千年前欠史変   作:鬼屋敷

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7、来襲

 

 舟が止まった。

 

 何かにぶつかったわけでも、大きく揺れたわけでもない。

 

 船内の床や壁を伝い続けていた低い振動が、ある瞬間を境にすっと消えた。

 

 耳の奥へこびりついていた微かな駆動音まで途絶えると、途端に室内が広くなったような静けさが訪れる。

 

 吉良惨蔵瞑徳は、手元の書面から顔を上げた。

 

 しばらくして、廊下の向こうから足音が近づいてくる。

 

「惨蔵殿」

 

 戸を開けたのは、三途渡しの運行を担う術者の一人だった。

 

「到着しました」

「……そうか」

 

 惨蔵は筆を置いた。

 

 どうにか虚圏へ辿り着いた。少なくとも、往路で沈まずには済んだらしい。

 

 惨蔵は立ち上がり、部屋の奥へ目を向ける。

 

 長椅子では、懐が眠っていた。

 

 慣れない旅に疲れたのだろう。壁際へ身体を預け、長い黒紫の髪を肩から流したまま、小さな寝息を立てている。

 

 その隣には鬼蜘蛛も――いる。

 

 拘束された身体を長椅子の上へ横たえ、少しずつ懐の方へ這っている。

 

 惨蔵は黙って眺めた。

 

 一度、身体を伸ばす。止まる。

 

 懐の顔を窺う。起きないことを確認すると、また少し進む。

 

 やがて鬼蜘蛛の顔が、懐の腰元へ届いた。

 

 そこには短刀ほどの斬魄刀が差されている。

 

『愛喰』。

 

 鬼蜘蛛は首を伸ばし、その鞘へそっと歯を掛けた。

 

 僅かに引く。鞘から刀身がほんの少し浮いた。

 

 そこで止め、また懐を見る。寝息は変わらない。

 

 鬼蜘蛛は慎重に、もう少しだけ引いた。

 

 ふと、その目が上がる。

 

 惨蔵と目が合った。

 

「…………」

「…………」

 

 鬼蜘蛛が固まった。鞘を咥えたまま、その顔に焦りが浮かぶ。

 

 鬼蜘蛛が慌てて口を離した直後、脇腹へ蹴りが入った。

 

「ぐぉっ」

 

 身体が長椅子から転げ落ち、床へ肩から落ちる。

 

「何をしておる」

「……まだ何もしとらん」

 

 惨蔵はしばらく見下ろした。追及する気も失せた。

 

「着いたぞ」

「あ? どこに?」

「虚圏だ」

「……?」

 

 鬼蜘蛛が首を傾げる。どうやら知らないらしい。

 

 惨蔵は説明しかけ、やめた。こいつに教えたところで仕方がない。

 

 床に転がった鬼蜘蛛をそのままにし、長椅子へ腰を屈める。

 

「懐。起きろ」

「ん……」

 

 肩に手をかけて軽く揺らすと、長い睫毛が震えた。

 

 やがて瞼がゆっくりと開き、寝惚けた赤紫の目が惨蔵を捉える。

 

「……おじさま?」

「着いたぞ」

「……はい」

 

 懐はまだ眠気の残る顔で、小さく頷いた。

 

     *

 

 三途渡しの側面が大きく開いていた。

 

 船内の薄暗さから外へ出ると、まず目に入ったのは白だった。見渡す限り、白い砂が続いている。

 

 緩やかな砂丘が幾重にも重なり、その輪郭を風が絶えず削っていた。吹き上げられた細かな砂が地表を這い、足跡の縁を少しずつ崩していく。

 

 草木はない。建物もない。

 

 人の営みを思わせるものは、自分達が乗ってきた巨大な白銀の船体くらいのものだった。

 

 頭上には黒い空が広がっている。

 

 明るい白砂と暗い天蓋。その境だけが、どこまでも遠く続いていた。

 

 惨蔵は船外へ降りた。草履の底が砂へ浅く沈む。

 

 続いて懐が降りる。少女は足元を見た。

 

 踏み込んだ分だけ白砂が崩れ、細い足首の周囲へ寄る。少し珍しそうにそれを眺めてから、顔を上げた。

 

 鬼蜘蛛も護送の死神に連れられて降りてくる。こちらは虚圏の景色などほとんど見ていなかった。近くにいる死神の腰へ目をやり、その斬魄刀ばかりを追っている。

 

 三途渡しの周囲では、既に帰還のための作業が始まっていた。

 

 術者達が船体の各所へ散り、往路で組み上げた術式を一つずつ確認している。一度虚圏へ向けて開いた経路を閉じ、今度は尸魂界へ繋ぎ直さなければならない。

 

 すぐに帰れるわけではない。予定通りなら、ここで数刻を要する。

 

 その間にも、罪人達は次々と舟から降ろされていた。

 

 厚い布で身体を包まれ、腕を封じられ、幾重もの帯で締め上げられた姿が一人、また一人と白砂の上へ移されていく。

 

 護送の死神達がその両脇を固め、舟から距離を取らせていた。

 

 惨蔵は流れていく列を静かに眺めた。

 

 やがて、その視線が一人の男で止まる。

 

 早蕨義衛門(さわらび ぎえもん)。

 

 ――惨蔵。早蕨家がどうなったか知っているか?

 

 不意に、あの宴席で盃が口にした言葉が蘇った。

 

 父親と兄弟は処刑。残った一人も罪人として送られる。

 

 その一人が、今は他の罪人達と同じ拘束を受け、黙って白砂の上を歩いていた。

 

 盃の話をそのまま信じたわけではない。三途渡しに回された者達の記録を、一つずつ洗った。

 

 罪状。告発した者。証言した者。裁定に関わった者。

 

 その者が消えることで利益を得た家や組織。

 

 調べれば、処分へ至るまでには不自然な点がいくつもあった。

 

 戦後の混乱に乗じて罪を着せられ、罪人として処分されたと判断できる者が、この三途渡しの中に他にもいる。

 

 惨蔵の視線が、義衛門から離れた。

 

 一人。さらに一人。少し離れた所に二人。最後にもう一人。

 

 義衛門を含め六人。外から見れば何の違いもない。

 

 同じ拘束を受け、同じように霊圧を抑え込まれ、同じ罪人として虚圏まで連れてこられた。

 

 ただ、その六人を縛る術式の継ぎ目にだけ、ごく僅かな『九ツ』の影が噛んでいる。

 

 あまりに細い。術者が改めて一から調べでもしない限り、まず気づくまい。

 

 当人達には密かに伝えてある。拘束へ仕込みを入れたことも、帰すつもりでいることも。

 

 惨蔵の目が、罪人達から離れる。

 

 今度は護送に当たる死神達を追った。

 

 こちらにも、六人。数は合わせてある。

 

 戦後の混乱に乗じた物資の横流し。収賄。任務先での略奪。罪人や捕虜を利用して私腹を肥やした者。

 

 既に調べはついており、今回の三途渡しがなくとも、いずれ惨蔵自身が始末する予定だった者達だ。

 

 その六人を、今回の護送へ意図的に組み込んだ。

 

 虚圏で消す。

 

 装束を剥ぎ、六人の罪人と入れ替える。帰還する頭数は変わらない。

 

 三途渡しへ戻してしまえばその先はどうにでもできる。尸魂界へ着いてからの処理も、報告も。

 

 惨蔵は六人から目を離した。

 

 そこまでは決まっている。

 

 問題は、すぐ傍らにいた。

 

「おじさま」

 

 懐が虚圏を眺めている。風に煽られ、黒紫の髪が頬へ掛かる。小さな手でそれを耳へ払った。

 

 惨蔵は何も言わず、その横顔を見た。

 

 この娘だけは、六人と同じやり方では戻せない。

 

 流魂街の聖女。そう呼ばれるほど、名も顔も知られている。

 

 そもそも今回の流刑でも扱いが違う。他の罪人のような拘束を施されず、斬魄刀まで腰に残されたまま。

 

 誰かの死神装束を着せたところで、誤魔化せるような存在ではない。

 

 そして――誤魔化してよいのかという問題もある。

 

 惨蔵の視線が、懐の腰の刀へ下がった。

 

 本人すら、その力を正確には理解していない。

 

 悪意はない。おそらく、この娘にはこれから先も悪意など芽生えぬのだろう。

 

 だが、それと危険でないことは同じではない。

 

「……怖いか」

 

 懐がこちらを見た。すぐには答えず、もう一度白い砂漠へ顔を向ける。

 

「少しだけ」

「そうか」

 

 風が吹いた。砂が足元を流れていく。

 懐は自分の足跡を見下ろした。少しずつ輪郭が崩れ始めている。

 

「でも」

 

 顔を上げる。

 

「懐は大丈夫です。ここで良い子にできます」

 

 惨蔵は返事をしなかった。

 

 少女の向こうには、何もない白い砂漠が広がっている。

 

 父を失った。暮らしていた場所を失った。最後には、生まれ育った世界からも切り離される。

 

 その行き着く先を前にして、懐が口にしたのは恨みでも、不満でもなかった。

 

 ここで良い子にする。ただ、それだけだった。

 

 惨蔵は目を伏せた。

 

 六人ならば帰せる。既にそのための手も打ってある。

 

 だが、懐を連れ帰るなら、その程度では済まない。

 

 生存が露見すれば、誰が手を貸したかなど調べるまでもない。

 

 山本の影としての立場は失うだろう。

 

 あるいは、それだけでは済まない。

 

 これまで築いてきたものも。名も、居場所も、捨てることになる。

 

 それでも――。

 

 気づけば惨蔵は、置いていく理由ではなく、連れ帰った後のことを考えていた。

 

 どこへ置く。誰から隠す。どこまでなら追手を遠ざけられる。

 

 そこまで思考が進んだところで、惨蔵は止めた。

 

 まだ決めたわけではない。ここへ残す。

 

 それが命令であり、最も理に適った処置でもある。

 

 そのはずだった。

 

 惨蔵は隣に立つ少女を見下ろした。

 

 危険なのかもしれない。いや、危険なのだろう。

 

 だが、この娘の善意そのものに偽りはない。

 

 それだけは、どうしても疑えなかった。

 

 惨蔵は小さく息を吐いた。

 

 ――自分も、とうに『愛喰』の毒に侵されているのであろうな。

 

 そう思うと、不思議と腹立たしさはなかった。むしろ諦めに近い。

 

 上総介を落とした。そして今、自分までも同じ縁へ引き寄せている。

 

 始末に負えぬ、善意の毒だった。

 

「……ふぅん」

 

 横から声がした。惨蔵が目を向ける。

 

 鬼蜘蛛だった。拘束されたまま砂へ座り込み、こちらを見ている。

 

 いや。見ているのは、惨蔵ではなく、懐の腰だった。

 

 鬼蜘蛛はそれを見る。次に惨蔵を見る。また『愛喰』へ戻る。

 

 その口元が、じわりと吊り上がった。

 

「……ふぅん」

「なんだ」

「いやぁ?」

 

 にやにやしている。

 

 惨蔵は眉を寄せた。鬼蜘蛛が人間同士の機微を面白がっているとは思えない。

 

 こいつの目が輝くのは、決まって刀が絡んだ時だ。

 

「……そういう感じね」

「何がだ」

「まだ分からん」

 

 鬼蜘蛛は楽しそうに『愛喰』を眺めている。

 

 何かしらの当たりをつけたのだろう。実際に能力を見たわけでもない以上、本人にも確信はないらしい。

 

 惨蔵も、それ以上は訊かなかった。

 

     *

 

 それから、しばらく時間が過ぎた。

 

 虚圏では時の経過が妙に分かりづらい。

 

 空を見上げても色は変わらず、白い砂だけが風に流され続けている。

 

 三途渡しの周囲では、術者達が帰還のための調整を続けていた。船体の各所から短い声が飛び交い、術式を構成する霊子が淡く明滅する。

 

 一つを確かめ、次へ進む。慎重な作業だった。

 

 護送の死神達も周囲へ散り、警戒を続けている。罪人達は既に舟から距離を取らされ、まとまって白砂の上へ留め置かれていた。

 

 惨蔵は三途渡しの側面へ背を預け、遠くにいる義衛門達を一度確認した。

 

 六人はいる。護送側の六人も、それぞれ予定した位置にいる。

 

 今のところ問題はない。

 

 視線を戻す。懐はまだ大人しく傍にいた。

 

 その少し先では、鬼蜘蛛が拘束されたまま胡坐をかいている。何をするでもなく、近くを通った死神の腰を目で追っていた。

 

(……そろそろ向こうに放るか)

 

 道中、思いのほか懐との間でやり取りが成立していた。だからそのままにしていただけだ。

 

 懐とは違う。鬼蜘蛛まで連れ帰る理由などない。

 

 惨蔵が舟から背を離しかけた。

 

「惨蔵殿!」

 

 遠くから声が飛んだ。駆けてくる死神の顔を見た瞬間、惨蔵の表情が変わる。

 

 それまで考えていたことを切り離し、身体ごとそちらへ向けた。

 

「何事だ」

「大虚の群れです! こちらへ向かっています!」

 

 周囲にいた死神達も振り返った。

 

 惨蔵は遠方へ目を向けた。

 

 まだ姿は見えない。白い砂丘が重なっているだけだ。

 

 だが、意識を向ければ分かる。重い霊圧が一つ、後ろにまた一つ、さらにいくつも重なっている。

 

 惨蔵は踵を返した。

 

「まだどれくらいかかる?」

「あと半刻は」

「早める事はできるか?」

「申し訳ありません。調整を怠れば、帰還の途中で術式そのものが瓦解する可能性が高く」

 

 惨蔵は船体を一度見上げた。

 

「……分かった」

 

 それ以上は求めなかった。

 

 振り返る。

 

「戦える者を集めろ。舟と術者を最優先で守れ。ここを失えば帰れん」

「はっ!」

 

 命令が飛ぶ。

 

 白砂の上に散っていた死神達が一斉に動き始めた。抜刀の音が重なる。

 

 術者達も手を速めたが、工程そのものを飛ばす者はいない。

 

 惨蔵は周囲を見渡した。

 

 最後に、懐を見る。少女は騒ぎの中で、居心地悪そうにこちらを見ていた。

 

 戦場へ連れていくわけにはいかない。術者達の傍へ置いたところで、安全とは限らない。

 

 惨蔵の視線が少し横へ動く。

 

 鬼蜘蛛。

 

 ふと惨蔵の頭に、ありえない選択肢が一つ浮かんだ。

 

 あまりにありえない。子供とはいえ、得体の知れない罪人だ。

 

 腕は立つ。おそらく、自身の部下と比べても。

 

 少なくとも並の虚程度なら取るに足らないだろう。

 

 出会ってから幾日も経っていない。接触していたのなんて、ここに来るまでの数刻ほどだけだ。

 

 刀のこととなれば見境がなくなり、懐の『愛喰』にすら寝ている隙を狙って口をつけようとするような男だ。

 

 信用するには、あまりにも材料が足りない。

 

 だが……。

 

 惨蔵は数秒、黙って鬼蜘蛛を見た。

 

「小僧」

「あ?」

「貴様、……いや」

 

 続けようとした言葉を言いよどむ惨蔵に、鬼蜘蛛は首を傾げた。

 

 惨蔵はもう一度、懐を見た。

 

 かえって危険に晒すことになるかもしれない。

 

「なんじゃ?」

「……貴様は、尸魂界に戻りたいか?」

「知らん。どうでもいい」

 

 即答だった。惨蔵の眉間に皺が寄る。

 

「ただ、刀が欲しい」

「……戻れずともか」

「刀があるならどこでもええ」

「ここへ捨て置かれても?」

「別に」

 

 あまりにも迷いがない。

 

 帰還を餌にすれば多少なりとも反応すると思っていた惨蔵は、僅かに眉を寄せた。

 

「命は惜しくないと?」

「刀も振れんようになるし死ぬのは困るかもな」

「……そうか」

「なんじゃ。変なことばっか聞きおって」

 

 鬼蜘蛛は怪訝そうに惨蔵を見た。

 

 その視線が、すぐ隣の懐へ移る。それからもう一度、惨蔵へ戻った。

 

「……ああ。こいつか?」

 

 惨蔵の目が僅かに細くなる。

 

「何がだ」

「お前、こいつどうするか困っとるんじゃろ」

「…………」

「あー、なら」

 

 鬼蜘蛛は何でもないことのように続けた。

 

「刀くれるってんなら、わしの命より優先して守ってやるぞ」

 

 惨蔵は言葉を返さなかった。

 

 鬼蜘蛛はいつもと変わらない顔をしている。

 

「死んでも死なさん。それならええじゃろ?」

 

 大仰な誓いを立てたつもりなど、欠片もないらしい。

 

 先ほど自分の命について聞かれたから、今度はそれを条件に乗せただけ。

 

 鬼蜘蛛にとっては、その程度のことなのだろう。

 

 惨蔵は黙って鬼蜘蛛を見る。

 

 この男がどこまで約束を守るのか。懐を預けるに値する人間なのか。判断できるほどの材料など、まだ何一つ揃っていない。

 

 それなのに。

 

 懐を、自分の命より優先する。

 

 その一言を聞いた途端、先ほどまであった躊躇いが、不自然なほど軽くなった。

 

 惨蔵は僅かに目を細めた。

 

 ――甘い。

 

 自覚はあった。

 

 先ほどまで、この娘を尸魂界へ連れ帰ることすら考えていた。

 

 今度は得体の知れない罪人の言葉一つで、その身を預けようとしている。

 

 随分と判断の秤が狂っている。原因は考えるまでもない。

 

「……分かった」

「あ?」

「刀を返す。拘束も解く」

 

 鬼蜘蛛が目を瞬いた。

 

「ほんとか?」

「ああ。ただし、今言ったことを違えるな」

「違えんよ」

 

 返事も軽い。それでも惨蔵は、それ以上問いたださなかった。

 

 指を僅かに動かす。鬼蜘蛛を締めつけていた拘束の術式が緩み、重い布と帯が砂の上へ落ちていく。

 

 久方ぶりに自由になった両腕を、鬼蜘蛛が勢いよく広げた。

 

「っしゃあ!! 釈放じゃ! 空気が美味え!」

「良かったね、くもくん」

「おう!」

「言っておくが、釈放ではない。貴様が罪人なのは変わらんぞ」

「細けえのぉ」

 

 惨蔵は無視して、預かっていた一本の刀を鬼蜘蛛へ放った。

 

 鬼蜘蛛の表情が一変した。飛びつくように受け取る。

 

 鞘を抱えたまま、目だけが惨蔵へ向いた。

 

「……他は?」

「返すと言ったのは一本だけだ」

「チッ」

「懐を守れ」

「分かっとる」

 

 鬼蜘蛛はもう惨蔵を見ていなかった。

 

 久方ぶりに戻ってきた刀を両手で抱き、子供のように頬を緩ませている。

 

 その手が、迷うことなく柄へ掛かった。

 

「繋げ、『虚命(こだま)』」

 

 惨蔵はそこで初めて、鬼蜘蛛自身の斬魄刀を目にした。

 

 赤い柄をした小太刀。

 

 鍔はなく、柄頭からは刀身と同じほどの長さをした赤い綱が垂れ下がっている。

 

「あー、ごめんなぁ。辛気臭いおっさんの影ん中にぶち込まれてて居たたまれんかったじゃろう。可哀そうになぁ」

 

 そう言うなり、鬼蜘蛛は剥き出しの小太刀を胸へ抱きしめた。

 

 頬まで刀身へ押しつけると、当たり前のように生傷ができた。構わずさらに擦り寄る。

 

 切れ味はなかなか良いらしい。

 

 鬼蜘蛛は、ひどく満足そうだった。

 

 惨蔵は何も言わなかった。

 

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