遠方から響いてきた低い音に、惨蔵が顔を上げた。
風とは違う。虚圏の乾いた空気を震わせながら、腹の底にまで届くような重い音が断続的に近づいてくる。
やがて足元の白砂が、僅かに震え始めた。
惨蔵が遠方へ目を向ける。
幾重にも連なる砂丘の向こうから、黒いものが姿を現した。
最初に見えたのは一体だけだった。砂丘の稜線から頭を覗かせ、ゆっくりと巨体を持ち上げていく。その隣からさらに一体、後方にもまた一体と黒い影が立ち上がり、ほどなく左右の地平にまで同じ巨躯が連なった。
数える意味がなくなるまで、そう時間はかからなかった。
大虚達は互いの身体を隠すほど密集し、白い砂漠を黒く塗り潰しながらこちらへ進んでくる。遠目には個々の輪郭すら溶け合い、一体一体が歩いているというより、巨大な黒い塊そのものが地平を押し潰しながら迫ってくるように見えた。
海など存在しないはずの虚圏で、それは津波を思わせた。
白い砂丘を次々と呑み込んで迫る黒い奔流。その中に浮かぶ無数の白い仮面だけが、荒れた波頭のように揺れている。
幾重にも重なった咆哮が、少し遅れて届いた。
周囲の死神達にも動揺が走る。
「惨蔵殿……」
「持ち場へつけ」
惨蔵は黒い奔流から目を離さなかった。
「術者は帰還の準備を続けろ。戦える者はその周囲を固めよ。舟まで通すな」
「はっ!」
短い命令を受け、護送の死神達が散っていく。
惨蔵の視線が、その中の何人かを追った。
六人。
本来ならば、帰還の直前に始末し、義衛門達と入れ替える予定だった者達である。
大虚の襲来は想定外だった。
だが、予定が潰れたわけではない。
これほどの群れを相手にすれば、死者が出たところで何の不自然もない。ここで死ねば始末する手間が省け、生き残れば当初の予定通り後で処理すればよい。
今は戦力として使えるだけ使う。
「惨蔵殿、罪人達はどうしますか?」
別の死神が問いかけてきた。
惨蔵は白砂の上へ集められている罪人達を一瞥した。
「盾にでも餌にでも使え」
「……は、その、よろしいのですか?」
「もとより、ここへ捨て置かれる刑だ」
視線を大虚達へ戻す。
「役に立つなら使え」
「……承知しました」
男が走り去り、ほどなく罪人達の一部が前方へ引き出され始めた。
拘束されたまま怒声を上げる者もいれば、死神達に引きずられながら必死に足を止めようとする者もいる。だが、拘束を受けた状態ではまともな抵抗にはならなかった。
その列の中に、義衛門達六人はいない。
大虚の報告を受けた直後、惨蔵は各所の配置を組み替える中で、六人だけを不自然にならぬ位置へ残していた。表向きは罪状や力量に応じて扱いを変えただけに見える。
真意を知る者はいなかった。
その頃には、先頭の大虚は仮面の形まではっきり見えるところまで接近していた。
砂を踏み抜くたび、地面が大きく揺れる。
赤い光が巨体の口元へ集まり始めた。
「散れ!」
惨蔵の声とほぼ同時に虚閃が放たれた。
赤光が白砂の上を走り、直撃した砂丘が轟音とともに弾け飛ぶ。大量の砂が空へ舞い上がり、視界の一角を真っ白に染めた。
そこへ死神達が踏み込んだ。
「数えよ、『九ツ(ここのつ)』」
惨蔵の足元から黒い影が広がり、白砂の上を走る。
幾筋にも分かれた影は大虚達の足元へ伸び、その巨体が作り出す影へ重なった。
前へ出ようとした一体の脚が止まる。
巨体が大きく傾いた。
「今だ!」
左右から飛び込んだ死神達の斬撃が、仮面へ集中する。
亀裂が走り、巨体が傾ぐ。
その背後から次の大虚が押し寄せるが、惨蔵の影は既にそちらへ伸びていた。
動きを止める。
狙いを逸らす。
踏み込みを一拍遅らせる。
惨蔵が作った僅かな綻びへ、死神達が次々と刃を差し込んでいく。
数では大虚達が圧倒していたが、防衛線そのものは崩れなかった。
それでも、黒い奔流の勢いは止まらない。
やがて群れの奥から、周囲の個体よりもさらに大きな大虚が姿を現した。
一体だけではない。
ひときわ巨体の個体が数体、前後へ連なるように並び、前の者を後ろから押し出すように進んでくる。
先頭が傷ついても止まらない。
動きが鈍れば、その背を後続が押す。
数体分の質量を束ねたまま、死神達ごと防衛線を踏み潰そうとしていた。
「惨蔵殿!」
「下がれ」
惨蔵が一歩前へ出た。
刀を下段へ構える。
それまで広く戦場へ散らしていた霊圧が、急速に『九ツ』へ集まり始めた。
空気が重くなる。
黒い刀身へ莫大な霊圧が流れ込み、その輪郭にまとわりつく影が次第に長さを増していく。
やがてそれは、実体の刀身を遥かに越える巨大な黒い刃となった。
迫る大虚達を前に、惨蔵は腰を落とした。
「――陰餓摩滅(いんがまめつ)」
一払い。
影の刃が先頭の巨体へ入り込む。
抵抗はなかった。
肉も骨も存在しないかのように通り抜け、二体目、三体目、そのさらに後方まで一息に薙いでいく。
大虚達はなお数歩進んだ。
直後。
先頭の胸元に残された黒い切れ目が、ばきりと音を立てた。
斬れたのではない。
黒い断面が周囲の肉体を呑み込み始めた。
ばき、ばき、と硬いものを無理矢理折り畳むような音が連続し、巨大な胸郭が内側へ潰れていく。腕が引き込まれ、胴が縮み、ひしゃげた仮面までもが黒い切れ目へ呑まれていった。
同じ現象が、後続の大虚達にもほぼ同時に起こる。
数体もの巨体が、あり得ぬほど小さな一点へ圧縮されていく。
最後にはその姿すら消え、白砂の上へ黒い影だけが残った。
一直線に連なっていた大虚達が消えたことで、それまで黒く塞がれていた前方に大きな穴が開く。
「押し返せ」
惨蔵の声を合図に、死神達がそこへ雪崩れ込んだ。
大虚達は数を残している。
だが、先ほどまでの一方的な圧力はもうなかった。
虚閃が飛び交い、白砂が爆ぜる。大虚の腕に薙ぎ払われた死神が砂上を転がり、前へ出された罪人の一人が巨体に掴み上げられて、そのまま巨大な口へ消えていった。
惨蔵は救助を命じなかった。
その犠牲によって生まれた隙へ別の死神達が回り込み、仮面へ斬撃を叩き込む。
倒れた巨体が地響きを立てる。
さらにその後ろの大虚へ、『九ツ』の影が伸びる。
戦場は激しさを増していたが、全体としては少しずつ押し返していた。
地平を埋めていた黒い群れにもところどころ白砂が覗き始め、三途渡しから戦線までの距離も広がりつつある。
このままなら持つ。
術者達が帰還の準備を終えるまで、防衛線は保てる。
*
「うわぁ、あれ使いてー」
少し離れた白砂の上で、鬼蜘蛛はのんびりと戦場を眺めていた。
つい先ほどまで拘束されていたことなど忘れたように胡坐をかき、『虚命(こだま)』を抱え込んでいる。
惨蔵から命じられたのは、懐を守ることだけだった。
自分から前線へ加わる理由はないらしい。
「見ろ懐。あいつの、変な形しとるぞ」
鬼蜘蛛が顎で示した先では、一人の死神が大きく湾曲した斬魄刀を振るい、大虚の脚へ斬り込んでいた。
懐も素直にそちらへ顔を向ける。
「すごいね。おじさまも他の人達もかっこいい」
「んー」
鬼蜘蛛は生返事を返しながら、次の刀を探す。
誰が優勢なのか、誰が負傷したのかにはさほど興味がない。始解した斬魄刀が目に入ればそちらへ顔を向け、珍しい形をしていれば身を乗り出す。
先ほどの『陰餓摩滅』に至っては、影へ呑み込まれていく大虚達を最後まで食い入るように見つめていた。
「あー、真打も見たいのぉ。使わんかのぉ……ぁ?」
僅かな疑問が、口から漏れた。
それまで緩んでいた鬼蜘蛛の眉が薄く寄る。
懐がその横顔を見上げた。
「くもくん、どうしたの?」
「……いや、なんか。んー?」
鬼蜘蛛は首を傾げた。
前方では今も死神達と大虚が入り乱れている。
そこから罪人達のいる方へ視線を移し、さらに三途渡しの周辺まで、ゆっくりと見回した。
「なにかいるの?」
「いや……分からん」
何かを見つけたわけではない。
はっきりした霊圧を感じたわけでもなかった。
ただ、妙だった。
先ほどまで遠くにあったはずの何かが、ほんの少しだけ近づいてきたような感覚がある。
それが何なのかは分からない。
どこにあるのかも分からない。
それでも、なぜか自分の意識だけがそちらへ引かれていく。
刀を初めて目にした時の感覚に似ているようで、少し違う。
「……なんじゃろ」
鬼蜘蛛は『虚命』を抱えたまま、もう一度周囲を見回した。
懐もつられて同じ方向を見るが、当然ながら何も見つけられない。
遠くではなお、大虚達の咆哮と刀のぶつかる音が絶え間なく響いている。
その喧騒の陰で、鬼蜘蛛だけが、まだ正体の分からない何かへゆっくりと意識を向け始めていた。
*
――上々。
弾正盃は、拘束されたまま戦場を眺めていた。
大虚の襲来そのものは予定になかった。
だが、死神達の意識は完全に前方へ向き、術者達は帰還の準備から離れられない。惨蔵までもが戦場の中央へ引き出されている以上、これ以上を望むのは贅沢だ。
盃のすぐ傍ら、通常とは僅かに位相を違えた場所には、誰の目にも映らぬ『逸軸(いちじく)』がある。捕らえられたその日から、ずっとそこにあった。
拘束の内側で霊子を細く組み上げ、精密な鬼道の回路を介して『逸軸』へ力を通す。
そうして己を縛る術式の軸を、気づかれぬほど僅かずつ、長い時間をかけてずらし続けてきた。
一度に壊せば悟られる。ゆえに急ぐ必要はなかった。
今や拘束を保っているのは、ほとんど外見ばかりと言っていい。あと僅かに力を加えれば崩せるところまで来ていたが、それでも盃は動かなかった。
もう一つだけ欲しい。
惨蔵の意識を、完全にこちらから奪う何かが。
それが訪れたのは、間もなくだった。
戦場を埋め尽くしていた大虚達の動きが一斉に止まった。前列だけではない。後方に連なる黒い巨体までが次々と顔を上げ、仮面に穿たれた口を大きく開いていく。
その奥へ、一つ、また一つと赤い光が灯った。
一つや二つではない。黒い奔流の中へ無数の赤光が浮かび上がり、見る間にその輝きを増していく。
「――虚閃(セロ)、来ます!」
死神の叫び声が響いた。
これほどの数をまともに受ければ、防衛線どころでは済まない。術者も、三途渡しも、その後方にいる者達までまとめて赤い濁流へ呑み込まれる。
惨蔵が『九ツ』を両手で握った。
次の瞬間、凄まじい霊圧が刀へ注ぎ込まれ、周囲の白砂が細かく震え始める。惨蔵を中心として地表に伸びていた影が一斉に引き寄せられ、それらを呑み込むように、頭上へ巨大な黒い円が形作られていった。
それは光を放つものではなかった。むしろ周囲にある明るさそのものを削り取り、そこだけが世界から抜け落ちたかのような完全な黒。
虚圏の空へ浮かんだそれは、巨大な新月にも見えた。
「――朔羅堕門(さくらだもん)」
直後、大虚達が一斉に虚閃を放った。
無数の赤光が重なり合い、空そのものを塗り潰すような濁流となって『朔羅堕門』へ殺到する。
だが、激突は起こらなかった。
黒い円へ触れた虚閃は、その端から形を失っていく。ばきばきと霊子を噛み砕くような異音が連続し、膨大な赤光が削られ、圧し潰され、咀嚼されるように次々と闇の中へ消えていった。
それでも大虚達は撃ち続け、惨蔵もまた、そのすべてを受け止めるため『九ツ』へ莫大な霊圧を注ぎ続けている。
盃の口元が、ゆっくりと吊り上がった。
――ここだ。
「長かったな」
拘束の内側で最後の鬼道回路を繋ぎ、これまで少しずつ削り続けてきた術式へ一気に力を流し込む。
腕を縛る術式がずれ、霊圧を吸い上げていた回路の軸も外れた。長い時間をかけて均衡を崩されていた他の術式も連鎖するように位置を失い、盃の身体を封じていた拘束がついに形を保てなくなる。
重い布と帯が、白砂の上へ崩れ落ちた。
盃は自由になった右腕を持ち上げ、何もないはずの空間へ手を伸ばす。指先が虚空を掴むと、そこにあるはずのない刀の柄がゆっくりと姿を現した。
初めから盃の傍らに在りながら、位相だけをずらされ、誰の目にも触れずに隠され続けていた一振り。
柄を握った瞬間、久しく途絶えていた感触が掌へ戻る。
盃は一度だけ指を締め、その刀を抜き放った。
「ずらせ、『逸軸』」
霊圧が白砂の上を駆け抜ける。
最初に異変が起きたのは、罪人達の拘束だった。
腕を縛っていた帯が本来あるべき位置から僅かにずれ、そこから術式全体の均衡が崩れていく。霊圧を封じていた回路が次々と外れ、締め上げていた布も支えを失った。
異変は一人に留まらない。
大虚に喰われ、既に姿を消した者達を除く、生き残った三十余名。そのすべての拘束が、ほとんど同時に白砂へ落ちた。
突然自由を取り戻した罪人達の間にざわめきが広がる。何が起きたのか理解できず両腕を見下ろす者もいれば、反射的に立ち上がって周囲を見回す者もいた。
だが、盃はその様子には目もくれない。
さらにその背後で、何も存在しなかったはずの虚空が静かに横へずれた。景色の一部だけが、本来重なっていた位置から滑り落ちる。
その向こうから露出した空間を埋め尽くしていたのは、何十という浅打だった。整然と宙へ並ぶそれらは、捕縛される以前から、この瞬間のために『逸軸』で位相をずらし、隠しておいたものだった。
近くにいた罪人が、その光景に息を呑む。
戦場へ意識を向けていた護送役の一人も背後の異変に気づいた。自由になった罪人達、宙を埋める刀、そしてその中心に立つ盃を順に見て、顔色を変える。
「貴様――!」
遅い。
盃が『逸軸』を軽く振るうと、宙に並んでいた刀の軸が一斉にずれ、その姿が掻き消えた。
次の瞬間には、それぞれの刀が罪人達の眼前へ現れている。
「欲しけりゃ取れ」
それだけで充分だった。
戸惑いながら手を伸ばす者もいれば、我先に柄へ飛びつく者もいる。何が起きているのか理解しきれぬまま、それでも武器だけは確保しようとする者もいた。
反応は様々だったが、その中で三人だけは違った。
眼前へ刀が現れた瞬間、迷いなく柄を掴み、そのまま鞘を払う。周囲を見回すことも、盃へ合図を求めることもなかった。
視線の先にいるのは、大虚ではない。
無数の虚閃を『朔羅堕門』で受け止め続けている、吉良惨蔵瞑徳。
今ここで打ち合わせる必要などなかった。この瞬間に何をするのかは、とうに決まっている。
惨蔵の背後で、三つの霊圧がほぼ同時に膨れ上がった。