爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
「100センチ超えてる人の誰か、とか?」
その言葉を境に、教室の空気は明らかに変わっていた。教卓の上には四つの青い果実が並び、昨日まで五つあったはずのものが、一つだけ足りない。
誰か一人の名前が出たわけではない。それでも、何人もの視線が無意識に教室の中を巡っていることを、蛍は感じていた。
「……ちょっと待って」
麗華が不快そうに眉を寄せた。
「100超えてるから何なのよ。大きくなった人から順番に疑うつもり?」
「そういう意味じゃ……」
先ほど発言した少女が慌てて首を振る。
「ただ、使うとしたら負担がきつい人かなって思っただけで」
「だったら余計に決めつけるのは駄目でしょ」
「だから決めつけてないってば」
声を荒らげているわけではない。それでも、一つ言葉を重ねるたびに空気が固くなっていく。
「一回落ち着こう」
蛍は二人の間へ割って入るように声を掛けた。
「まだ誰かが食べたって決まったわけじゃないんだから」
「でも、昨日まで五つだったんでしょう?」
別の少女が教卓を見る。
「なくなるとしたら、誰かが持ってったか、食べたか……それくらいしかなくない?」
「それなんだけど」
それまで黙って箱を覗き込んでいた琴音が、何かに気づいたように顔を上げた。
「そもそも私たち、青い果実がずっと保存できるって確認したことあったっけ」
「……どういうこと?」
「時間が経ったら消える可能性」
琴音は考えを整理するように指を折った。
「最初に青い果実を見つけたのって、かなり前だよね。蛍さんが一人で探索した時」
「うん」
蛍も覚えている。
まだ迷宮について何も分からず、赤い果実を食べることさえ大きな問題になっていた頃。酸を吐くスライムに殺されかけ、その先で見つけたのが最初の青い果実だった。
「今、19日目だから……あれを手に入れてから十五日くらい?」
「そのくらいね」
香奈恵が答える。
「ゴーレムから出た五個はもっと後だけど、最初の一個だけはずっと前から持ってた」
「じゃあ、それが消えた可能性?」
「分からない。でも、ないとは言えないと思う」
琴音は教卓の上に並んだ果実へ目を向けた。
「赤い果実だって、この迷宮が毎日用意してるものだし、普通の果物と同じかどうかも分からない。一定期間経ったら消えるとか、効果が切れるとか……そういう仕様があってもおかしくないよ」
「でも、どれが最初の一個か分からないよね?」
「うん。分けてなかったから」
六個が揃った時点で、見た目にはどれも同じ青い果実だった。麗華が一つ食べ、残った五つはまとめて同じ箱へ入れたため、それ以降、どれが以前から保管していたものなのか区別しようと考えた者はいない。
「じゃあさ」
少し離れたところにいた少女がおずおずと口を開いた。
「もし時間切れで消えるなら……残ってる四つも、消える前に誰か食べた方がよくない?」
「あ……」
「それは確かに」
何人かが顔を見合わせながら頷く。
「だって使わないままなくなるの、一番もったいなくない?」
「待って」
麗華が即座に止めた。
「まだ消えたって決まってないでしょう」
「でも可能性はあるんでしょ?」
「可能性だけで全部使う方がおかしいって言ってるの」
麗華自身、一度は青い果実を使っている。だからこそ、その効果と希少性を誰より実感しているのだろう。
「たった5センチよ。今なら二日か三日で元に戻る。四つ全部使ったところで、何人助かるの?」
「じゃあ残しておいて、明日また一個消えたら?」
「それは……」
麗華が答えに詰まったところで、香奈恵が話を引き取った。
「どっちにしても、今ここで急いで決める必要はないと思う。まず、今ある四つが本当に自然に消えるのか確認しましょう」
「どうやって?」
「記録する」
琴音が答えた。
「写真撮って、毎朝と夜に数を確認する。それと、今度は一個ずつ区別できるようにしておけばいいんじゃない?」
「印でも付ける?」
「果実そのものに何かするのは怖いから、包む布を変えるとか」
「それならできそう」
話題が誰を疑うかではなく、どうやって確かめるかへ移るにつれて、先ほどまで教室を覆っていた刺々しい空気も少しずつ薄れていった。
香奈恵も頷く。
「じゃあそうしましょう。残ってる四つは今まで通り共同で保管。ただし今日から朝と夜に個数を確認して記録する。使う時は、今まで決めた通り相談してから」
「もし本当に辛い人がいたら?」
「それも今までと同じ。探索に出てるかどうかは関係ないわ」
香奈恵はそこで一度言葉を切り、教室にいる全員を見渡した。
「それと、誰かを犯人扱いするのもやめましょう。誰かが使った可能性はあるけど、消えた可能性だってあるし、どこかへ移しただけかもしれない。今の私たちには何も分からないんだから、胸が大きいとか、前に青い果実を使ったことがあるとか、それだけの理由で疑うのはなし」
「……賛成」
蛍が最初に答えると、葵もすぐに続いた。
「私も」
「私だって、好きでこんな大きさになってるわけじゃないし」
麗華が溜息交じりに言う。
「疑われるのは御免だけど、だからって今度は別の誰かを順番に疑っていくのも嫌よ」
「……ごめん。責めるつもりじゃなかったんだけど」
先ほど100センチを越えている者の話を出した少女が小さく頭を下げると、麗華もそれ以上は何も言わなかった。
完全に元通りの空気になったわけではない。それでも、誰か一人を問い詰めるような流れにはならずに済んだ。
「あと」
香奈恵が少し迷ってから付け加える。
「もし、誰かが本当に使ってたとしても……今ここで名乗れとは言わないから」
その一言で、教室が再び静かになる。
「ただ、私か、話しやすい人にだけでも教えて。怒鳴ったり、みんなの前で責めたりするつもりはないから」
返事はなかった。教室の後ろにいた図書委員の少女も、膝の上で重ねた両手を見つめたまま顔を上げなかった。
◇ ◇ ◇
その後、青い果実は一つずつ別の布へ包まれることになった。
白、灰色、紺色、薄い茶色。あり合わせの布を使っただけなので統一感などないが、これなら少なくとも四つを区別できる。琴音は布に包む前と包んだ後をそれぞれスマホで撮影し、ノートにも時刻と個数を書き込んだ。
「これで明日の朝も四つなら、少なくとも一晩では消えないってことね」
「でも期限が十五日とかだったら分からないけどね」
「そういう嫌なこと言わないの」
「ごめん」
琴音が肩を竦める。
その流れで、今朝の身体測定記録を調べれば誰が青い果実を使ったか分かるのではないか、という意見も出た。しかし、それも決め手にはならなかった。
最初の頃は全員が変化そのものに怯え、毎日のように自分の数字を確かめていたものの、30人近い人数で同じことを続けていれば、次第に測定頻度にも差が生まれている。毎朝欠かさず測る者もいれば、数字を見ること自体が嫌になり、数日に一度しか測らなくなった者もいた。
探索へ頻繁に出る者や、身体の変化を細かく確認している蛍たちは記録が揃っているが、全員について昨日と今日の正確な数値が残っているわけではない。そのうえ、一日ごとの増え方にも多少の個人差がある。
「今から全員測ったとしても、昨日の数字がない人は比較できないよ」
琴音がノートをめくりながら言う。
「それに、青い果実を使えば絶対にきっちり5.0センチ減るって、一回しか試してないから断定できないし」
「じゃあ無理かぁ……」
「無理っていうか、測定を犯人探しに使い始めるのは嫌じゃない?」
葵の一言で、その話も終わった。
身体測定は、ただでさえ全員にとって気の重い時間になっている。そこへ「数字が減っていたら疑われる」という意味まで加われば、測ること自体を拒む者が出てもおかしくない。
結局、青い果実が一つ減った理由は分からない。それが、少なくともこの時点で教室のみんなが共有した結論だった。
◇ ◇ ◇
夕方になる頃には、教室の雰囲気もかなり普段へ戻っていた。
今日手に入れた杖の性能を確かめる者がいれば、破損した装備を仕分ける者もいる。別の場所では、明日の探索班について何人かがノートを囲んで相談していた。
青い果実の箱を気にして何度か見る者はいたものの、誰かの身体へ露骨な視線を向けるような者はいなくなっている。
蛍も、今日使った金属鎧を他の装備と一緒に整理していた。迷宮内では身体へぴったり合っていた鎧も、教室へ戻ればただの重い金属の塊へ戻っている。二人がかりで棚代わりに使っている机の脇へ移動させ、一息ついたところで、背後から小さな声を掛けられた。
「……神崎さん」
「ん?」
振り返ると、そこに立っていたのは図書委員の少女だった。いつも身体を隠すように着ている大きめの部屋着。その胸元は、それでもはっきり分かるほど膨らんでいる。
「どうしたの?」
「……ちょっと」
少女は周囲を気にするように視線を動かした。
「二人で、話したいことがあって」
蛍は一瞬だけ首を傾げたものの、すぐに頷く。
「いいよ」
教室の中で完全に二人きりになれる場所などない。それでも物資を置いている机の陰や教室の端まで行けば、声を抑えている限り、話の内容までは聞こえないだろう。
二人で少し離れた場所へ移動しても、少女はなかなか口を開かなかった。何度か何かを言おうとしてはやめる様子を見て、蛍も急かさずに待つ。
やがて少女は床へ視線を落としたまま、小さく息を吸った。
「青い果実」
その一言で、蛍の表情が変わる。
「……うん」
「私が、食べた」
予想していなかったと言えば嘘になる。今日一日、誰かが使った可能性について考えなかったわけではない。それでも、実際に本人の口から告げられると、蛍はすぐには言葉を返せなかった。
「昨日の夜?」
少女が頷く。
「みんなが寝てから」
「一人で?」
「……最初は」
そこで少女は少し慌てたように顔を上げた。
「でも、二人いたの。途中で来て」
「あ……」
「違うの」
蛍が何か言うより先に、少女は強く首を振った。
「あの二人が一緒にやったんじゃないから。私が箱のところにいたら、たまたま来ただけで……食べたのも私。黙っててって頼んだのも私だから」
昨夜、彼女と一緒にいた二人。今日、青い果実が足りないと分かった時にも何も言わなかった少女たちの顔を、蛍は思い出した。
「……そっか」
「二人は悪くないの」
「うん」
「だから、もし怒るなら私だけにして」
蛍はすぐには返事をせず、目の前にいる少女を見た。
昨日の浴場でも気づいていたが、彼女はもともとこの教室でも胸の大きい方だった。その身体が一日ごとにさらに膨らんでいるのだから、辛くないはずがない。
「……軽くなった?」
蛍が尋ねると、少女は呆気に取られたように顔を上げた。
「え?」
「青い果実食べて。少しは楽になった?」
怒られると思っていたのだろう。しばらく答えられずにいた少女は、やがてほんの少しだけ頷いた。
「……うん。すごく」
「そっか」
「たった5センチくらいなのに、それでも食べた後……軽くて。服も少しだけ楽になって。息するのも……」
そこで声が詰まる。
「久しぶりに、ちゃんと息できた感じがした」
青い果実一つで減ったのは、たった5センチ。それでも目の前の少女は、その程度の変化を思い出しただけで今にも泣きそうになっている。蛍には、すぐに掛けられる言葉が見つからなかった。
「……ごめんなさい」
「私に謝られても」
「でも」
「使ったことそのものを、私が怒るつもりはないよ」
そう言ってから、蛍は少し言葉を選んだ。
「ただ……相談してほしかったとは思う。みんなで見つけたものだし、数も少ないから。勝手に使っていいものじゃないっていうのは……分かってたんだよね?」
「……うん」
「だったら、そこは良くなかった」
「うん……」
責めたいわけではない。ただ、何もなかったことにもできない。蛍は少し間を置いてから尋ねた。
「でも、なんで言えなかったの? 香奈恵さん、探索に行ってない人でも、辛かったら使っていいって言ってたよね」
「分かってた」
「じゃあ――」
「だから、言えなかったの」
蛍が口を閉じる。
少女は胸元へ置いていた手を強く握った。
「みんなが怪我しながら取ってきたものなのに。神崎さんたちは毎日じゃなくても何度も迷宮に行って、あんな怪物と戦ってる。昨日だって何人も怪我して帰ってきた」
「でも、教室に戻れば治るよ」
「痛いのは同じでしょう?」
そう言われると、蛍には返す言葉がなかった。
「私はほとんど行ってない。怖くて、武器持って外に出るのも怖くて……ずっとここにいるだけなのに、それなのに、みんなが取ってきたものを私が欲しいなんて……」
「香奈恵さんは、それでもいいって」
「分かってる」
また同じ言葉が返ってきた。
「橘さんが優しいのも分かってる。神崎さんたちが、探索してない人を責めたりしてないのも分かってる。でも……だから余計に言えなかった」
少女は顔を俯けたまま続ける。
「私より大変な人がいるって思ったら、欲しいって言えなくて。でも毎日起きるたびに重くなって、昨日お風呂に入った時、みんな見てたら……これからもっと大きくなるんだって思って」
昨夜の浴場では、香奈恵と麗華の身体に新しい変化が現れていることや、100センチを越えた者から尻や太腿まで変わっているのではないかという話をした。あの会話を聞いていたのは、蛍たちだけではない。
「……怖くなったんだ」
蛍が言うと、少女は小さく頷いた。
「うん」
結局、それだけだった。
悪意があったわけでも、誰かを困らせたかったわけでもない。毎日重くなっていく身体が怖くて辛かったのに、それでも自分から欲しいとは言い出せず、みんなが眠った後に箱のところまで行ってしまった。
「今日」
少女がぽつりと続ける。
「麗華さんとか、100超えてる人が疑われそうになった時……言わなきゃって思った」
「うん」
「でも、言えなかった」
「……うん」
「ごめんなさい」
今度の謝罪にも、蛍はすぐには何も返さなかった。
ここで「いいよ」と言ってしまうのも違う気がする。共同で使うと決めたものを黙って一人で使い、そのことを隠すために、たまたま居合わせた二人にも秘密を共有させてしまった。それが良かったとは言えない。
けれど、この少女だけを悪者にすることも、蛍にはできなかった。
「香奈恵さんには、話そう」
そう告げると、少女の顔が強張る。
「……やっぱり?」
「うん」
「みんなにも?」
「今すぐ全員の前で言えとは言わないよ。私も一緒に行くから、香奈恵さんにだけは話そう」
「怒られるかな」
「少しは怒るかも」
蛍はそこだけは誤魔化さなかった。
「でも、みんなの前で吊し上げたりはしないと思う。今日の香奈恵さん見てたら分かるでしょう?」
「……うん」
「それに、このまま時間切れで消えたかもしれないってみんなが考え続けるのも良くないよ。残ってる四つをどうするかにも関係するし」
少女はしばらく黙っていたが、やがておそるおそる尋ねた。
「……今日じゃなくてもいい?」
「今日じゃ嫌?」
「まだ……ちょっと」
蛍は迷った。
今ここで無理やり香奈恵の前へ連れていけば、せっかく自分から話してくれた少女が、次から二度と誰かを頼れなくなるかもしれない。
「じゃあ、明日」
「……明日?」
「うん。明日、私と一緒に話そう」
少女は長い間迷った末、小さく頷いた。
「……分かった」
「約束ね」
「うん」
そこでようやく、少女の肩から僅かに力が抜けた。
「神崎さん」
「何?」
「……ありがとう」
「まだ何もしてないよ」
「聞いてくれたから」
そう言ってほんの少しだけ笑った少女を見送り、蛍は教室の前方へ視線を移した。
教卓の近くには、四つの青い果実が入った箱が置かれている。今夜から朝晩に数を確認することになり、明日の朝も四つ残っていれば、少なくとも一晩で自然消滅するものではないと分かるだろう。
それでも、みんなにはまだ真相が分からない。
最初に見つけた果実だけが古くなって消えたのかもしれないし、誰かが別の場所へ移した可能性も残っている。あるいは、本当に誰かが使ったのかもしれない。
けれど蛍だけは、もう知っていた。
あの果実は勝手に消えたわけでも、誰かが面白半分で盗んだわけでもない。毎日少しずつ重くなっていく身体に耐えきれなくなった一人が、それでも「使いたい」と口にできないまま、とうとう手を伸ばしてしまったのだ。
香奈恵は、探索していない者でも使っていいと言っていたし、誰も彼女を責めてはいなかった。それでも言えないことはある。公平な決まりを作ったからといって、それだけでは消えてくれない苦しさもあるのだ。教室にいる全員が同じように身体を変えられていても、その負担まで同じとは限らない。
蛍は少し前まで、自分たちは上手くやれていると思っていた。三十人近い人数で役割を決め、探索を交代し、怪我をしたら休ませ、見つけたものは共有する。そうやって協力していけば、いつか最深部まで辿り着けるのだと。
その考え自体は今も変わっていない。
ただ、迷宮が彼女たちの間へ持ち込む問題は、身体の変化だけではないのかもしれない。数が足りず、誰かには今すぐ必要なのに、別の誰かにはまだ必要ではないもの。そうしたものがこれから増えていった時、それでも今までと同じように全員で分け続けることができるのだろうか。
「蛍ー?」
教室の反対側から葵の声が飛んできた。
「お風呂行くけど、どうする?」
「あ、行く!」
考え込むのをやめ、蛍は葵たちの方へ歩き出した。その途中、教卓の横を通り過ぎる時に一度だけ青い果実の箱を見る。
今、残っているのは四つ。
明日の朝も同じ数があるかどうかを、みんなは確認することになる。けれど蛍にとって、もうそれは単なる数の問題ではなくなっていた。