爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
「……131.0」
朝の教室に琴音の声が落ちると、メジャーを胸元から外された香奈恵は、しばらく何も言わずに天井を見上げた。
「もう一回」
「三回目だけど」
「それでも、もう一回」
「変わらないって」
呆れたように琴音がメジャーを巻き直したものの、数字はやはり同じだった。
「はい。131.0」
「……そう」
諦めたように息を吐き、香奈恵が自分の胸元を見る。
数字を聞くまでもなく、大きくなっていること自体は毎朝分かる。寝る前より明らかに重くなり、起き上がった瞬間から存在を主張してくるうえ、迷宮用の装備なら身体に合わせて形を変えてくれるものの、教室で着ている服はそうはいかない。
最近では、少しでも余裕のあるものを選ばなければ一日持たなくなっていた。
「次、麗華」
「嫌」
「測らないと記録できないよ」
「見れば増えてるの分かるでしょ。何センチかなんて知らなくても困らないわよ」
「私が困る」
「何でよ」
「記録してるから」
しばらく睨み合った末、麗華が盛大な溜息を吐いて前へ出た。
「……早くして」
「はいはい」
琴音が手早く測り、数字を確認する。
「129.1」
「最悪」
「あとちょっとで130だね」
「それは言わなくていい!」
そのやり取りに教室のあちこちから笑いが起きた。
蛍もすでに自分の測定を終えている。
113.1センチ。葵は110.9センチで、測る側の琴音自身も117.1センチまで増えていた。
少し前までなら、100センチを越えたというだけで教室中の話題になった。けれど今は、もう違う。
「そういえばさ」
葵がふと思いついたように琴音のノートを覗き込んだ。
「今、100切ってる子っているの?」
「え?」
「バスト。まだ二桁の人」
琴音がページを何枚かめくり、記録を確認する。
「……いないね」
「一人も?」
「うん。今の記録だと全員100超えてる」
一瞬だけ教室が静まり、それから誰かが吹き出した。
「三十人全員、胸囲一メートル超えの教室って何それ」
「世界中探してもないんじゃない?」
「そもそも普通、教室の共通点を胸囲で数えないから」
「それもそうか」
また笑いが起きる。
ほんの少し前までなら、一メートルという数字だけで大騒ぎしていたはずなのに、今ではここにいる三十人全員がその線を越えてしまっている。
「……本当に感覚麻痺してきたね」
葵が自分の数字を見ながら苦笑した。
「100超えた時って、もっと大事件だったじゃん。今は110って言われても『また増えたな』くらいなんだけど」
「それを慣れっていうんじゃない?」
「嫌な慣れだなぁ」
蛍もつられて笑ったが、葵の声にはわずかな疲れが混じっていた。
しかも、元々胸の大きかった者たちは、すでにその先へ進んでいる。香奈恵や麗華だけでなく、120センチを越える者も少しずつ増え始めていた。
◇ ◇ ◇
身体の変化とは裏腹に、迷宮の攻略そのものは順調だった。
対価の魔法陣から手に入れた大型盾と青石の腕輪は予想以上に役立っており、大型盾なら小鬼の重い一撃を受けても前衛が姿勢を崩しにくい。青石の腕輪を着けた後衛も、それまでより一、二回多く魔法を使えるようになったことで、戦闘の終盤まで援護を残せるようになっていた。
そして、何より大きかったのが白銀の杖だった。
軽い裂傷や打撲程度なら、わざわざ教室まで戻らなくてもその場で治療できる。
もちろん万能ではない。一日に何度も使えば持ち手の消耗は大きく、深い傷ほど必要な魔力も増えるようだった。折れた骨や命に関わるほどの重傷まで完全に治せるのかは、まだ確かめていない。
それでも、今までなら一人の負傷をきっかけに切り上げていた探索を、そのまま続けられるようになった意味は大きかった。
一度に進める距離が伸びれば、それだけ戦える敵も増える。倒した敵から新しい装備が手に入り、それを使って次の探索がさらに楽になるという好循環が生まれ、地図の空白は目に見えて減っていた。
以前なら小鬼の集団を見つけただけで緊張が走ったものだが、今では編成と周囲の地形を確認したうえで、
「これならいける」
と判断できる相手も増えている。もちろん、油断しているわけではない。強い個体は相変わらず存在し、見たことのない区画が増えるほど未知の危険も増していく。それを差し引いても、攻略だけを見れば、ここ数日は今までで一番順調だった。
◇ ◇ ◇
その日の夜、大浴場にはいつものように湯気と賑やかな話し声が満ちていた。
最初の頃こそ、これだけの人数で一緒に風呂へ入ることに抵抗のある者も多かったが、今ではそんな気遣いも随分薄れている。毎日のように同じ場所で寝起きし、身体を測り、着替え、風呂へ入っていれば、嫌でも互いの変化は目に入るからだ。
「また髪伸びた気がする」
「切った方がいいかな」
「でも今、毛先まで全然傷まないよね」
「分かる。シャンプー適当なのにさらさらだし、肌も腹立つくらい綺麗」
身体を洗いながら何人かがそんな話をしていると、そのうちの一人が、ふと思いついたように浴場を見回した。
「ねえ。ここに来てからさ、みんな凄く綺麗になってない?」
「今さら?」
「いや、分かってたけど。こうして改めて見るとさ」
言われてみれば、その通りだった。
顔立ちそのものが別人へ変わったわけではない。それでも肌の荒れは消え、髪は艶を増し、寝不足や疲れが顔に残ることもほとんどなくなっている。誰もが元の面影をそのまま残しながら、出来のいい写真へ少しずつ近づいているようだった。
「別に前が不細工だったとか、そういう意味じゃないよ?」
最初に話し出した少女が慌てて付け加える。
「でも今の私たち、外にいたら普通にアイドルとかモデルより綺麗じゃない?」
「さすがにそれは盛ってない?」
「じゃあ麗華に聞こう」
「何で私なのよ」
名指しされた麗華が露骨に嫌そうな顔をする。
「だって詳しいでしょ」
「昔の仕事の話を持ち出さないで」
「でもプロの人とかいっぱい見てたんでしょ?」
麗華はしばらく黙ったあと、仕方なさそうに浴場の中へ視線を巡らせた。
「……まあ、綺麗にはなってるでしょうね」
「やっぱり!」
「嬉しそうにしないで。肌なんて、撮影前にどれだけ手入れしてもここまでじゃなかったし、寝起きでもほとんど崩れないなんて普通なら有り得ないわよ」
「麗華が言うなら本物だ」
「本物って何よ」
笑い声が上がる。
「でも、それなら最近ちょっと見ちゃうのも仕方ないのかな」
「何を?」
「みんなの身体」
「それは……まあ」
「だってさ」
話していた一人が、自分の胸を両手で軽く持ち上げてみせる。
「こんなのが目の前で揺れてたら気になるって」
「言い方」
「でも分かるでしょ? 歩くだけで揺れるし、お風呂だと隠しようもないし」
「だぷんだぷんしてるもんね」
「だから言い方!」
また笑いが起き、蛍もつられて口元を緩めた。
確かに、目立たないはずがない。
今では、ここにいる三十人全員の胸囲が一メートルを越えている。それでいて腰は細いままなのだから、見渡せば現実離れした体型ばかりが並んでいた。
おまけに全員が以前より明らかに綺麗になっているのだ。つい目で追ってしまうくらいなら、不自然なことではないように蛍にも思えた。
「蛍」
「何?」
隣に座っていた葵が自分の胸元を見下ろし、何かを思い出したように笑った。
「私たち、昔まな板同盟とか言ってたよね」
蛍も思わず吹き出す。
「言ってたね。葵が勝手に作ったやつ」
「蛍も普通に乗ってたじゃん」
「まあ、それはそうだけど」
「懐かしいなぁ」
二人とも昔は、自分たちの胸が小さいことをよく笑い話にしていた。もっとも、まったく気にしていなかったわけでもない。
「でもさ、ちょっとくらい大きいのには憧れてたよね」
葵に言われ、蛍は少し考えてから頷く。
「まあ……それはね」
「でしょ? 同い年で大きい子がいると、いいなーって思ったりしたじゃん」
「葵も思ってたんだ」
「そりゃ年頃だったし」
「私も人のこと言えないけど」
二人で顔を見合わせて笑う。大きな胸に憧れたことくらいはある。だからといって、こんな未来を望んだ覚えはなかった。
「昔の私たちに教えても絶対信じないよね。そのうち二人とも100センチ超えるよって」
「信じるわけないでしょ。頭でも打ったのって言う」
「ひどい」
「でも、実際あの頃の方が競技するには楽だったよね」
蛍が自分の胸元へ視線を落とす。
「剣道なら大きくない方が邪魔にならないし」
「陸上もそう。走るなら絶対小さい方が楽」
「憧れるのと、自分に必要かどうかは別だったね」
「ほんとそれ」
葵がしみじみ頷いたあと、ふっと笑った。
「それにしても、まな板同盟だった二人が揃ってメートル超えって凄いよね」
「私たちだけじゃないでしょう」
「あ、そうだった」
葵が湯気の向こうを見回す。
「三十人全員メートル超えの教室とか、改めて考えると意味分かんないね」
「そんな教室、普通は存在しないから」
「学校の七不思議どころじゃないよ」
「学校ですらないけどね、ここ」
また二人で笑った。
以前の身体へ戻りたいという気持ちは、今もある。それでも昔の自分たちを思い出して、こんなふうに笑える程度には、今の身体にも慣れてしまっていた。
「二人はまだいいじゃない」
そこへ麗華が横から口を挟んだ。
「何が?」
「まだ110くらいでしょう」
「110って普通に大きくない?」
「私の前で言う?」
「あ」
「謝ったら怒るから」
葵が慌てて口を閉じ、周囲から小さな笑いが漏れた。そんな穏やかな空気の中、少し離れたところにいた二人の会話が、ふと蛍の耳に届いた。
「……ねえ」
「何?」
二人とも普段は教室に残ることの多い少女で、最近120センチを越えた者たちだった。一人が、さっきから妙に相手の胸元を見ている。
「何かついてる?」
「いや……ごめん。何か、綺麗だなって思って」
「胸が?」
「うん」
言った本人も少し恥ずかしくなったのか、一度は目を逸らした。けれど、すぐに視線が戻る。
「……すごいね」
「何が?」
「形。こんなに大きいのに、丸いままだし」
「それはそっちもでしょ」
「そうなんだけど……」
そこで会話が途切れた。少女の片手がゆっくりと持ち上がる。本人にも、その動きにほとんど自覚がないように蛍には見えた。指先が相手の胸へ触れる。
「え?」
触られた側が目を丸くしたものの、手はすぐには離れなかった。掌で柔らかな膨らみを包み、その感触を確かめるように軽く押す。
「ちょ……」
もう片方の手まで添えられ、今度は両手でわずかに形を確かめる。
「……すごく柔らかい」
ぽつりと漏れた自分の声で、ようやく何をしているのか理解したらしい。
「あっ!」
少女は弾かれたように両手を離した。
「ご、ごめん!」
「……え?」
「本当にごめん! 何で私、今……!」
顔を真っ赤にして後退する。触られた側も状況が飲み込めていないらしく、自分の胸元を見下ろした。
「急にどうしたの……?」
「分かんない。何か、気づいたら……」
「怒った?」
恐る恐る尋ねられ、触られた少女は少し困ったような顔をした。
「いや……びっくりはしたけど」
「ごめん」
「……別に、嫌だったわけじゃないし」
「え?」
「何でもない!」
今度は触られた方まで顔を赤くし、逃げるように身体を洗い始めた。浴場に、何とも言えない沈黙が落ちる。
「……何、今の」
葵が蛍へ小声で尋ねた。
「私に聞かないでよ」
「疲れてるんじゃない?」
少し離れたところから、そんな声が上がる。
「最近ずっと迷宮のことばっかりだし」
「疲れたら人の胸揉むの?」
「それは知らないけど……さっき話してたじゃん。みんな綺麗になったし、胸も目立つから気になるって」
「気になるのと触るのは違わない?」
「まあ、それはそう」
困ったような笑いが戻り、触ってしまった本人も浴槽の端で顔を両手に埋めた。
「ほんと、何で触ったんだろ……」
「今日は早く寝た方がいいんじゃない?」
「そうする……」
その場では、まだ疲れていたのかもしれないと笑って済ませられた。
長い共同生活で距離感が変わったことも、全員の身体や容姿が急激に変化していることも理由にはなりそうで、蛍もそれ以上深く考えなかった。ところが少しして、別の場所から驚いた声が上がった。
「わっ!」
「ご、ごめん!」
全員の視線が集まる。今度は、胸を洗っていた少女の横にいた一人が、咄嗟に伸ばした手を引っ込めていた。
「何!? 何で急に触るの!?」
「分かんない! 本当にごめん!」
触られた少女は胸元を腕で隠し、はっきりと一歩距離を取った。
「びっくりするでしょ!」
「ごめんって……!」
先ほどとは反応が明らかに違う。最初の少女は触られてもその場から離れず、戸惑いこそしたものの強く拒む様子はなかった。対して今度の少女は、明確に困惑して距離を取っている。
「……あの子」
琴音が小さく呟いた。
「まだ120いってないよね」
「え?」
「触られた方。朝の記録だと110台だったはず」
蛍も測定結果を思い出す。
「じゃあ、さっきの二人は?」
「両方120超えてる」
「……偶然じゃない?」
「二組だけじゃ何とも言えないけどね」
そう答えた琴音の顔から、さっきまでの笑いは消えていた。その後も、大きな騒ぎになるほどではない小さな違和感が続いた。
誰かが妙に長く相手の身体を見つめたり、隣に座る距離がいつの間にか近くなっていたりする。身体を洗いながら話していた二人の胸が触れ合い、しばらくそのままでいたあとにようやく気づくこともあった。
「あ、ごめん」
「こっちも近かったし」
そう言って離れるだけなら、身体がこれほど大きくなった今では珍しいことでもない。ただ、120センチを越えている者同士の場合だけ、どこか反応が違って見えた。
離れるまでがほんの少し遅く、謝りながらも照れたように笑っている。相手の身体から視線を外すまでにも、一拍だけ時間がかかる。
「胸が大きくなったから、距離感が変わったんじゃない?」
誰かがそう言えば、
「前と同じ距離で立ってても当たるし、それはあるかも」
「みんな前より綺麗になったから、気になって見るようになっただけとか」
と、もっともらしい理由はいくらでも挙がった。どれも普通の説明として成立しそうだからこそ、蛍にはかえって引っ掛かった。ふと麗華を見ると、湯船の中で腕を組み、さっきから妙に真正面だけを見ている。
「麗華、何か静かじゃない?」
「普通よ」
「そう?」
「そう」
やけに返事が早い。
ちょうどその時、近くを一人の少女が通り過ぎた。濡れた身体にタオルを当てながら歩くたび、大きくなった胸元が揺れる。麗華の視線が一瞬だけそちらへ動き、すぐに正面へ戻った。そのまま湯の中で両手を握り込む。
「……何考えてるのよ、私」
ごく小さな声だったが、近くにいた蛍の耳には届いた。
「麗華?」
「何でもない!」
「そんな強く言わなくても……」
蛍が困っていると、その向こうでは香奈恵もいつもより口数が少なかった。
「香奈恵、大丈夫?」
今度は葵が声を掛ける。
「大丈夫よ」
「何か静かじゃない?」
「考え事してただけ」
そう答えながらも、香奈恵の目は一瞬だけ近くの少女へ向いた。長い髪をまとめるために両腕を上げており、その姿勢のせいで胸元がいつも以上に強調されている。香奈恵はすぐに視線を逸らした。
「何を見ているの、私は……」
それも独り言に近い小さな声だった。蛍は思わず麗華を見る。麗華もこちらを見た。
目が合う。
「……何よ」
「何でもない」
今度は蛍が視線を逸らした。やはり、何かがおかしい。
「蛍は?」
隣で様子を見ていた葵が尋ねる。
「何が?」
「誰かに触りたくなったりとか、変な感じしない?」
「そこまではないけど」
「私も。見るのは分かるんだけどね」
「それは私も同じ。みんな凄く綺麗になってるし、胸もこれだけ大きければ嫌でも目に入るし」
「でも、触りたいとは思わないよね」
「うん」
少なくとも、今のところ二人の感覚は同じらしい。蛍は理由も分からないまま少しだけ安心した。自分まで同じように手を伸ばしたくなっていたらと思うと、それだけで妙に怖かった。
「……今日はもう出ようか」
しばらくして香奈恵がそう言うと、何人かが彼女を見る。
「何となく落ち着かないでしょう。身体を洗い終わった人から上がろう」
いつもなら「もう少し入りたい」と言う者もいたが、この日ばかりは誰も反対しなかった。
湯気の中で何人かが気まずそうに目を合わせる。自分でも理由の分からないまま伸びた手と、それを強く嫌がらなかった者たち。それが疲れなのか、この身体になったせいなのか、それとも別の何かなのか。
答えを出せないまま、その日の入浴はいつもより少し早く終わった。
◇ ◇ ◇
翌朝。
探索へ出る者たちが装備を確認している途中で、香奈恵が全員へ声を掛けた。
「ちょっといい? 昨日のお風呂のことなんだけど」
それだけで何人かは何の話か察したらしく、実際に誰かへ手を伸ばしてしまった者たちが気まずそうな顔をする。
「まず、理由が何であっても、勝手に人の身体を触るのはやめましょう」
「……はい」
「怒ってるわけじゃないの。ただ、自分でもどうしてそうしたのか分からないなら、なおさら気をつけた方がいいと思う。触られた方が許してくれたとしても、それで次も勝手に触っていいことにはならないから」
「うん。本当にごめん」
小さくなっている少女へ香奈恵が頷くと、別の一人が手を上げた。
「でも昨日のって、本当に何だったんだろ。やっぱり疲れてたとか?」
「それ、昨日も言ってたね」
「最近みんな綺麗になってるし、身体も変わりすぎてるから、ちょっと感覚がおかしくなってるだけとか」
「見るだけなら分かるけど、手まで出るかな」
「それは……分かんないけど」
そこで答えが止まった。
「ねえ、ちょっと確認していい?」
琴音が記録用のノートを開く。
「昨日、自分から誰かに触っちゃった人。無理に答えなくてもいいけど、今バスト120超えてる?」
教室が静かになった。
「……私、超えてる」
最初に触ってしまった少女が恐る恐る手を上げる。
「私も」
「私も……」
続いて何人かが名乗り出ると、琴音が記録と照らし合わせた。
「やっぱり、昨日自分から触っちゃった人は、ほとんど120超えてる」
教室にざわめきが広がる。
「偶然じゃない?」
「その可能性もあるよ。だから、触られた方も確認したい」
琴音がページをめくる。
「120超えてて触られた人。嫌だった?」
聞かれた少女が少し迷ってから答えた。
「……びっくりはした。でも、嫌だったかって言われると、そんなに」
「私も。何でか分からないけど、そこまで嫌じゃなかった」
一方で、まだ110センチ台の少女たちは反応が違った。
「私は普通に嫌だったよ。嫌っていうか、何で急に触るのって思った」
「私もそっち」
琴音の表情が真剣になる。
「……やっぱり差がある」
「ちょっと待って」
香奈恵が口を挟んだ。
「まだ昨日一日だけでしょう。人数も少ないし、数字だけで決めつけるのは早いわ。胸が大きくなって距離感が変わってるのもあるし、全員が前より綺麗になったことで相手の身体を気にするようになった可能性だってある」
「うん。それも含めて記録しておく」
「お願い」
そこで蛍は、昨日から気になっていたことを口にした。
「香奈恵と麗華は?」
「何が?」
麗華が嫌そうにこちらを見る。
「二人とも昨日、ちょっと変じゃなかった?」
「変じゃないわよ」
「麗華、ずっと前しか見てなかったじゃん」
葵まで加わると、麗華はますます嫌そうな顔になった。
「何よ」
「それに『何考えてるのよ、私』って言ってたよね」
「聞こえてたの!?」
「近かったから」
「……」
麗華が黙り込む。その沈黙だけで、何もなかったとは言いにくくなった。
「麗華?」
「……ちょっとだけよ」
「何が?」
「人の胸が、いつもより気になっただけ」
教室が少しざわつく。
「昨日話してたみたいに、みんな綺麗になったから?」
「最初はそうだと思ってた」
麗華は不機嫌そうに腕を組んだ。
「実際、前より綺麗になってるし、こんな身体になってたら目にも入るでしょう。でも……」
「でも?」
琴音に促され、麗華は露骨に嫌そうな顔をする。
「……触ってみたいと思った」
ざわめきが一段大きくなった。
「思っただけだから! 実際には触ってないでしょう。自分でも変だと思ったから我慢したの!」
「いつ頃から?」
「分からないわよ。少なくとも昨日急にじゃない」
「前から?」
「……ここ数日くらい。たまに気になる程度だったのよ。迷宮に行ってる時はそんなこと考えてる余裕ないし、疲れてるだけだと思ってた」
蛍は昨日、麗華が真正面だけを見ながら両手を握っていた姿を思い出した。
なるほど、とまでは思えない。ただ、昨日突然始まったわけではなかったらしい。
「香奈恵も?」
葵に聞かれ、香奈恵は一度目を閉じてから小さく息を吐いた。
「……私も似たような感じ」
「やっぱり?」
「誰かを見て、綺麗だなとか、柔らかそうだなとか。そういうのは少し前からあったわ」
「昨日も見てたよね」
「見てた?」
「髪まとめてた子」
「……見てたわね」
香奈恵が気まずそうに額へ手を当てる。
「いつ頃から?」
琴音が尋ねた。
「はっきりとは覚えてないけど、ここ数日くらい」
「ちょうど120超えた頃?」
「……多分、その辺」
「麗華も?」
「だから、いちいちそんなこと記録してないって言ってるでしょう」
「大体でいいから」
「……私も同じくらいかも」
琴音がすぐノートへ書き込む。
「やっぱり120前後で何か始まってる可能性はあるね」
「可能性だけよ」
香奈恵が念を押した。
「私も麗華も、実際には触ってない。昨日のことだけで『120を越えたらそうなる』って決めつけるのは早いわ」
「分かってる。ただ記録はしておく」
「それならいい」
葵が自分の胸元を見下ろす。
「私、まだそこまではないな」
「私も」
蛍も頷いた。
「見るのは分かるけど、触りたいって感じはない」
「二人はまだ110前後だね」
琴音が自分の記録も確認する。
「私も117だから、今のところ同じ」
「じゃあ、本当に120が境目なの?」
誰かが不安そうに尋ねた。
「分からない」
香奈恵ははっきり答える。
「ただ、もし身体の変化と関係してるなら、この先同じ感覚になる人は増えるかもしれない。だから先に決めておきましょう」
教室全体を見回し、少しだけ言葉を選ぶ。
「変な衝動があっても、勝手に人へ触らない。自分でおかしいと思ったら一度離れる。それでも誰かに触れてほしいとか、触れたいと思ったなら――ちゃんと相手に確認する」
「そこまで決めるの?」
麗華が嫌そうな顔をした。
「必要でしょう」
「全部禁止でいいじゃない」
「嫌じゃない人まで禁止する理由はないもの」
「……」
麗華が何も言わず顔を逸らす。
「麗華?」
「何でもない」
その様子を見て、教室のあちこちから小さな笑いが漏れた。少なくとも今は、まだこうして笑えている。
迷宮の攻略は順調だった。
装備は強くなり、地図は広がり、怪我をその場で治す方法まで手に入った。昨日より今日の方が、確実に奥へ進める。その一方で、自分たちの身体もまた、昨日までとは違う場所へ進み始めている。
蛍は何となく、自分の113.1という数字を思い出した。
120までは、あと七センチほど。
今はまだ、誰かへ手を伸ばしたいとは思わない。けれど、このまま毎日増え続ければ、自分も同じところへ行くのだろうか。そう考えた時、順調に進んでいるはずの迷宮が、昨日より少しだけ不気味に思えた。