爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
翌朝。
「……101.1」
巻き尺を胸元から外しながら読み上げられた数字を聞いて、三島琴音はしばらく何も言わなかった。
迷宮へ閉じ込められてから、19日目の朝。昨日の99.1センチから、ほぼ予想通りの2センチ増加。とうとう三桁へ足を踏み入れた自分の数字が測定ノートへ書き込まれていくのを、琴音は複雑そうな表情で見つめていた。
「……越えた」
「越えちゃったね」
隣にいた葵が何とも言えない表情で相槌を打つ。
「どう? 昨日言ってた、お尻とか」
「今のところは分からない」
琴音は部屋着の腰回りを軽く引っ張り、念のため自分でも確かめてから首を横に振った。
「ショーツも昨日とそんなに変わらないと思う。だから、本当に100センチが境目なのか、それとも越えてから何日か掛かるのかはまだ不明」
「そのまま何も起きない可能性は?」
「ある」
「じゃあそれでお願い」
「私に言われても……」
困ったように答える琴音の横では、今日も測定が続いている。蛍も葵も香奈恵も麗華も、昨日から大きく外れることなく、およそ2センチずつ数字を増やしていた。
もはや朝の教室で巻き尺を身体へ回す光景にも、以前ほどの騒ぎは起こらない。嫌ではあるし、数字を読み上げられるたびに顔をしかめる者もいる。それでも毎朝測り、記録し、昨日より大きくなっていることを確認した後で赤い果実を口にするという一連の行動は、いつの間にか生活の手順として定着していた。
食べれば、明日の朝にはまた身体が変わる。それを全員が承知していながら、だから食べないと言い出す者は、もういなかった。
「今日の探索組、準備できた人からこっちお願い」
香奈恵の声に、測定を終えた者たちが教卓の前へ集まっていく。
今日の探索は十人。前衛には蛍と葵を中心に、これまで何度も迷宮へ入っている二人を加える。中衛に槍を扱う二人を置き、その後ろに麗華、琴音を含む魔法武器の使い手が三人。香奈恵は最後尾から全体を見る。
一週間前と比べれば、珍しくもなくなった編成だった。
「今日は、昨日確認した通路のさらに奥まで行ってみるつもり」
香奈恵が手書きの地図を開き、指先で一本道をなぞる。
「ただし、目的はあくまで地図を広げること。強い敵がいたら無理に突破しない。昨日までより奥へ行くからって、今日中に何か見つけなきゃいけないわけじゃないから」
「はいはい、いつものやつね」
葵が剣を手にしながら笑う。
「欲張らない。危なくなったら帰る」
「本当に分かってる?」
「分かってるってば」
「東さん、前にも同じこと言ってたわよ」
「麗華まで!?」
軽いやり取りに何人かが笑った。
その声を聞きながら、蛍は教室を見回す。昨日の夜、あれだけ自分たちの身体について不穏な話をしたというのに、朝になれば測定をして、赤い果実を食べ、探索班を決めるといういつもの生活が始まっている。
そんな日常が続いていることに安心する気持ちと、その日常そのものがおかしいと感じる気持ちが、蛍の中ではずっと消えずに同居していた。
「蛍?」
「……ううん。何でもない」
葵に声を掛けられ、蛍は首を振った。
「行こう」
十人が白い魔法陣へ乗る。
視界を覆う光が消えた時には、そこはもうゴーレムと戦った大広間だった。
教室では魔力を失っていた防具が再び淡い光を宿し、身につけた者の身体へ沿うように形を変えていく。蛍の金属鎧も、日に日に大きくなる胸元へ無理なく合わせながら、重さを感じさせないよう胸部と背中をしっかり支えてくれた。
「……やっぱり、こっちだと楽」
思わず漏らした蛍の言葉に、葵が苦笑する。
「分かる。教室戻った時に一気に重くなるの、最近ほんと嫌だよね」
「便利なのは間違いないんだけど……」
便利だからこそ、気味が悪い。
変わっていく身体を元へ戻すのではなく、変わった身体のままで困らないようにするものばかりが増えていく。そんな考えが頭を過ったものの、蛍は今は探索へ集中するべきだと気持ちを切り替えた。
◇ ◇ ◇
これまでに調べた区画を抜けるのに、それほど時間は掛からなかった。
何度も通った道には目印が付けられ、分かれ道も手書きの地図へ記録されている。以前なら角を一つ曲がるだけでも全員で警戒していたが、今ではどこまでなら比較的安全なのかまで共有され始めていた。
その安全圏を越えた辺りから、再び歩みが遅くなる。
「ここから先、昨日は見てないよね?」
「うん」
琴音がスマホの画面と手書きの地図を見比べる。
「昨日の班はこの角まで。向こうはまだ」
「じゃあ、警戒して行きましょう」
香奈恵の指示に合わせ、蛍たちは互いの間隔を調整しながら未知の通路へ足を踏み入れた。
造りそのものは、この一週間歩いてきた第二の区画とさほど変わらない。一定間隔で松明が灯る整然とした石壁が続き、浅層にあった天然洞窟めいた荒々しさよりも、人の手で明確な意図をもって造られた地下建造物らしさが強い。
ただ、しばらく進んだところで、その規則正しい壁面に今までなかったものが現れた。
「……これ、何?」
葵が足を止めた先には、何かを説明するために彫られたらしい壁画があった。古代文字とは違い、細長い人型のような図形と武器らしきもの、その先には箱のような四角い図形まで並んでいる。
「前にも似たようなのなかった?」
琴音が壁へ近づいた。
「昨日の通路にも、意味分からない絵が一枚あった」
「ああ、撮ってたやつ?」
「うん」
ポケットからスマホを取り出し、カメラを起動する。
電波はない。誰かへ連絡することもできない。それでも時計とカメラ、それに保存済みのデータは使えるため、探索中に文字や紋様、見慣れないものを発見した時には写真へ残す習慣が少しずつできていた。
「一応撮っとく」
小さな電子音が鳴る。
「なんか、完全に遺跡調査みたいになってきたね」
葵が言う。
「怪物が出なければね」
「それはそう」
その一枚だけでは何を示しているのか見当もつかなかったため、琴音は写真へ残すだけに留め、一行も足を止めずに先へ進んだ。
ところが、その先にも同じような壁画が続いていた。二枚目、三枚目と増えるにつれ、単独では意味不明だった図柄同士に何らかの繋がりがあることだけは見えてくる。
「こっちは……人?」
「女の人、かな」
麗華が眉を寄せた。
壁には単純化された三つの人型が横一列に彫られている。姿勢や全体の大きさはほとんど同じなのに、左から右へ移るほど胸元の膨らみだけが段階的に強調され、その変化が意図的なものだと分かる程度には露骨な違いが付けられていた。
「…………」
「…………」
誰からともなく、視線が互いの胸元へ落ちた。
「偶然よね?」
麗華が言う。
「何が?」
「分かってるくせに聞かないで」
「いや、まだ何も言ってないけど」
琴音が困った顔をする。
「琴音。写真」
「う、うん」
香奈恵に促された琴音は、その壁画も何枚か撮影してからスマホをしまった。
さらに十数メートルほど進むと、それまで一本道だった通路が広く開け、小部屋というには大きすぎる円形の空間へ繋がった。蛍がまず周囲に敵がいないことを確認し、その中央へ視線を向けたところで足を止める。
「……魔法陣?」
葵が呟く。
そこに刻まれていたものは、教室と大広間を結ぶ白い転移陣とは色も構造も違っていた。直径は三メートルほどあり、石床へ黒と淡い赤の線が複雑に組み込まれ、その中央には人一人が立てそうな円が設けられている。
さらに、その周囲を囲むように三つの小さな紋様が並び、それぞれに対応するらしい壁画まで彫られていた。
「5……?」
琴音が目を細める。
「こっちは10。その隣、15に見える」
「数字なの?」
「形はそう見える。でも……」
不用意に紋様を踏まないよう距離を取りながら、十人は壁画を順番に確認していった。
最初の壁画には人型と短い剣らしきものが描かれ、次の壁画では先ほどより胸元の大きい人型と長剣が並んでいる。そして三枚目では、さらに胸部を強調された人型の隣に、鎧か、あるいはそれまでより明らかに豪華な装備を示しているらしい図柄が刻まれていた。
「……何これ」
葵の声から、先ほどまでの軽さが消えた。
「5、10、15。女の人みたいな絵。それで、胸だけ大きくなってて……その隣に武器?」
「交換……?」
琴音が壁画と床の魔法陣を交互に見ながら呟くと、全員の視線が一斉に彼女へ向いた。
「いや、分かんないよ」
琴音は慌てて両手を振った。
「ただ、順番だけ見ると……何かを渡したら、代わりに装備が出る、みたいにも見える」
「何かって?」
前衛の一人が聞く。
「だからそれが分からない」
「これじゃないの?」
葵が壁画の人型、その不自然に強調された胸元を指で示した。そこだけが5、10、15という数字らしきものに合わせるように段階的に大きく描かれており、その場にいる全員が同じ可能性へ思い至ったらしい。
しばらく誰も口を開かなかった。
「……嫌よ」
沈黙を破ったのは麗華だった。
「何が出るのか知らないけど、絶対乗らないからね」
「まだそういう魔法陣って決まったわけじゃないよ」
「だったら琴音が乗ってみる?」
「嫌」
「でしょうね」
即答した琴音に、麗華が冷たい視線を向ける。
「とにかく」
香奈恵が全員を見回した。
「今は触らない。乗らない。写真だけ撮っておきましょう」
「賛成」
蛍も迷わず頷いた。
ただでさえ赤い果実を食べるたび身体が変わり続けているのに、正体も分からない装置へ自分から乗って、さらに何かを起こす必要などない。少なくとも現状では、その判断に反対する理由を持つ者はいなかった。
琴音は魔法陣全体と三つの壁画を角度を変えながら撮影し、他の何人かも記録を残すためにスマホを取り出した。床の紋様、壁画、そして5、10、15と読める数字らしきものまで一通り撮り終えると、一行は中央の円を避けたまま、その場所を後にした。
「教室戻ったら、大きい画面で……は無理か。スマホしかないし」
「何人か撮っておけば十分じゃない?」
「あ、それでいいか」
誰も、試しに乗ってみようとは言わなかった。
◇ ◇ ◇
奇妙な魔法陣を見つけた以上、今日はそこで探索を終えるべきではないかという意見も出た。ただ、ここまで怪我人はおらず、魔法武器の使用回数にも体力にもまだ余裕がある。
香奈恵は全員の状態を改めて確認したうえで、これ以上深追いはせず、次に広間か分岐を一つ確認したところで戻ると決めた。
「本当に、次までよ」
「分かってる」
「敵がいたら、数を見て決める。多そうなら戦わず戻る」
念を押されてから十人は再び歩き始めた。
その選択自体が明確な失敗だったわけではない。実際、彼女たちはそこで全滅するような敵に遭遇したわけでもなかった。
ただ――ゴーレムの先に広がっている迷宮が、これまでと同じ感覚のまま進み続けられる場所ではないことだけは、その一戦で嫌というほど思い知らされることになった。
「七体……!」
次の広間へ差し掛かる直前、壁際から内部を覗いた蛍が声を潜めた。
中にいたのは、この一週間で何度も戦ってきた小鬼たちだったが、これまでのような五体一組の編成ではない。大盾を持つ二体が前に立ち、その後方には槍使いが二体、さらに弓と大斧を持つ個体が一体ずつ控えている。
そして最後の一体だけが、これまで一度も見たことのない得物を手にしていた。
「……杖?」
琴音が息を呑む。
小鬼の手には細長い木の棒が握られ、その先端には濁った紫色の石が埋め込まれている。
「戻る?」
葵が尋ねた。
香奈恵は敵の配置をしばらく観察した。
「……まだ気づかれてない。戻るなら今だけど」
「戦えなくはないと思う」
蛍も広間の様子を窺いながら答える。
敵は七体、こちらは十人。杖持ちが何をするのかだけは未知数だが、それ以外の敵とは何度も戦っており、盾と槍の連携や弓への対処方法も全員で共有している。
「魔法使う奴が何するか分からないよ」
「だったら、なるべく最初に落としたいわね」
麗華が杖を握り直した。
「私、まだ一発も撃ってないし」
「弓も大丈夫」
琴音もそれに続き、香奈恵は遠距離役だけでなく前衛、中衛にも順番に目を向けて、本当に戦える状態かを確かめてから頷いた。
「……一戦だけ。倒しても今日はそこで終わり。いい?」
誰からも反対は出なかった。
隊列を組み直した十人は、蛍と葵たち前衛を先頭にして広間へ踏み込む。数歩進んだところでこちらへ気づいた小鬼の一体が甲高い声を上げ、それを合図に七体が一斉に武器を構えた。
先頭へ出たのは、予想通り二体の盾持ちだった。その後ろには槍が続き、蛍も剣を構えて正面の一体へ踏み込もうとする。
「蛍、右!」
葵の声に反応し、とっさに身体を横へ逸らした。
直後、濁った紫色の光が蛍の顔のすぐ横を走り抜け、その背後にあった石壁へ激突する。乾いた破裂音とともに砕けた石片が飛び散り、そこで初めて杖持ちが放ったものが攻撃魔法なのだと理解した。
「魔法!」
「麗華!」
「分かってる!」
麗華がすぐに杖を振り、青白い光弾を敵の後衛へ返す。しかし着弾する寸前、前にいた盾持ちが横へ滑り込み、焦げ跡を残しながら攻撃を受け止めた。
「また盾! 前と同じ、後ろを守ってる!」
琴音が叫ぶ間にも、もう一体の盾持ちが蛍へ圧力を掛け、その陰から槍が左右交互に突き出される。蛍が片方を剣で弾けば、反対側は葵が受け、二人でどうにか前線を維持する。
「こいつら、前より速い!」
「弓来る!」
飛来した矢が狙ったのは前衛ではなく麗華だった。
隣にいた弓使いの少女が咄嗟に麗華の肩を掴んで引き寄せたため直撃こそ免れたものの、矢尻が腕を浅く裂いて石床へ突き刺さる。
「麗華!」
「平気! かすっただけ!」
腕へ赤い線を作りながらも、麗華は杖を下ろさない。
「琴音、あっちを!」
「うん!」
麗華の次弾と琴音の光矢がほとんど同時に放たれた。盾持ちは麗華の攻撃を防いだものの、横から回り込んだ琴音の矢までは間に合わず、杖持ちの肩へ青白い光が突き刺さる。
「当たった! ……でも、まだ倒れない!」
よろめいた杖持ちは、それでも武器を手放さなかった。先端の紫石が再び明滅したのを見て警告が飛ぶが、今度は中衛が狙われた。
一人は避けた。しかし、隣にいた少女は間に合わない。
「きゃあっ!」
光弾を胸元へ受けた身体が浮き、背中から石床へ叩きつけられる。
「大丈夫!?」
「っ……息、が……」
苦しそうではあるものの意識はあり、自力で身を起こそうとしている。それを確認した香奈恵は救助へ全員を下げるのではなく、敵の後衛を自由にさせない方を選んだ。
「前衛、押して! 杖持ちに次を撃たせないで!」
「了解!」
蛍は盾へ剣を叩きつけた。正面から力任せに割るのではなく、二度、三度と攻撃を重ねながら相手を外側へ誘導し、その動きに合わせて葵が逆方向から距離を詰める。
「こっち!」
葵へ意識を向けた一瞬の隙を逃さず、蛍の剣が盾の縁を滑って小鬼の腕を捉えた。
「一体――!」
「蛍、まだ!」
勝ちを確認する暇もなく槍が伸びる。
蛍はすぐに身を引いたものの、穂先が鎧の胸部を激しく擦り、甲高い金属音と重い衝撃が同時に身体へ伝わった。防具のおかげで傷こそないが、以前ならその場で耐えられた程度の一撃に足を半歩ずらされる。
(やっぱり、この先の敵も強くなってる……!)
だが、それは自分たちも同じだった。
以前なら数発撃つだけで限界だった麗華の光弾が再び弓持ちへ飛び、琴音もすぐさま盾持ちの足へ矢を撃ち込む。魔法武器の援護で前線が崩れたところへ蛍と葵たちが距離を詰め、少しずつ数を減らしていった。
そこで大柄な斧使いが前へ出る。
「下がって!」
巨大な斧が横薙ぎに振るわれ、蛍は剣で受けずに後方へ跳んだ。一人だけ反応が遅れた前衛の少女が盾ごと弾き飛ばされ、石壁へ肩から激突する。
「っ……!」
「大丈夫!?」
「腕……痛い。でも、動く!」
致命傷を負った者はいない。それでも麗華の腕は切れ、中衛の一人は光弾で叩き伏せられ、今度は前衛まで壁へ飛ばされた。まだ今日最初の戦闘だというのに、すでに怪我人が三人いる。
「温存やめる! 一気に終わらせて!」
香奈恵の判断で、遠距離組も残り回数を惜しまなくなった。
麗華の光弾、琴音の矢、もう一人の後衛から放たれた魔法が続けざまに前線へ突き刺さり、一枚の盾がとうとう焼け落ちる。続けて杖持ちも倒れ、敵の援護が途切れたところへ前衛と中衛が一斉に攻勢へ移った。
葵が槍持ちの懐へ入り、蛍が斧使いの注意を引きつける。痛みの残る中衛も無理のない範囲で援護へ加わり、十人という人数の優位を一体ずつ確実に押しつけていった。
最後まで残った大柄な小鬼が剣を受けて黒い粒子となり、広間から敵の姿が消える。
「……終わった?」
息を弾ませながら葵が周囲を見回した。
「うん。もういない」
蛍も剣を下ろした。
勝ったことは間違いない。しかし、これまでのように達成感のまま声を上げる者はいなかった。全員がまず怪我をした三人へ目を向け、続けて香奈恵を見る。
「帰りましょう」
その判断に反対する者はいなかった。
「麗華、腕は?」
「痛いけど動く」
「さっき飛ばされた二人は?」
「歩ける」
「じゃあ、ドロップだけ回収して今日は終わり。寄り道もしないで戻るわよ」
小鬼たちが消えた石床には、見たことのない金属製の腕当てと新しい槍、それに先ほど敵が使っていたものより小型の、紫色の石を埋め込んだ杖が残されていた。
「……杖、落ちた」
琴音がそれを拾い上げる。
敵が強くなれば、得られる装備も良くなっていく。それ自体はこれまでにも感じていたことだが、今回のように一戦だけで複数の怪我人を出した直後では、素直に喜ぶ気にはなれなかった。
蛍は回収されていく新しい装備を眺めながら、帰り道で再び通ることになる魔法陣を思い出す。5、10、15という数字。少しずつ大きく描かれた女性の身体。そして、その隣に並んでいた武器や防具。もしも本当に、あれが身体の変化と引き換えに装備を与えるものなのだとしたら――。
「蛍?」
葵に呼ばれ、蛍はそこで考えるのをやめた。
「……何でもない。帰ろう」
今は使わないと決めたものについて、考えても仕方がなかった。
◇ ◇ ◇
白い魔法陣を抜けて教室へ戻った途端、先ほどまで怪我をしていた三人の身体から異常が消えていった。
「……っ、あ」
麗華が腕を確かめる頃には、赤く裂けていた皮膚は跡形もなく塞がっている。光弾を受けて石床へ叩きつけられ、帰路でも脇腹を押さえていた少女も、数秒のうちに身体を真っ直ぐ伸ばせるまで回復した。
「治った……」
「肩は?」
「平気。全然痛くない」
それも、もう見慣れた光景になっている。教室へ戻れば怪我は消え、身体を苛んでいた痛みも嘘のようになくなる。けれど治るのは傷だけだ。
槍の穂先が目の前へ迫ってきた恐怖も、魔法を受けて身体が浮いた瞬間の感覚も、石壁へ叩きつけられた記憶も、一緒に消えてくれるわけではない。
「今日は結構やられたね……」
葵がぽつりと言う。
「勝ったけどね」
「……うん。勝ったけど」
蛍も同じように答えたところへ、帰還を待っていた者たちが次々と集まってきた。
「おかえり!」
「今日どうだった?」
「何かあった?」
「装備増えてる!」
いつもの光景だったが、今日は報告しなければならないことが多い。
「みんな、一回集まって」
香奈恵が声を掛ける。
「敵のこともあるんだけど、その前にちょっと見てほしいものがあるの」
教卓の周りへ人が集まると、琴音はスマホを取り出し、まず黒と赤の線で構成された魔法陣の写真を表示した。
「今日、奥で変なの見つけた」
「文字?」
「文字っていうか……魔法陣。でも、転移するやつとは多分違う」
続けて画面を横へ送り、魔法陣の周囲にあった壁画を順番に見せていく。
単純化された人型、その隣の武器、5、10、15と読める数字。さらに写真を進めるほど、人型の胸元だけが段階的に膨らんでいることもはっきり確認できた。
「何これ?」
「人だよね?」
「こっちは剣じゃない?」
「……ねえ。これ、胸、大きくなってない?」
画面を覗き込んでいた一人の言葉に、周囲が静かになる。
「私たちもそう思った」
香奈恵が答える。
「でも、何を意味してるかまでは分からない。琴音は交換じゃないかって言ってたけど」
「断定してないからね」
琴音がすぐに付け加える。
「数字があって、人が変わって、その隣に装備っぽい絵があるから……順番だけならそう見えるってだけ」
「5センチとか?」
誰かが言った。一瞬、教室が静かになる。
「……やめて」
麗華が低い声で遮る。
「今だって毎日2センチずつ増えてるのよ。自分から5センチ増やして剣を一本もらうとか、そんな馬鹿な話だったら絶対使わないから」
「まだ5センチって決まってないって」
「10と15もあったんでしょう?」
「……あった」
「なおさら嫌よ」
麗華は自分の胸元へ目を落とし、露骨に顔をしかめた。
「冗談じゃないわ」
「まあ、今は使う理由ないよね」
葵も写真を見る。
「敵は強くなってたけど勝てたし、装備だって普通に落ちたし」
「私もそう思う」
蛍が頷く。
「あれが本当に交換の魔法陣だったとしても、何が起こるか分からない。少なくとも今は触らない方がいい」
「じゃあ、意味が分かるまでは誰も乗らない。それでいい?」
香奈恵が念を押すと、周囲から次々と同意する声が返ってきた。
今でさえ、自分たちの意思とは無関係に毎日身体を変えられている。そのうえ正体不明の装置へ自分から乗り、さらに身体へ何かを加えるかもしれない選択をする理由など、少なくとも今の彼女たちにはなかった。
「でもさ」
教室の端から声が上がった。
「もし本当に5センチとか増えるやつだったとしても、青い実で戻せたりしないの?」
「あ」
何人かが顔を上げる。
「だって麗華、5センチ戻ったんでしょ?」
「だからって簡単に言わないで」
麗華が即座に返した。
「あれだって何個でもあるわけじゃないのよ」
「そうね。確か……今いくつだっけ」
香奈恵が少し考える。
「ゴーレムのところで5個見つけて、その前から持ってた1個を合わせて6個。そのうち篠宮さんが1個使ったから……残りは5個のはず」
「そうそう、5個」
葵も頷く。
「今後また手に入る保証もないし、その5個を、交換で増えた身体を戻すために使うのは――」
そこまで話した香奈恵が、ふと教卓の横へ視線を向けた。
「……ちょっと持ってくるね」
「青い実?」
「うん。話してるだけだと紛らわしいし、一応数も確認しておきたいから」
香奈恵は席を離れ、共同の物資をまとめている場所から小さな箱を持って戻ってきた。教卓へ置き、何気なく蓋を開く。
その表情が止まった。
「……あれ?」
「どうしたの?」
葵が覗き込む。
「待って。今、5個って言ったよね?」
「言ったけど」
香奈恵は箱を少し手前へ引き寄せ、中に入っている青い果実を指先で一つずつ確認した。重ならないよう並べ直してみても、数は変わらない。
「……四つしかない」
「え?」
今度は蛍も箱を覗き込んだ。瑞々しい青い果実が、確かに四つ並んでいる。それ以外には何もなく、底に敷かれている布の下へ紛れ込めるような大きさでもない。
「昨日、五つだったよね?」
誰かが言った。
「五つだった」
麗華がすぐに答える。
「五つだったはずよ。この一週間、一つも増えなかったんだから」
「じゃあ……誰か使った?」
「いつ?」
「夜じゃない?」
「でも、使うなら相談するって決めたよね?」
驚きと困惑を含んだ声が重なる中、教室の後方にいた図書委員の少女は顔を上げられずにいた。昨夜その場に居合わせた二人も互いを見ることすらせず、周囲と同じように沈黙している。
「ちょっと待って」
香奈恵がざわめきを制する。
「まだ誰が使ったとも決まってない。まずは、本当にどこかへ移してないか確認して――」
「でも、勝手になくなるわけないよね?」
一人が戸惑った様子で言った。誰かを責めたいというより、本当に他の可能性が思いつかないという口調だった。
「使ったとしたら……」
別の少女が箱を見つめながら、恐る恐る続ける。
「100センチ超えてる人の誰か、とか?」
その言葉に、今度は箱ではなく教室中へ視線が散った。
「ほら、最近もう100超えてる人、かなりいるじゃん。重くて大変そうな人も増えてるし……だから、誰か我慢できなくなって使ったのかなって」
「…………」
名指しはされていない。けれど、その方がかえって厄介だった。
麗華や香奈恵だけではない。昨日までは100に届いていなかった琴音も、今朝とうとう三桁へ入った。ほかにも、もともと胸の大きかった者から順に100センチを越え始めている。
誰か一人を見るのではなく、誰が使っていてもおかしくないのではないかと、互いの身体を確かめるような視線が教室のあちこちで交差する。
「……ちょっと」
麗華が眉を寄せた。まだ誰も、彼女を犯人だとは言っていない。誰も、香奈恵を責めてもいない。それなのに、少し前まで意味不明な魔法陣について全員で考えていた時とは明らかに違う空気が、教室の中へ広がり始めていた。
教卓の上に残された四つの青い果実。
昨日までは、五つあることを誰も疑っていなかった。同じように、決めた約束を誰も破らないことも、どこかで当然のように信じていた。
その二つの前提のうち、一つはもう崩れている。そして今、もう一つの方にも初めて小さな亀裂が入り始めていた。