続いている。
思誠衆だけではない。
自分が捕らえられるより前に崩れていった者達も、すでに捕縛された者達も、全てが終わったわけではなかった。
再び、床が擦れる。短く。間を置き、続けて。
最後の情報が届いた。
――ここから
禽雀の足先が止まった。
懐もいる。
この三途渡しの中に。
自分は捕まった。
山本も殺せなかった。
懐を奪うこともできなかった。
それでも、まだ終わっていない。
禽雀は裸足の指を、静かに床へ押しつけた。
擦る。
止める。
もう一度。
それまで受け取るだけだった音の中へ、禽雀からの返事が加わった。