千年前欠史変   作:鬼屋敷

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9,血祭

 

「突き通せ――『針千本(はりせんぼん)』」

「拝め、『灰燼坊(かいじんぼう)』」

「味わえ――『緋喰(あけぐらい)』」

 

 三振りの斬魄刀が、それぞれ異なる形へ姿を変える。

 

 その解放に、惨蔵の目が僅かに動いた。

 

 気づいている。

 

 しかし正面ではなお、大虚達の虚閃が黒い円へ降り注ぎ続けていた。ここで『朔羅堕門』への霊圧を緩めれば、その背後にいる術者も三途渡しも、まとめて赤い濁流へ呑み込まれる。

 

 その一瞬の拘束を狙い澄ましたように、三人が白砂を蹴った。

 

 最初に仕掛けたのは、思誠衆(しせいしゅう)の待木歌麿(まちき うたまろ)だった。

 

 小柄な男の手にある『針千本(はりせんぼん)』は、無数の細針を束ね、一振りの刀身として形作った異様な姿をしている。歌麿がその刃を振るうと、束ねられていた針がざらりと輪郭を崩し、一気に散開した。

 

 一本一本は細い。だが、その数はあまりにも多い。

 

 銀色の針が扇状に広がり、惨蔵の背を中心として、左右へ逃れる空間まで埋めるように殺到していく。

 

 ほぼ同時に、安馬頼汪(あま らいおう)が踏み込んだ。

 

 盃の同心である頼汪は、僧兵を思わせる大柄な男だった。始解した『灰燼坊(かいじんぼう)』は太い錫杖へと姿を変え、その先端から白い灰を撒き散らしている。

 

 錫杖が白砂を薙ぎ、虚閃の余波で舞い上がる砂へ灰が混ざりながら、そのまま惨蔵の足元へ広がっていった。

 

 草履が僅かに滑ったことで、惨蔵の目が細くなる。

 

 灰の付着した砂から、摩擦が消えていた。

 

 踏み込めば足が流れ、止まろうとしても踏ん張れない。その上から『針千本』を浴びせ、体勢を崩したところへ三人目が飛び込んでくる。

 

 筋骨隆々とした、野盗を思わせる風貌の男。侠客『逆天組(さかてんぐみ)』の一番槍、大刀洗達也(たちあらい たつなり)だった。

 

 その手に握られた『緋喰(あけぐらい)』は、幅広の刀身が大きく反った曲刀へと変じている。大刀洗は駆けながら、ためらいもなく刃を自らの前腕へ滑らせた。

 

 噴き出した血は白砂へ落ちるより早く、『緋喰』の刀身へ吸い込まれる。

 

 赤黒い脈動が刃を走ると同時に、大刀洗の肩から腕にかけて筋肉が盛り上がった。踏み込むたびに白砂が弾け、二人より後から動き出したはずの巨体が、一息で惨蔵との距離を詰めていく。

 

「――惨蔵様!」

 

 護送役の一人が叫ぶ。

 

 惨蔵は振り返らなかった。

 

 頭上では『朔羅堕門』が無数の虚閃を咀嚼し続け、その縁から噛み砕かれた赤い霊子が激しく飛び散っている。そこへ注いでいる霊圧を止めることはできない。

 

 迫る針に加え、白灰が足場を奪い、その向こうから大刀洗が距離を詰めてくる。

 

 惨蔵の足元から、『九ツ(ここのつ)』の影が伸びた。

 

 白灰に覆われた砂の上を這い、その先に残る僅かな地面へ達する。惨蔵は滑る足元を無理に蹴ることなく、影へ体重を預けるように身体を横へ逃がした。

 

 直後、無数の針が通過する。

 

 数本が黒衣を裂き、皮膚を浅く抉った。

 

 歌麿が手首を返すと、飛び抜けた針の群れが空中で向きを変え、再び惨蔵へ殺到する。

 

 その前に、大刀洗が間合いへ入った。

 

 曲刀が横薙ぎに振るわれる。

 

 同時に惨蔵の影が走り、男の右脚へ黒が触れた。

 

「……ッ!」

 

 踏み込んだ脚が掴まれた。

 

 全力で走っていた勢いのまま巨体が傾いだが、大刀洗は左脚だけで強引に地面を蹴り、『緋喰』を振り切ろうとする。

 

 惨蔵は身を沈めて曲刀を頭上へ通し、崩れた体勢のまま前へ流れた大刀洗の脇腹へ肘を深く食い込ませた。

 

「がっ……!」

 

 血を吸わせて強化された身体が、それでも大きくよろめく。

 

 だが、倒れるまで待つ時間はない。戻ってきた『針千本』が、すでに惨蔵の背後へ迫っていた。

 

 惨蔵は『九ツ』を振るう。

 

 すべてを叩き落とす必要はない。密集する針の一角だけを弾き、僅かに軌道を乱せば、身体一つが通れる隙間が開く。

 

 そこへ踏み込んだ。

 

 針の間を抜けた時には、歌麿の目前まで距離を詰めている。

 

「な――」

 

 掌底が顎へ入り、小柄な身体が仰け反った。

 

 続けざまに『九ツ』の柄頭が腹へ沈む。歌麿の身体はくの字に折れ、そのまま白砂へ転がった。

 

 しかし、横からは既に頼汪の錫杖が迫っている。

 

 惨蔵が上体を引く。

 

 太い棒身は鼻先を掠めて通り過ぎたが、振り抜かれた先から白灰が舞い、右肩から腕へまとわりついた。

 

 惨蔵が『九ツ』を返そうとした瞬間、柄が掌の中を滑った。

 

 皮膚と刀の間から、摩擦まで失われている。

 

「取った!」

 

 頼汪がさらに一歩入り、巨体から繰り出された錫杖が今度は惨蔵の脇腹を狙って横薙ぎに迫った。

 

 惨蔵は無理に『九ツ』を握り直さない。

 

 滑り落ちかけた刀をそのまま足元の影へ沈め、次の瞬間には頼汪の反対側へ伸びていた影から柄を現し、左手で掴んだ。

 

「――!」

 

 頼汪の顔が強張る。

 

 惨蔵は錫杖を受けるのではなく、その内側へ潜り込んだ。

 

 膝が鳩尾へ突き刺さり、大柄な身体が僅かに浮く。肺から絞り出された息が漏れたところで、前へ折れた頼汪の襟を掴み、その勢いのまま身体を捻った。

 

 巨体が白砂へ叩きつけられる。

 

 しかし惨蔵が離れようとした時には、すでに歌麿が片膝をつき、口元から血を垂らしながら『針千本』を再び構えていた。

 

 その向こうでは大刀洗も起き上がっている。

 

『緋喰』を自らの肩へ食い込ませ、さらに血を吸わせると、赤黒い脈動を強めながら霊圧をもう一段跳ね上げた。

 

 惨蔵は二人を視界へ収め、そのさらに向こうへ意識を走らせる。

 

 黒い大虚達はなおも押し寄せ、頭上では『朔羅堕門』が途切れることなく虚閃を噛み砕いていた。罪人達の拘束は解かれ、刀も戻り、盃は『逸軸』を手にしている。周囲では既に、護送役へ刃を向ける者まで現れ始めていた。

 

 始解のまま、一つずつ潰している場合ではない。

 

 ――真打。

 

 惨蔵の意識に、その二文字が浮かぶ。

 

 ここまで崩れた戦場をまとめて押さえるのであれば、使うべき時はとうに来ている。

 

 だが、使えない。

 

 歌麿が『針千本』を放ち、頼汪も白砂を蹴って錫杖を構え直す。その二人を追い越すように大刀洗が突っ込み、さらに外側からは大虚の爪まで振り下ろされようとしていた。

 

 真打へ移る、その僅かな間さえ見つからない。

 

 惨蔵は『九ツ』を構え直すと、飛来した針を刀で弾いた。

 

 束の一角を崩したまま前へ踏み込み、すれ違いざまに柄頭を歌麿の側頭部へ叩き込む。

 

「ぐっ……!」

 

 小柄な身体が白砂へ転がる。

 

 その横から頼汪の錫杖が迫った。

 

 惨蔵は刀身を斜めに合わせ、その力を外へ受け流す。大きく泳いだ頼汪の懐へ入り込み、返した『九ツ』の柄を鳩尾へ深く突き込んだ。

 

「が……っ!」

 

 頼汪が膝をつく。

 

 そこへ二人を追い越すように大刀洗が踏み込み、『緋喰』を横薙ぎに振るった。

 

 惨蔵は身体を回し、その斬撃を紙一重で躱す。

 

 曲刀が白砂を叩き割った直後、その頭上から大虚の腕が落ちてきた。

 

 惨蔵は大刀洗の肩へ手を掛け、身体を強引に沈めると、その背を踏み台にして跳び上がる。

 

 巨大な腕の上へ着地し、そのまま駆ける。

 

 大虚が振り払おうと腕を振ったが、それより早く惨蔵は肩まで駆け上がっていた。

 

 ひび割れた仮面の中心へ、『九ツ』を逆手に突き立てる。

 

 絶叫が響き渡り、巨体が仰け反った。

 

 白砂へ倒れ込んでいく大虚から刀を引き抜き、惨蔵は崩れ落ちる肩を蹴って地上へ飛び降りた。

 

 着地した先では、大刀洗がまた立ち上がろうとしている。

 

『緋喰』を杖にしながら身体を起こし、惨蔵を睨み上げた。

 

 惨蔵はそのまま間合いへ入る。

 

 顔面へ蹴りを叩き込んだ。

 

「ぐっ――!」

 

 鼻梁をまともに捉えられ、大刀洗の上体が大きく仰け反る。

 

 同時に『九ツ』が走った。

 

 惨蔵の刃は無防備に晒された大刀洗の首を正確に捉えていた。

 

 その軌道が、不意にずれた。

 

 刃先が首筋を掠め黒衣だけを浅く裂いて通り過ぎる。

 

 惨蔵の目が動いた。

 

 外したのではない。

 

 外された。

 

 少し離れた場所で、『逸軸(いちじく)』を構えた盃が立っていた。

 

「……危ねえなぁ」

 

 大刀洗は鼻を押さえ、ふらつきながら数歩後退する。指の隙間から血が滴っていた。

 

 盃は惨蔵から目を離さないまま口を開く。

 

「達也。そいつら担いで退け」

「……あ?」

「終いだ。己がやる」

 

 大刀洗が顔を顰める。

 

 少し離れたところでは、歌麿が頭を押さえたまま起き上がれず、頼汪も腹を抱えて膝をついている。

 

 盃が大刀洗と惨蔵の間へ割って入る。

 

「さっさと行け。本気でやる。巻き込むぞ」

「……チッ」

 

 大刀洗は鼻を押さえたまま惨蔵を睨んだが、それ以上は逆らわなかった。

 

『緋喰』を収め、まず頼汪の腕を肩へ回す。さらに歌麿の襟首を掴むと、二人を引きずるようにして戦場から離れていった。

 

 惨蔵は追わない。

 

 盃の口元から、笑みが消えていた。

 

「……やっぱり、貴様相手じゃ足りねえか」

 

 軽く息を吐き『逸軸』を握り直す。

 

 ならば、こちらも出し惜しみをする理由はない。

 

 盃の霊圧が静かに沈み始めた。

 

『逸軸』の刀身が微かに震え、その輪郭が周囲の景色から僅かにずれていく。

 

 互いの視線が交わる。

 

 戦場ではなお大虚と死神、罪人達が入り乱れている。頭上では『朔羅堕門』が虚閃を呑み込み続け、各所で霊圧がぶつかり合っていた。

 

 盃が『逸軸』を横へ構える。

 

 惨蔵が『九ツ』を下げる。

 

『逸軸』の周囲で空間の軸が軋み、惨蔵の足元では戦場へ伸びていた影が一斉に引き寄せられていく。

 

 互いが、それぞれの真打の名を口にしようとした。

 

 その瞬間だった。

 

 白砂を踏み砕く轟音が、二人の間へ割り込んだ。

 

「――はっ!」

 

 横合いから、黒い巨体が飛び込んでくる。

 

 狙われたのは惨蔵だった。

 

 先ほどまで大虚と殴り合っていた、人狼族の男。

 

 陽炎火黒(かぎろい かぐろ)。

 

 惨蔵が真打へ移ろうとした、その僅かな間へ躊躇なく踏み込み、短い鉄爪を並べた手甲を振り抜いていた。

 

 惨蔵は反射的に身を引く。

 

 拳の軌道から頭部を外した。

 

 完全に見切った。

 

 ――はずだった。

 

 鈍い音が響く。

 

「……ッ!」

 

 拳が、惨蔵の頬を捉えていた。

 

 頭が振られ、足が白砂を削る。身体が数歩分押し戻されたところで、惨蔵はすぐに体勢を立て直した。

 

 避けたという確信はある。

 

 それでも、拳は当たった。

 

 盃は、真打へ移りかけた霊圧を止めた。

 

 目の前へ割って入った人狼を見て、僅かに眉を寄せる。

 

 その間にも、火黒の二発目が迫っていた。

 

 惨蔵は今度は避けず、『九ツ』を立てた。

 

 拳と刀が正面から激突し、空気が爆ぜる。重い衝撃が刀身から腕へ伝わり、骨の奥まで痺れが走った。

 

「はっ!」

 

 火黒が楽しげに笑った。

 

 吊り上がった赤い双眸には、殺気よりもむしろ喜悦が浮かんでいる。

 

 大虚との戦いで衣服を破り、全身を砂と返り血で汚しながら、戦いが始まった時よりもよほど生き生きとした顔をしていた。

 

 惨蔵が距離を取る。

 

 火黒は追わず、一度だけ自分の拳を眺めてから惨蔵を見た。

 

 その手応えに満足したように、にぃ、と牙を剥く。

 

「やっぱ強えなぁ、惨蔵!」

 

 その声に、敵意らしい敵意は感じられなかった。

 

 ただ、面白い相手を見つけた。

 

 それだけだった。

 

 火黒はふと首を巡らせ、離れた場所にいる盃を見つける。

 

「おい、こいつもらうぜ!」

 

 大虚と死神と罪人が入り乱れる戦場のど真ん中で、馬鹿みたいな大声を張り上げた。

 

「殺っちまっていいんだろ?!」

「……は?」

 

 盃の口から、思わず間の抜けた声が漏れた。

 

 誰だこいつは。

 

 計画にはいない。話を通した覚えもない。

 

 つい先ほどまで嬉々として大虚を殴っていたはずの人狼が、なぜか当然のように自分へ許可を求めている。

 

 だが、その困惑はすぐに消えた。

 

 盃の口元が大きく吊り上がる。

 

「やれるもんならな!」

「はっはー!」

 

 火黒が笑った。

 

 次の瞬間、白砂が爆ぜる。

 

 惨蔵が『九ツ』を構える。

 

 火黒が拳を振り抜く。

 

 二つが激突し、爆ぜた霊圧が周囲の白砂を吹き飛ばした。

 

 拳と刀が押し合ったのは、ほんの一瞬だった。

 

 火黒が先に力を抜いて後方へ跳ぶ。惨蔵は追わず、『九ツ』を構えたままその動きを見送った。

 

 先ほどまで三人を相手取り、その最中にも大虚を捌き続けている。周囲では今なお罪人と護送役、大虚が入り乱れ、どこから何が飛んでくるかも分からない。目の前の人狼だけへ意識を向けていられる状況ではなかった。

 

 白砂へ着地した火黒は、右手を強く握り締める。

 

「――『灼鳴(しゃくめい)』」

 

 その拳を、自らの胸へ叩きつけた。

 

 ドン。

 

 心臓を直接殴りつけるような鈍い音が響き、火黒の巨体がびくりと打ち震える。

 

 間を置かず、もう一度。

 

 ドン。

 

 黒い毛並みが逆立ち、胸の奥から押し出されるように霊圧が膨れ上がる。身体を包む空気も次第に熱を帯び、輪郭を揺らし始めた。

 

 三度目の拳が胸板へ深く沈む。

 

 ドン。

 

 火黒の全身が震えた。

 

 一撃ごとに、体内を巡る霊子の速度が強制的に引き上げられている。心臓を起点として送り出された霊圧が血流とともに筋肉へ、骨へ、四肢の末端へまで駆け巡り、黒い毛並みの表面からは陽炎にも似た熱気が立ち昇った。

 

 己の霊子循環を鬼道によって無理矢理加速させ、瞬間的に身体能力を引き上げる古い強化術。扱いを誤れば、敵に殺されるより早く自身の肉体が内側から壊れる。

 

 惨蔵は、その術を知っていた。

 

「……ずいぶんと埃の被った術を使うな。生は惜しまぬか」

 

 火黒が顔を上げ、愉快そうに赤い双眸を細める。

 

「生きるのが楽しいから全賭けしてんだろうが!」

 

 白砂が爆ぜた。

 

 姿が掻き消えたようにすら見えた次の瞬間、火黒は惨蔵の眼前へ入り込み、右の鉄爪を叩きつけていた。

 

 惨蔵が『九ツ』で正面から受ける。

 

 火花が散り、人狼本来の膂力へ『灼鳴』による加速まで重なった衝撃に、惨蔵の足が白砂へ深く沈んだ。

 

 右を止めた直後には、もう左が来る。

 

 刀身を滑らせて爪を外へ流し、その勢いのまま側面へ抜けようとした瞬間、惨蔵の頬へ鋭い熱が走った。

 

 確かに爪の軌道からは外れていたはずだった。

 

 それでも皮膚が浅く裂ける。

 

 惨蔵の目が僅かに動いたが、確かめる暇はなかった。

 

 火黒は止まらない。

 

 右から左へ、さらに右へと攻撃が続き、振り抜いた腕を戻し切るより早く反対側の肩が動く。引き戻す動作そのものまで次の一撃へ組み込まれていた。

 

「――『重転檄(じゅうてんげき)』!」

 

 連撃の速度が、さらに跳ね上がる。

 

『灼鳴』で加速した霊子循環を、一撃ごとに次の運動へ重ねていく。鉄爪と『九ツ』がぶつかるたびに火花が弾け、その残光が消えるより早く次の衝撃が惨蔵の腕へ叩き込まれた。

 

 惨蔵も退かない。

 

 受け、流しながら打点をずらし、火黒の動きを見極めていく。

 

 四撃目を刀の腹で外へ逸らした瞬間、惨蔵は逆に懐へ踏み込んだ。

 

 掌底が胸へ叩き込まれる。

 

「ぐっ――!」

 

 火黒の巨体が浮き、間髪を入れず腹へ蹴りが入った。黒い身体が白砂を削りながら転がっていく。

 

 惨蔵は追撃しない。

 

 その背後から、すでに大虚の爪が迫っていた。

 

 振り向きざまに『九ツ』を合わせると、巨爪と刃が激突し、重い衝撃が両腕へ流れ込む。惨蔵は刃を僅かに傾けて力を外へ逃がし、そのまま巨大な腕の内側へ潜り込んだ。

 

 一閃。

 

 巨腕が裂け、黒い血が白砂へ降る。

 

 返す刀で仮面まで斬り上げようとしたところへ、背後から凄まじい霊圧が迫った。

 

「ははっ!」

 

 火黒だった。

 

 もう戻っている。

 

 振り返った惨蔵の視界へ五本の鉄爪が迫る。

 

 反射的に上体を沈めると、爪そのものは頭上を通過した。

 

 しかし、肩口が裂けた。

 

「……!」

 

 今度も軌道からは外れている。

 

 それにもかかわらず、黒衣へ五本の傷が走り、その下から血が滲み出していた。

 

 惨蔵はすぐに反撃へ移り、火黒の腹へ柄頭を叩き込む。身体が折れたものの、火黒は止まらず、その姿勢のまま左腕を跳ね上げた。

 

 惨蔵が上体を反らす。

 

 鉄爪は顎の先を通過した。

 

 触れてすらいない。

 

 直後、胸元へ五本の赤い線が走った。

 

 惨蔵は距離を取り、肩と胸へ刻まれた傷を一度だけ見る。

 

 二度とも、爪そのものには触れていない。

 

 偶然ではなかった。

 

 火黒は『血祭(ちまつり)』の爪を開き、自分が刻んだ傷を確かめるように笑っている。

 

「……『不可避』か」

 

 火黒の耳がぴくりと動いた。

 

「へえ。もう分かったのか」

 

 惨蔵は答えない。理解できれば十分だった。

 

 避けたところで斬られるのであれば、軌道から外れることに意味はない。受け止めるか、腕そのものを押さえ、攻撃を成立させなければいい。

 

 火黒が白砂を蹴った。

 

 今度の惨蔵は下がらない。

 

 突き出された右の鉄爪を『九ツ』で正面から受け、そのまま刀身の腹を押し当てて腕ごと外へ流す。続く左も爪先を避けるのではなく、攻撃の根元から軌道を潰した。

 

 さらに踏み込もうとした火黒の鼻面へ、惨蔵の肘が叩き込まれる。

 

「がっ!」

 

 獣面が跳ね上がり、続けて鳩尾へ膝が入った。

 

 火黒の身体が深く折れる。

 

 惨蔵は間を置かず、その首筋へ『九ツ』を振り下ろした。

 

 火黒が咄嗟に腕を上げる。

 

 鉄の手甲が刃を受け止め、二人の顔のすぐ傍で火花が弾けた。

 

 互いに押し込み合い、足元の白砂が圧力に耐えきれず沈んでいく。

 

「いいなあ……!」

 

 火黒が牙を剥いた。

 

 惨蔵がさらに刀を押し込もうとした瞬間、火黒が自ら頭を振りかぶる。

 

 額が惨蔵の顔面へ叩き込まれた。

 

 鈍い音とともに惨蔵が一歩よろめき、すかさず鉄爪が追ってくる。

 

 今度は避けない。

 

『九ツ』で腕ごと受け止めて外へ押し退け、その空いた脇腹へ蹴りを叩き込む。

 

 火黒の巨体が吹き飛んだ。

 

 白砂へ転がりながら途中で腕をつき、勢いを利用して身体を跳ね上げると、そのまま着地する。

 

 黒い毛並みのあちこちには血が滲み、口元からも赤いものが垂れていた。胸には惨蔵の掌底が深く入り、呼吸にも明らかな乱れがある。何より、体内で加速を続ける『灼鳴』そのものが火黒の肉体を内側から削り始めていた。

 

 それでも火黒は笑っている。

 

「は……ははっ」

 

 自分の胸元を撫で、指についた血を眺める。

 

「痛えな」

 

 声音まで楽しそうだった。

 

 惨蔵は目を細めた。

 

 ただ痛みを知らぬわけではない。恐怖もあれば、生への執着もある。

 

 そのすべてを持った上で、火黒は喜んで命を賭けている。

 

 先ほどの言葉どおりだった。

 

 火黒が踏み込む。

 

 右爪を受け、続く左腕も『九ツ』で外へ押し流したところで、大虚の咆哮が背後から重なった。

 

 巨大な腕が振り下ろされようとしている。

 

 惨蔵は火黒の腕を弾いた勢いのまま身体を返し、大虚の巨爪へ『九ツ』を合わせた。

 

 衝撃に足元の砂が激しく弾ける。

 

 刃を滑らせて巨腕を外へ流し、返す刀で手首を深く斬り裂いた。

 

 大虚が吼える。

 

 その咆哮の裏で、白砂を踏み砕く音がした。

 

 振り返った時には、火黒の右腕がすでに振り抜かれようとしていた。

 

『九ツ』は大虚へ返した直後で、腕ごと止めるには僅かに遅い。

 

 惨蔵の身体が反射的に爪の軌道を外れた。

 

 鉄爪そのものは鼻先を通過する。それでも、頬へ五本の裂傷が走った。

 

「――ッ!」

 

 不可避と理解していても、長く戦いの中で染みついた回避動作まで一瞬で捨てられるものではない。

 

 その僅かな崩れを、火黒は逃さなかった。

 

 握った拳が惨蔵の顔面へ叩き込まれ、手甲越しの衝撃に頭部が振られる。惨蔵の身体は白砂の上を滑り、ようやく止まったところで片膝をついた。

 

「ははははは!」

 

 火黒の笑い声が響く。

 

 惨蔵は口内に溜まった血を白砂へ吐き捨て、そのまま僅かな時間、戦況へ視線を巡らせた。

 

 大虚の群れはいまだ健在で、護送役達は各所で戦闘を続けている。枷を失った罪人達の中には、すでに死神へ刃を向ける者もいた。三途渡しの術者達も帰還の準備から離れられない。

 

 その上、目の前には通常の攻防では捌き切れない『血祭』を持ち、『灼鳴』で自らの肉体を削りながらなお加速し続ける火黒がいる。

 

 もはや『九ツ』のまま押さえ込める状況ではなかった。

 

 惨蔵はゆっくりと立ち上がった。

 

 火黒は追ってこない。

 

 肩を上下させて荒い息を吐きながら、それでも嬉しそうに惨蔵を待っていた。

 

 その笑みが、不意に止まる。

 

 惨蔵が『九ツ』を下げた。

 

「……やむなし」

 

 小さな声だった。

 

 次の瞬間、辺りの空気が沈んだ。

 

 火黒の耳が無意識に伏せられ、黒い毛が根元から逆立つ。首筋が粟立ち、腹の底へ冷たいものが落ちていった。

 

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