爛熟の迷宮 ~祝福の果実に身体も心も変えられていく三十人の少女たち~ 作:a-ru
三日が過ぎた。
「……119.1」
琴音が読み上げた数字を聞き、蛍は思わず自分の胸元へ視線を落とした。
「あとちょっとだね」
隣から測定結果を覗き込んだ葵が言う。
「何が?」
「120」
「嬉しくない」
「私だって嬉しいとは言ってないよ」
そう返した葵は116.9センチ。測定役の琴音自身も123.1センチまで増えており、とうとう先日の話題に上がった120という数字を越えていた。
「琴音、超えたんだ」
「昨日からね」
「何か変わった?」
蛍が尋ねると、琴音は少し考えてから首を傾げた。
「今のところ、よく分かんない。前より人の身体が気になるような気はするけど、この前あんな話したばっかりだから意識してるだけかもしれないし」
「触りたくなったりは?」
「そこまではないかな」
「じゃあ、やっぱり120ぴったりで急に何か変わるわけじゃないんだね」
「多分ね。香奈恵たちも、超えたその日からってわけじゃなかったみたいだし」
琴音はそう言いながら、自分の数字の横へ小さく印を書き加えた。
実際、香奈恵や麗華も120センチを越えた瞬間に変化したわけではない。本人たちの話では、それからしばらくして、少しずつ他人の身体が気になるようになったらしい。
胸囲そのものが原因なのか。それとも迷宮にいた日数や、毎日食べ続けている赤い果実、あるいはそれらすべてが重なっているのか。今のところ、分からないことの方が圧倒的に多かった。
「香奈恵は?」
「137.0」
「……もう驚かなくなってきた」
「私は驚いてるわよ」
香奈恵が疲れた顔で言う。
「毎朝六時台に起きて、まず自分の胸囲が二センチ増えてることを確認する生活なんて、慣れたくないんだけど」
「それはそうかも。麗華は?」
「聞かないで」
「135.1」
「琴音!」
「記録だから」
「だからって本人より先に答えないで!」
いつものやり取りに教室のあちこちから笑いが起きた。こうして冗談にできる間は、まだ昨日までと大きく変わっていないようにも思える。
けれど数字だけを見れば、変化は確実に進んでいた。
香奈恵と麗華だけではない。元々胸の大きかった者や、教室で過ごす時間の長い者を中心に、130センチを越える子も少しずつ増え始めている。
◇ ◇ ◇
その一方で、迷宮の探索は変わらず順調だった。
白銀の杖が加わってから、軽傷を理由に撤退する回数は明らかに減っている。大型盾を持つ前衛が敵の攻撃を受け止め、その後ろから槍や弓、魔法で崩す。数が多ければ無理をせず引き、勝てる相手なら確実に倒して装備を回収する。
何度も危ない目に遭いながら覚えてきた戦い方が、ようやく一つの形になり始めていた。
新しく見つかった神殿のような区画では、これまでの小鬼とは違う獣型の魔物まで確認したが、その日は遠くから姿を見るだけに留めている。
地図は広がり、装備も増えた。探索へ出た者たちも欠けることなく教室へ戻ってきている。順調なのは間違いなかった。ただ、迷宮から帰ってくるたびに、教室の空気まで少しずつ変わっているような気がしていた。
「……触っていい?」
ある日の夕方、荷物を整理していた蛍の耳にそんな声が届いた。
思わずそちらを見ると、教室の隅で二人の少女が並んで座っている。どちらも普段は探索へ出ることが少なく、今朝の測定では130センチを越えていたはずだ。
「胸?」
「うん」
「……いいよ」
「本当に?」
「この前、勝手に触るのは駄目って決めたでしょ。ちゃんと聞いてくれたなら、私は別に」
そう答えた少女が少し笑うと、了承を得た方が相手の胸元へ手を伸ばした。蛍は反射的に視線を逸らす。勝手に触っているわけではないし、二人とも納得している。香奈恵が決めたルールにも反していない以上、止める理由はない。
「……すごい」
「何が?」
「やっぱり私より柔らかいかも」
「そんなに違う?」
「ちょっとだけ」
楽しそうな声が聞こえてきて、蛍は無理に荷物の整理へ意識を戻した。
「ねえ、私も触っていい?」
「うん」
今度は逆らしい。手元の荷物を畳みながら、蛍は妙な落ち着かなさを覚えた。何も悪いことはしていない。それなのに、ほんの数日前までの教室なら絶対に聞かなかったはずの会話が、当たり前のように交わされている。
「最近、増えたよね」
いつの間にか隣に来ていた葵が、小声で言った。
「何が?」
「こういうの」
蛍もつられて声を落とす。
「……うん」
「本人たちがいいなら別にいいんだけどさ。何か、普通になってきてない?」
言われてみれば、その通りだった。最初の一回は浴場全体が凍りつき、翌朝には全員で話し合いまでした。
それが三日経った今では、触る前に聞くことと、嫌なら断ること。それさえ守れば問題ないという空気が、少しずつ教室の中に出来始めている。
「香奈恵、何も言わないね」
葵が教室の反対側へ視線を向ける。
香奈恵も当然気づいているはずだった。それでも止めないのは、本人たちが同意している以上、自分で決めたルールには反していないからだろう。ただ、二人の方を見るたびに、その眉間にはわずかに皺が寄っていた。
「麗華も」
麗華に至っては、完全に反対方向を向いている。
「……見たら駄目な気がするのよ」
「何で?」
「知らない」
ぶっきらぼうに答えたあとは、それ以上何も言わなかった。
◇ ◇ ◇
その夜、大浴場はいつもより少し静かだった。
数日前に起きたことを、誰も忘れたわけではない。だからといって全員で黙り込むほど重い空気でもなく、浴場のあちこちでは普段通りの会話が続いている。
「今日の探索どうだった?」
「新しいところ見つけたよ」
「また神殿みたいなところ?」
「その奥。変な獣いた」
「強そう?」
「多分。今日は見ただけ」
蛍も葵と並んで湯船に浸かりながら、明日の探索について話していた。
「明日はどうする?」
「今日見つけたところ、もう一回見たいかな」
「獣のやつ?」
「うん。戦うかどうかは別として、数くらい確認したい」
「回復杖あるからって無茶しないでよ」
「葵に言われたくない」
「何で」
「前に一人で飛び出したでしょう」
「あれは勢い」
「それを無茶って言うの」
いつもの調子で言い合っていると、少し離れたところから笑い声が聞こえてきた。昼間、互いの胸へ触れていた二人だった。湯船の縁に並んで腰掛け、肩が触れそうな距離で話している。
「……ねえ」
「何?」
「今日みたいに、また触ってもいい?」
蛍は思わずそちらへ意識を向けた。
「今?」
「うん」
「……いいよ」
返事は早かった。許可を得た少女が、相手の胸元へそっと両手を伸ばす。最初に浴場で起きた時とは違い、今度は驚く者こそいても声を上げる者はいなかった。本人に尋ね、相手も了承している。それだけで、周囲もどう反応すればいいのか分からなくなっているようだった。
「やっぱり柔らかい」
「昼も言ってたじゃん」
「だって本当に柔らかいんだもん」
「そっちも同じでしょ」
「じゃあ触ってみる?」
「……うん」
今度は触られていた方も手を伸ばし、互いの距離が自然と縮まっていく。
「……葵」
「うん」
「見ない方がいいかな」
「でも気になる」
「私も」
二人とも、完全には目を逸らせなかった。胸に触れていること自体は、もう昼間にも見ている。おかしいと思ったのは、そのあとだった。
「……近くない?」
葵が囁く。
蛍も同じことを思っていた。
二人の顔が、いつの間にか随分近づいている。触れ合うことに夢中になっているのか、それとも周囲の視線を忘れているのか。片方が何かを囁き、もう一人が小さく笑った。
そのまま二人の唇が触れた。
「……え?」
誰かの声をきっかけに、浴場の会話が一斉に止まった。蛍も動けなかった。すぐに離れるのだと思った。
ところが二人は、一瞬触れただけでは終わらなかった。胸元へ置かれた手もそのままに、しばらくしてようやく顔を離したあとも、至近距離から互いを見つめている。
「ちょ、ちょっと待って」
最初に我に返ったのは、まだ110センチ台の一人だった。
「何してるの?」
「え?」
キスをしていた二人が、ようやく周囲を見回す。そこで初めて、浴場中の視線が自分たちへ集まっていることに気づいたらしい。
「……あ」
「見られてた」
「見られてたっていうか、ここお風呂だから! 普通にみんないるから!」
「あ……うん」
二人は顔を赤くした。
それでも、数日前のように慌てて飛び退いたり、自分が何をしていたのか分からないと取り乱したりはしない。ただ少し恥ずかしそうに、互いの身体から手を離しただけだった。
「ごめん」
「いや、謝る相手そこじゃないっていうか……」
「でも、ちゃんとお互いにいいって言ったし」
「そういう問題なの?」
浴場の空気が一気に混乱する。
蛍にも、何が正しいのか分からなかった。勝手に触れたわけではない。嫌がる相手に無理強いしたわけでもない。二人が納得しているなら、外から止める理由はないはずだ。
それでも、ほんの数日前までなら、人前でこんなことを始める二人ではなかった。
「……でも」
小さな声がして、蛍はそちらを振り向いた。
少し離れたところにいた別の少女だった。今朝の測定では、確か132センチだったはずだ。顔を赤くしているのに、キスをしていた二人から目を逸らしていない。
「……ちょっと、分かるかも」
「何が?」
隣にいた少女が聞く。
「今の」
「今のって……キス?」
「うん。何ていうか……見てたら、いいなって思った」
今度こそ、浴場が完全に静まり返った。
「……え?」
すぐ隣から葵の声が聞こえる。けれど、そう思ったのは彼女一人ではなかった。別の場所でも、もう一人が気まずそうに視線を落とした。
「私も……ちょっとだけ」
「嘘でしょ」
「いや、私も自分で変だと思うんだけど」
「何がいいの?」
「分かんない。でも……ああいうの、嫌じゃないっていうか」
二人とも130センチを越えている。そのことに気づいた瞬間、蛍の背中に冷たいものが走った。
「待って」
琴音が湯船から身体を起こす。
「今の見て『いいな』って思った人、他にもいる?」
「琴音」
香奈恵が低い声で呼んだ。
「でも、確認した方がいいよ」
琴音の顔からは、もう完全に笑みが消えている。
「無理に言わなくてもいい。ただ、今のを見て嫌じゃなかったとか、自分もやってみたいって一瞬でも思った人」
すぐに答える者はいなかった。数秒の沈黙のあと、一人がゆっくりと手を上げる。それを見て、もう一人。さらに一人。全員ではない。けれど、上がった手の持ち主に共通点があることだけは、蛍にもすぐ分かった。
「……みんな130超えてる」
琴音が呟く。
「やっぱり?」
「少なくとも、今手を上げた人は」
「待ちなさい」
香奈恵が立ち上がる。
「まだ決めつけないで。人数も少ないし、たまたまかもしれない。それは前にも確認したでしょう」
「分かってる。でも……」
「それでもよ」
声だけを聞けば、いつもの香奈恵だった。ただ蛍には、その様子までいつも通りには見えなかった。さっきから一度も、キスをした二人をまともに見ていない。
「香奈恵?」
「何?」
「……何でもない」
聞くのが怖くなり、蛍はそれ以上口にできなかった。その隣では、麗華が両腕で自分の身体を抱くようにしている。
「麗華、大丈夫?」
「大丈夫に見える?」
珍しく、強がるような調子ではなかった。
「……見ない方がいいって分かってるのに、気になるのよ」
「え?」
「だから嫌なの」
麗華は唇を噛み、視線を床へ落とした。
「さっきの二人を見てたら、私まで……」
そこまで言って、口を閉じる。
「麗華?」
「何でもない!」
声こそ荒かったが、その顔は怒っているというより、怯えているように蛍には見えた。
「今日はもう出よう」
香奈恵が言った。いつもよりずっと早い。
「全員、一度上がって。続きは教室で話す」
「今?」
「今」
誰も反対しなかった。
◇ ◇ ◇
身体を拭き、服を着て教室へ戻ってからも、重い空気は消えなかった。さっきキスをしていた二人は並んで座っている。さすがに気まずそうではあるものの、互いを嫌がったり距離を取ったりする様子はなかった。
「まず確認するけど」
香奈恵が二人を見る。
「どっちかが嫌がってたわけじゃないのね?」
「はい」
「私も」
「キスも?」
二人は一度顔を見合わせた。
「……私からしました」
一人が小さく手を上げる。
「嫌だった?」
「ううん」
もう一人が首を振った。
「むしろ、その……嫌じゃなかった」
「今は?」
「今も」
教室にざわめきが広がる。
「数日前までは?」
琴音が尋ねた。
「こういうことしたいって思ってた?」
「そこまでは……」
「私は最近、ちょっと距離近いなとは思ってたけど」
「元々、恋愛的に好きだったとか?」
二人とも首を振る。
「普通に友達」
「ずっとそうだったよね」
「うん」
琴音はそれを聞いてからノートへ視線を落とした。
「今日の数字は?」
「133.6」
「私は135.2」
再び教室が静かになる。
「さっき手を上げた人も、ほとんど130以上だった」
琴音が記録をめくる。
「数日前は、120前後から『触ってみたい』って感じが出てた。今日は130前後の人たちが、キスしてるのを見ても嫌だと思わなかったり、自分もしてみたいって思ってる」
「数字だけで決めつけるなって言ったでしょう」
香奈恵が言う。
「分かってる。でも――」
琴音は一度言葉を切り、香奈恵を見る。
「前より進んでるよ」
その一言で、香奈恵が黙った。
「最初は、気づいたら触っちゃったくらいだった。それが今は、ちゃんと許可を取るようになった代わりに、触ること自体への抵抗が薄くなってる。そのうえ今日は、その先まで行った」
「本人たちが同意してたでしょう」
「うん。でも問題はそこじゃないと思う」
琴音がゆっくり言う。
「三日前まで、そんなことしようとも思ってなかった二人が、今日はみんながいるお風呂でキスしてる」
誰も何も言えなかった。蛍も、浴場で見た二人の姿を思い出す。確かにどちらも嫌がってはいなかった。むしろ楽しそうにすら見えた。だからこそ怖かった。
「……私」
麗華が突然口を開き、全員の視線が集まった。
「さっきの見て、気持ち悪いって思えなかった」
「麗華?」
「違う。二人が気持ち悪いって意味じゃなくて……普通なら、もっと驚くでしょう。少なくとも私は、人前であんなこと始めたら何やってるのって思うはずだった」
麗華は自分の腕を強く掴んだ。
「なのに見てたら……ちょっと羨ましいって思った」
教室が静まり返る。
「私も」
今度は香奈恵だった。
「……え?」
蛍は思わず聞き返した。香奈恵はすぐには続けず、数秒してから諦めたように息を吐いた。
「止めなきゃとは思った。でも同時に、二人が嫌じゃないなら別にいいんじゃないかとも思った。それだけなら普通かもしれないけど……私も、ああいうふうに誰かに触れてみたいって、一瞬思ったの」
「香奈恵まで……」
「だから黙ってた。自分でも、おかしいと思ったから」
蛍は何も言えなかった。数日前までなら、120センチを越えた者に接触への興味が出ているのではないか、という話だった。それだけでも十分おかしい。
けれど今は、さらに先へ進んでいるように見える。身体へ触れたいと思う。触れられても嫌ではない。もっと近づきたいと思い、キスまでしたくなる。数字が増えるほど、身体だけではなく、その感覚まで深くなっているようだった。
「……ねえ」
誰かが、ぽつりと呟いた。
「これって、本当に身体だけなのかな」
誰も答えない。
「胸が大きくなってるだけじゃなくて……私たちの考え方まで、少しずつ変えられてるんじゃない?」
その言葉が落ちた瞬間、教室の空気まで冷えたように蛍には感じられた。
反射的に自分の胸元を見る。119.1。120までは、あと一センチにも満たない。もちろん、その数字を越えた瞬間に何かが起きるわけではない。琴音だって123.1になった今も、普段と大きく変わってはいないし、個人差もある。
ただの偶然という可能性だって、まだ消えてはいない。それでも、数日前には誰かの身体へ触れることだった変化が、今日はその先へ進んでいる。しかも本人たちは、それを嫌がっていない。
迷宮は何も言わない。赤い果実も、いつも通り甘く、食べれば空腹も渇きも消してくれる。
身体が変わったところで、すぐに命へ関わるわけでもない。むしろ以前より綺麗になり、強くなり、迷宮の探索まで楽になっている。だからこそ、どこからが異常なのか分からなくなっていく。
最初は、一日でも早くここから出なければと思っていたはずだった。
それなのに、いつからだろう。「今日は地図をここまで埋められた」「新しい装備が手に入った」「怪我をせずに帰れた」。そんな一日の成果だけで満足して、明日もまた続きをやればいいと思うようになったのは。
もちろん、帰りたくなくなったわけではない。家に帰りたいという気持ちは、今もある。けれど、最初の頃にあったはずの、今すぐここから出なければならないという切迫感だけは、いつの間にか薄れていた。
それも本当に、自分たちがただ慣れただけなのだろうか。
蛍は、少し前まで笑っていた「まな板同盟」という言葉を思い出した。あの頃の自分が今の教室を見たら、どう思うだろう。
三十人全員の胸囲が一メートルを越え、そのうち何人かは互いの身体へ触れることを当たり前のように受け入れ始めている。そして自分も、その同じ道の途中にいた。
「……急ごう」
気づけば、蛍はそう口にしていた。
「何を?」
葵がこちらを見る。
「迷宮」
蛍は顔を上げた。
「もっと奥まで行こう。無茶はしない。でも、今までより少しでも早く進みたい」
「蛍……」
「だって、このまま毎日二センチずつ増えるなら……」
その先まで言う必要はなかったらしい。香奈恵も麗華も琴音も、何も返さなかった。
蛍は自分の胸元へ、もう一度視線を落とす。119.1センチ。数字だけなら、三日前から六センチ増えただけだ。けれど今は、その六センチが以前とはまるで違う意味を持っているように思えた。
迷宮の奥へ進んでいく速度と、自分たちが別の何かへ変わっていく速度。
どちらが先に行き着くのか。初めて蛍は、それを競争のように感じていた。