爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
翌朝。
「……四つ」
琴音は教卓の上へ青い果実を並べると、数を確認して記録用のノートへ書き込んだ。白、灰色、紺色、薄茶色と、それぞれ違う布に包んでおいた四つは、昨夜確認した時とまったく同じ状態で箱の中に残っている。
「減ってないね」
葵が横から覗き込む。
「少なくとも、一晩で勝手に消えるわけじゃないみたい」
「最初の一個だけ保存期限が来たって可能性は、まだ残ってるけどね」
「だから、朝から嫌なこと言わないの」
「ごめん」
昨日とほとんど同じやり取りに、周囲から小さな笑いが起きた。
青い果実が一つ足りない理由は分からないままだったが、教室の空気は昨日よりずっと軽い。少なくとも、誰かを疑うような視線が飛び交うことはなくなっていた。
蛍はその様子を眺めながら、少し離れた場所に立っている図書委員の少女へ目を向けた。視線が重なると、少女は一瞬だけ緊張したように肩を強張らせ、それから小さく頷く。
昨日交わした約束を覚えているのだろう。蛍も黙って頷き返した。朝の測定と赤い果実の摂取が終わり、今日の探索班について話し始める少し前。
「香奈恵さん」
蛍は図書委員の少女を伴い、教卓の近くにいた香奈恵へ声を掛けた。
「ちょっといい?」
「いいけど……どうしたの?」
「二人で話したいことがあるんだって」
香奈恵の視線が少女へ移る。それだけで何かを察したのか、表情が僅かに変わった。
「……分かった。向こう行きましょうか」
三人は教室の端へ移動した。完全に声を遮れる場所などないため、周囲へ聞こえないよう、自然と声量も小さくなる。
少女は昨日、蛍の前でそうした時と同じように、なかなか口を開かなかった。蛍も香奈恵も急かさずに待っていると、やがて少女は両手を強く握りしめた。
「……青い果実」
その一言で、香奈恵の目が僅かに細くなる。
「私が、食べました」
「……そう」
驚いた様子はあったものの、それ以上の反応は見せなかった。
「昨日の夜?」
「はい」
「一人で?」
「途中で二人に見つかりました。でも、あの二人は関係なくて……」
少女は昨日、蛍へ話したのと同じ説明を繰り返した。
自分一人で箱のところへ行ったこと。途中で来た二人に見つかったこと。食べることを決めたのは自分であり、黙っていてほしいと頼んだのも自分だということ。香奈恵は途中で遮らず、最後まで聞いてから静かに頷いた。
「分かった。まず、その二人を責めるつもりはないわ」
「……はい」
「あなたのことも、みんなの前で責めるつもりはない」
少女が僅かに顔を上げる。
「ただし、無断で使ったことは良くない」
「……はい」
「青い果実は、今のところ数が限られてる。誰か一人が必要だからって勝手に使ったら、次に本当に必要な人が出た時に困るでしょう?」
「分かってます」
「分かってたのに、使ったのよね」
「……ごめんなさい」
香奈恵はすぐには返さなかった。怒鳴ることはしないが、曖昧に笑って許すつもりもないらしい。
「どうして相談しなかったの?」
少女が俯き、蛍も横から口を挟まずに待つ。
「……怖かったんです」
「私に言うのが?」
「それも、少し。でも……それより」
少女は言葉を探しながら続けた。
「私、ほとんど探索に行ってないから」
「それは知ってる」
「みんなが怪我しながら取ってきたものなのに、私が欲しいって言うのが……」
香奈恵が小さく息を吐く。
「前にも言ったでしょう。探索してるかどうかは関係ないって」
「分かってます」
「じゃあ――」
「分かってたから、言えなかったんです」
その答えに、香奈恵も口を閉じた。
「みんな優しいから、私が欲しいって言ったら、多分使わせてくれると思ったんです。でも、それが嫌で……」
「嫌?」
「私が使ったら、その分、誰かが使えなくなるから」
少女の声が少し震える。
「ずっと教室にいるだけの私が一個使って、毎日外に行ってる人が使えなくなったらって考えたら……言えなくて。でも、身体はどんどん重くなるし、昨日のお風呂で、この先もっと変わるかもしれないって聞いて……」
香奈恵はしばらく黙ってから、少しだけ声を和らげた。
「……食べて、楽になった?」
昨日の蛍と同じ問いだった。少女が驚いたように顔を上げる。
「はい。すごく……楽になりました」
「だったら、使ったこと自体を後悔しろとは言わない。でも、次は言って。私じゃなくてもいい。蛍でも、葵でも、琴音でも、話しやすい人なら誰でもいいから」
「……はい」
「勝手に使うんじゃなくて、一緒に考える。そのためにみんなで持ってるんだから」
「はい」
今度の返事は、さっきよりも少しだけはっきりしていた。
「それで、このことだけど」
香奈恵は蛍にも視線を向ける。
「本人の名前は伏せる。ただ、果実が自然に消えたわけじゃなかったことは、みんなに話した方がいいと思う」
少女の身体が僅かに強張った。
「名前は……」
「言わない」
香奈恵はすぐに答えた。
「誰だったのか探すのも禁止する。それでいい?」
「……はい」
少女は少し迷った末に頷いた。
◇ ◇ ◇
「みんな、少しいい?」
少しして、探索班を決める前に香奈恵が教室全体へ声を掛けると、自然と視線が集まった。
香奈恵の横には蛍だけが立ち、図書委員の少女は他の者たちと同じように、少し離れた場所に座っている。
「昨日の青い果実について、事情が分かりました」
その一言で、教室に小さなどよめきが広がった。
「誰かが使ったの?」
「誰?」
「ちょっと待って」
香奈恵が手を上げて止める。
「本人から申し出がありました。誰なのかは言いません」
「でも――」
「言わない」
今度は少しだけ強い口調だった。
「身体の負担が辛くなって使ったそうです。黙って使ったことについては、本人とも話しました。だから、この件はこれで終わり。誰だったのか探したり、数字を比べたりするのもなし」
「……本人は大丈夫なの?」
誰かが尋ねる。
「青い実食べて、楽にはなったの?」
「なったって」
香奈恵が答えると、別の少女が困ったように頬を掻いた。
「じゃあ……まあ。勝手に使ったのは良くないけど、辛かったなら仕方ない部分もあるよね」
「でも次からは言ってほしいかな」
「それはそう」
「私だって、もしもっと大きくなったら使いたいかもしれないし」
責める声は上がらなかったが、誰も無条件に肯定したわけでもない。共同で管理していたものを勝手に使った。それ自体は良くない。それでも、事情まで聞けば、それ以上誰かを責め立てるほどのことではない。
「残ってるのは四つ」
香奈恵が教卓の上に置かれた箱へ目を向けた。
「昨日も話したけど、これからは数をちゃんと記録します。それと、使いたい人がいたら遠慮しないで相談して。探索してるかどうかは関係ないから」
その言葉に何人かが頷く。
教室の後方では、図書委員の少女が俯いたまま小さく息を吐いていた。隣に座る二人も何も言わない。
昨日まで三人の間だけにあった秘密は、少しだけ形を変えた。誰が食べたのかまでは知られていない。それでも、少なくとももう「誰かが盗んだのではないか」と疑い続ける必要はなくなった。
◇ ◇ ◇
「それで」
話が一段落したところで、琴音が箱を見ながら口を開いた。
「根本的な問題は何も解決してないよね」
「何の?」
葵が尋ねる。
「青い果実が四つしかないこと」
「ああ……」
教室の空気が少し重くなる。
「一個で5センチ。四つなら20センチ分」
「そう言われると、少ないね」
「30人いるからね」
琴音はノートを開きながら続けた。
「しかも今は、一日でだいたい2センチ増えてる。単純計算なら青い果実一個の効果なんて、二日か三日でなくなる」
「分かってるけど、数字で言われると本当に嫌」
「ごめん」
「でも琴音の言ってることは正しいわ」
香奈恵が腕を組んだ。
「四つを大事に残してても、全員分には到底足りない。今後また手に入るかどうかも分からない」
「一週間、出なかったもんね」
葵の言う通りだった。ゴーレムを倒して五つの青い果実を手に入れてから、一週間。探索は続け、小鬼も倒し、装備もいくつか増えた。それでも、青い果実だけは一つも新しく見つかっていない。
「……奥に行けば、またあるかもしれない」
蛍が呟くと、何人かがこちらを見る。
「ゴーレム倒した時は五個出た。だったら、この先にも強い敵とか、同じような守護者がいるなら……」
「青い果実が出る可能性はある」
琴音が言葉を引き取る。
「保証はないけど」
「結局、それしかないわね」
麗華が深く息を吐いた。
「ここでじっとしてても、毎日増えるだけなんだから」
言葉にしてしまえば、酷く単純だった。
身体を戻すには青い果実が必要で、その青い果実は迷宮の中でしか見つかっていない。ならば、探索を進めるしかない。
それは以前から分かっていたことだったが、残りが四つしかないと改めて確認した今、その意味は以前よりずっと重くなっている。
「昨日見つけた魔法陣は?」
誰かが尋ねた。
「5とか10とか書いてたやつ」
「まだ使わない」
香奈恵が即答する。
「意味が分かってないものに身体を乗せるのはなし」
「でも、装備が出るなら……」
「出るかどうかも確定してないでしょう?」
「それはそうだけど」
「今は普通に探索して進める。少なくとも、昨日の敵には勝てたんだから」
昨日は三人が怪我をしたが、全員無事に戻ってきた。教室へ入った時には傷も消え、今日はまた別の者たちが探索へ向かう。
そんな話が当たり前のように進んでいくことに、蛍は少しだけ引っ掛かりを覚えた。そして、それを聞いているのは探索へ行く者だけではなかった。
◇ ◇ ◇
「今日の探索組、昨日行った人は基本休みで」
香奈恵がノートを開き、今日の人数を確認していく。
「前衛できる人、あと二人」
「私行けるよ」
「私も」
「じゃあお願い。中衛は――」
教卓の周りでは、もう慣れたやり取りが続いていた。その少し後ろでは、今日も探索へ参加しない者たちが様子を眺めている。図書委員の少女も、その一人だった。
「昨日、腕大丈夫だった?」
近くから聞こえてきた声に目を向けると、昨日の探索で斧を持った小鬼に壁まで弾き飛ばされた少女が、笑いながら腕を回してみせていた。
「もう全然平気」
「本当に?」
「ほら。昨日戻ってきた時は、めちゃくちゃ痛かったけどね」
「折れてたの?」
「多分」
「多分って」
「だって骨折したことなかったし。腕曲げるだけですっごい痛くて、これが骨折かぁって」
「そんな感想で済ませないでよ!」
周囲から笑いが起こる。
「でも教室入ったら治ったから良かったよ。骨折ってあんな痛いんだね。びっくりした」
「治るって分かってても痛いものは痛いんだから、ちゃんと避けなさいよ!」
「はいはい」
「本当に分かってる?」
「香奈恵みたいなこと言うじゃん」
また笑い声が上がった。
探索へ行く者たちにとっては、すでにそれも半分は日常の会話になっているのだろう。怪我をして、痛い思いをして、それでも教室へ戻れば治る。だから次は気をつけようと笑いながら話せる。
けれど図書委員の少女は、その会話を聞いて笑うことができなかった。少し離れたところでは、昨夜一緒にいた二人も同じ話を聞いている。そのうち一人が、俯きながら小さく呟いた。
「……骨折って、痛いよね」
「そりゃ痛いでしょ」
「私、したことないけど」
「私も」
二人は、昨日怪我をした少女が明るく笑っている方を見る。
「昨日、私たちここにいたんだよね」
「……うん」
「お風呂入ったり、話したりして」
「うん」
「その間、あの子たちは骨折とかしてたんだ」
今度は、すぐに答えが返ってこなかった。誰かに責められたわけではない。探索へ来いと強制されたこともなく、むしろ香奈恵は、怖いなら無理に行く必要はないと何度も言っている。
それでも、だから気にならないというわけではなかった。
今日も誰かが武器を持って迷宮へ向かい、自分たちは教室で待つ。帰ってきたら「おかえり」と声を掛け、もし怪我をしていても、数秒後には何事もなかったように治っていく。
それを毎日のように繰り返している。
「……私も、行った方がいいのかな」
一人が呟くと、もう一人が驚いたように顔を見る。
「行ける?」
「……怖い」
「私も」
答えはすぐに返った。小鬼の槍も、大きな斧も、紫色の魔法も怖い。自分がそこへ立てるのかと聞かれれば、二人とも自信などなかった。
「でも」
少女は探索用の装備を身につけている者たちを見つめる。
「ずっと待ってるだけなのも……結構きついね」
「……うん」
二人の視線が、少し離れた場所にいる図書委員の少女へ向かった。
彼女もこちらを見ていた。三人とも何も言わなかったが、その表情だけはよく似ていた。
◇ ◇ ◇
「今日は、地図を一つ先まで広げることだけ考えましょう」
準備を終えた探索組へ、香奈恵が最後の確認をする。
「昨日より奥へ行く必要はない。新しい杖の確認もしたいし、昨日の敵がどのくらいの範囲まで出るのかも分かってないから」
「青い実探さなくていいの?」
葵が尋ねる。
「探すわよ。でも焦らない」
「焦って奥まで行ったら、昨日みたいになるしね」
蛍が言うと、香奈恵も頷いた。
「そういうこと。青い果実が必要だからこそ、怪我人を増やして毎回撤退するような進み方はしない」
「了解」
今日の十人が装備を持ち、白い魔法陣の周囲へ集まる。見送るために近くまで来ていた者たちの中には、図書委員の少女と昨夜の二人もいた。
「行ってくるね」
葵がいつものように手を振る。
「いってらっしゃい」
返事が重なる中、図書委員の少女も声を出した。
「……気をつけて」
「うん」
蛍が笑って答えた直後、白い光が十人を包み、その姿が教室から消える。残された空間が、少しだけ静かになった。つい先ほどまで探索組が立っていた場所を見つめながら、昨夜の二人のうち一人がぽつりと呟く。
「また怪我して帰ってくるのかな」
「……かもしれない」
「私たちは何もできないのかな」
図書委員の少女は答えなかったが、その言葉は胸の奥へ残った。少なくとも今は、何もできない。
迷宮へ入る勇気も、怪物と戦う自信もない。それでも、だからといって誰かが傷ついて帰ってくるのを待ち続けることが、楽なわけでもなかった。
教卓の近くには、四つの青い果実が残されている。迷宮の奥では、今日も別の誰かがそれを探している。自分たちの身体を少しでも元へ戻すために。
そのことを考えると、図書委員の少女はどうしても胸の奥が重くなるのを感じた。
昨日までとは、少し違う意味で。
◇ ◇ ◇
その日の探索では、大きな戦闘は起こらなかった。
まず安全な場所で新しく得た紫石の杖を試したところ、これまでの攻撃用の杖よりも強い光弾が撃てることが分かった。使用できる回数も少なくはなく、昨日の敵が使っていたものと同系統の武器なのだろうという結論になる。
その後は既知の通路を抜け、昨日の広間より手前にあった分岐を調べた。途中で小鬼の集団を一度だけ確認したものの、数が多いうえに昨日見た杖持ちまで混じっている。
「今日はやめましょう」
香奈恵は迷わず撤退を選んだ。
青い果実は欲しい。だからこそ、焦って無理をしても意味がない。結局、その日は新しい通路を一本だけ地図へ加え、教室へ戻ることになった。
「おかえり!」
白い光の中から十人が現れると、待っていた者たちがすぐに集まってくる。
「今日は怪我してない?」
「してないよ」
「敵はいたけど戦わなかった」
「良かった……」
安堵した声があちこちから上がった。図書委員の少女も、蛍が無傷なのを確認すると小さく息を吐く。
ただ、その安心の奥には別の感情が残っていた。今日は怪我をしなかったとしても、明日もそうとは限らない。それでも、自分は明日もここで待つだけなのだろうか。
その問いに答えられる者は、まだ誰もいなかった。確かなのは、青い果実が増えていないということだけだった。朝と同じ四つが、夕方になっても箱の中に残っている。
数は足りないままなのに、胸だけは明日の朝になればまた増えていく。
蛍は記録ノートへ「青果四個」と書き込まれていくのを眺めながら、今日引き返してきた通路の先を思い浮かべた。
青い果実を探すなら、いずれ進まなければならない。その先に、昨日より強い敵が待っていることを知っていても。
迷宮は彼女たちを急かさない。無理やり背中を押すこともしない。ただ必要なものを奥へ置いたまま、彼女たち自身がそこへ向かうことを選ぶまで、静かに待っていた。