爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
「……開けよう」
最初にそう口にしたのが誰だったのか、後になって蛍には思い出せなかった。
自分だったような気もするし、葵だったような気もする。あるいは、十人全員が同じ瞬間に同じことを思っただけなのかもしれない。
「本当にいいのね?」
巨大な扉を前に、香奈恵が最後の確認を取る。返事はすぐには返ってこなかったが、かといって「帰ろう」と言い出す者もいなかった。
「……うん」
蛍が短く頷く。
「危なかったら、すぐ戻ろう」
「それは絶対よ」
香奈恵も真剣な表情で頷き返した。
「無理だと思ったら戦わない。扉が閉まるかどうかも分からないんだから、入ったらまず逃げ道を確認して――」
「了解」
「分かった」
次々と重なる返事を合図に、前衛四人が扉の左右へ散り、中衛と後衛が安全な距離を取る。そして蛍と葵が、それぞれ片側の扉へ手を掛けた。
「せーの」
二人で力を込める。
ギ、ギギギギギ――。
重々しい金属音が、静まり返った通路に響いた。
見た目ほどの重さではない。いや、重いことは重いのだが、二人がかりならどうにか動かせる程度だ。まるで最初から、『誰かが開けることを前提』に作られているような重さだった。
扉がゆっくりと開いていき、その隙間からひんやりと冷たい空気が流れ込んでくる。
「……広っ」
葵が思わず声を漏らす。
そこは、これまで通ってきた迷宮の通路とは明らかに違う空間だった。
天井は高く、教室どころか体育館すらすっぽり入りそうなほどに広い。円形に近い石造りの大広間で、壁際には一定間隔で松明が灯され、床には巨大な円を描くような文様が刻み込まれている。
だが、その中央には何もいなかった。
「……何もいない?」
琴音が弓を構えたまま、不審げに呟く。
「そうみたいだけど」
蛍も剣を抜いたまま、ゆっくりと室内を見回した。罠や伏兵が潜んでいそうな天井から壁際、床まで順に確認していくが、目につく範囲にそれらしいものは見当たらない。
「扉、開いたままだね」
後ろを振り返った葵が言う。
「なら、逃げ道はあるわね」
香奈恵が少し安堵したように息を吐いた。
「全員、一気に奥まで行かないで。入口近くで――」
そこまで言った時だった。
ゴゴ……。
重く低い音が、大広間の奥から響いた。
「……え?」
誰かが声を漏らすと同時、足元の床が小さく、けれど確かに揺れた。
ゴゴゴゴゴ……。
「何か動いてる!」
蛍が叫び、全員が一斉に武器を構えた。
大広間の最奥。壁だと思っていた巨大な石の塊が、不気味な重低音を響かせながらゆっくりと動き始めたのだ。
「うそ……」
それは壁でも、積み重なった岩でもなかった。
二本の太い脚に、巨大な胴体。肩からぶら下がる、丸太よりも太い両腕。頭部らしき部分には顔と呼べるものすらなく、ただ石を粗く人の形へ削り出したような異形の巨体が、長い眠りから目覚めるようにゆっくりと身を起こしていく。
「……ゴーレム」
琴音が呆然と呟く。
「やっぱりそういうのいるんだ……」
「感心してる場合!?」
麗華の裏返った声が響く。
立ち上がった石の巨人は、軽く三メートルを超えていた。
蛍たちを見下ろすように頭部が動く。目などないのに、明確に『見られている』。蛍は本能的にそう感じた。
「下がって!」
香奈恵の声に、全員が一斉に距離を取る。
その直後、ゴーレムの右腕が大きく後ろへ引かれた。
「来る!」
蛍の叫びと同時、巨大な拳が床へ叩きつけられた。
ドォンッ!!
「きゃあっ!」
凄まじい轟音とともに床が震え、砕けた石片が四方へ飛び散る。直撃などしていないにもかかわらず、衝撃だけで身体が大きく揺さぶられた。
「な、なにこれ……!」
「当たったら洒落にならないよ!」
「受けちゃダメ!」
蛍は叫びながら、粉塵の向こうに見えるゴーレムを睨みつけた。
大きいし、間違いなく強い。けれど――遅い。拳を振り下ろす前には明らかな動作のタメがあり、少なくとも何の前触れもなく攻撃が飛んでくるわけではない。
「動きは見える!」
蛍が声を張る。
「攻撃の前に大きく構えるから、ちゃんと見てれば避けられる!」
「でも当たったら終わるやつだよね!?」
「多分!」
「多分って言わないで!」
葵が叫び返しながらも、その顔には怯えだけでなく、ヒリヒリとした緊張と笑みが混じっていた。
まだ恐怖よりも、戦う意思の方が勝っている。何より、相手は一体でこちらは十人だ。
「前衛、散って!」
蛍が駆け出し、葵たちも左右へ分かれる。
ゴーレムは最も近くにいた蛍へ身体を向けた。
「こっち!」
蛍がさらに右へ回り込むと、巨体が鈍重な動きで追随する。
(遅い。これなら――)
「いける!」
蛍は一気に懐へ飛び込むと、人間ならまともに受ければ立っていられない膝の関節を狙い、ショートソードを全力で振り抜いた。
ガキンッ!
「っ!?」
手首まで痺れるような硬質な衝撃が返ってきた。刃は完全に弾かれ、ゴーレムの脚には白い傷が一本入っただけだった。
「硬っ……!」
「蛍ちゃん!」
葵の悲鳴に近い声が飛ぶ。
ゴーレムの腕が動く気配に、蛍は反射的に後ろへ飛んだ。巨大な手が、さっきまで蛍のいた空間を横薙ぎに通り過ぎ、凄まじい風圧が頬を打つ。
「普通の剣じゃダメ!」
着地しながら蛍が叫ぶ。
「傷はつくけど、全然効いてない!」
「だったら!」
中衛の一人が槍を構えた。
「関節なら!」
「待って!」
だが蛍の制止より早く少女は踏み込み、石と石が組み合わさった肘の継ぎ目を狙って、全力で槍を突き込んだ。
ガンッ!
「入った!」
槍の穂先が僅かに隙間へ食い込んだものの、今度はそこから動かなくなった。
「抜けな――」
「避けて!」
ゴーレムは肘に食い込んだ槍ごと、腕を大きく振り払った。
「え――」
少女は咄嗟に槍を手放したが、太い腕がその身体の横を無慈悲に掠める。直接殴られてはいない。それでも肩口を巻き込まれるように弾かれ、少女の身体が宙を舞った。
「きゃああっ!」
壁際へ激しく転がった少女へ、香奈恵ともう一人が慌てて駆け寄る。
「大丈夫!?」
「う……っ、げほっ……」
呼吸も意識もしっかりしているものの、すぐに立ち上がれる状態ではなさそうだ。
「腕は!?」
「動く……けど、痛い……」
「無理しないで! 下がってて!」
それを見た瞬間、全員の顔からさっきまで残っていた僅かな余裕が消え去った。まともに殴られたわけでもないのに、たった一度腕が掠めただけで、一人が戦線から外されたのだ。
「……これ」
葵が息を呑む。
「今までのと全然違う……」
「だからボスなんでしょ!」
琴音が叫ぶ。声には恐怖が滲んでいたが、その目だけはゴーレムの動きを追い続け、必死に攻略の糸口を探していた。
「蛍さん! 普通の武器が効かないなら魔法!」
「麗華!」
「もう構えてる!」
麗華が杖を前へ向けると、青白い光が先端へ集束し始める。
「ちょっと動かさないで!」
「無茶言わないでよ!」
「何とかして!」
「葵!」
「はいはい!」
蛍と葵が左右から走り出し、ゴーレムが二人を追おうと鈍重な身体を動かす。
「こっちこっち!」
葵が声を上げながら床を蹴ると、それを追うようにゴーレムの左腕が持ち上がり、巨大な拳が振り下ろされた。
葵は間一髪で横へ跳び、直後に響いた轟音とともに、石床へ蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
「今!」
麗華の杖が眩く光った。
青白い光球が一直線に飛び、ゴーレムの肩へ直撃する。
ドンッ!
「おおっ!」
着弾した肩から石片が派手に弾け飛び、拳ほどもある欠片が床へ転がった。剣でつけた白い傷とは比較にならないほど大きく、その部分だけがごっそりと抉れている。
「効いてる!」
「魔法なら通る!」
「もう一発いく!?」
「待って!」
蛍が鋭く止めた。
「麗華、もうあと一発しかないでしょ!」
「そうだけど!」
「適当に撃つのは勿体ない!」
「じゃあどこ狙うのよ!」
「分からない!」
「分からないの!?」
「だから今探す!」
ゴーレムが再び動き出す。
大きく抉れた肩など気にする素振りすらなく、こちらへ向かって歩いてくるところを見る限り、そもそも痛みというものが存在しないのだろう。
「弱点!」
琴音が弓を構えながら叫ぶ。
「こういう敵なら絶対どっかにあるはず!」
「ゲーム基準!?」
「今はそれでも探すしかないでしょ!」
ゲームの知識がどこまで通用するかは分からないが、今は他に手掛かりもない。
蛍は戦いながら巨体の隅々へ目を走らせたものの、頭も胴体も肩も腕も脚も、どこを見ても同じ石の塊にしか見えなかった。
――そう思った瞬間、ゴーレムが身体を捻った拍子に、胸部の石板の隙間から淡い青色の光が覗いた。
「……胸?」
「蛍?」
「琴音、今の見えた!?」
「見えた!」
同じものを捉えていたらしい琴音が大きく頷く。
「胸の中! 何か光ってる!」
ゴーレムが正面へ向き直ると、先ほど見えた光は分厚い石板の奥へほとんど隠れてしまった。
「でも前からじゃ狙えない!」
葵が叫ぶ。
「腕も邪魔!」
「だったら腕をどける!」
蛍が再び踏み込んだ。
「右腕を狙って! さっき槍が入ったところ!」
「了解!」
蛍が先頭に立って右側へ回り込み、葵たち前衛と残った中衛もそれに続く。
「同じ場所!」
蛍のショートソードが肘の継ぎ目を叩き、そこへ葵の持つ柄が続いた。さらに別方向からの攻撃も加わり、先ほど槍が食い込んだ箇所へ何度も何度も打撃を重ねていく。
ギ……ギギ……。
石同士が軋むような異音が、初めてゴーレムの内部から漏れた。
「効いてる!」
「続けて!」
だが相手も黙ってはいない。
残った左腕が持ち上がるたびに全員で飛び退き、巨大な拳が床を叩いた直後には再び踏み込んで、傷ついた肘へ攻撃を重ねる。
今までの雑魚戦とは違い、ほんの一度でも退くタイミングを誤れば誰かが吹き飛ばされるため、焦らず攻撃と回避を繰り返すしかなかった。
「亀裂、広がってる!」
葵の声に目を向ければ、右肘の継ぎ目にははっきりとした亀裂が走っている。
「弓、あそこ狙える!?」
「やってみる!」
返事をしたのは、琴音と並んで後衛にいたもう一人の弓使いだった。
引き絞られた弦に光が集まり、半透明の矢を形作る。
「撃つよ!」
放たれた光の矢が、前衛たちの攻撃で傷ついた右肘へ突き刺さった。
バガンッ!
大きな破砕音とともに亀裂が一気に広がり、ゴーレムの右腕が肘から下を失って床へ崩れ落ちる。
「やった!」
「いける!」
歓声が上がる。
だが、蛍はすぐさま声を張った。
「まだ!」
ゴーレムは止まらない。
右腕を失ったまま、残された左腕を大きく引く。
「下がって!」
全員が散った、その時だった。
「胸!」
琴音が叫ぶ。
片腕を失ったことでゴーレムの姿勢が崩れ、胸部を覆っていた石板が僅かにずれている。その奥には、拳より一回り大きい宝石のような青白い『核』が、今度こそはっきりと見えていた。
「見えた!」
「狙う!」
琴音が弓を引くと、光が弦へ集まり矢の形を作る。
「待って!」
蛍が声を上げた。
ゴーレムが身体を戻そうとしており、このままでは再び核が隠れてしまう。
「葵!」
「分かってる!」
二人が同時に前へ出た。
「ちょっと!?」
香奈恵の悲鳴じみた声が飛ぶが、蛍はゴーレムの左脚へ、葵は右脚へ滑り込む。
「せーの!」
二人同時に、膝裏へ全力で武器を叩き込む。人間なら確実に倒れる一撃だが、石の巨人はそれだけでは崩れない。
「まだ!」
別方向へ回り込んでいた残る前衛二人も加わり、四人で膝周りへ攻撃を重ねる。
さすがの巨体も支え切れなかったのか、ゴーレムの身体がぐらりと前へ傾いた。
「今!」
琴音が弦を離した瞬間、光の矢がゴーレムの胸元へ一直線に走り、露出した青白い核へ正確に命中した。
パァンッ!
「当たった!」
核の表面に細い亀裂が走る。
しかし砕けない。
「もう一発!」
琴音が再び矢を作ろうとするが、その間にもゴーレムは体勢を立て直し、胸部を閉じようとしていた。
「まずい、隠れる!」
葵が叫ぶ。
「もう一回狙って!」
蛍の声に応じて琴音が弓を引き絞る。
核へ向かって二本目の光の矢が放たれた瞬間、ゴーレムは残された左腕を持ち上げ、胸の前へ割り込ませた。
「庇った!」
光の矢が左腕へ突き刺さり、表面の石を大きく削る。
だが核には届かなかった。
「こいつ、あれだけは守るんだ!」
琴音の声に、蛍も気づいた。
肩を抉られても、腕を壊されても、ゴーレムはほとんど構わずこちらを攻撃し続けていた。
それなのに核を狙われた時だけは、明確に左腕を盾として使っている。
「やっぱりあれが弱点!」
「でも、どうやって撃つの!?」
葵が息を弾ませながら叫ぶ。
「左腕も壊すしか――」
「待って!」
香奈恵の声が響いた。
「全部壊さなくていい!」
「え?」
「守るなら、それを利用できるわ!」
全員が一瞬だけ香奈恵を見る。
「どういうこと!?」
「核を狙えば、あの腕で守るんでしょう? だったら一方向から攻撃させて、そっちへ腕を向ければいい!」
蛍は息を呑み、すぐに麗華へ目を向けた。
「反対側から……!」
「そう!」
麗華も意図を理解したらしく、杖を握り直す。
「私、あと一発だからね」
「それで決める!」
「簡単に言わないでよ!」
そう返しながらも、麗華の目は真剣だった。
「琴音は?」
「私は今ので二発。多分、もう撃てない」
「だったら――」
香奈恵がもう一人の弓使いを見る。
「あなた、まだ撃てる?」
「たぶん、あと一回なら!」
「じゃあ囮をお願い。核を本気で狙って。あいつが腕で防いだ瞬間に、反対から麗華さんが撃つ!」
「分かった!」
「前衛は位置を作って!」
「了解!」
蛍たちが再び前へ飛び出した。
ここからは無理に傷を増やす必要はない。後衛二人が左右から核を狙えるよう、ゴーレムの向きと立ち位置さえ整えればいい。
「こっち!」
蛍が正面から注意を引き、葵たちは左右へ回り込む。残った中衛も外側から牽制を加え、ゴーレムが振り回す左腕をぎりぎりまで引きつけては避けながら、少しずつ狙った場所へ誘導していった。
「もう少し!」
香奈恵が後ろから位置を確認する。
「麗華さん、そのまま左! 弓は右側へ!」
「分かった!」
やがてゴーレムの身体が二人の射線の中央へ入る。
揺れる胸部の隙間から、青白い核が覗いた。
「今!」
「撃つ!」
右側から光の矢が放たれる。
真っ直ぐ核へ迫る一撃に対して、ゴーレムは狙い通り残された左腕を胸の前へ持ち上げ、その軌道を塞いだ。
「麗華!」
「いくわよ!」
同時に、反対側で麗華の杖が青白く輝く。
残された最後の一発。
左腕が反対側の矢を防いでいる今、核を守るものは何もない。
「当たりなさいっ!」
放たれた光球が青白い核を正面から捉えた。
パキン、と戦いの激しさには不釣り合いなほど小さな音が響く。
次の瞬間、先ほど琴音の矢によって刻まれていた亀裂が一気に広がった。
パァンッ!
今度こそ核が砕け、内部に閉じ込められていた青白い光が激しく弾け飛んだ。
「っ!」
ゴーレムの動きが、ピタリと止まる。
振り上げていた左腕も、踏み出しかけていた脚も、全てがその場で硬直した。
「……止まった?」
葵が呟く間にも、砕けた核から漏れ出した光が胸部の亀裂を伝い、一筋、また一筋と全身へ広がっていく。
やがて支えを失ったかのように、巨体そのものがゴゴ……と大きく揺れ始めた。
「下がって!」
蛍の声に全員が距離を取った直後、限界を迎えたゴーレムの身体が肩から崩れ始める。
腕、胸、脚と巨大な石の塊が次々に床へ落ちていくものの、それらは砕けるそばから淡い光の粒子へ変わり、跡形もなく消えていった。
やがて最後まで残っていた胸部も音を立てて崩れ、大広間には戦いが始まる前と同じ静寂が戻った。
「…………」
誰も声を出せないまま、十人全員がゴーレムの消えた場所を見つめていた。
「……勝った?」
琴音が恐る恐る零した一言をきっかけに、張り詰めていた空気が一気に弾けた。
「勝ったああああああっ!」
「やった!」
「ほんとに!?」
「倒した!?」
「倒したよね!?」
歓声が一斉に広がり、その場へ座り込む者、抱き合う者、笑う者、半分泣いている者までいる。
蛍もその場で大きく息を吐き出した。気がつけば剣を握る手が小さく震えており、今更になって、心臓がうるさいほど鳴っていることにも気づく。
「怪我!」
香奈恵だけは、すぐに我に返った。
「さっき吹き飛ばされた子!」
「だ、大丈夫……立てる」
壁際で休んでいた少女が、仲間の手を借りながら立ち上がる。肩は痛むらしいが腕は動かせるし、見た限りでは骨折している様子もない。
「帰ったらすぐ休んで」
「うん……」
「もう今日は絶対戦わせないからね」
「分かってるって」
そのやり取りを聞いて、ようやく香奈恵も安堵したように息を吐いた。
そんな空気が広がりかけたところで、琴音が何かに気づいたようにゴーレムの消えた場所へ目を向ける。
「あ……」
その視線の先、床の上に何かが転がっていた。
「……青?」
蛍の目が見開かれる。
転がっている青い実を目で追って数えていくと、全部で五つある。形も色も、すでに教室へ持ち帰っているあの一個とまったく同じだった。
「……五個」
誰かが、呆然と呟く。
「五個もある……」
これまでに手に入った青い果実は一個だけで、赤い果実による身体の変化を本当に元へ戻せるのかどうかも、まだ確かめられていない。
もし使って何の効果もなかったり、予想とはまったく違う結果になったりすれば、それで唯一の一個を失うことになる。そのため、誰も迂闊には試せずにいたのだ。
けれど、今回の五個を加えれば全部で六個になる。
六個もあるなら、一個を試して残りを取っておくこともできるし、何人かで食べて同じ変化が起きるか確かめることだってできる。複数人に同じ結果が出れば、それが青い果実の効果なのだと、今よりずっと確信を持てるはずだ。
「これなら……試せる?」
誰かが小さく呟いたものの、すぐに返事をする者はいなかった。
けれど蛍も同じことを考えており、これでようやく、青い果実が何なのかを実際に確かめられるだけの余裕ができたのだと思うと、自然とその五つから目を離せなくなった。
「ボスを倒したから、出たのかな」
琴音が青い果実を見つめたまま呟く。
「多分……?」
葵も確信は持てないらしく首を傾げ、それから五つの実へ視線を戻した。
「じゃあ、こういうの倒せば、また手に入るってこと?」
その言葉を聞いた蛍は、反射的に琴音へ目を向けた。向こうも同じ可能性に気づいたらしく、青い果実を見つめたまま黙り込んでいる。
また同じようなボスを倒せば、青い果実が手に入るのかもしれない。
そうであれば、これから赤い果実で身体が変わっていったとしても、いずれ元に戻せる手段が――。
そこまで考えたところで、蛍は小さく首を振った。
ほんの少し前まで命懸けで戦っていたというのに、もう次のボスを倒した時の報酬を考えている自分がいる。
それに気づいた途端、胸の奥に言いようのない気味悪さが残った。
そもそも、青い果実にどんな効果があるのかさえ、まだこれから確かめるところなのだ。
「待って」
麗華が声を上げた。
「まだ何かある」
「え?」
ゴーレムが消えた場所のさらに奥には、青い果実とは別にいくつかの装備が残されていた。
これまで拾った物より明らかに立派な幅広の剣に、複雑な装飾が施された杖、そして金属板を幾重にも組み合わせた重厚な防具まである。
「……レアドロップ?」
琴音の声が僅かに弾む。
「多分、今までのより上の装備……」
「今日は持って帰ってから確認しよう」
香奈恵が即座に釘を刺した。
「もう戦うのは無し。絶対」
「異議なーし……」
葵もその場にしゃがみ込みながら答える。
「さすがに疲れた……」
「私も杖、もう撃てないし」
麗華が力なくそう言った、その直後だった。
ゴォン――。
ゴーレムが動き出した時とはまた違う、地鳴りのような低い音が大広間へ響き渡った。
「っ!?」
全員が一斉に武器を構え直す。
「まだ何かいる!?」
「違う!」
琴音が床を指差した。
「これ……!」
変化が起きたのは部屋の中央だった。
ゴーレムとの戦いに夢中で意識から外れていた、床いっぱいに刻まれた巨大な円形の文様が、淡い白色の光を帯び始めている。
「……魔法陣?」
淡い白光は刻まれた溝に沿って次々と広がり、幾何学的な模様や見たこともない文字のような記号を浮かび上がらせながら、やがて床一面を覆う巨大な魔法陣を形作った。
少なくとも見た目から危険は感じられず、魔物を前にした時のような威圧感もない。むしろ静かに揺れる白い光は、警戒しているはずなのに思わず見入ってしまうほど澄んでいた。
「……これ」
琴音が恐る恐る近づく。
「三島さん、近づきすぎないで」
「分かってる」
そう答えながらも、琴音の目は魔法陣へ釘付けだった。
「何だと思う?」
葵が尋ねる。
琴音はしばらく黙って魔法陣を観察してから、慎重に答えた。
「……ワープポイント、かも。ボス倒した後に出てくる魔法陣で、攻略済みの場所から拠点に戻ったり、次からここまでショートカットできたり……ゲームなら、そういうのがある」
「本当にワープできるの?」
「そこまでは断言できない。でも、ボスを倒した直後に起動したってことまで考えると、可能性は高いと思う」
琴音も断言することはせず、白い魔法陣から一定の距離を保ったまま慎重に観察していた。
ゴーレムを倒したことで得られたのは、五つもの青い果実と、これまでとは明らかに格の違う装備だけではない。
戦いが終わった直後に起動したこの魔法陣まで含めれば、あの守護者を突破したことで、自分たちの探索がひとつ先の段階へ進んだようにも思える。
蛍は静かに揺れる白い光を見つめながら、無意識に小さく息を吐いた。
十日前の自分なら、行き先も効果も分からないこんなものを見つければ、迷わず距離を取っていただろう。何が起きるかも分からないものへ、自分から近づこうなど考えもしなかったはずだ。
それなのに今は、警戒しながらも、この魔法陣がどこへ繋がっているのかを確かめたいという好奇心が確かにある。
その変化を自覚した時、目の前の白い光は、ただ警戒するべき未知のものではなく、この先へ進む道を示すもののように見えてしまった。
「今日は、ここまで。青い果実も装備も回収する。魔法陣は――帰ってから全員で相談して、それから試す」
「賛成」
蛍は即座に答え、葵もそれに頷く。
「私も」
「さすがに今日はもういい……」
「MPも空っぽだしね」
反対する者はいなかった。
白い魔法陣だけが、何も急かすことなく床の上で静かに輝き続けている。
その白い光は、まるで――
――次は、ここから先へどうぞ。
迷宮そのものが、そう静かに次の道を示しているようだった。