爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~   作:a-ru

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第十四話『青い果実の答え』

 大広間を出る前に、蛍たちはもう一度だけ今回の戦利品を確認した。

 

 ゴーレムが消滅した場所に残されていたのは、五つの青い果実と、これまで拾ってきた物より明らかに上等な三つの装備だ。幅広の剣と複雑な装飾の施された杖、それから金属板を幾重にも組み合わせた重厚な鎧が、白い魔法陣の光を受けて淡く輝いている。

 

「これ、どうやって持って帰るの?」

 

 葵が鎧の肩部分を両手で掴み、試しに持ち上げようとしてすぐに顔をしかめた。

 

「うわ、重っ……。これ抱えたまま帰るの、かなり嫌なんだけど」

 

「装備すればいいんじゃない?」

 

 琴音が鎧を眺めながら言う。

 

「今までの防具も、着けたら身体に合わせてくれたでしょ。これも同じなら、持つより着た方が楽だと思う」

 

「ああ、そっか」

 

 これまで迷宮で手に入れた革製の防具は、着用者の体型に合わせて自動的に形を変えてくれた。それだけでなく、増え続ける胸の重みや揺れまで綺麗に支えてくれるため、今では探索組にとって欠かせない装備になっている。

 

 見た目からしてその上位品らしいこの鎧にも同じ機能があるなら、わざわざ抱えて歩く必要はない。

 

「じゃあ、私が試してみる」

 

「蛍ちゃん?」

 

「前衛だし、帰るまでに何か出た時にも使えるでしょ。変だったらすぐ外すよ」

 

 葵に鎧を支えてもらいながら、蛍は金属製の胸甲を自分の身体へ押し当てた。

 

 冷たい金属の表面を淡い光が走ったかと思うと、幾重にも重なった金属板が互いに擦れ合いながら滑らかに動き始める。

 

「わ……」

 

 肩幅、腰回り、腕の長さ。鎧は蛍の身体を確かめるように形を変え、胸部を覆う部分も今の体型に合わせて無理なく膨らんでいく。

 

 数秒も経たないうちに調整は終わり、重厚な鎧はまるで最初から蛍のために作られたかのように、身体へぴたりと収まっていた。

 

「どう?」

 

 葵が心配そうに覗き込む。蛍は腕を上げ、肩を回してから、その場で何度か足を踏み替えた。

 

「……軽い」

 

「それが?」

 

「うん。持った時はすごく重かったのに、着けてるとほとんど気にならない」

 

 試しに身体を捻ってみても、金属板が動きを邪魔する感覚はない。むしろ今までの革製防具以上に全身が安定しており、胸元もきちんと支えられているため、前へ踏み込んでも身体の軸がぶれにくかった。

 

 それでいて、指先で胸甲を叩けば返ってくるのは、コン、と硬い金属音だ。

 

「見た目だけ金属ってわけでもないみたい」

 

「軽いのに硬いって、普通にすごくない?」

 

 葵が感心したように鎧を触る。

 

「やっぱりボスの装備だから、今までのより上なんじゃない?」

 

「多分」

 

 琴音も興味深そうに鎧を観察していたが、香奈恵が手を叩いて全員の注意を戻した。

 

「詳しく調べるのは帰ってからにしましょう。今日はもう十分よ。帰るまで何があるか分からないんだから、最後まで気を抜かないで」

 

「はーい」

 

 誰からも反対は出なかった。

 

 五つの青い果実と新しい剣、杖を分担して持ち、蛍だけは鎧を装備したまま大広間を後にする。

 

◇ ◇ ◇ 

 

 帰路では、できる限り戦闘を避けることにした。

 

 途中で一度、曲がり角の先に三体のゴブリンを見つけたものの、幸い向こうはこちらに気づいていない。蛍たちは来た道から少し外れ、別の通路を使って迂回した。

 

 普段なら三体程度をわざわざ避けることはなかったかもしれないが、今は余計な危険を冒す理由がない。

 

 麗華は魔法を使い切り、琴音たち弓使いにもほとんど余力が残っていない。槍を使っていた少女も肩を痛めており、歩くことはできても戦闘へ戻れる状態ではなかった。

 

 何より、今日はすでに十分すぎる成果を得ている。

 

「もう少しだよ」

 

 見覚えのある分岐まで戻ってきたところで、先頭を歩いていた蛍が後ろを振り返る。

 

「ここからならそんなに遠くない」

 

「やっと帰れる……」

 

 麗華が疲れ切った声を漏らした。

 

「今日はもう、お風呂入って寝たい」

 

「私も」

 

 葵もすぐに同意したが、少し考えてから付け加えた。

 

「でも、その前に青い果実だよね」

 

「分かってるわよ」

 

 麗華は待ってましたとばかりに答えた。琴音がちらりと彼女へ視線を向けたものの、以前のように口を挟むことはない。

 

 あの時は、青い果実がたった一つしかなかった。誰か一人が使えばそれで終わりで、何の効果もなかったとしてもやり直すことはできなかったからこそ、使うべきではないと琴音は主張したのだ。

 

 だが今は、教室に保管している一個を合わせて六個になる。一つを試しても五個残るのなら、以前とはまったく状況が違っていた。

 

「効果、本当に分かるといいね」

 

 葵が言う。

 

「分かってもらわなきゃ困るわ」

 

 麗華はそう答えながら、自分の胸元を片手で支えるように押さえた。迷宮の中では防具が重みを受け止めてくれるため、まだいい。けれど教室へ戻れば、その助けはなくなる。

 

 今朝、とうとう胸囲が一メートルを超えたばかりの麗華にとって、青い果実が本当に身体を戻してくれるのかどうかは、誰よりも切実な問題だった。

 

 やがて、見慣れた重い鉄扉が通路の先に現れた。

 

「着いた……!」

 

 誰かが安堵した声を漏らす。香奈恵が周囲を最後に確認してから扉へ手を掛け、ギギギ、と重い音を響かせながら押し開いていく。

 

 迷宮の冷たい空気の向こうに、十日間ですっかり見慣れた教室の柔らかな明かりが広がった。

 

「ただいまー……」

 

 葵が気の抜けた声を漏らしながら先に敷居を跨ぎ、蛍もその後へ続いて教室へ足を踏み入れる。すると、身体へ吸い付くように固定されていた金属鎧から、不意に淡い光が消えた。

 

「わっ!?」

 

 それまでほとんど感じなかった本来の重量が一気に戻り、緩んだ金属板が蛍の身体から滑り落ちかける。

 

「蛍ちゃん!」

 

 隣にいた葵ともう一人が慌てて鎧を支えた。同時に、後ろから肩を押さえながら入ってきた少女が、驚いたように腕を動かす。

 

「あれ……?」

 

「どうしたの?」

 

「肩、痛くない」

 

 先ほどまで腕を上げるたびに顔をしかめていたはずなのに、教室との境界を越えた途端、痛みは完全に消えていた。袖をまくって確認しても腫れや痣すら残っておらず、いつものように、この場所へ戻っただけで迷宮で負った怪我が跡形なく治っている。

 

「よかった……」

 

 香奈恵が安堵する一方で、蛍たちは三人がかりで重い鎧を床へ下ろした。ガシャン、と大きな金属音が教室へ響く。

 

「重っ!」

 

 葵が手を振りながら顔をしかめる。

 

「さっきまで蛍ちゃん、これ着て普通に歩いてたよね?」

 

「私も今ちょっと信じられない」

 

 蛍は驚きながら鎧を見下ろした。

 

 迷宮の中では全身へ吸い付くように固定され、ほとんど重量を感じなかった金属板が、今はただの重い鎧へ戻っている。これまで使ってきた防具と同じく、教室との境界を越えたことで魔法の機能が失われたらしい。

 

「やっぱりこれも、迷宮の中でしか使えないんだ」

 

 琴音が呟く。

 

「でも今までの防具より、効果は明らかに上だったと思う」

 

「それは後で確認しましょう。今は――」

 

 香奈恵が言い終えるより早く、教室の奥から大きな声が上がった。

 

「帰ってきた!」

 

「みんな戻ったよ!」

 

 その声を合図に、待機していたクラスメイトたちが一斉にこちらへ集まってくる。

 

「大丈夫だった!?」

 

「怪我してない?」

 

「何その鎧!? 今までのと全然違うじゃん!」

 

「そんなのどこで拾ったの?」

 

「奥まで行けたの!?」

 

 次々に質問が飛んできて、入口付近はあっという間に人だかりになった。

 

「ちょ、ちょっと待って。一人ずつ――」

 

「それより!」

 

 待機組の一人が、声を張ってみんなを遮った。

 

「こっち来て! 教室も変なの!」

 

「教室?」

 

 香奈恵の表情がすぐに引き締まる。

 

「何があったの?」

 

「床が光ってるの。さっき急に音がして、見たら変な模様が出てきて……!」

 

 その言葉を聞いた瞬間、探索組の何人かが顔を見合わせた。琴音が真っ先に反応する。

 

「どこ?」

 

「後ろ!」

 

 待機組に促されて教室の奥へ視線を向けると、何人かが机と椅子を壁際へ寄せたらしく、後方だけが大きく空けられていた。

 

 その床に浮かんでいたのは、ゴーレムを倒した大広間で見たものと瓜二つの魔法陣だった。淡い白色の線が床いっぱいに大きな円を描き、その内側では幾何学模様と文字にも見える無数の記号が複雑に組み合わされ、静かな光を放っている。

 

「……同じだ」

 

 蛍が思わず呟く。

 

「やっぱり……」

 

 琴音がゆっくりと魔法陣へ近づいた。

 

「これ、いつ出たの?」

 

 香奈恵が待機組へ尋ねる。

 

「正確には分かんない。急にゴォンって音がしたから見たら、床が光り始めてた」

 

「どれくらい前?」

 

「一時間は経ってないと思うけど……」

 

 探索組は再び顔を見合わせた。向こうの大広間で魔法陣が起動した正確な時間までは覚えていないものの、それほど大きくずれてはいないはずだ。

 

「じゃあ、やっぱり繋がってるのかな」

 

 葵が白い光を見つめる。

 

「向こうにも、これと同じのが出たんだよね?」

 

「うん。ゴーレムを倒した直後に」

 

「ゴーレム?」

 

 待機組から声が上がる。

 

「何それ?」

 

「ああ、そこから説明しないと駄目か……」

 

 葵が今さら気づいたように頭を掻いた。

 

「奥にすっごい大きい石の化け物がいたの。三メートル以上あるやつ」

 

「ええ!?」

 

「そんなのと戦ったの!?」

 

「だからその話も後で!」

 

 香奈恵が一度場を落ち着かせ、それから琴音を見る。

 

「三島さん、どう思う?」

 

「見た感じは同じだと思う」

 

 琴音は魔法陣の手前でしゃがみ込み、線や記号を見比べるように目を細めた。

 

「もし向こうのがワープポイントなら、こっちと繋がってる可能性は高いんじゃないかな。ボスを倒した後に拠点とのショートカットが開くゲームは結構あるし」

 

「試してみる?」

 

 待機組の一人が興味深そうに尋ねる。

 

「今日はやめましょう」

 

 香奈恵が即座に止めた。

 

「向こうへ繋がっている保証はないし、片道だけかもしれないでしょう。探索組は疲れてるんだから、試すなら準備してからよ」

 

「私もそれがいいと思う」

 

 琴音もあっさり頷いた。

 

「ゲームなら多分大丈夫だと思うけど、ゲームじゃないし」

 

「三島さんが慎重だ」

 

「私だって慎重な時はあるよ」

 

 葵の茶化すような言葉に琴音が僅かに眉をひそめ、周囲から小さな笑いが漏れた。もし琴音の予想通り、この魔法陣が教室とあの大広間を往復できるものなら、今後の探索は大きく変わる。

 

 これまで何時間も掛けて歩いていた区間を省略できるうえ、帰路で魔物と遭遇する危険も減り、そのぶんさらに奥まで進めるようになるはずだ。

 

 あまりに都合の良い仕組みであることへの警戒心は残るものの、その検証は明日でもできる。今はそれ以上に、今日持ち帰った青い果実の方が全員にとって切実だった。

 

「それじゃ、先に戦利品を確認しましょう」

 

 香奈恵の言葉に、麗華がすぐ反応する。

 

「青い果実からでいいわよね?」

 

「そんなに急がなくても逃げないよ」

 

「十日間ずっと待ってたのよ。急ぐに決まってるでしょ」

 

◇ ◇ ◇ 

 

 教室へ戻った時点で負傷者の肩も完全に治り、帰還の騒ぎがひとまず落ち着いたところで、机をいくつか中央へ寄せて戦利品を並べることになった。

 

 ゴーレムが残した幅広の剣と装飾杖、教室へ入ったことで機能を失った金属鎧。その横には、以前持ち帰った一個を合わせ、全部で六つになった青い果実が並んでいる。

 

「……六個」

 

 麗華が、確かめるように呟く。

 

 以前はたった一つしかなかったため、誰か一人が使えば効果の確認すら満足にできなかった。だが今は六個ある。一個を試しても五個残り、必要なら別の人でも同じ結果が出るか確かめられるだけの余裕があった。

 

「まず一個だけ使いましょう」

 

 香奈恵が全員を見回す。

 

「すぐに何が起こるかも分からないんだから、最初から何人も食べる必要はないと思う。一人が試して、効果と体調を確認してから次を考える。それでいい?」

 

「賛成」

 

「私も」

 

 反対する声は上がらなかった。

 

「じゃあ問題は、誰が――」

 

「私が食べる」

 

 香奈恵が言い終えるより先に、麗華が迷いなく名乗り出た。それでも、以前のように反発する者はいなかった。

 

 今朝の測定で、麗華がクラス五人目となる胸囲一メートルへ達していたことも、青い果実を探すために自ら迷宮へ出るようになった理由も、全員が知っている。

 

「……麗華なら、いいんじゃない?」

 

 誰かがそう言うと、周囲からも小さく頷く気配が広がった。

 

「いいの?」

 

 蛍が念のため尋ねる。

 

「いいの、じゃなくて、私が試したいのよ」

 

 麗華は自分の胸元を見下ろしながら、軽く両腕を組んだ。

 

「朝の時点でとうとう一メートルよ。迷宮の中なら防具が支えてくれるからまだ楽だけど、ここじゃ全部自分で支えなきゃいけないし、寝る時だって邪魔だし……本当に戻せるなら、一日でも早く確かめたい」

 

 いつもの強気な口調ではあったものの、その奥にある切実さを聞き取れない者はいなかった。

 

「じゃあ、食べる前にもう一度測ろう」

 

 香奈恵が記録用のノートを開く。

 

「朝に測ってるでしょ?」

 

「検証なんだから直前の数字が必要でしょ。朝から少し時間も経ってるし、測定誤差だってあるんだから」

 

「分かったわよ」

 

 麗華は少し面倒そうに言いながらも、素直に測定場所へ立った。いつもと同じ位置へメジャーを回し、数値を確認する。

 

「100.1くらい」

 

「朝は100.0だったよね?」

 

「0.1なら測り方の誤差でしょ」

 

「多分ね。じゃあ、今は100.1で記録しておく」

 

 アンダーやウエスト、体重についても改めて数字を残し、一通りの測定が終わる。

 

 麗華はようやく青い果実を一つ手に取った。指先が果皮へ触れると、以前と同じ言葉が意識へ直接流れ込んでくる。

 

『浄化の蒼果。肥えゆく肉を鎮め、身体を清めん』

 

 伝わってくるのは、それだけだった。

 

 どれほど身体を戻せるのか、一度食べればどこまで効果が及ぶのかといった肝心なことは何も分からない。だからこそ、たった一個しかなかった時には誰も試せなかったのだ。

 

 けれど今は、一個を使ってもまだ五個残る。麗華は一度だけ深く息を吸うと、意を決して青い果実へ歯を立てた。シャク、と瑞々しい音が響き、冷たい果汁が口の中へ広がる。

 

「……どう?」

 

 葵がすぐに尋ねる。

 

「まだ食べたばっかりで分かるわけないでしょ」

 

「味は?」

 

「そっち?」

 

「気になるじゃん」

 

 麗華は呆れたような目を向けたものの、もう一口齧ってから少し考える。

 

「赤いのよりさっぱりしてる。甘いけど、後に残らない感じ……梨に近いかも」

 

「美味しい?」

 

「普通に美味しいわよ」

 

「そこは迷宮、外さないんだね」

 

「食べにくかったら誰も使わないからじゃない?」

 

「それはそれで嫌な理由だなあ……」

 

 そんなやり取りをしながら、麗華は青い果実を最後まで食べ切った。全員が固唾を呑んで様子を見守ったが、すぐに目に見える変化が起こるわけではなく、一分、二分と時間だけが過ぎていく。

 

「……何も起きない?」

 

 誰かが不安そうに呟きかけたところで、麗華がふいに胸元へ手を当てた。

 

「あ……」

 

「どうしたの?」

 

 蛍が身を乗り出す。

 

「何か変」

 

「痛い!?」

 

「違う。痛くない」

 

 麗華は戸惑いながら、両手で自分の胸を下から支えるようにして感触を確かめた。

 

「……軽い」

 

「軽い?」

 

「さっきより、明らかに軽い」

 

 葵が何かを言いかけ、そのまま麗華の胸元を見つめて口を閉じた。服越しでも分かるほど、先ほどまで大きく張り出していた輪郭が僅かに収まり、細い胴体との落差も少し和らいで見える。

 

 元の体型へ戻ったとは到底言えない。それでも、見間違いでは済ませられない変化だった。

 

「測って」

 

 麗華自身が言った。

 

「早く」

 

「う、うん」

 

 香奈恵がメジャーを回し、いつもの位置へ合わせる。数字を読み取ったところで、その手が止まった。

 

「……95.1」

 

「え?」

 

「もう一回測る」

 

 位置を整え直し、念のため別の少女にも数字を確認してもらう。

 

「やっぱり95.1」

 

「さっき100.1だったよね?」

 

「うん」

 

 教室のあちこちから、ざわめきが広がっていった。

 

「じゃあ……5センチ?」

 

「一個で?」

 

「本当に小さくなったんだ……」

 

 身長やウエスト、アンダーバストにも大きな変化はない。変わったのは、赤い果実を食べ続けることで増えてきた胸囲だった。麗華は自分の胸元を見下ろしたまま、しばらく言葉を失っていた。

 

 泣いたり大げさに喜んだりするわけではない。ただ、ここ数日ずっと表情に張りついていた強張りが、ほんの少しだけ解けている。

 

「……戻せるんだ」

 

 小さく漏れたその声は、静かになった教室の中ではっきり聞こえた。

 

「全部じゃないけどね」

 

 琴音がノートを覗き込む。

 

「麗華さん、元は92くらいだったでしょ?」

 

「92よ」

 

「だったら初期状態に戻ったわけじゃない。今のところは、一個で5センチ前後減らす効果って考えるのが一番自然だと思う」

 

「5センチ……」

 

 葵が机に残る五つの青い果実を見る。

 

「思ってたよりずっと大きいね」

 

「かなり大きいと思う。でも、一回だけじゃ毎回きっちり5センチなのかまでは分からないよ」

 

「もう一人試す?」

 

 誰かがそう言うと、何人もの視線が残った果実へ向いた。その中で、教室の後方にいた一人の少女だけが、少し離れた場所から青い果実をじっと見つめていた。

 

 大きめのカーディガンを部屋着の上から羽織り、昔から身体の線を隠すように背中を丸めている図書委員の少女だった。

 

 元々麗華よりも胸が大きく、迷宮へ来た最初の日から、これ以上変わることを人一倍怖がっていた一人でもある。

 

 何かを言いたげに青い果実を見つめていたものの、周囲の顔を窺うように視線を動かすと、そのまま何も言わず俯いてしまった。

 

「今日は一個でいいと思う」

 

 香奈恵が言った。

 

「効果が一時的じゃないかも確認したいし、麗華も今夜は様子を見た方がいいでしょう。残り五個は取っておいて、必要になった時にまた相談して使う。それでどう?」

 

「私はそれでいいわ」

 

 麗華がすぐに頷く。

 

「少なくとも、本当に小さくできるって分かっただけで十分よ」

 

「じゃあ決まりね。勝手に使わず、使いたい人がいたらみんなで相談することにしましょう」

 

 五つの青い果実は、以前の一個を保管していた箱へまとめて収められた。

 

「じゃあ、赤いのを食べ続けても、青いのを見つければ戻せるってことだよね」

 

 待機組の一人が、ほっとしたように言う。

 

「今のところは、だけど」

 

 琴音が付け加える。

 

「青い果実が今後どれくらい出るかも分からないし、一個で必ず5センチなのかもまだ確定じゃないよ」

 

「でも全然違うよ」

 

「うん。戻す方法が本当にあったって分かっただけでも安心する」

 

 教室のあちこちから、同意する声が上がった。

 

 蛍も、その気持ちはよく分かる。これまでの赤い果実は、食べれば身体が変わっていくのに、その変化を戻せる保証がどこにもなかった。

 

 毎朝メジャーの数字が増えるたび、少しずつ引き返せない場所へ近づいているような感覚があった。

 

 だが今日、初めてそれを実際に巻き戻すことができた。完全に元へ戻れるわけではなくても、一個で約5センチ。今後も青い果実が手に入るのなら――そう考えただけで、赤い果実に対する恐怖が昨日までより薄れている自分に、蛍は気づいてしまった。

 

「今日はここまでにしましょう」

 

 香奈恵が手を叩く。

 

「装備の詳しい確認も、魔法陣の実験も明日。今日はさすがに色々ありすぎたわ」

 

「賛成……」

 

 葵が机へ突っ伏しそうな勢いで答える。

 

「もうお風呂入りたい」

 

「私も」

 

「MP空っぽだし」

 

 麗華がそう言うと、琴音が少し笑った。

 

「青い果実でMPまでは戻らないんだ?」

 

「少なくとも、そんな感じはしないわね。胸は軽くなったけど、魔法を撃った後の空っぽな感じはそのまま」

 

「それも記録しとこ」

 

「ほんと好きね」

 

 反対する者はいなかった。

 

 中ボスを倒したことで五つもの青い果実と上位装備を手に入れ、教室には新たな白い魔法陣まで現れた。さらに、青い果実には本当に身体の変化を戻す力があることまで確認できたのだ。

 

 分からないこと自体は昨日より増えている。それでも、ただ不安に追われていた頃とは違い、自分たちは確かに一つずつ迷宮の仕組みを解き明かし、前へ進んでいる。

 

 少なくとも、この時の少女たちはそう感じていた。

 

◇ ◇ ◇

 

 翌朝。

 

 教室の前方には、いつものようにメジャーと記録用のノートが用意されていた。

 

「今日は麗華ちゃんから測る?」

 

「昨日、青いの食べたしね」

 

「いいわよ」

 

 麗華が慣れた様子で測定場所へ立つ。昨夜、青い果実を食べた直後の数字は95.1。もし一晩で元へ戻っているようなら、青い果実の効果そのものが一時的だったということになる。

 

「じゃあ測るね」

 

 メジャーをいつもの位置へ回し、測定役の少女が数字を確認した。その表情が、僅かに曇る。

 

「……97.1」

 

「え?」

 

 麗華がすぐに振り返った。

 

「昨日、青い果実を食べた後は95.1だったわよね?」

 

「うん」

 

「じゃあ2センチ戻ってるってこと?」

 

「待って。もう一回測る」

 

 測定役の少女は眉を寄せ、念のためメジャーの位置を整えてからもう一度数字を確認した。結果は変わらない。

 

「やっぱり97.1」

 

「……どういうことよ」

 

 麗華が自分の胸元へ視線を落とす。

 

「青い果実の効果が少し戻った?」

 

「かもしれないけど……」

 

 琴音がノートを覗き込んだ。

 

「他の人も測ってみた方がいいと思う」

 

「じゃあ私」

 

 蛍が前へ出た。昨日の朝の記録は79センチ。いつものようにメジャーを回してもらい、数字を確認する。

 

「……81.1」

 

「え?」

 

 今度は蛍が聞き返した。

 

「昨日から2.1センチ増えてる」

 

「私も!」

 

 葵がすぐに割り込む。

 

「測って!」

 

 昨日の朝は77センチだった葵が、今日は78.9。

 

「1.9……」

 

「じゃあ麗華だけじゃない」

 

 香奈恵も前へ出る。

 

「私もお願い」

 

 97センチだった香奈恵は99.0。琴音も83から85.1。

 

 さらに別の少女たちを測っていくと、1.8、2.0、2.1と多少の差はあっても、ほとんど全員が昨日から約2センチ増えていることが分かってきた。

 

 昨日までとは明らかに違う。

 

「……倍になってる?」

 

 葵が呆然と自分の胸元を見下ろした。

 

「今まで、一日だいたい1センチだったよね?」

 

「多少違う日はあったけど、こんなに全員揃って2センチ近く増えたことはないわ」

 

 香奈恵がこれまでの記録をめくりながら答える。

 

「じゃあ、昨日食べた赤い果実が……?」

 

 蛍が教壇脇の低木を見る。

 

 枝には今日も三十人分の赤い果実が、昨日までと何も変わらない姿で実っていた。色も、大きさも、匂いも同じ。見た目からは何一つ違いが分からない。

 

「昨日までと違ったこと」

 

 琴音がノートを見つめたまま呟く。

 

「中ボスを倒した」

 

 全員の視線が集まる。

 

「それから青い果実が五個出て、今までより明らかに上の装備も出た。ボス部屋に魔法陣が出て、ほぼ同じ時間に教室にもあれが現れた」

 

 琴音が教室後方の白い魔法陣へ目を向ける。

 

「全部、ボスを倒した後に起きてる」

 

「じゃあ……」

 

 香奈恵も魔法陣を見る。

 

「中ボスを倒したことで、迷宮の何かが変わった?」

 

「断言はできないけど、その可能性は高いと思う」

 

 琴音が答える。蛍は改めて自分の記録へ視線を落とした。昨日までなら九日掛かって増えた分と同じだけの変化が、これからは半分ほどの日数で起きるかもしれない。

 

 昨日、青い果実で身体を戻せることが分かり、ようやく少しだけ安心できたばかりだった。その翌朝には、赤い果実による変化そのものが倍近くまで加速している。

 

「……これ、毎日続くのかな」

 

 葵が小さく呟いた。誰にも答えられなかった。

 

 その視線の先では、昨日現れたばかりの白い魔法陣が、何事もなかったかのように静かに輝き続けている。

 

 青い果実に、これまでより明らかに上等な装備。そして、探索に掛かる時間そのものを大きく縮めてくれるかもしれない白い魔法陣。

 

 中ボスを越えたことで、迷宮は昨日までより多くの恩恵を少女たちへ与え始めている。けれど、その一方で赤い果実による身体の変化もまた、確実に加速していた。

 何かを与えるたび、そのぶんだけ別の何かを求めてくる。そんな意思が迷宮にあるのかどうかさえ、今の彼女たちにはまだ分からない。

 

 ただ一つ確かなのは、昨日までと同じ迷宮ではなくなったということだけだった。

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