爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:これはR-15の範囲内なのか
背後で、重い鉄扉がガタンと鈍い音を立てて閉ざされた。
石造りの階段へ響き渡ったその反響音が、それまで背中越しに聞こえていた教室の喧騒を嘘のように断ち切る。代わりに鼓膜を打つのは、湿った石畳を這う冷たい風の音と、壁に掛けられた松明がぱちぱちと爆ぜる微かな音だけ。
神崎蛍はショートソードの柄を握り直し、ゆっくりと長く息を吐き出した。ひんやりとした地下の空気。鼻をつく土と苔の匂い。視界の先へどこまでも続く、薄暗い石の階段。空間そのものは、初日と何も変わっていない。
それなのに。
(……一人で潜った時とは、全然違う)
「蛍、そんなに先に行かないでよ」
すぐ後ろから、葵の少し弾んだ声が飛んできた。
「あ、ごめん」
「ごめんじゃないって。今日はみんながいるんだから、足並み揃えなきゃダメでしょ」
「う……」
「東さんの言う通りよ」
さらに後ろから、香奈恵の冷静な声が続いた。
「今回の目的はあくまで装備の回収。奥まで行く必要はないわ。神崎さんが先頭なのは構わないけれど、後ろがちゃんと追いつける速度でお願いね」
「……了解」
「返事だけはいいんだから」
葵に背中を軽く叩かれ、蛍は苦笑しながら歩調を緩めた。階段を下りきった先には、昨日も通った幅広い地下通路が広がっている。
これまでなら、この薄暗い通路の先を覗き込むだけで喉の奥がカラカラに乾き、心臓が早鐘を打った。いつ魔物が飛び出してくるか。またあの強酸で皮膚を焼かれるのではないか。そんな想像ばかりが先に立っていた。
だが今は違う。振り返れば、すぐ隣に葵がいる。香奈恵もいる。篠宮麗華も、少し緊張で強張った顔を見せながらもしっかりと前を見据え、その後ろには武器を手にしたクラスメイトたちが固唾を飲んで続いている。一人ではない。それだけで、昨日あれほど不気味で広大に感じた通路が、少しだけ狭く、御しやすく見えた。
「――来る」
蛍がぴたりと足を止めた。曲がり角の向こうから、ぺた、ぺた、と湿った素足が石を叩く音が近づいてくる。先ほどまでの軽い空気が一変し、全員の表情がスッと引き締まった。
「二……いや、三体」
「どうする? 今のところ、戦闘に一番慣れてるのは蛍だし、蛍が指揮したほうがいいんじゃない?」
「そうね。これから参加人数が増えるなら、戦闘中に指示を出す役割も必要になるでしょうけど……今は神崎さんに任せるわ」
「うん、わかった。私が正面で引きつけるから、葵ちゃんは右から回り込んで。三体まとめて突っ込んできたら無理に前に出ないで一度下がる。一体だけ突出してきたら、待機してるメンバー全員で囲んで一気に叩く。……で、どうかな」
「なるほど。一匹ずつタコ殴りにするってことね」
「……言い方」
葵の身も蓋もない要約に思わず眉をひそめた蛍だったが、反論している暇はなかった。曲がり角の向こうから、耳障りな甲高い鳴き声が響く。
「「「ギャッ!」」」
「来たっ!」
三体のゴブリンが、ほとんど横一列になって通路へ飛び出してきた。痩せこけた青黒い身体に、錆びた短剣と粗末な棍棒。獲物である少女たちを見つけるなり、濁った黄色い瞳をギラつかせ、競うように駆けてくる。
「一回下がって!」
蛍の鋭い指示に、葵もすぐさま後退した。逃げるためではない。三体を同時に相手にしないためだ。全員が数歩だけ後ろへ下がる。獲物が逃げたと錯覚したのか、ゴブリンたちはさらに勢いづいて飛びかかってくるが、当然ながら足並みまで綺麗に揃っているわけではない。棍棒を振り上げた一体が、他の二体よりわずかに前へ突出した。
「今!」
蛍が床を蹴り、反転する。真っ向から踏み込み、振り下ろされた棍棒の軌道をショートソードで滑らかに受け流した。
「ギッ!?」
前のめりに体勢を崩したゴブリンの死角へ、葵が回り込む。
「こっち!」
葵が手にしたモップの柄を横から全力で叩きつける。致命傷には至らないが、ゴブリンの身体が大きくよろめき、完全な隙を晒した。その瞬間、後方で待機していた少女たちが動いた。
「え、えいっ!」「このっ!」
鉄パイプと即席の竹槍が、怒声とともに次々と突き出される。
「ギャッ、ギィ――!」
悲鳴を上げたゴブリンの身体が淡い光の粒子へと変わり、空気中へ溶けるように消滅した。
「下がって! 次来る!」
「う、うん!」
初勝利を喜んでいる暇はない。残る二体が迫っていた。だが、三体が二体になっただけで、先ほどまでの圧迫感が嘘のように消え失せている。蛍は右から迫る短剣持ちへ向き直った。相手の腕の筋肉が収縮し、刃が真横から薙ぎ払われる。
(見える……!)
踏み込む足の重心。肩の動き。短剣がどこを狙っているのか。つい先ほど、一人で戦っていた時に比べれば、驚くほど冷静に相手の動きを捉えられていた。
「ふっ!」
半歩だけ後ろへ退き、短剣の切っ先を空振りさせる。そのまま腕が伸びきった無防備な胴体へ、ショートソードを深々と叩き込んだ。
「ギィッ!」
「葵ちゃん!」
「任せて!」
悲鳴を上げて仰け反ったゴブリンへ、再び葵の追撃が入る。二対一の完璧な連携。さらに後ろには、いざとなれば飛び込んでくれる仲間がいる。ほんの数秒後、二体目もあっさりと光となって霧散した。
「あと一体!」
蛍が剣を構え直すが、最後のゴブリンはピタリと足を止めていた。仲間二体が立て続けに消滅したことに本能的な恐怖を覚えたのか、濁った瞳が蛍たちと、背後の暗い通路を忙しなく行き来する。そして――。
「ギッ……!」
踵を返し、一目散に逃げ出した。
「あっ、逃げる!」
「追いすぎないで!」
反射的に駆け出しかけたクラスメイトを、蛍は慌てて引き止めた。
「こっちが追えば、曲がり角の向こうに何がいるか分からない。罠があるかもしれないし、別の魔物と鉢合わせるかもしれない」
ゴブリンはそのまま角を曲がり、ぺたぺたという足音だけが次第に遠ざかっていく。
「……行っちゃった」
「うん。追わなくていい」
蛍は剣を構えたまま、曲がり角を鋭く睨みつけていた。
「倒すことより、全員で無事に教室へ戻る方がずっと大事だから」
そう言ってからも、蛍はすぐには剣を下ろさなかった。足音が完全に消えるまで息を殺して待つ。戻ってくる気配はない。別の魔物の足音が増えることもなかった。
「……増援とか、連れてこないよね?」
誰かが不安そうに呟く。
「分からない」
蛍は正直に答えた。
「だから、少しだけ様子を見よう。何か聞こえたらすぐに下がるから」
「そうね」
香奈恵も頷き、全員へ視線を巡らせる。
「怪我した人は?」
「私は大丈夫」「私も」「こっちも平気!」
一人ずつ無事を確認していくうちに、張り詰めていた空気が少しずつ、確かな安堵へと変わっていった。誰も怪我をしていない。それどころか、三体のゴブリンを相手にして、二体を無傷で倒し、一体を追い払ったのだ。
「……なんか」
鉄パイプを握っていた少女が、震えの治まった自分の手を見下ろした。
「思ってたより……できた、かも」
「分かる」
隣にいた少女も、まだ緊張の残る顔で頷いた。
「私、運動神経ないから……絶対みんなの足引っ張るって思ってたのに」
「実際、蛍ちゃんたちが前で止めてくれたからだけどね」
「それでも、ちゃんと当てたじゃん」
「……うん」
その控えめな返事には、確かな達成感と喜びが混じっていた。蛍はそんなやり取りを聞きながら、そっと剣を下ろした。
(前より、ずっと楽だった)
一人で戦った時とは比較にならない。自分一人が全部倒す必要などないのだ。当たり前のことなのかもしれない。けれど、その「仲間との連携」を実際に経験しただけで、昨日まであれほど恐ろしかった迷宮が、ほんの少しだけ――自分たちにも進める場所に見えてしまった。
「蛍」
「ん?」
葵が足元の石畳を指差した。
「また何か落ちてるよ」
見れば、二体目のゴブリンが消滅した跡に、見慣れない物体が転がっていた。剣ではない。革の胸当てでもない。
「……何これ?」
全員が少し距離を取ったまま覗き込む。長さは七十センチほど。黒褐色の滑らかな木製の棒の先端に、淡い青色をした半透明の美しい石が嵌め込まれている。どう見ても――。
「杖?」
葵が目を丸くして言った。
「だよね。RPGの魔法使いが持ってそうなやつ」
「いや、まあ……ここ、魔物もいるし……」
何人かが顔を見合わせる。以前の彼女たちなら、そんな言葉は冗談として笑い飛ばしていただろう。だが今は、魔物を倒せば武器や防具が落ちることも、装備した瞬間に体型に合わせて伸縮する魔法の防具の存在も知っている。
「……本当に魔法の杖でも、もう驚けないわね」
麗華が呆れたようにため息をついた。
「篠宮さん、それフラグじゃない?」
「フラグって何よ」
「琴音ちゃんがいたら、嬉々として説明してくれそう」
「今いない人に頼らないの」
葵と麗華のやり取りを横目に、蛍は慎重に杖へ近づいた。罠の可能性がないとは言えない。自分が不用意に扉へ触れてあの異常な胸の膨張をするトラップに巻き込まれた記憶は、まだ鮮明だ。
「私が拾う。触っただけなら、今までの装備は大丈夫だったから」
「だからって全部同じとは――」
「分かってる。だからみんな、少し離れてて」
葵は不満そうだったが、それ以上は止めなかった。蛍はゆっくりと屈み、杖の中央へ手を伸ばす。指先が触れる。
「…………」
何も起きない。爆発もしなければ、妙な光に包まれることもない。そのまま持ち上げてみる。
「軽いね、これ。見た目通りの重さしかないみたい」
「大丈夫? なんか身体が熱くなるとか、異常ない?」
「うん、大丈夫。普通に持てるけど……振って殴る用なのかな? 先端に何か宝石みたいなのついてるし」
香奈恵が顎に手を当てる。
「ゲームとかに出てくる魔法の杖なら、振ってみると何か出るんじゃないかしら?」
見た目通り軽く、ただの木の棒ほどの重さしかない謎の杖。香奈恵の言葉通り、蛍は試しに片手で軽く振ってみたが、空を切る音がしただけで何も起きなかった。だが、新しく現れた未知の武器を前に、少女たちの声は次第に活気を帯びていった。
「魔法は? 見た感じ、絶対魔法の杖だよね?」
「呪文が必要なんじゃない?」
「呪文って言われても、そんなの分からないでしょ」
「……ファイア、とか?」
「適当すぎない?」
静かだった迷宮に、場違いなほど明るい話し声が響き渡った。それまで張り詰めていた緊張の反動。そして、「自分たちでも戦える」という成功体験が、彼女たちの警戒心をほんの少しだけ、確実に緩ませていた。
だから、ぺちゃり、という不快な粘着音が聞こえた時、最初に反応したのは、まだ警戒を解いていなかった蛍だった。
「静かに!」
「「「「え?」」」」
全員の笑い声がピタリと止まる。
ぺちゃ。ぺちゃ、ぺちゃ。
今度は一つではない。薄暗い通路の奥から、半透明の緑色の塊がいくつも這い出してくる。
「スライム……!」
蛍の背筋が総毛立った。反射的に脳裏へ蘇ったのは、自分の衣服と皮膚を無惨に溶かした、あの強酸の地獄だ。
「みんな下がって! あ、ごめん、杖持ってて!」
考えるより先に、蛍は手にしていた杖を隣にいた麗華へ押しつけた。
「え、私!?」
「今それどころじゃないから!」
ショートソードを抜き放つ。葵もすぐさまモップの柄を構えて隣へ並んだ。現れたスライムは五体。床を這う半透明の身体の中央に、赤い眼球のような濁った核が浮かんでいる。だが。
「……酸じゃない?」
葵が呟いた。最前列の一体から、細長いゲル状の触手が鋭く伸びる。あの恐ろしい溶解液の飛沫はない。代わりに――。
「っ!」
蛍が咄嗟に身体を反らす。ぶんっ、と空気を切り裂いて、鞭のような触手が鼻先を横切った。
「普通に殴ってくる方!」
「普通って何!?」
葵が叫びながら横へ跳躍する。二本目の触手が石床を叩き、パァン、と乾いた破裂音が響いた。
「当たったら痛そう……!」
「でも酸で溶かされるよりはマシ!」
「比較対象がおかしいよ!」
そう言いながらも、葵は果敢に距離を詰める。蛍も一体へ狙いを定めた。核を壊せば倒せる。それは昨日の経験で分かっている。だが――。
「っ、邪魔……!」
剣を突き込もうと踏み込んだ瞬間、別の個体から死角を縫って触手が飛んでくる。一体だけなら問題ない。二体でも対処できる。けれど五体がばらばらの方向から波状攻撃を仕掛けてくると、攻撃より回避を優先せざるを得ない。
「無理に倒そうとしないで!」
蛍が叫ぶ。
「まず避けて! 囲まれないように!」
自分も大きく後ろへ跳ぶ。目の前を二本の触手が交差した。
(核は見えてるのに……!)
狙える。だが狙った瞬間、別の攻撃を受ける。前衛の人数が増えたからといって、乱戦になれば全てが上手くいくわけではない。
「蛍ちゃん、右!」
「分かってる!」
飛んできた触手を剣で弾く。その間にも、戦闘慣れしていない後方の少女たちが、恐怖でじりじりと壁際へと押し込まれていく。
「どうするのよ、これ!?」
麗華もその中にいた。蛍から押しつけられた謎の杖を胸の前で抱え込んだまま、這い寄ってくるスライムの群れを青ざめた顔で見つめている。そして、前衛の網目をすり抜けた一体のスライムが、麗華に向かってゆっくりと方向を変えた。
「ちょ……」
麗華の顔から血の気が引く。
「こっち来ないでよ……!」
ぺちゃり、とスライムが這い、中央の赤い核が怪しく揺れる。触手が一本、水面から盛り上がるように形成された。
「篠宮さん、下がって!」
香奈恵の声。だが、麗華の背中にはすでに冷たい石壁が迫っていた。
「分かってるわよ!」
逃げなければ。そう思うのに、足が竦んで動けない。右へ行けば別のスライム。左にはクラスメイト。その一瞬の迷いの間に、無慈悲な触手が大きく振り上げられた。
「っ……!」
麗華は咄嗟に、抱えていた杖を両手で強く握りしめた。どう使うかも分からない。ただ身を守るための盾として、自分とスライムの間に突き出すように、先端の石を真正面へ向けた――その瞬間だった。
「……え?」
杖の先端に嵌め込まれた青い石が、ふわりと眩い燐光を放った。麗華が目を見開く。
「な、何……?」
光は消えない。むしろ、杖を構えている間にも少しずつ輝きを増していく。淡い光の粒が空気中から吸い寄せられるように先端へ集まり、ソフトボール大の眩い光球を形作っていく。
「篠宮さん!?」
「私だって分からないわよ!」
触手が振り下ろされる。迷っている時間はなかった。
「もう……っ!」
麗華は反射的に杖をスライムへと突き出した。
「撃って!」
直後。ポンッ――!
「きゃっ!?」
空気の抜けるような軽い破裂音がして、杖の先端から青白い光の塊が撃ち出された。その速度は思いのほか速く、麗華が目で追う間もなく、直線的な軌道を描いてスライムの半透明の身体へ突き刺さる。
ばしゃっ!
ゲル状の身体が大きく弾け飛び、中心に浮かんでいた核にピキリと小さな亀裂が走った。
「……え?」
次の瞬間。スライムの身体がドロリと力を失い、床へ崩れ落ちた。そのまま淡い光の粒子となって、跡形もなく霧散していく。
「…………」
麗華は杖を突き出した姿勢のまま、信じられないものを見るように固まっていた。
「今の……私?」
誰も答えない。いや、答えられなかった。激戦を繰り広げていた蛍さえ、一瞬だけ動きを止めて目を丸くしていた。
「篠宮さん!」
最初に我に返ったのは香奈恵だった。
「まだいるわ!」
「っ!」
麗華も慌てて前を見る。残り四体。そのうち一体が、再び鞭のような触手を伸ばそうとしている。
「さっきと同じように構えて!」
「同じって……!」
「両手! 杖を両手で持って、先をスライムに向けて!」
蛍が叫んだ。麗華は言われるままに両手で杖を握り直し、先端を敵へ向ける。すると、再び青白い光が石へ集まっていくのが見えた。
「本当に……構えたら、光る……?」
蛍もそれを見て、仕様の一端を理解した。
(私が振った時は、片手だった)
ただの棒のように片手で握って、試しに振っただけ。どうやら、『両手』で構えるのが発動条件らしい。
「篠宮さん! 今度は真ん中の核を狙って!」
「簡単に言わないでよ!」
「大丈夫、前は私たちが止めるから!」
蛍は迫ってきた触手を剣で弾き飛ばした。葵が横からもう一本をモップの柄で叩き落とし、他の前衛二人もそれぞれ一体ずつ引きつける。その後ろで、麗華は震える杖の先端を、スライムの中心へ向けた。青白い光が、再び限界まで膨れ上がる。
麗華は杖を握る手にぐっと力を込めた。狙うのは、スライムの中心に浮かぶ濁った核。先ほどは考える暇もなく撃って偶然命中しただけだ。今度は、自分の意志で狙わなければならない。
「……そこ……!」
杖の先端に光が凝縮する。そして――。
「今!」
ポンッ!と二発目の光球が飛び出した。だが、スライムが身体を揺らしたことで狙いがわずかに逸れる。光球は核の横を通過し、ゲル状の身体の左半分を大きく抉り取った。ばしゃっ、と半透明の液体が飛び散る。
「倒れてない! 核に当てないと駄目みたい!」
「そんなの見れば分かるわよ!」
麗華が悲鳴混じりに叫び返す。傷ついたスライムの身体は大きく欠損している。だが、中心に浮かぶ核は健在だ。数秒もすると、周囲のゲルがゆっくりと寄り集まり、失われた部分を補填するように元の形へと戻っていく。
「うわ、治ってる……っ!」
蛍はスライムの再生力に悪態をつきながら、飛んできた触手を慌ててダッキングで避ける。
「私が止める! 篠宮さんは動かないやつを狙って!」
「動かないやつって――」
蛍が一気に踏み込む。一体のスライムが触手を振り上げた。その瞬間、横へ回り込み、ショートソードを身体の表面へ深々と突き立てる。核には届いていないが、剣を捻り、スライム全体を石床へ押さえつけた。
「今!」
もがくスライムの動きが止まる。それに向けて麗華は杖を向け、今度こそ慎重に狙いを定めた。
「……当たって!」
ポンッ! みたび光球が撃ち出され、今度こそ、核のど真ん中へと完璧に命中した。
「――っ! やった!」
「次!」
喜ぶ暇はない。残り三体。けれど、戦況は完全に逆転していた。残る三体も、数が減ってしまえば蛍たちの敵ではなかった。
「はぁぁぁ……」
誰かが安堵でその場へ座り込みそうになり、香奈恵が慌てて支えた。
「座るなら壁際よ。まだ完全に安全とは限らないわ」
「委員長、厳しい……」
「さっきまで油断してた結果がこれでしょう」
「……ごもっともです」
疲労の混じった苦笑が漏れる。蛍も深く息を吐きながら、麗華へ視線を向けた。麗華は杖を両手で握ったまま、何故か不思議そうに首を傾げていた。
「……どうしたの?」
蛍に声をかけられ、麗華は手の中の杖を見下ろした。
「これ……光らないのよ。さっきと同じように両手で持ってるのに」
麗華は念のため、誰もいない壁へ先端を向けてみる。先ほどまでなら、それだけで先端の石に青白い光が集まったはずだった。だが――今は何も起こらない。
「……本当だ」
「…………麗華さん、壊した?」
「私のせいみたいに言わないでよ」
蛍は杖へ顔を近づける。外見上、壊れた様子はなかった。先端の石にも亀裂はなく、さっきまでと何も変わっていない。
「使ったのって……三回よね?」
香奈恵が確認する。
「ええ。最初の一発と、外した一発、それから最後に当てた一発」
「じゃあ三回までしか使えないとか? それとも三発撃ったら終わりの使い捨て?」
「そんな不便な武器ある?」
「ここなら何があっても驚けないでしょ」
誰かの言葉に、全員が黙った。
「……琴音ちゃんに聞いた方がいいかも。ゲームなら、回数制限のある魔法武器とか詳しそうだし」
「じゃあこれは持って帰りましょう。今日の目的は装備を集めることなんだから。使い方を全部ここで解明する必要はないわ」
「「「賛成」」」
その言葉にみんなが深く頷く。先ほどの戦闘で分かったことだけでも、収穫は十分すぎるほどだった。この魔法の杖は、剣や運動の経験がない麗華にも使えた。剣を振るう自信のない生徒でも、後ろからなら戦えるかもしれない。
「それより、また何か落ちてない?」
全員の視線が、先ほどスライムたちが消えた場所へ集まる。半透明の身体が消滅した跡には、いくつかのドロップ品が残されていた。見覚えのある短剣。薄い革製の防具。そして――。
「……あれって」
蛍が目を細める。細長い木製で緩やかに湾曲したアーチ。両端をピンと結ぶ強靭な弦。
「弓……?」
「どう見ても弓ね」
香奈恵も同意する。蛍は慎重に近づき、それを拾い上げた。杖と同じように、見た目の割には驚くほど軽い。
「矢がない」
「本当だ」
「弓だけ落とされても困らない? その辺に矢筒とかないの?」
周囲を探してみるが、どこにもない。落ちているのは弓本体だけだった。
「……これも、普通の弓じゃないのかしら」
麗華が手の中の杖を見ながら推測する。
「これだって、見た目はただの杖なのに光の弾を撃てたんだから。この弓も、矢なしで魔力か何かを撃てるとかなのかしら」
「試してみる?」
葵が聞く。蛍は少し考えてから、静かに首を横に振った。
「……今日はやめよう。もう装備も増えたし、戦闘も二回した。さっきだって、少し油断して大きな音を出したせいでスライムを呼んじゃったし」
そう言われて、先ほどはしゃいでいた何人かが気まずそうに目を逸らした。
「今日の目的は達成してるものね。新しい遠距離装備を二種類も見つけた。これ以上欲張る必要はないわ」
「……青い果実は?」
身体の変化に強く悩んでいた生徒が、少し残念そうに尋ねる。香奈恵は一瞬だけ黙り、それから首を振った。
「今日は探さない。青い果実が欲しいからこそ、まず安全に探索できる人数を増やすって決めたでしょう?」
「……そっか」
「次もあるわ。焦らなくても」
――次もある。その言葉に、蛍の胸の奥で、微かな違和感がちくりと疼いた。
(次もある……?)
迷宮へ潜ることが、いつの間にか「当然の予定」として口にされている。昨日まで、誰もが死ぬほど恐れていたはずの迷宮。だが今は違う。装備さえあれば戦える。魔法があれば、運動が苦手な子でも奥へ進める。
「これ持って帰ったら、琴音ちゃん絶対喜ぶよね」
「喜ぶのかな……?」
「少なくとも一時間くらいは一人で考察してくれそう」
「それはありそうね」
くすくすと、小さな笑いが起きた。蛍もつられて笑いながら、拾った装備をまとめる。杖に弓。それに短剣と防具。青い果実こそ見つからなかったが、それでも今日ここへ来た目的としては十分すぎる成果だった。
「じゃあ、帰ろう」
蛍の言葉に、全員が力強く頷いた。来た道を引き返す。その足取りは、ここへ来る時よりも明らかに軽かった。青い果実は見つからなかった。それでも、自分たちには新しい選択肢が増えた。そのことを、この時の少女たちは純粋に喜んでいた。
――それが、これまで迷宮へ足を踏み入れることさえ拒んでいた少女たちを、次々と鉄扉の向こうへ連れ出すきっかけになることなど――まだ、誰も知らなかった。