爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
昨日まで一日およそ一センチだったはずの変化が、ほぼ二センチへ増えている。
何度測り直しても結果は変わらず、教卓の上に開かれた記録ノートには、昨日までとは明らかに違う数字が並んでいた。
「……で、どうする?」
葵がそう言いながら視線を向けたのは、教壇脇に生えた赤い低木だった。
枝には今日も三十個の果実が実っている。色も形も、漂ってくる甘い香りも昨日までとまったく変わらないのに、これを一つ食べれば、また明日の朝には胸囲が二センチほど増えているかもしれない。
その事実が分かった後では、いつも通り手を伸ばすだけのことが妙に重く感じられた。
「食べない、って選択肢は……ないよね」
誰かが未練がましく呟く。
「少なくとも今はね」
香奈恵が答えた。
「昨日食べた分の効果が切れれば、また空腹も喉の渇きも戻ってくるでしょうし、今日は魔法陣の確認もしたい。何かあった時に動けない方が危険よ」
「分かってるけどさあ……昨日までの倍って分かってから食べるの、ちょっと嫌だな」
葵が自分の胸元を見下ろし、部屋着の布地を指で摘まむ。
その気持ちは蛍にもよく分かった。それでも結局、食べる以外に身体を維持する方法は見つかっていない。
何人かは露骨に嫌そうな顔をしながら、今日も一人一つずつ赤い果実を摘み取っていく。蛍も手の中に収まった瑞々しい果実をしばらく眺めてから、覚悟を決めて齧った。
口いっぱいに広がる濃厚な甘さも、身体の芯へ染み込んでいく温かな活力も、昨日までと変わらない。
変わったのは、自分たちがその先に何が待っているのかを知ってしまったことだけだった。
「……やっぱり美味しいのが腹立つ」
葵がぼそりと零し、近くにいた何人かが苦笑する。
「不味かったら食べなくなるからじゃない?」
「昨日も似たようなこと言ってたよね、それ」
「だって実際そうじゃない?」
琴音は赤い果実を食べ終えると、すぐに教室後方へ顔を向けた。昨日出現した白い魔法陣は、今朝になっても消えることなく床の上で静かに輝いている。
「それじゃ、こっち試す?」
その一言で、教室の空気が少し変わった。
◇ ◇ ◇
「最初は一人で行く」
魔法陣の前でそう言った蛍に、葵がすぐ眉をひそめた。
「一人で大丈夫?」
「だから一人なんだよ。全員で乗って変な場所に飛ばされたら、それこそ困るでしょ」
「でも戻れなかったら?」
「その時は……」
「そこまで」
蛍が答えを探しているうちに、香奈恵が会話へ割って入った。
「試す必要があるのは同意するけど、最初から無茶はしない。神崎さんが向こうへ行って、五分待っても戻らなかったら今日は中止。それ以上は何もしない。それでいい?」
「うん」
「分かった」
葵はまだ心配そうだったものの、それ以上は反対しなかった。
蛍は腰の剣を確かめる。
昨日ゴーレムから手に入れた幅広の剣ではなく、使い慣れてきたショートソードだ。上位の金属鎧もまだ教室ではただの重い塊なので、魔法陣を通った先で装着するためにすぐ傍へ置いてある。
「じゃあ……行ってくる」
白く輝く円の中へ、片足を踏み入れる。何かに弾かれることも、身体へ異常が起きることもなかった。もう一歩進み、蛍の身体が完全に魔法陣の内側へ収まったところで、足元を走る白い線の輝きが一段強くなる。
「蛍ちゃん!」
葵の声が聞こえた直後、視界が白く染まった。眩しさに反射的に目を閉じる。
身体が浮き上がる感覚も、どこかへ引っ張られる感覚もない。ただ一瞬だけ足の裏から床の感触が消え、次に目を開いた時には、周囲の景色そのものが入れ替わっていた。
「……え?」
高い天井。円形の石造りの大広間。昨日、ゴーレムと死闘を繰り広げた場所が、何事もなかったかのように静まり返っている。振り返れば、足元には教室にあったものと同じ白い魔法陣が淡く輝いていた。
「本当に……飛んだ」
思わず声が漏れる。
昨日はここへ辿り着くだけでも何時間も迷宮を歩いた。途中で魔物と戦い、何度も周囲を警戒し、ようやく辿り着いた場所だ。それが今は、教室からほんの一瞬だった。
蛍は大広間を見回し、魔物の姿がないことを確認してから、再び白い円の中央へ立つ。ほどなく足元の光が強まり、次に瞬きをした時には、見慣れた教室へ戻っていた。
「蛍ちゃん!」
「うわっ」
目の前まで駆け寄ってきた葵に腕を掴まれる。
「大丈夫!? 何秒くらいだった!?」
「何秒って……向こうにちょっといただけだよ」
「こっちもそれくらい。ほんとに一瞬消えてた」
「行き先は?」
香奈恵が尋ねる。
「昨日の大広間。向こうの魔法陣の真ん中に出た。戻る時も同じで、乗って少ししたらここに戻ってきたよ」
「じゃあ、双方向なんだ」
琴音の声が少し弾んだ。
「多分ね」
「次、私も行っていい?」
「私も!」
待機組から次々と声が上がり、香奈恵が慌てて両手を上げる。
「一気に行かない! まず何人まで一緒に使えるのかも分からないんだから、順番に試しましょう」
そこからしばらくは、琴音の言うところの「仕様確認」に時間を使うことになった。
一人なら問題なく往復できる。二人で並んでも、三人で乗っても同じように転移した。
剣や弓など手に持った装備もそのまま運べる。試しに荷物袋を持って移動してみても、中身だけが置き去りになるようなことはなかった。
転移を繰り返した者が疲れたり、魔法武器を使った時のような消耗感を訴えたりすることもない。
「これ、すごいね」
何度目かの往復を終えた葵が、大広間の中央で感心したように周囲を見回した。
「昨日ここまで来るの、あんなに時間掛かったのに」
「探索の範囲、かなり広げられると思う」
琴音が頷く。
「帰る時間を考えて途中で引き返さなくていいし、怪我した時もここまで戻れればすぐ教室に帰れる」
「それは大きいわね」
香奈恵も素直に認めた。
今までの探索では、どれだけ先へ進めるか以上に、無事に帰ってこられるだけの時間と余力を残す必要があった。
この大広間まで一瞬で移動できるのなら、昨日まで帰路へ使っていた時間を、そのまま先の探索へ回せることになる。
「じゃあ最後に、もう一個だけ試したい」
琴音が魔法陣へ視線を落とした。
「何?」
「転移先に誰かいる時」
「いる時?」
「同じ場所に出るなら、人が立ってたらどうなるのかなって」
何人かが顔を見合わせる。
「……確かに」
「重なったりしたら嫌なんだけど」
「だから試すなら今でしょ。向こうに一人残って、こっちから転移できるか見るだけなら危なくないと思う」
相談の結果、大広間側には葵が残り、それ以外は一度教室へ戻ることになった。
「ちゃんと真ん中に立ってればいいんだよね?」
「うん。何か変だったらすぐ降りて」
「了解」
葵を白い円の中央へ残し、蛍たちが教室へ戻る。ところが、戻った直後から教室側の魔法陣に変化が起きていた。
「あれ?」
琴音が足を止める。
「光、消えてる」
昨日から絶えず淡い光を放っていた幾何学模様が、今は灰色の線として床に残っているだけだった。
蛍が恐る恐る円の中央へ入る。
何も起こらない。
「本当に使えない……」
「葵さんが向こうにいるから?」
「多分」
そのまま待つこと十数秒。突然、床の文様へ白い光が戻った。
「あ、光った!」
「葵が降りた?」
蛍が魔法陣へ乗ると、今度は問題なく転移が始まった。大広間へ出ると、葵は魔法陣から数歩離れた場所で待っていた。
「やっぱり?」
「うん。葵ちゃんが上にいる間、こっちから使えなかった」
「へえ……」
葵が自分の足元を見下ろす。
「私、別に何も感じなかったよ。ちょっと待ってから降りただけ」
「転移先が塞がってると止まる仕組みなのかな」
琴音も後からやって来て、魔法陣の縁を覗き込む。
「同じ場所に人が出て事故にならないように?」
「ありそう」
「なら安心……なのかな?」
葵が首を傾げる。
「少なくとも、誰かの中にワープしてくるよりは」
「怖いこと言わないでよ」
全員で教室へ戻ってから、今度は荷物だけを中央へ置いて同じことを試した。
剣一本では問題なく転移できる。小さな荷物袋でも変化はない。だが上位の金属鎧を魔法陣の中央へ置いた状態では、反対側の光が弱くなり、転移できなくなった。
「大きさなのか、重さなのかまでは分からないね」
琴音がノートへ結果を書き込む。
「とりあえず、人が乗ってる時と、大きい物を置いた時は使えない。小さい物なら大丈夫、でいいかな」
「それ以上細かい検証は必要になった時でいいでしょう」
香奈恵がそう言って実験を切り上げた。
「少なくとも、普通に往復する分には問題なさそうね」
その結論に反対する者はいなかった。
教室と昨日の大広間。何時間も掛かっていた二地点が、これでほとんど隣同士になった。
◇ ◇ ◇
「それで、こっちはどうする?」
ワープの検証が終わったところで、香奈恵が机の上に置かれた箱へ視線を移した。
中には五つの青い果実が入っている。昨日の実験で麗華が一つ食べ、その効果が約五センチの縮小だと分かった。しかし今朝、赤い果実による一日の増加量が約二センチへ変わったことで、その五センチという数字の見え方も昨日とは少し変わっている。
「一個で五センチだから……」
葵が指を折りながら考える。
「今の増え方だと、二日半くらい?」
「単純に計算すればね」
琴音が答える。
「でも全員分はない。五個しかないから」
「今日使っちゃう?」
「誰が?」
その一言で、教室の空気が少しだけ止まった。
三十人に対して五個。
全員が毎日ほぼ二センチずつ増えるのだとすれば、誰か一人へ渡すことは、他の誰かへ渡さないということでもある。
「私は昨日使ったから、今日はいいわよ」
麗華が先に言った。
「97まで戻っちゃったけど、それでも昨日の朝よりはまだ小さいし」
「私も今すぐはいらないかな」
葵も続く。
「重くなってきたのは嫌だけど、防具着ければ探索中は平気だし」
他の何人かからも似たような声が上がったが、教室の後ろでは黙ったまま俯いている者もいる。昨日、青い果実を食い入るように見つめていた図書委員の少女も、その一人だった。
香奈恵は全員を見渡してから、箱の蓋へ手を掛ける。
「今の段階で、無理に使い切る必要はないと思う」
「残しておく?」
「ええ。昨日決めた通り、基本は共同で保管する。ただし、身体の負担が辛くなってきた人は遠慮せずに言って。探索に参加してるかどうかは関係ないから」
その言葉に、何人かが香奈恵を見る。
「でも、数が足りないよ?」
「だから相談するの。今後もっと手に入るかもしれないし、逆にこれ以上まったく出ない可能性だってある。今ある五個だけを前提に、早い者勝ちみたいに使うのはやめましょう」
「賛成」
蛍が頷いた。
「緊急用にも一個くらい残しておいた方がいいと思う。今後、もっと急に変化するようなことがないとも限らないし」
「それ怖いから言わないでよ……」
葵が嫌そうな顔をする。
「でも、昨日まで一センチだったのが急に二センチになったんだから、あり得ないとは言えないよ」
「うぅ……」
結局、五つの青い果実は今日も使わず、そのまま共同保管することになった。
使いたい者が出た時には相談する。探索へ行く者が優先という決まりも作らない。香奈恵は念を押すようにそう確認したが、教室の後ろにいた図書委員の少女が顔を上げることはなかった。
◇ ◇ ◇
「今日は、この先を少し確認するだけにしましょう」
白い魔法陣の前で、香奈恵が探索組を見回した。
昨日とまったく同じ十人ではない。連日の探索を避けるという決まりに従い、何人かは待機へ回り、代わりに休養を取っていた経験者が入っている。
それでも前衛の中心には蛍と葵がおり、後衛には麗華と琴音。最後尾から香奈恵が全体を見るという形は変わらなかった。
「昨日のゴーレムより強いのが普通に出てくる可能性だってあるんだから、少しでも危ないと思ったら帰る。いい?」
「分かってる」
「今度こそ欲張りません」
葵の言葉に、何人かが笑う。
「神崎さん、それ装備する?」
香奈恵が示したのは、昨日ゴーレムから手に入れた金属鎧だった。
「うん。新しい場所だし、使えるなら使いたい」
蛍が鎧へ手を掛ける。教室では本来の重量がそのまま残っているため、一人で持ち歩くにはかなり重い。そこで二人に手伝ってもらいながら、鎧ごと魔法陣の中へ入ることになった。
白い光が視界を包み、大広間へ移動する。
迷宮側へ出た途端、蛍が身体へ押し当てた金属鎧に淡い光が宿り、昨日と同じように体型へ合わせて形を変えていく。
「やっぱり楽」
調整が終わったところで、蛍は何度か腕を動かした。教室では三人がかりで運んだほどの重さが嘘のように消え、全身がしっかり支えられている。
「見た目は完全に重装備なのにね」
葵が羨ましそうに胸甲を叩く。
「これ、前衛みんな分欲しいなあ」
「普通の魔物から出るかな」
「出たらいいね」
琴音がそんな会話を聞きながら、大広間の奥へ視線を向ける。
昨日はゴーレムとの戦闘と、その後の戦利品確認で余裕がなかったが、守護者が消えた今、改めて見れば奥の壁には先へ続く通路が口を開けていた。
「……行く?」
琴音の問いに、香奈恵が頷く。
「行きましょう。ただし、本当に少しだけよ」
隊列を整えると、蛍が先頭に立ち、そのすぐ後ろを葵たち前衛が固めた。中衛を挟んで麗華と琴音たち遠距離組が続き、最後尾から香奈恵が全体を見る。ここ数日の探索で何度も繰り返してきた、今ではすっかり馴染んだ陣形だった。
それでも、大広間の奥から未知の通路へ足を踏み入れた途端、蛍の胸には自然と緊張が戻ってきた。
もっと何か劇的に変わっているのかと思っていたが、見た目だけならこれまでの迷宮と大きな違いはない。灰色の石壁に沿って松明が一定間隔で灯り、湿り気を含んだ冷たい空気が通路の奥から流れてくる。
ただし、よく見れば違いもあった。浅層より通路の幅は広く、天井にも余裕がある。壁を構成する石材も、荒く削った岩をそのまま積んだような造りではなく、同じ大きさへ整えられた石が規則正しく組み上げられており、天然の洞窟というより、誰かが明確な意図をもって築いた地下建造物に近かった。
「雰囲気、ちょっと違うね」
葵が小声で言う。
「うん」
「第二エリア、とか?」
琴音が呟く。
「勝手に名前つけないの」
「分かりやすいのに」
麗華に窘められ、琴音が少し不満そうに口を尖らせる。そんな軽いやり取りを交わしながらも、一行は警戒を緩めることなく通路を進んでいった。
数分ほど歩いたところで、前方に広間らしき空間が見え始める。蛍はその入口へ差し掛かる直前、不意に足を止めた。
「……待って」
後ろを歩いていた葵たちも、すぐに動きを止める。
「何かいる?」
葵が声を潜めると、蛍は答える代わりに耳を澄ませた。
広間の奥から、何かの声が聞こえてくる。
これまで何度も耳にしてきたゴブリンの甲高い鳴き声によく似ている。ただ、いつものものより低く、短い声が何度か交わされているようにも聞こえた。
「……何かいる」
蛍が声を潜めて告げると、先ほどまで僅かに残っていた軽い空気が一瞬で消えた。全員が武器へ手を掛け、足音を殺しながら広間の入口へ寄っていく。
蛍は壁際に身体を寄せ、慎重に顔だけを覗かせた。
「……ゴブリン?」
隣から広間を窺った葵が、怪訝そうに呟く。確かに、見た目だけならこれまで何度も戦ってきたゴブリンに似ていた。
だが、身体つきは一回り大きく、小柄な少女ほどの背丈がある。痩せた身体に粗末な布を巻いただけだった浅層のゴブリンと違い、こちらは革と金属片を組み合わせた防具を身につけていた。
一体は大きな木盾と短剣。二体は長い槍。後方の一体は粗末ながら弓らしきものを持ち、残る一体は他よりさらに体格が良く、片手斧を肩へ担いでいる。
「装備してる……」
琴音が息を呑む。
「それだけじゃない」
蛍は広間の様子から目を離さなかった。五体は好き勝手に歩き回っているわけではない。盾を持った個体を前に置き、その後ろに槍が二体。弓持ちはさらに後方へ下がり、斧を持った一体が全体を見渡せる位置に立っている。
まるで、自分たちと同じように役割を分けているように見えた。
「どうする?」
葵が尋ねる。
「一回戻る?」
香奈恵は少し考えてから、広間の敵を見る。
「数は五体。昨日のゴーレムほど危険には見えないけど……」
「戦ってみないと、これから先へ進めないと思う」
蛍が言った。
「無理そうならすぐ下がる。通路まで戻れば一度に何体も来られないし」
「……分かった」
香奈恵が頷く。
「でも深追いはしない。神崎さんと東さんも、いつものゴブリンと同じだと思わないで」
「了解」
蛍は剣を抜いた。金属鎧に包まれた身体は軽く、昨日の戦闘の疲れも残っていない。
こちらは十人で、相手は五体。見た目こそ少し強そうだが、数だけならこちらが倍いる。昨日までの経験なら、十分に戦えるはずだった。
「行くよ」
蛍が合図とともに広間へ踏み込むと、五体の小鬼がほとんど同時にこちらを振り向いた。
そのうちの一体がギャッ、と鋭く声を上げる。次の瞬間、敵の動きが一斉に変わった。先頭にいた盾持ちが真正面から駆け出し、その後ろで槍を持った二体が素早く位置をずらしていく。
「……っ」
蛍は思わず足を止めた。いつものゴブリンのように、全員がばらばらに突っ込んでくるものだと思っていた。けれど、目の前の小鬼たちは明らかに違った。
盾持ちはそのまま蛍へ突っ込まず、途中で足を止めて盾を構えた。
「え?」
蛍の視界の端で、その背後にいた槍持ちが動いた。盾の横から長い穂先だけが飛び出してくる。
「っ!」
身体を捻る。穂先が金属鎧の脇腹を擦り、甲高い音を立てて弾かれた。
「二体で……!」
驚く間もなく、もう一方の槍持ちが反対側へ回り込もうとする。
「させない!」
葵が横から飛び込み、槍の柄へ剣を叩きつけた。ところが、相手もすぐに槍を引いて距離を取る。
「避けた!?」
浅層のゴブリンなら、目の前の相手へただ武器を振り回してくるだけだった。
こいつらは違う。攻撃が届かないと判断すれば下がり、別の仲間が攻められていれば援護する。
「前、固まりすぎないで!」
香奈恵の声が飛ぶ。その直後、空気を裂く音がした。
「上!」
琴音が叫ぶ。蛍の頭上を黒い影が通り過ぎ、後方の石床へ乾いた音を立てて突き刺さった。
矢だった。
「弓!」
「麗華、あいつ狙える!?」
「やってみる!」
麗華が杖を構える。青白い光が先端へ集まり、後方の弓持ちへ向けて放たれる。だが、光球が届く直前、盾持ちの小鬼が身体を滑り込ませた。
バン、と光が木盾へ直撃する。
「防いだ!?」
盾の表面が大きく焦げ、持っていた小鬼も衝撃で二歩ほど後退した。それでも倒れない。
「いつものゴブリンなら今ので終わってたわよ!」
麗華が思わず目を見開いた、その時だった。後方にいた斧持ちが、短く鋭い声を上げる。それを合図にしたかのように、槍を構えていた二体が同時に動いた。
一体は蛍の正面へ出て進路を塞ぎ、もう一体は葵ではなく、その後ろにいる中衛へ穂先を向けながら横へ回り込んでいく。
「後ろ狙ってる!」
誰かの声に、蛍はすぐさま盾持ちとの正面衝突を避け、横へ踏み込んだ。
「下がって!」
中衛へ伸びようとしていた槍の柄へ剣を叩きつける。ガッ、と鈍い衝撃が腕まで返ってきた。小鬼は大きくよろめいたものの、それでも槍を手放さない。浅層で戦ってきたゴブリンなら、そのまま体勢を崩していたはずの一撃だ。
(やっぱり、強い……!)
腕力も、耐久力も、今までの個体とは明らかに違う。
とはいえ、昨日のゴーレムほど圧倒的ではなかった。あの巨体を相手にした時のように、一撃でもまともに受ければ終わるというほどではないし、一対一なら今の蛍でも十分に押し切れる手応えがある。
厄介なのは、そうさせてくれないことだった。
蛍が槍持ちへ詰めようとした瞬間、今度は盾持ちが横から割り込み、その背後ではもう一体の槍使いが次の攻撃へ備えている。
「葵ちゃん、右の槍お願い!」
「分かった!」
「琴音さん、弓を止めて! 当てなくてもいいから撃たせないで!」
香奈恵の指示を受け、琴音がすぐさま弦を引き絞る。放たれた光の矢が後方へ走ると、敵の弓持ちは狙いを定める余裕を失い、慌てて身を引いた。
その隙を蛍は逃さなかった。
目の前の槍持ちへ一気に距離を詰める。小鬼も危険を察して槍を引こうとしたが、今度は逃がさない。
「やぁっ!」
振り抜いた剣が槍の柄を叩き折り、その勢いのまま肩口へ深く食い込んだ。
「ギャアッ!」
濁った悲鳴を上げて小鬼が崩れ落ちる。
浅層で戦ってきたゴブリンなら、これだけの一撃を受ければその場で光へ変わっていたはずだ。ところが目の前の個体は倒れながらも意識を失わず、残った槍の柄を蛍の足へ叩きつけようとしてくる。
「まだ動くの!?」
咄嗟に後ろへ跳んだ直後、その動きを待っていたかのように盾持ちが横から飛び込んできた。ドンッ、と重い衝撃が胸甲を打つ。
「っ……!」
蛍の身体が二歩ほど押し戻される。それでも転倒しなかったのは、昨日手に入れた金属鎧が衝撃の大半を受け止めてくれたからだ。予想に反して蛍が踏み止まったことで、盾持ちの動きが一瞬だけ止まる。
「蛍ちゃん!」
その隙へ葵が横から飛び込み、盾の外へ出ていた脚を狙って剣を振り抜いた。刃を受けた小鬼の膝が崩れる。
「今!」
蛍はすぐさま踏み込み、がら空きになった身体へ剣を走らせた。盾持ちは短い悲鳴を残し、その姿を光の粒子へ変えて消えていく。
「一体倒した!」
「まだ四体いる!」
だが、仲間を失っても残った小鬼たちに混乱した様子はなかった。
後方にいた斧持ちが再び短く鋭い声を飛ばすと、傷を負っていない槍使いがすぐさま後退する。その代わりに、今まで全体を見渡していた大柄な個体が斧を構え、前衛へ躍り出た。
「入れ替わった……」
葵が息を呑む。
仲間が倒されても、ただ数を減らしていくわけではない。空いた役割を埋めるように陣形そのものを組み替えている。
「こいつら、本当に考えて戦ってる」
大柄な小鬼が踏み込みざまに斧を横薙ぎに振るう。蛍は剣で受け止めることを避け、反射的に身体ごと後ろへ引いた。直後、目の前を通過した刃が低く風を唸らせる。
昨日のゴーレムが振るった腕ほど圧倒的な威力ではない。それでも、まともに受ければ無事では済まないと分かるだけの重さがあった。
(これも、普通のゴブリンとは全然違う……)
「麗華!」
「分かってる!」
斧を振り抜いた直後の隙へ、青白い光球が直撃する。
「ギャッ!」
大柄な小鬼が大きく体勢を崩した。
今度は盾で庇う仲間がいない。
「葵ちゃん!」
「うん!」
二人で左右から挟む。斧持ちがどちらを迎え撃つか迷った一瞬に、蛍の剣が腕を捉え、葵の一撃が脇腹へ入った。
大柄な身体が膝をつく。そこから先は、最初ほど苦戦しなかった。一体ずつ数を減らせば、敵の連携も崩れていく。
琴音たちが弓持ちへ攻撃を集中させ、蛍と葵が残った槍使いを押さえ、中衛の二人も隙を見て加わった。
最後の一体が光となって消えた頃には、広間にいた十人全員が浅く息を弾ませていた。
「……勝った」
葵が剣を下ろす。
「勝ったけど……」
「強かったね」
琴音が弓を下ろしながら呟くと、誰も否定しなかった。
昨日のゴーレムほど圧倒的な相手ではない。あれは十人全員で弱点を探し、魔法武器まで使い切る覚悟でようやく倒せた敵だったが、今の小鬼なら一対一に持ち込めさえすれば、蛍や葵でも十分に勝てる手応えがある。
それでも、五体が互いを補いながら動くだけで話はまるで変わった。盾で攻撃を受け、槍がその隙を狙い、後方から弓が援護する。浅層のゴブリンを十体まとめて相手にするよりも、よほど厄介だった。
「盾が前に出て、槍がその後ろから攻撃して、弓が後ろを狙ってた」
琴音が戦いを思い返すように言う。
「しかも誰かがやられたら位置まで入れ替えてた」
「私たちと同じじゃん……」
葵が嫌そうな顔をする。
「役割分担して、前衛と後衛に分かれて戦ってる」
「今までみたいに、数だけ見て判断しちゃ駄目ね」
香奈恵が全員を見回した。
「怪我した人は?」
「大丈夫」
「私も平気」
「蛍ちゃん、最初に槍当たってなかった?」
「鎧が受けてくれた。痛くもないよ」
蛍は脇腹を確認した。金属板の表面に細い傷が一本走っているだけで、身体には何の異常もない。
「これがなかったら、切れてたかもしれない」
「やっぱりその鎧すごいね」
「うん……」
答えながら、蛍は改めて広間を見回した。
戦えない相手ではない。だが、今までのゴブリンやスライムと同じ感覚でこの先へ進めば、いずれ判断を誤る。先ほどの戦いだけでも、それは十分に分かった。
中ボスを突破したことで、教室からここまでは魔法陣を使って一瞬で来られるようになった。帰路へ残しておく必要のあった時間を探索へ回せるうえ、身体を戻せる青い果実まで手に入っている。
便利になったことは間違いない。その一方で、迷宮の奥にいる魔物たちもまた、昨日までとは明らかに違っていた。
「今日は戻る?」
葵に尋ねられ、香奈恵はすぐには答えなかった。
全員の様子を一人ずつ確かめてから、まだ先へ続いている広間の奥へ視線を向ける。怪我人はいない。魔法にも余力があり、体力にも問題はなさそうだった。
まだ進める。
昨日までなら、それだけで「もう少し」と先へ足を向けていたかもしれない。けれど今回は、蛍自身も不思議とその場から動こうとは思わなかった。
「……この広間までにしましょう」
香奈恵が決める。
「最初の敵だけで、もう十分情報は取れたわ。この先も同じ強さとは限らないし、今日は戻って戦い方を整理する」
「賛成」
蛍が答えると、葵も素直に頷いた。
「私も。いきなりあれが普通に出てくるなら、ちょっと考え直した方がいいと思う」
「うん」
琴音はそう返しながら、魔物たちが消えた跡へ近づいた。
「でも……」
「どうしたの?」
石床へ視線を落とした琴音が、その場にしゃがみ込む。
そこには戦闘前にはなかった三つの品が転がっていた。刃の厚い短剣と、浅層で見つけた革製のものより明らかに頑丈そうな小型の盾。それから少し離れたところには、細かな紋様の刻まれた金属製の腕輪まで落ちている。
「……三個?」
葵が目を丸くした。
「五体倒しただけだよね?」
「今までより、明らかに多い」
琴音が腕輪を拾い上げる。その表面には、浅層で拾ってきた装備には見られなかった細かな紋様が刻まれていた。
「敵が強くなった代わりに、落とす物も良くなってる……?」
誰かがそう呟いたものの、まだ一度戦っただけでは断定できない。たまたま今回だけ運が良かった可能性もある。
それでも蛍は、剣を握ったまま足元に並ぶ三つの戦利品から目を離せなかった。
奥へ進んだことで、魔物は明らかに強くなった。けれど同時に、教室と中ボス部屋を一瞬で往復できる魔法陣が使えるようになり、こうして浅層より質の良さそうな装備まで手に入っている。
危険が増したのなら、慎重になって引き返す。それだけなら話は簡単だった。だが、危険の先に相応の成果まで用意されているとなれば、少し話が変わってくる。
(次は、もう少しだけ先までなら……)
そんな考えが自然と頭に浮かび、蛍は自分でも気づかないうちに、広間の奥へ続く通路へ視線を向けていた。
「回収して帰りましょう」
香奈恵の声で、蛍は考えを振り払った。
「詳しく調べるのは教室で。今日はここまで」
「了解」
戦利品を拾い集め、一行は来た道を引き返した。
昨日までなら、ここから教室へ戻るまでにも長い時間を掛けて迷宮を歩かなければならなかった。けれど今は、大広間まで辿り着きさえすればいい。白い魔法陣へ足を踏み入れれば、その数秒後にはもう教室へ戻れる。
その便利さを改めて実感しながら、蛍は大広間へ続く通路の手前で一度だけ振り返った。
奥に待っている魔物は、昨日までのものより明らかに強い。それでも、そこで手に入る装備もまた、浅層で得てきたものより価値が高そうだった。
危険が増せば、それに見合うだけのものまで先に置かれている。だからこそ、怖いと思いながらも、もう少し先を見てみたいという気持ちが消えない。蛍はそんな自分の変化を意識しながら、静かに視線を前へ戻した。
中ボスを越えたことで変わったのは、迷宮の難しさだけではない。
どうすれば自分たちが先へ進みたくなるのか――そのやり方そのものまで、迷宮は一段階変えてきたように思えた。