爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
青い果実を一つ持ち帰った翌朝、今日の探索班を決めようとしていた香奈恵のもとへ、普段は迷宮へほとんど入らない数人が揃ってやってきた。
先頭に立っていたのは、あの夜、共同保管されていた青い果実を使った図書委員の少女だった。その両脇には、偶然その場に居合わせながら黙っていた二人もいる。
「香奈恵さん、ちょっといいですか」
「いいけど……どうしたの?」
「昨日、みんなで話したんです」
彼女が振り返ると、後ろの二人も小さく頷いた。
「試してみたいことがあります」
「何を?」
「前に見つけた、あの魔法陣です」
それだけで、近くにいた蛍たちにも話の内容が伝わった。
「5とか10とか15みたいな数字が書いてあったやつ?」
琴音が確認すると、少女は頷く。
「はい。私たち、あれに乗ってみようと思って」
「ちょっと待って」
麗華がすぐに口を挟んだ。
「何が起きるか分からないのよ?」
「だからです」
「だからって何よ」
「何が起きるか分からないなら、普段探索に出てる人が試すより、私たちがやった方がいいんじゃないかって話したんです」
蛍は思わず眉を寄せた。
「どうしてそうなるの?」
「私たち、ほとんど迷宮に行ってないから」
「それは関係ないよ」
「分かってます」
返事があまりに早くて、蛍は次の言葉を失った。
「怖いなら行かなくていいって、ずっと言ってもらってるのも分かってます。ここで荷物を整理したり、記録したりするのだって必要だって言ってくれてるのも」
図書委員の少女はそこで一度言葉を切った。
「でも、昨日も怪我して帰ってきたでしょう?」
誰も答えない。
「肩、折れてたかもしれないって。それなのに、私たちはここで待ってただけでした」
「教室に戻れば治るよ」
葵が言ったものの、その声はいつものようには明るくなかった。
「治るのと、痛くなかったのは違いますよね」
「……うん」
「毎日そういう話を聞いてると、結構きついんです。今日は腕を怪我したとか、昨日は小鬼に殴られたとか。みんな普通に話すようになってるけど、私たちは聞くたびに、また誰かが痛い思いしたんだって思うから」
その隣にいた一人も続けた。
「私、怪物と戦うのはまだ無理です。多分、怖くて動けなくなると思う。でも魔法陣の上に立つだけならできる」
「だからって、自分たちなら何が起きてもいいなんて考えないで」
香奈恵の声が少し強くなる。
「そんなつもりじゃないです」
「なら――」
「私たちが、自分でやりたいんです」
静かな声だった。それでも、香奈恵はそこで言葉を止めた。
「昨日持って帰ってきた盾とか剣、前より強いんでしょう?」
図書委員の少女が蛍を見る。
「うん」
「蛍さんも、装備が良かったから槍を防げたって言ってましたよね」
「……言った」
「だったら、もっといい装備があれば、怪我する人を減らせるかもしれない」
「でも、あれが本当に装備と交換する魔法陣なのかも分かってないよ」
琴音が言った。
「5って数字だって、私たちは勝手に5センチじゃないかって考えてるだけ。全然違う意味かもしれない」
「だから、一回確かめたいんです」
図書委員の少女は少し緊張したように指を組んだ。
「それに……最初は私がやります」
麗華の表情が険しくなった。
「あなた、この前、身体が大きくなるのが嫌で青い果実を使ったんでしょう」
言ってから、麗華自身が小さく息を呑んだ。青い果実を使った人物について、表向きは誰も追及しないと決めている。
「……ごめん」
「大丈夫です」
少女は首を振った。
「多分、気づいてる人は何人かいると思うので」
その言葉に、隣の二人は何も言わなかった。
「だからって身体で返す必要なんてないわよ」
香奈恵が言う。
「青い果実のことなら、もう終わった話でしょう」
「それだけじゃないです」
今度は、少女もはっきり否定した。
「使った分を返さなきゃっていう気持ちが全然ないって言ったら嘘になります。でも、それだけならやめます」
そう言って、自分の胸元へ一度視線を落とす。
「私も、役に立ちたいんです」
「……」
「迷宮に行くのは怖い。でも、これならできるかもしれないから」
蛍には、その言葉を簡単に否定できなかった。役に立っていないわけではない。教室に残っている者たちがいるからこそ、全員が毎日迷宮へ入らずに済んでいる。
そんなことは何度でも言える。
けれど、毎日のように怪我をして戻ってくる姿を見せながら、「何もしなくていい」と言い続けることが、本当に相手にとって楽なのかは分からなかった。
「……分かった」
しばらく考えた末に、香奈恵が息を吐いた。
「まず、もう一度あの部屋へ行く。ちゃんと調べたうえで、それでもやるなら一回だけ試す」
「はい」
「少しでも変だと思ったら中止。それから――」
香奈恵は三人を順番に見た。
「これは罰じゃないからね」
三人が目を瞬かせる。
「青い果実のことがあったから三人で身体を差し出す、みたいな考え方は絶対にしないで。誰もあなたたちにそんなもの求めてない」
「……分かってます」
「本当に?」
「はい」
今度は三人とも頷いた。
「じゃあ行きましょう」
◇ ◇ ◇
戦闘が目的ではないため、その日は護衛を中心に人数を絞って迷宮へ入った。白い魔法陣でゴーレムを倒した広間へ転移し、すでに安全が確認されている道だけを通って例の部屋を目指す。
到着した部屋には、以前と同じように黒と赤の魔法陣が並んでいた。
5、10、15。
壁には胸部が段階的に大きくなっていく女性の絵と、その先で武器や防具を手にしている姿が描かれている。
「やっぱり変わってないね」
琴音が以前撮った写真と壁画を見比べる。
「5のところだけでも何種類かある」
床に刻まれた魔法陣の先には、剣や盾、腕輪、杖と、それぞれ異なる装備らしき図柄が浮かんでいた。
「あれ」
図書委員の少女が足を止めた。
杖を示す魔法陣の前だった。描かれているものは、これまでに手に入れた攻撃用の杖とは明らかに違う。
白銀に見える細身の柄。その先端には輪のような形があり、左右へ翼を思わせる装飾が伸びている。輪の中央には、淡い色の石まで嵌め込まれているようだった。
「……ヒーラーっぽい」
琴音が呟く。
「何それ」
麗華が横を見る。
「回復役が持ってそうな杖」
「またゲーム?」
「デザインの話だって」
「でも、確かに今までの杖とは違うね」
蛍も壁画を眺めた。何ができるかは分からないものの、少なくとも今まで持っていない種類の装備だということだけは見て取れる。
「私、これにします」
図書委員の少女が言った。
「本当に?」
香奈恵が念を押す。
「はい」
「今ならまだやめてもいいのよ」
「それ、今日だけでもう何回目ですか?」
困ったような笑みが返ってくる。
「でも、ありがとうございます」
少女は一度大きく息を吸うと、数字の5が刻まれた魔法陣へ足を踏み入れた。すぐには何も起こらない。
「……?」
全員が息を潜めて見守る中、数秒後に足元の線が赤く光った。
「っ……!」
少女が胸元を押さえる。
「大丈夫!?」
「待って……痛くは、ないです」
赤い光が足元から身体を包み込み、着ていた迷宮用の服が自動的に形を変え始める。それに合わせるように胸部だけがゆっくりと前へ押し出され、見ている側にも分かるほど確実に大きくなっていった。
「……増えてる」
葵が思わず呟く。数十秒ほどで光は収まり、少女は恐る恐る自分の胸へ手を当てた。
「終わった……?」
「気分悪くない?」
「大丈夫です。ただ……重くなったのは分かります」
「測ろう」
こうなる可能性を考え、琴音は教室からメジャーを持ってきていた。使用前にも同じ条件で測定してあるため、簡単に装備を外して確認すると、琴音が数字を見たまま目を丸くした。
「……ぴったり5センチ」
「本当に?」
「多少の誤差はあるだろうけど、ほぼ5.0」
全員の視線が魔法陣へ集まる。
「5って、やっぱり……」
「少なくとも、この魔法陣についてはバスト5センチって考えてよさそう」
琴音が答えた直後、壁に描かれていた杖の絵が強く光った。光は魔法陣の中央へ集まり、何もなかった空間に一本の杖を形作っていく。白銀の柄に、輪と翼を模した先端。その中央には淡く白い石が嵌め込まれており、壁画に描かれていたものと寸分違わない。
「出た……」
図書委員の少女が手を伸ばして杖を握る。
「持てる?」
「はい。そんなに重くないです」
その瞬間、琴音が声を上げた。
「待って。あそこ、見て」
今まで杖が描かれていた場所から光が消え、代わりに別の図柄が浮かび始めている。
「……籠手?」
先ほどまで杖だった枠に、今度は金属製の手甲らしき装備が描かれていた。
「入れ替わった?」
「取ったから次が出たってこと?」
「じゃあ、これ……一回だけじゃないの?」
誰もすぐには答えなかった。装備を取れば次が現れ、同じ5の対価さえ払えば何度でも利用できる。少なくとも、今見えているものだけならそう考えられた。
「……じゃあ、次は私」
図書委員の少女の隣にいた一人が前へ出た。
「待って」
香奈恵が止める。
「一回試すって話だったでしょう」
「でも、大丈夫だった」
「今すぐ分からない変化があるかもしれない」
「それはそうだけど」
少女は隣の友人を一度見てから、香奈恵へ向き直った。
「一人だけにやらせる方が嫌」
「だから、これは罰じゃないって――」
「分かってる」
先ほどまでとは違い、今度は少し笑っていた。
「だから私も、自分で決める」
香奈恵は返事をしなかった。
「それに、あの盾。昨日持って帰ってきたのより良さそうじゃない?」
別の5の魔法陣には、大型の盾が描かれている。装飾こそ少ないものの、厚みも形状も昨日手に入れたものとは違っていた。
「……一回だけよ」
「うん」
二人目が魔法陣へ入ると、先ほどと同じように赤い光が身体を包み、胸部がゆっくりと大きくなっていく。結果は、やはりほぼ5センチ。そして現れた盾は、持ってみただけでも今までのものより頑丈そうだった。
「私も」
三人目が言った。
「あなたまで?」
「ここまで来たら同じでしょう?」
「同じじゃない」
「でも、やりたい」
香奈恵が額を押さえる。
「……本当に、後悔しない?」
「多分、何もしないで帰る方が後悔する」
最後の一人が選んだのは、青い石の嵌め込まれた腕輪だった。こちらも対価は同じ5センチで、三人目の変化が終わると同時に腕輪が実体化した。
こうしてその日、三人がそれぞれ5センチの身体変化を受け入れた代わりに、白銀の杖、大型の盾、青石の腕輪という三つの装備が手に入った。
「青い果実は?」
葵が帰る前に尋ねる。
「5センチなら、一個使えば戻せるけど」
図書委員の少女は少し考えてから首を振った。
「使わないです」
「いいの?」
「共同のものだし。それに、戻すつもりなら最初からやらなかったから」
残る二人も同意した。香奈恵は何か言いたそうだったが、最後にはそれ以上口を挟まなかった。
◇ ◇ ◇
白銀の杖については、その日のうちに試すことになった。敵を相手に正体不明の道具を使うのは危険なので、ゴーレムの広間近くに置かれていた古い机を実験台にする。
「じゃあ、やってみます」
杖を手に入れた少女が、少し緊張しながら机へ先端を向ける。
「魔力を流す感じで」
麗華が横から教える。
「はい」
目を閉じて集中すると、数秒後、杖の中央にある淡い石が白く光った。
「出る!」
先端から放たれた白い光が一直線に机へ飛び、まともに命中する。全員が身構えたが、何も起きなかった。
「……あれ?」
机は燃えもせず、吹き飛びもせず、傷一つ増えていない。
「外れ?」
葵が首を傾げる。
「いや、魔法そのものは出たよ」
琴音が机へ近づいた。
「全然壊れてない」
「じゃあ何なのよ、これ」
麗華も杖を覗き込む。
「やっぱり攻撃用じゃないんじゃない?」
「でも、他に何に使うの?」
「それが分かれば苦労しないよ」
結局、その日は正体を突き止められないまま教室へ戻ることになった。それでも盾と腕輪についてはすぐに効果が分かり、大型盾はこれまでのものより明らかに衝撃を通しにくく、青石の腕輪を装備した者は魔法を使える回数がわずかに増えた。
魔法陣から得られる装備は、本当に今までのものより一段上だった。
◇ ◇ ◇
それから数日、迷宮の探索はそれまでとは比較にならないほど進んだ。
三つの装備だけですべてが変わったわけではないものの、より強い盾を前衛へ回し、青石の腕輪を後衛へ持たせるだけでも戦い方には余裕が生まれる。以前なら数を見た時点で避けていた小鬼の集団にも、地形さえ悪くなければ挑めるようになった。
倒せる敵が増えれば、そこからまた新しい剣や軽量化された防具、以前より射程の長い弓といった装備が落ちる。
一つ装備が良くなるたびに次の戦闘が少しだけ楽になり、その戦闘からさらに新しい装備が手に入る。そんな好循環が生まれたことで、探索の速度は目に見えて上がっていった。
地図の空白は次々と埋まり、迷宮の奥には石造りの通路だけでなく、天井の高い大広間や、柱の並ぶ神殿のような区画まで現れ始めた。
敵も強くなっていたが、それ以上にこちらの戦い方が洗練され、十人で出発して誰も大きな怪我をせず帰ってくる日も増えている。
そんな探索の途中だった。
「痛っ!」
槍を持った小鬼を倒した直後、一人が右腕を押さえた。防具の隙間を穂先が掠めたらしく、細い傷から血が流れている。
「深い?」
蛍が駆け寄る。
「そんなに。でも結構痛い」
「戻る?」
「これくらいなら……」
そこで琴音がふと後ろを見た。
「ねえ。あの杖、試してみない?」
今回の探索では、正体を調べるために白銀の杖も持ってきていた。図書委員の少女本人は教室に残っている。迷宮へ入ることへの恐怖まで、魔法陣を使ったことで消えたわけではない。その代わり、杖は探索班へ預けられていた。
「これ?」
後衛の一人が、荷物から白銀の杖を取り出す。
「机には何も起きなかったやつだよね?」
「うん。でも攻撃用じゃないなら、生き物に使った時だけ何か起きる可能性もあると思う」
琴音の言葉に、負傷した少女が自分の腕を見る。
「……これくらいの傷なら、試してもいいかな」
「嫌ならやめるけど」
「大丈夫。お願い」
杖を受け取った後衛が、教室で試した時と同じように傷口へ先端を向けた。
「魔力を流せばいいんだよね?」
「多分」
集中すると、中央にはめ込まれた淡い石が白く光り始める。次の瞬間、柔らかな光が傷ついた腕を包み込んだ。
「……え?」
流れていた血が止まる。裂けていた皮膚もゆっくりと閉じていき、数秒後には、そこに傷があったことさえ分からなくなっていた。
「治った……」
負傷していた少女が、信じられないように腕を撫でる。
「痛くない」
「本当に?」
「うん。全然」
一瞬、誰も声を出さなかった。
「回復……?」
琴音が呟く。
「これ、回復する杖だったんだ」
「教室に戻らなくても治せるってこと?」
葵が目を見開いた。
「それ、すごくない?」
蛍にも、その意味はすぐに分かった。
これまでは怪我をすれば、重傷でなくても撤退を考えなければならなかった。教室まで戻れば治るとはいえ、裏を返せば、そこまで戻らなければ治療する方法がなかったからだ。
その前提が、今変わった。
「……帰ったら教えてあげよう」
葵が白銀の杖を見ながら言った。
「うん」
蛍も頷く。
「あの子が取ってくれた杖で、本当に怪我を治せたって」
「喜ぶかな」
「絶対喜ぶでしょ」
琴音が笑う。
「それに、この杖があれば今までより長く探索できる。少しくらいの怪我なら、そのたびに引き返さなくて済むかもしれない」
「じゃあ、もっと先まで行ける?」
「無理は駄目だけどね」
香奈恵が釘を刺す。
「でも、選択肢が増えたのは間違いないわ」
蛍は改めて白銀の杖を見た。
あの少女は、今も迷宮へ入ることを怖がっている。怪物とは戦えない。それでも、自分にできることを探して魔法陣へ立ち、身体を5センチ分変えることを受け入れた。その結果として手に入った杖が、今こうして仲間の傷を治し、さらに奥へ進むための力になっている。
たった5センチ。
そう考えてしまうのは危険なはずなのに、その5センチで手に入ったものが、本当に仲間の痛みを消してしまった。その事実は、あまりにも分かりやすい答えだった。